9月10日、ロンシャン競馬場。凱旋門賞の前哨戦、G2のフォワ賞の日を迎えていた。
欧州の人々が観戦に訪れている中、ちらほらと日本人の姿も散見される。
彼らの目的は1つ。今日ここに出走する日本馬、ハレヒノカイザーの応援。しっかりと、地元のルールを守って応援する姿勢を整えていた。
そんな日本人ファンの中に、氷見記者の姿もある。
「ジー……っ」
「もう本当にさぁ。会社の反対意見を押し切ってまで、フランスくることになるとは思わなかったよ氷見ちゃん。どんだけカイザーのファンになったのさ?」
「むしろ反対する会社の方がおかしいっス。他社に負けてられませんよ?」
先輩である五田と一緒に、フォワ賞を観に来ていた。手には有力馬の情報が載った手製の資料を握っており、本気具合がうかがえる。
「会社は凱旋門賞からでいいって言ってましたけど、それじゃ遅いっス。カイザーが出走するんだから、フォワ賞も観ないと」
「絶対カイザーが出走するからってだけでしょ。全くもう氷見ちゃんは……」
「それに、
氷見が呟いた言葉に疑問符を浮かべる五田。思わず聞き返してしまう。
「気になるって、何が?」
「まぁ、ウチの気のせいだったらそれでいいんス。でも、気になることがあるんスよ」
「いや、だからその気になることって何さ?」
「は? 安田記念観てりゃ分かるでしょそんなん」
「分からないから聞いてんだけどぉ!?」
なお、氷見は教えてくれなかった。およそ上司と部下のやり取りとは思えない風景である。
今回のフォワ賞は富士澤も観に来ている。担当厩務員である壬生と一緒に、ハレヒノカイザーのレースを観戦していた。
「こちらでのカイザーの様子はどうだ? 壬生」
開口一番、担当馬であるカイザーの様子を気にする富士澤。心配することはないと、フランスでも付きっきりだった壬生は自信をもって答える。
「順調そのものですよ。日本と何ら変わりはありません」
「そうか、そいつは良かった。遠征の影響がなければ、それに越したことはない」
安堵したように、ホッと一息をつく富士澤。パドックでの様子も問題ない、今こうして返し馬を済ませているカイザーも、特に変わった様子は見られない。改めて、富士澤は安心した。
発走を心待ちにするファン。ドキドキしながら、ゲートに収まるのを待つ。
《凱旋門賞の前哨戦、フォワ賞が間もなく始まります。1番人気は凱旋門賞連覇の期待がかかるハリケーンラン。今年のキングジョージも制して勢いに乗ることはできるか? 日本からは期待の4歳馬ハレヒノカイザーが4番人気で出走。ディープインパクトと双璧を成すその実力は、ロンシャンでもいかんなく発揮されるのか? 今、最後の馬がゲートに入りました》
今回のフォワ賞は小頭数。ハレヒノカイザーを含めて、わずか6頭での出走だ。日本でお目にかかれることは少ない、レースが成立するギリギリの数。
最後の馬がゲートに入り、静かな空気が流れる。誰がハナを取るのか、ペースメーカーを務めるのか。注目が集まる中──ガコンっ、と。ゲートの開く音が聞こえた。
《凱旋門の前哨戦フォワ賞が今っ、スター、トッ!?》
瞬間、誰もが息をのむ。驚きに目を見開き、手にしていたものを落としそうになっていた。身を乗り出し、少しでも近くで姿を見ようとする人もいる。
ロケットスタート。他馬よりも一歩先にスタートした馬──ハレヒノカイザーが、あっという間に先頭を奪った。
《っと、すいません! あまりのスタートに驚きました。先頭を取ったのは日本のハレヒノカイザー、ハレヒノカイザーが先頭を奪い、そのままペースを握ります。これにつられたかディヴァインストーリーが2番手追走。慌てて追いかけます。ハリケーンランにプライドはついていかない、出方を窺います》
実況すらも呆然とした、あまりにも鮮やかなスタートダッシュ。気づけば2番手を追走するディヴァインストーリーに2馬身の差をつけて、ハレヒノカイザーはロンシャン競馬場を先頭で走る。
心配されていた馬場の適応は問題がないように見える。十全の力を発揮していると思える。ただ、それは傍目に見えるだけ。実際に適応しているかどうかは、カイザー自身と騎乗している岡邉にしか分からないことだ。
わずかに手に力が入る富士澤。前哨戦とはいえ、勝っておきたい。勝って、弾みをつけた状態で凱旋門賞に出走したい。
(波というものは、本当にある。このフォワ賞を勝てば、凱旋門賞の勝利はグっと近づく!)
