追いつきたかった。カイザーさんに追いついて、楽しく走っていたかっただけだった。
『楽しいね、クラちゃん!』
『はい、カイザーさん。とっても!』
笑顔が好きだから、楽しそうに走るカイザーさんが好きだから。その笑顔を一番近くで、隣で見ていたかっただけだった。
孤独で走るのは、きっとカイザーさんにとって耐えられないこと。だから、貴方は孤独じゃないって教えてあげたかった。証明するためにも、追いつく必要があった。
孤独なんかじゃないよって、私がいますよって、証明したかったんだ。
(頑張らないと……カイザーさんの笑顔を、曇らせないために!)
嫌な調教だって頑張った。放牧の時間も、走り続けて追いつけるように努力した。
『痛ッ!』
だから、なんでしょうか。大事なレースを目前に控えたある日、最後の追い切りも終わった後、脚に鋭い痛みが走った。
初めてなのに、凄く嫌な予感がした。私の中でなにかが崩れそうな、とてもよくないことが起きるんじゃないかって思った。
ねぇ、嘘だよね? そんなこと、ないよね?
「テキ! ラインクラフトの歩様が!」
「なに? 今すぐ獣医者を呼んで来い!」
大丈夫、大丈夫だから。こんな痛み、すぐに治まるから。だから呼ばないで、お医者さんなんて呼ばないで。
「どうでしょうか? ラインクラフトの様子は」
「……」
お願い、人間さん。良い子にしますから、もう日向ぼっこの邪魔されても怒らないから。だからお願い。もっと走らせて、もっと頑張らせて。
私は、カイザーさんの隣にいたいだけなの。そのためには、もっともっと頑張らないといけないの。カイザーさんは太陽、みんなをポカポカ照らして、優しく微笑んでくれる太陽。そんなカイザーさんに、私は近づきたいの!
だからお願い、もっと、もっと……!
「──左の前脚に、繋靭帯炎を発症しています」
「けい、靭帯炎。という、ことは……」
「もうレースで走るのは難しいでしょう」
けれど、現実はどこまでも残酷でした。
◇
お医者さんに言われた。私はもう、レースで走ることはできないって。これ以上頑張ることはできないって、言われた。
私のお世話をしてくれた人間さんも、残念そうな表情をしていた。辛い顔をして、私にとって残酷な決断を下した。
「ラインクラフトは引退だ。彼女のためを考えるなら、ね」
「今まで、よく頑張ったな。お疲れ様、クラフト」
人間さんの表情は、とっても辛そうで。本当は人間さんも嫌なんだってことが伝わってくる。それでも私を引退させるのは、きっと、どうしようもないから。
(どう、して)
どうして私なの? 私はただ、カイザーさんに追いつきたかっただけなのに。それだけなのに、どうしてもう走れなくなっちゃうの?
私の何が悪かったの? どうしてこれ以上速くなっちゃいけないの? カイザーさんはもっと速いのに、追いつくには全然足りてないのに。
「やる気を出してくれた矢先にこれか。本当に……本当にっ」
「クラフトのやる気はあります。けど、こればかりはどうしようもないですよ」
「分かってるっ。そんなことは分かってるんだ!」
カイザーさんは言ってた。最近、どの子も隣を走ってくれなくなったって。後ろをついてくるばかりで、みんなカイザーさんの誘いを断るようになったって。
このままだと、カイザーさんは孤独になっちゃう。孤独で走るのは、カイザーさんにとって耐えられないこと。カイザーさんの笑顔が、曇ってしまう。
だから、私が隣で支えてあげたかった。カイザーさんの笑顔が曇らないように、ずっと隣を走っていたかったのに!
(どうして私なの!? なんで、なんで私から取り上げるの!)
「……クラフト。泣いてるのか」
「クラフトだって悔しいですよ。勝つために頑張ってきたのに、こんな結末だなんてっ。あんまりだ」
神様、もっといい子にします。だからお願いします。私から取り上げないでください。もっと走らせてください。
贅沢は言いません。だからっ、お願いします。私をもっと走らせてください、もっと頑張らせてください!
……そんな願いは、聞き届けられるはずもなく。
「今後は繁殖牝馬として、ですか」
「だな。ただ、年内中の種付けは厳しいものがあるだろうし、活躍は来年度からになるだろう」
私はもう、レースで走ることはなくなってしまった。
終わりだ。頑張ってきたのに、努力してきたのに。
(こんな終わりなんて……あんまりです……っ!)
