4月2日、阪神競馬場。雨が降っているにもかかわらず、この日はたくさんのファンが応援に訪れていた。
ディープインパクトが出走した阪神大賞典よりはちょっと少ない。それでも、G2ということを考えれば相当な客入り。冷たい雨にさらされながらも、周りの熱は高まっている。
目的は、ハレヒノカイザーだ。
「う~ん、まさかの雨か。重馬場どうだっけ?」
「分からん。今までずっと良馬場だったからな。今回が初のはずだ」
「大丈夫だろ。ハレヒノカイザーなら勝ってくれるさ」
2006年の競馬界を引っ張っていくであろう馬の一頭。世代のダービー馬であり、強さは折り紙付き。ほぼ全てのファンは、ハレヒノカイザーを中心に馬券を買っている。
菊花賞でケガをして以来出走していない。この大阪杯が年明け始動戦にしてケガ明け初戦だ。
にもかかわらず、ハレヒノカイザーは圧倒的1番人気を誇っている。復帰戦なのに倍率1.1倍、恐ろしい人気だ。ディープインパクトに並んでいると言っても過言ではない。
応援もハレヒノカイザー一色に染まる中で、最近競馬担当になった女性新聞記者、氷見薫(ひみ かおる)は不可解な表情を浮かべていた。
「え~……? ハレヒノカイザーっての、ケガ明けなんスよね? なのに1.1倍って、ヤバくないスか?」
競馬のことなどよく知らない氷見。どうしてこれほどの人気を誇っているのか、ファンが推しているのか理解できない表情だ。
一応、事前知識としてダービー馬であることは頭に入れている。しかし、ケガ明け・初の重馬場・雨の中の出走と、複数の悪条件が重なったこのレースにおいて、これほどの人気を誇っているのは理解できない。それが氷見の意見だ。
氷見の言葉に、先輩記者は反応する。お前は分かってないな、と言わんばかりに。
「ふ、なんたってハレヒノカイザーだぜ? 氷見」
「いや、ウチそんなの知りませんし。一応、ダービー馬ってのは調べて、話題のディープに匹敵する馬ってのは分かってますけど……ここまでのもんなんスか?」
「ここまでのもんなんだよ、ハレヒノカイザーはな」
周りの観客を俯瞰する先輩。どこもかしこもハレヒノカイザーの応援をしているのが見て分かる様子だ。
「初めはそうでもなかった。むしろアンチが多かった。けれど、少しばかり事情が変わってな。今じゃ、ディープインパクトに匹敵するスターになっている」
「へ~。なんでっスか?」
「俺達マスコミと、JRAの猛プッシュ。さらには──前年の有馬記念だ」
興奮気味に語る先輩。この先輩も、ハレヒノカイザーを推しているのかもしれない。そう思わせる熱量だ。
「カイザーは出ていないが、元々ディープに匹敵する実力の持ち主って言われてた。そんなところに、古馬を一蹴するディープ! そりゃ評価されなきゃ嘘ってもんだ!」
「ふぅん。そうなんスね」
「それに、ハレヒノカイザーは見てて面白い馬でもあるからな。今回のレースで、きっとお前もファンになる」
「そういうもんスかねぇ、五田(ごだ)さん?」
半信半疑の氷見。先輩である五田の言葉が信じられないようだ。
それでも、仕事である以上しっかりとレースを観戦する。今はもう、競走馬たちがゲート入りの準備を済ませているところだった。
第50回産経大阪杯
| 枠順 | 番号 | 馬名 | 性齢 | 人気 |
1 | 1 | カンファーベスト | 牡7 | 9 |
2 | 2 | アサカディフィート | セ8 | 10 |
3 | 3 | マッキーマックス | 牡6 | 7 |
4 | 4 | ローゼンクロイツ | 牡4 | 2 |
4 | 5 | カンパニー | 牡5 | 4 |
5 | 6 | シルクフェイマス | 牡7 | 5 |
5 | 7 | ハレヒノカイザー | 牡4 | 1 |
6 | 8 | アグネスシラヌイ | 牡8 | 12 |
6 | 9 | ローマンエンパイア | 牡7 | 8 |
7 | 10 | マーブルチーフ | 牡6 | 11 |
7 | 11 | シルクネクサス | 牡4 | 13 |
8 | 12 | アドマイヤジャパン | 牡4 | 3 |
8 | 13 | スズカマンボ | 牡5 | 6 |
1頭、また1頭と、ゲートへと進んでいく。
《あいにくの天気模様、雨が降る中での開催となります、第50回産経大阪杯。阪神競馬場は重馬場の発表、芝2000mのレースになります。このレースにおける注目は何と言っても!》
《はい。ハレヒノカイザーですね。ディープインパクトのライバルで、唯一土をつけた相手! この大阪杯で復帰戦なのは、どこか運命的なものを感じますね!》
《そうですね。父であるトウカイテイオーは菊花賞前にケガ。復帰戦にこの大阪杯を選びました。その息子がまた、この大阪杯を走ります。親子二代での制覇なるか、人気は断トツの1番人気! ですがハレヒノカイザーだけではありませんよ》
《アドマイヤジャパン陣営が自信を深めていましたね。コメントでは、打倒ハレヒノカイザーに向けて万全の調子を整えてきたと発言しています》
他のコメントを発表している間に、全競走馬がゲートに入った。まもなく発走である。
雨の音だけが響く阪神競馬場。その音に混じるように、ゲートの開く音が響き渡った。馬たちが一斉に駆け出す。
《各馬態勢整いました。整っていまっ、スタートしました! 産経大阪杯スタートです! 好スタートを切るのは6番シルクフェイマス、7番のハレヒノカイザー。2頭が好スタートを切ります。シルクフェイマスが先頭に立ち、ハレヒノカイザーが2番手その後ろにつける形。10番のマーブルチーフも上がってきた、ハレヒノカイザーに並びます》
始まる産経大阪杯。雨の決戦は、どのような展開を迎えるのか?