祈るようにレースを観戦する。ハレヒノカイザーの勝利を願い、応援の視線を送っていた。
そんな願いを受けるハレヒノカイザーは、確かめながら走っていた。
こんなものかな。ちょっと走りにくいな
少しでも走りにくさを感じたら、即座に修正。最適な走りを見つけ出し、これだというものを見つけ出す。
こっちの方がいいな。もっと走りやすくなった
鞍上である岡邉もまた、ハレヒノカイザーがロンシャンに適した走りを模索しているのだと勘づいている。どことなく分かるのだ、新馬戦から騎乗してきた身としては。
うん、この走りがベスト。これはプイちゃんにも応用できるし、教えてあげよう
……もっとも、ハレヒノカイザーの恐ろしいところは。
《先頭を譲らないハレヒノカイザー、ペースを握ってコーナーを曲がります! コーナーの下り坂を曲がるハレヒノカイザー、美しいストライドで鮮やかなコーナリング! ディヴァインストーリーが2番手追走、3番手にニーアオナー続いてハリケーンラン。プライドそしてシロッコと続きます。ほとんど差はありません、ですが先頭のハレヒノカイザーはペースを緩めない!》
ハレヒノカイザーに先頭を維持しようという気はない。別に追い抜くならそれはそれでいいと考えている。
集中しているのは走り方。どのペースならば問題なく走り切れるかに重きを置いている。
なのに
「te fous pas de ma gueule(ふざけやがって)!」
まるで遊ばれているかのような感覚。対戦している騎手からすれば面白くないどころか、憤慨しても許されるレベルの所業。
ムキになったディヴァインストーリーの騎手は、ハレヒノカイザーへと競りかけるよう指示を出す。コーナーで多少膨らんでしまったが、下り坂ということもあり加速は申し分ない。並ぶことはできた。
《ハレヒノカイザーに並びますディヴァインストーリー。これを受けてハレヒノカイザーも競り合う、ハレヒノカイザー先頭は譲らない。3番手ニーアオナーは3馬身後ろを走ります。先頭2頭と後ろの4頭が完全に固まりました。まもなくフォルスストレートに差し掛かる各馬、一息入れたいタイミング》
一息なんてつかせない。このまま一緒にハイペースで逃げてもらう。ディヴァインストーリーの騎手が考えていたのは、そんなことだ。
ハレヒノカイザーと競り合う。競り合ううちに、気づく。
なんで意に介していない!?
競りかけているはずなのに、プレッシャーをかけているのに。向こうの様子は全くと言っていいほど変わらない。こちらが追い込んでいるはずなのに、むしろ追い込まれているような感覚に陥る。
事実、ハレヒノカイザーは微塵もペースを変えていない。競りかけられようが何だろうが、自分のペースを崩さない。
先に行きたいならどーぞ
先頭に固執していない。ならばと先頭を奪おうとするが、中々奪うことができない。今以上のペースアップは、自滅に繋がるからだ。
カイザーの悠々とした逃げは、ついにフォルスストレートまで来ていた。
◇
鞍上である岡邉は確信する。
(ハレヒノカイザーならば、凱旋門賞を勝てる!)
有力馬の情報は頭に叩き込んでいた。今回出走するメンバーは小頭数ながら、どれもが本命候補であることを知っていた。
まずハリケーンラン。前年の凱旋門賞覇者であり、かつてエルコンドルパサーを破ったモンジューを父に持つ現役最強馬。今回の凱旋門賞も、勿論最有力候補だ。
次にプライド。先のハリケーンランをサンクルー大賞で破った女傑であり、こちらもまた外せない本命候補。
そしてシロッコ。昨年のBCターフと今年のコロネーションカップを勝利した、ハリケーンランと同厩舎の競走馬。
誰もが本場である欧州競馬でG1を取った相手。そんな馬を相手にして、ハレヒノカイザーは。
《フォルスストレートを越えて最後の直線。先頭はハレヒノカイザー、ハレヒノカイザーが先頭だ! ハレヒノカイザーが先頭で入ってきた! ディヴァインストーリーは苦しいか? 後方からハリケーンランが上がってくる、後方からぐいぐい上がってくるぞハリケーンラン! 先頭ハレヒノカイザーとの差は4馬身もない、これはあっという間に追いつける距離! 粘ることはできるかハレヒノカイザー!》
終始悠々としたペースで逃げることを可能にしているのだから。
(ロケットスタートで先頭を奪い、自分のペースに引きずり込んだ。それも、見事なまでに!)