それに、もう栗東に帰ってきちゃいました。カイザーさんに会うこともできない。一度も会うことがないまま、私は別の土地に移動することになる。
合わせる顔がない。いつかきっと追いつくって、貴方の隣に立ちますって言ったのに、約束を破った私に、会う資格なんてない。
けど、最後に願うなら。
「ブルル(カイザーさんに会いたい)……っ」
「……」
一目だけでも、一瞬だけでもいい。最後にカイザーさんに会いたい。美浦にいるカイザーさんに、一度でもいいから会わせてほしい。
それも無理なんだろうな。そう思っていたけれど。
「テキ。これはラインクラフトの担当として、自分が最後にやりたいことです」
私とずっとお世話してくれた人、武村さんが。テキと呼ばれた世戸口さんの前に立つ。世戸口さんは、何も言わない。武村さんの言葉を待っている。
武村さんの言葉は。
「どうかお願いします──最後に一度だけでいい。ラインクラフトを、ハレヒノカイザーに会わせてやってください」
私が願ってやまない、要求でした。
◇
武村さんの要求は、私の願いは叶った。
「先方にも許可は取れた。牧場へ帰る前に1回だけ、カイザーに会うことができる」
「ッ! ありがとうございます、テキっ!」
「……俺としても、会わせてやりたかった。クラフトもきっと、会いたいだろうから」
北海道、という土地に帰る前に、一度だけ美浦に寄ることができた。カイザーさんに、会うことができる。
放牧の時間。カイザーさんは──やってきた。
『ん?』
カイザーさんだ。会いたくて、一目見たかったカイザーさん。
すぐに私に気づいて、いつものように楽し気に、私の方へと近づいてきて。
『クラちゃんだー!』
屈託のない、いつもと変わらない笑顔を向けてくれる。
あぁ、やっぱり暖かい。心がポカポカして、ずっと隣にいたくなる。
『カイザー、さん』
『クラちゃんこっちに引っ越してきたの? ということは、私達が一緒にいれる時間もっと長くなるね!』
楽しそうで、輝いていて。
『今は梅雨時だから、あんまり日向ぼっこはできないかもしれないけど。私もベストポジション見つけたんだよね』
私の好きなこと、日向ぼっこの場所をおススメしようとしてくれて。
『だから今度、一緒に日向ぼっこしようね! きっとクラちゃんも気に入ると思うから!』
私のことを、
カイザーさんは知ってる。私がもう走れないってことを。だから、レースのことを一切聞いてこない。走ろうなんて言ってこない。私の好きなことに、合わせようとしている。
身体を動かさなくていいから。負担にならないから。だから日向ぼっこを提案してくれた。
(バレバレですよ)
また遠征に来たんだ、ならともかく。こっちに引っ越してきただなんて。そんなこと、あるはずがないじゃないですか。
笑ってしまいそうになる。もっと居たいって思ってしまう。太陽の笑顔に、溺れそうになる。
けれど、踏ん切りをつけなきゃいけない。今日ここに来たのは、お別れのためだから。
『カイザーさん。気を遣ってくれなくてもいいですよ』
『……あ~、バレてた?』
『だって、カイザーさんのことですから。私は何でもお見通しです』
きっと、カイザーさんに会うことはできない。人間さんも、難しいって言ってた。それでもどうにか努力はするって言ってたけど、厳しいと思う。
『クラちゃん』
『いいんです、カイザーさん。これは全部、私が招いたこと。カイザーさんに落ち度はありません』
そう、これは私の自業自得。無理に頑張って、人間さんに迷惑をかけて。分不相応な夢を見てしまった、私が悪いんです。
『私、もう走れなくなっちゃいました。カイザーさん、知ってますよね?』
『新聞、見たよ。そういう病気だって、もうレースで走ることはできないって書かれてた』
『はい。なので、私はもうカイザーさんの隣で走れません』
胸が苦しい。言ってて、とても悲しくなってしまう。本当は嫌なのに、もっと走っていたいのに。どうしようもないが溢れて、ズキズキしてくる。
『ごめんなさい、約束を破ってしまって。ずっとあなたの隣にいるって言ったのに、近くにいるって言ったのに』
結局私は、カイザーさんに追いつくことができなかった。その事実が、重くのしかかる。
失望されても仕方がない。そう思っていたのに。
『──いつかさ』
『えっ?』
『いつかさ、またどこかで出会ったら。その時は一緒に走ろうよ』
カイザーさんは、私と走ろうって言ってくれた。
『レースで走るのは難しくても、軽く走るのは大丈夫なんだよね?』
『そ、そうですね。軽い運動程度ならば、問題はないと』
『じゃあ、その時一緒に走ろうよ! 引退してもさ、たまには身体を動かさないといけないから! その時一緒に走ろうクラちゃん!』
その時はもう、凄く遅くなっているのに。きっと、カイザーさんを満足させることはできないのに。
『でも、私は遅くなります。カイザーさんを満足させることは』
『う~ん……クラちゃん』
それでも、カイザーさんは。
『──私はクラちゃんと走るだけでも楽しいよ』
私と、走りたいと言ってくれた。
『どうしてクラちゃんがそんなに頑張ったのか。その理由は、私にはなんとなく分かる。というか、今の言葉で確信した』
『かい、ざーっ、さん』
『私にこんなことを言う資格はないかもしれない。けどさ、もしワガママを言っても許されるなら』
こんな私に、不甲斐ない私に。
『私はクラちゃんと走りたい。だって、クラちゃんと走るのは凄く楽しいから』
もっと走りたいと、言ってくれた。
どうして? なんで? 本気で走った方が楽しいはずなのに、その方がカイザーさんにとっても嬉しいことのはずなのに。どうして、どうして遅くなった私でもいいって言ってくれるんですか?