ハナを取り、ペースを握るのはシルクフェイマス。2番手にはハレヒノカイザーがつき、マークするようにアドマイヤジャパンが後ろにつけた。
アドマイヤジャパンの頭にあるのは、目の前を走るハレヒノカイザーをどう崩すか? この一点である。
他にはマーブルチーフ。4番手につけるマーブルチーフまでが先行集団。5番手との差を3馬身から4馬身ほどつけて走っている。
《まもなく向こう正面に入ります。先頭を走るのはシルクフェイマス、シルクフェイマスがペースを握ります。雨の影響もあってか、ちょっと遅めのペースですね》
《そうですね。あまり勢いをつけすぎると、今度はスタミナが残せなくなりますから。いかに馬を御せるかがポイントになってきますよ》
《2番手はハレヒノカイザー。シルクフェイマスをじっくりと見る形でレースを展開します。そのハレヒノカイザーをマークするのはアドマイヤジャパン、これまでの雪辱を果たしたいところ。マーブルチーフまでが1つの集団となって進みます。4馬身ほど離れて、5番手にはスズカマンボ、カンファーベストが内につけています》
アドマイヤジャパンに騎乗する磐多は、ハレヒノカイザーをしつこいくらいにマークしていた。
馬体を合わせに行き、プレッシャーをかけ続けている。その巧さに、カイザーの鞍上である岡邉も思わず顔をしかめるほどの徹底マークを披露。
ただ、磐多の表情はよろしくない。なぜならば、今の状況がまずいと分かっているからだ。
(このペースだとさすがにまずい。ジャパンの方が先に潰れかねん!)
カイザーの脚を削り続けているものの、それにかかるアドマイヤジャパンの負担がとんでもないものとなっているからだ。
シルクフェイマスは単騎逃げ、マーブルチーフは漁夫の利を狙っているのか、こちらには寄ってこない。必然的に一頭でマークする必要があるのだが、相手にしている馬が厄介極まりない。
(確実に削れてんのは分かる。やけど、その分払った代償は安くない)
続ければジャパンの方が先に潰れる。かといって、フリーにすればカイザーの脚が発揮される。どちらの方が勝ち目があるのか? 判断しなければならない。
ただ、ここは迷わない。磐多は、このままマークを継続する。
(フリーにしたら、それこそワンチャンすらない。そのまま逃げられて終い、ジャパンの負けだ)
アドマイヤジャパンを勝たせるために、自分はそのために乗っている。頭にしっかりと刻みこんで、ハレヒノカイザーをマークし続ける。
それに、馬自身からも感じていた。ハレヒノカイザーに勝ちたいという思いを。
(やったら、俺が勝たせてやるジャパン。鼻を明かしてやろう!)