確信している。ハレヒノカイザーがここから落ちることはないと。このペースのまま、ハリケーンランが詰めてくるなら逃げることができると。岡邉は慢心でも油断でもなく、確信している。
余裕、余裕のペースだ。欧州の芝に、すぐさま適応した。
他は苦しいと思っているだろう。このまま粘ってくれと願っているだろう。
違うのだ。ハレヒノカイザーは余裕だ。すでに適応し、最適な走りをしているハレヒノカイザーは、余力を残した状態で走っている。ここから、さらにペースを上げることも可能なのだ。
(たった一戦? 違うな。一戦あればいい。一戦あれば、ハレヒノカイザーはどんな競馬場だろうと理解する!)
つくづく自分を喜ばせてくれる馬だ。そう思わずにはいられない。
(ルドルフ。君に良い報告ができそうだよ。君の孫で、君が成せなかった世界の頂点を取ってくる)
そう誓い、ロンシャンの競馬場を駆け抜ける。頼れる相棒の背中に跨りながら。
欧州から観戦に来たファンは愕然としている。あまりのレベルの違いに、自分たちが見ている光景は現実なのかと疑い始める。
一人の口から漏れ出た。
「monstre(バケモノ)……」
桁違いの実力。仮にも前年度の凱旋門賞覇者相手に、遊ぶほどの余裕を見せる日本の競走馬。
完全にノーマークだった。所詮日本の馬、勝てるわけがないと高を括っていた。
それがこの様だ。本国の馬が遊ばれる光景に、驚きで目を見開くしかない。すでに勝敗は決した、と思うファンすらも現れる始末だ。
観客席で成り行きを見守っていた富士澤も、驚きのあまり目を見開いていた。
「は、はは」
渇いた笑いが出てくる。まさか、ここまで圧倒するなどと誰が思うだろうか?
フォワ賞に出走してきた名馬たちが遊ばれている。そうとしか思えないレース運び。ハレヒノカイザーがもつポテンシャルに、富士澤は笑うしかなかった。
そして、岡邉同様確信する。
「壬生。これは、凱旋門賞取れるぞ」
「え、え?」
「これで取れなければ、いったい誰が凱旋門賞を取ることができるのか? それくらいの出来だ」
すでに勝敗は決した。そう言いたげな富士澤の言葉。事実、ハレヒノカイザーは追いかけてくるハリケーンランとシロッコ、プライドのことなど関係ないとばかりに走っている。
《差を詰めれないハリケーンラン! ハレヒノカイザーが悠々と逃げる! 誰がこの展開を予想できたでしょうか!? 日本からやってきた、4番人気の逃走劇! その差は永遠に縮まらない、これが日本が凱旋門賞を取るためにやってきた刺客!》
200m。差を2馬身まで詰めてきた3頭だが、そこまでだった。ハレヒノカイザーとの差は、それ以上縮めることができない。
《ハレヒノカイザー、ハレヒノカイザーだ! フォワ賞を制したのはハレヒノカイザーだぁぁぁ! とんでもないスタートからの鮮やかな逃走劇! 欧州の名馬相手に遊んでいた! これが日本が誇る最強馬なのか!? これに匹敵する馬がもう一頭いるのは果たして事実なのか!? 凱旋門賞本番が楽しみになってきました!》
1着で駆け抜けた。2着のシロッコに2馬身差をつける完勝に、日本のファンは歓声を上げる。
「うおおおぉぉぉ、フランスでも変わらねぇ走りだぜぇぇぇ!」
「本番も頼んだぞー!」
「日本の悲願をー!」
これならば凱旋門賞はいける、これまで届かなった栄光に手が届く。そう思わせる内容に、日本のファンはありったけの期待を込めて声援を送った。
歓声に包まれるロンシャン競馬場で、浮かない表情をする氷見。彼女は、ハレヒノカイザーをじっと見つめていた。
「……カイザー」
「いやはや、すっげぇのなんの。欧州の名馬相手に、こんなレースができるなんてよ!」
手放しで称賛する先輩の五田の言葉は聞こえていない。彼女が見据えるのは、ハレヒノカイザーのみ。
違和感を覚えたのはいつだったか。大阪杯で自分が惚れ込んだ走りに陰りが見えたのはいつだったか。
きっと、あの安田記念だろう。京王杯で兆候はあったが、安田記念で疑問を覚え、フォワ賞で確信に変わった。
「今のカイザー、楽しくなさそうっス……」
ハレヒノカイザーは期待を背負いすぎている。自分が惚れ込んだあの走りは、今のカイザーからは感じられない。
心配する氷見。圧倒的な勝利を収めたハレヒノカイザーのレースにただ一人、納得していなかった。
◇
序盤はともかくとして、まぁまぁいい感じにいけたのではないでしょうか。今回のスパートは8に近い7。中々です。
うん、これならば大丈夫でしょう。本気の出し方、分かってきましたよ。
【フォワ賞を制したのは日本のハレヒノカイザー!前年度覇者を一蹴!】
【フランスに誕生するtyran de la lune。その由来とは?】