『どう、して』
『どうしても何も。私は走るだけでも楽しいから。クラちゃんと走れるってだけで、私は幸せだから』
どうして私に、そんな優しい言葉をくれるんですか?
あぁ、ダメだ。会うんじゃなかった。そのまま会わずに別れていれば、こんな気持ちにならなくて済んだのに。
『クラちゃんが嫌だって言うなら、まぁ仕方ないかな。その時は潔く諦めるよ』
『いやじゃ、ないです。私も、カイザーさんと走りたいです』
『え、本当!? やった、やった! 嬉しいな嬉しいな!』
もっとカイザーさんと一緒にいたいって、思わずに済んだのに……!
神様。あなたは本当に残酷です。私から走りを奪って、カイザーさんに追いつく機会を奪って。
(カイザーさんは、これからもっと孤独になる。一緒に調教をしたから分かります。カイザーさんの強さは、群を抜いているから)
カイザーさんを孤独にしようとしている。
どうしてですか。こんなに優しいカイザーさんが、なんで孤独にならなくちゃいけないんですか? ただ走ることを楽しんでいるだけなのに!
けど、分かってる。どれだけ喚いても仕方がない。私の病気と同じくらい、どうしようもないこと。だから、私にできる精一杯は。
『カイザーさん』
『どうしたの、クラちゃん?』
『カイザーさんは、もっとずっと速くなる。それこそ、誰も追いつけないくらいに』
私がカイザーさんにできることは。
『どんなに速くなっても、私はあなたのそばにいます。追いつくことはできなくても、それでも貴方のそばに居続けます』
『……そっか』
『だから、
あなたは孤独じゃないって、教えてあげること。
もう追いつくことはできないかもしれない。満足させることはできないかもしれない。だからこれは、ただの自己満足。
カイザーさんがどう受け取るかは分からない。それでも伝えてあげたい。
あなたを待っている人がいる。あなたは孤独なんかじゃないってことを。
カイザーさんは、空を見ていた。曇天の空を眺めて、カイザーさんは──
『うん。クラちゃんの思いも背負って、私は突き抜けるよ』
宣言した。これからも頑張ると。私の思いを背負って走ってくれると。
あぁ、やっぱりカイザーさんだなぁ。
(私の大好きな、カイザーさんだ)
カイザーさん。あなたのことがずっと好きでした。あなたの輝くような笑顔が、貴方の眩しい輝きが、お日様のような暖かさが私は好きでした。
きっと、カイザーさんはとても人気だ。かっこよくて、速くて、優しいから。私以外にも好きになる子がきっと現れる。私が会ってないだけで、もしかしたらいるかもしれない。
(けど、そうだなぁ)
願わくば、貴方の一番が私でありますように。そう願いながら、最後の一時を過ごす。
気づけば、人間さんが私達の下へやってきた。
分かる。これが最後だ。カイザーさんとの別れが、やってきた。
『……それでは、カイザーさん。これでお別れです』
『うん。でもさ、きっとまた会えるよクラちゃん。その時はよろしくね』
『はい。よろしくお願いします』
最後に一回だけ。私はカイザーさんの鬣を噛む。愛情を込めて、私のことを忘れないように。
カイザーさんは、立っているだけ。何もしない、拒まない。ちょっと、嬉しい。
一通り噛んだ後、私は大きい車に乗り込む。ここに来る時も乗った車だ。
ちょっと大きい音が鳴った後、車が動いた。これで本当に、お別れだ。
(さようなら、カイザーさん)
いつかまた会う日まで。どれだけ遠く離れていても私は──
「ラインクラフトの種付け相手は?」
「すでに決まっている。ラインクラフトには我慢してもらうことになるけど、ね」
「まぁ、一択ですよね」
とある人間の会話。