この大阪杯を勝つ。磐多の頭に、一つだけの目標が残った。
マークを受ける側の岡邉。苦しい表情を浮かべている。
スタート序盤から仕掛けられ、向こう正面半分を過ぎても止まることのない徹底マーク。脚を削り、勝利も目指す見事な騎乗。
どうするべきか。こちらが迷えば、相手はその隙をついてさらに猛攻を仕掛けてくる。だから、迷っていることを悟らせてはいけない。
その不安は、馬にも伝播する。ハレヒノカイザーは鞍上の岡邉が不安になっていることを察知していた。
不安になっていることを受けて、ハレヒノカイザーが取った行動は。
「っ、カイザー!?」
ペースアップだ。向こう正面を越えて第3コーナーに入ろうかという場面。ハレヒノカイザーは内を走りながらペースを上げる。
《まもなく第3コーナーのカーブ。逃げるシルクフェイマスリードは1馬身ですが、おっとここでハレヒノカイザーが仕掛けます! ハレヒノカイザーが内からぐいぐい上がっていくぞ。シルクフェイマス、これにはたまらずペースを上げる。お前にはいかせないぞとペースを上げるシルクフェイマス。ですがハレヒノカイザーはすぐに捉えた!》
《これはロングスパートですね! しかし、ハレヒノカイザーはスタミナがある馬ではないはずですが?》
《これはまさか掛かったか? アドマイヤジャパンの徹底マークで掛かったかハレヒノカイザー! さぁ阪神競馬場に歓声が沸きます、第3コーナーのカーブを曲がって、ハレヒノカイザーが先頭シルクフェイマスに並んだ並んだ!》
ここでのペースアップは予想外。岡邉は必死に手綱を絞り、ペースを下げさせようとする。
しかし、ハレヒノカイザーは止まらない。ぐいぐい上がっていく。
大丈夫、全然余裕
重馬場など関係ないとばかりに上がる。それこそ、安心感を覚えるほどに。
このままでも大丈夫だと察したのだろう。岡邉は手綱を絞るのを止めて、逆に緩める。
なら、行け
己の相棒を信じるように、突き進むことを選択した。
先頭に立つハレヒノカイザー。ここから──目を疑うような光景が広がった。
◇
凄い。最初に出てきたのは、そんな感想だった。
「は、はは……! 初経験の重馬場でこれかよ! さすがはっ?」
「……」
目を惹きつけてやまない。目を離すことができない。なんでだろう?
「おーい、どうした氷見ちゃん。なにか」
「ちょっと黙ってて下さい五田さん。うっさいです」
「酷くねぇか!?」
思わずレインコートのフードを脱いでしまった。もっとレースを観たい、あの走りを見るのにフードは邪魔だ。
一応、この業界に入るにあたって一通りの事前知識は仕入れてきた。今走っているところが第4コーナーで、もうすぐ最後の直線に入ろうって場面。直線にある板みたいなものがゴール板。あそこを一番に通過すれば、1着だ。
ハレヒノカイザーは。ウチの目を惹きつけてやまない鹿毛の馬は。
《ハレヒノカイザー独走、ハレヒノカイザー独走! シルクフェイマスとの差を3馬身は広げたかハレヒノカイザー! 独走状態で最後の直線に入る! さ~ロングスパートを決めているハレヒノカイザー、2番手に浮上したアドマイヤジャパンが必死に追いかけている! だがその差は一向に縮まらなぁぁぁい!》
圧倒的な強さで、先頭に立っていた。
凄い。陳腐な言葉だけど、何度も言いたくなる。あの子は凄い馬なんだって、競馬初心者のウチでも分かる。
(強いから目を離せない? ううん、違う。そんなものじゃない)
この感情は。あの子から通して伝わる、この気持ちはきっと。
「楽しい……っ」
楽しいだ。
◇
ハレヒノカイザーは独走のまま最後の直線に入った。2番手との差をグングン広げていく。他は団子状態になっているのに、ハレヒノカイザーだけが抜け出している。
それでも、アドマイヤジャパンは追いつこうと躍起になっている。その差を縮めようと、必死に足を動かしている。
足音近づいてきてるな。なら、もうちょっと速く走ろう
だが、追いつこうとしたらその分だけ突き放す。その差が縮まることは、永遠にない。
楽しいな、楽しいな。雨の中でも、走るの楽しいな!
鞍上の岡邉も驚かざるを得ない。もしこれがレースの最中でなければ、大口を開けて固まっていただろう。
馬なり。そう、馬なりだ。馬なりでカイザーは他馬との差を広げている。
他馬に鞭が入る。カイザーにはそんなもの一切入っていない。
必死さが伝わってくる。カイザーから伝わってくるのは、走るのが楽しいという感情。
なんとかして追いつこうとする。カイザーとの差は一向に縮まらない。
(まるで、大人と子供だ……!)
赤子の手をひねるような圧倒っぷり。観客は歓喜の歓声を上げ、ハレヒノカイザーの勝利を確信している。
《さらに差を広げるハレヒノカイザー! ハレヒノカイザーが2番手との差を5馬身、6馬身! 残り100mでさらに広げるハレヒノカイザー! 独走独走、重馬場を感じさせない圧倒的な走りだ!》
《い、いやぁ……とんでもないですね、これは》
その差が7馬身になったところで、レースは終わった。
《圧倒的強さ、独走で大阪杯を制したハレヒノカイザーゴールイン! これが復帰明けの競走馬の力なのか!? 凄まじい強さで2着のカンパニーに7馬身差を叩きつけたハレヒノカイザー! マークしていたアドマイヤジャパンは途中で失速、最下位に沈みました!》
「いいぞー! さすがはカイザー!」
「やっぱとんでもないぜお前はー!最高ー!」
歓声が支配する阪神競馬場。走り終えたハレヒノカイザーは、いつものように飛び跳ねていた。
楽しそうに、まだまだ元気が有り余っているとばかりに。
(……ハハ、予想以上に進化を遂げている)
スタミナがついた? 違う。純粋に、出せるスピードがさらに速くなった。そう推測する岡邉。ハレヒノカイザーが見せてくれる未知の世界に、興奮を覚えずにはいられない。
(次はマイル戦。もしかしたら、ぶっつけ本番でも)
「安田記念、勝てるかもしれんな」
呟く岡邉。歓声に包まれながら、ハレヒノカイザーの手綱をしっかりと握っていた。
第50回産経大阪杯勝者・ハレヒノカイザー。
◇
あぁ、本当に。とんでもないやつだったよ。
レース中、ずっとついていってた。それしか勝つ方法がなかったから、自由に走らせたら手のつけようがないから。
重しの指示にもキッチリ従って、勝つために必死に足搔いた。
(けど、結果はこれだ)
アイツにはどんな手を使っても追いつけなくて。何なら、道中ついていってもアイツは余裕そうに走ってた。こっちは必死こいてるのに、アイツは全然本気じゃなかった。
極めつけに、突き放されたあの場面だ。俺の気持ちは──完全に折れた。
こっちは必死なのに、アイツは楽しそうに走るだけ。全力で脚を動かしても、追いつくどころか逆に離される。
(あんなのが、許されていいのかよ?)
ケガ明けだからチャンスがあると思った。全力を出せないだろうから、こっちの力を十全に発揮すれば勝てるなんて思ってた。
お気楽だね、本当。元からノーチャンスだったじゃないか。
こっちが全力を出しても、相手はさらにその上を行く。しかも、本気じゃないんだ。俺の心が折られるには、十分すぎる理由だった。
(もう、疲れた)
悪いね、ヴァーミリアン。初めから敵うはずがなかった。勝てるはずがなかったんだよ、カイザーやディープみたいなバケモノにはさ。
アイツは、楽しそうにしている。本当に、何が楽しいのかさっぱり分からない。俺達みたいなのを踏みつぶして楽しんでるのか?
(……ないか。アイツは、そういうやつじゃない)
走ることを心の底から楽しんで、その上で勝つことができる一握りの天才。それが、ハレヒノカイザーなんだから。
『余裕そうだね、カイザー。俺らには全力を出さなくてもいいってわけだ』
嫌みったらしくなったな。そんなつもりはなかったのに。
こっちに気づいたアイツは、振り向く。いつもののほほんとした姿に、ちょっとした安心感を覚える。
『いやいや、侮っているわけではないですよ?』
『どうだか。まぁ、おめでとう。負けたよ』
嬉しそうにしているカイザー。思わずこっちも嬉しくなるような、不思議なオーラを感じる。
『ほんとさ、たまには本気を出せば? 俺だからいいけど、他のは良い気がしないだろうね』
『な、なんですと!? うむむ……そうは言われましても』
『本気出せば、お前はもっと強いんだからさ。そうすれば、
痛む脚。骨とかじゃないけど、多分ダメな痛みが右の前脚から感じる。まぁ、アイツに勝つために真面目に取り組んだからね。放牧中も、ずっと走っていた。
だからだろう。これはきっと、代償。アイツに追いつこうとした、ハレヒノカイザーと同じになろうとした、報いだ。
アイツは俺の異常を察したんだろう。能天気だけど、勘は鋭いからね。勘が鈍ければよかったのに。
『カイザー。負けんなよ。ディープにも、誰にも』
『……ジャパン君』
『俺の分まで勝ってさ、そして自慢させてくれよ。ハレヒノカイザーって馬をさ』
俺はもう、走れない。脚もそうだけど、気持ちが完全に折られた。普通に走るのはいいけど、レースを走るのはもう勘弁だ。
ぶっちゃけ、こんなこと言うのは嫌だけど。コイツに託すのはものすごい癪だけど。それでも、言いたくなった。
アイツは、真面目な雰囲気。似つかわしくない雰囲気を出して、アイツは。
『
『……フン。本当、変なやつ』
俺の分まで走ると、言ってくれた。はは、これでもう、安心だ。
【アドマイヤジャパン引退!今後は種牡馬として】