フォワ賞の日、欧州競馬は震撼した。
日本からやってきた一頭の牡馬に、欧州でもトップレベルの競走馬を蹂躙されたのだ。それも、明らかに余裕を感じさせる内容で、遊ばれていたと言っても過言ではない、圧倒的な強さで負けた。
エルコンドルパサーを下したモンジューの初年度産駒、ハリケーンラン。そんなハリケーンランを下したサンクルー大賞覇者、プライド。06年度から勢いに乗ってウィジャボードを倒した、シロッコ。名だたるメンバーが集まったフォワ賞。この3頭のうち誰かが勝つだろうと目されていた。凱旋門賞もこの3頭が固いだろうと、そう評価されていた。
そんな予想は、日本の牡馬によってなんの意味もなさないことを証明される。日本の牡馬──ハレヒノカイザーによって。
現地でレースを観戦していた欧州のファンは語る。
「彼の強さはイカれている。ハリケーンランも子ども扱いだ」
「日本にあんな馬がいるなんて聞いてない」
「凱旋門賞のチャンピオンはもう決まったようなもの」
「体調不良で出走してこないのを祈るだけだよ」
すでに勝利は確定的、最強馬たちが遊ばれる光景を目撃し、諦めムードすら漂っている。
まだフォワ賞を走っただけだ。たった一戦だけ、その一戦だけでハレヒノカイザーの実力を理解する。今年の凱旋門賞覇者はもう決まりだと判断するのには、フォワ賞だけで十分だった。
フランスのファンは彼のことをこう呼んでいる。月のような流星を持つ鹿毛の競走馬、全てを冷たく蹂躙する暴君──【tyran de la lune(月の暴君)】と。
フランスの各陣営も、最大限警戒すべきはハレヒノカイザーだと公言している。本来であれば出す気もなかったラビットを出してでも止めるべきだと、本当に勝つ気ならば出すべきだと馬主を説得する調教師も現れるほどだ。
ただ、これも効果はないと騎手による進言が出ることで頓挫。急遽ラビットを出す陣営はいなかった。
ペースメーカーのラビットを出しても意味がない理由。それはハレヒノカイザーのスタートにある。
「なぜラビットを出しても無意味と分かるのですか?」
フランス人記者の質問に、騎手は顔を俯かせながら答えた。
「彼のスタートは良すぎる。どんな馬でも、彼のスタート技術には敵わない。序盤の先行争いを制することはほぼ不可能だ」
他馬よりも優れるスタートの技術、一歩先にスタートしていると評されるこの技術の前に、ラビット戦法は意味をなさないと判断していた。
「加えて、加速がとんでもないんだ。気づけば前をすっ飛んでいる、差をつけられている。あのスタート技術と加速を前に、先頭を奪うのは無理だね」
出遅れに期待もできない、序盤の攻防で先頭を奪うことは不可能に近い。
「スタートで遅れても、無理やりにハナを取ればいいのでは? そうすれば先頭を奪うことが」
「先頭を奪えても、その先はどうするんだい? 彼はノーマルのペースがイカれてるんだ。無理にハナを奪っても、彼に風除けをプレゼントしてあげるだけだよ」
「し、しかし、競り合う可能性が」
「0だよ。日本のレースを見れば分かるけど、彼は先頭に固執しない。先頭に立ったレースも、彼以外の馬がスローだから結果的に立っただけだ」
欧州の名ジョッキーさえもそういわざるを得ない実力を持つ。ハレヒノカイザーの突出した能力を前に、対峙している相手の強大さを思い知らされていた。
「そ、それでは! 日本の馬にみすみす勝利を渡すと!?」
「……やるだけはやるさ。始まる前から負けを認める気はない。けれど、我々が相手にしているのはそんな馬なんだ」
記者の発言にわずかなイラつきを見せる騎手だが、負ける気はないと返す。彼もまたジョッキー、負ける気で挑むことはないと断言する。その言葉は、少し弱弱しいが。
他の陣営も、ハレヒノカイザーを絶賛している。素晴らしい能力を持った馬、まさしく歴史に名を残す馬になると断言しきっている。中には、金銭トレードを持ち掛ける馬主もいたという話も上がるほどだ。
そして、日本からやってきたのはハレヒノカイザーだけではない。ディープインパクトもまた、素晴らしい競走馬だと評価されている。
「スタート技術はちょっと拙いけど、それ以外は抜きんでているね。これを改善出来たら、ハレヒノカイザーにも匹敵するんじゃないかな」
ハレヒノカイザーに匹敵する逸材。欧州競馬はまたも震撼することになる。また、実際にスクーリングを見学した記者達は、ディープインパクトの強さを目の当たりにする。
「これは確かに……」
「練習段階だが、ハレヒノカイザーに匹敵する逸材というのも頷ける」
ただでさえヤバいと評価をされているハレヒノカイザーがもう一頭いる。その事実は、ファンを恐怖させるには十分すぎる内容だった。
「あんなとんでもないのがもう一頭!? 日本はどうなってんだ!」
「マジで獲りに来やがった……日本が、凱旋門賞を!」
「ふざけんな! そんなこと、絶対に許すんじゃねぇぞ!」
日本の本気具合に、ファンは慄く。それでも、絶対に負けるなと檄を飛ばす。
負けるわけにはいかない、日本に後れを取るわけにはいかない。絶対に勝てと応援の声を送る。
すでに日本馬の実力を認めている欧州のファン。日本からやってきた2頭を高く評価していた。
……ただ、どうしても認められない者はやはりいる。
「いくらなんでも強すぎるだろ。薬でも使ってんじゃねーの?」
ハレヒノカイザーの強さに、ドーピングを疑う者が現れたのだ。それも、複数。
それほどの勝ちっぷりを見せた、といえば聞こえはいいが、その実は日本馬が欧州の競走馬相手に遊んで勝ったという事実が気に食わない、ファンとも呼べない人間の聞く必要のない言葉である。
事実無根の噂。それでも、一人が口に出せば誰かに、それも多くの人間に波及していく。波紋は広がり、ついには雑誌によって取り上げられる事態にまでなった。
【ハレヒノカイザーにドーピング疑惑!】
そんな見出しが世に放たれる。ハレヒノカイザーの強さを認められない、名誉を著しく傷つける恥ずべき行為だ。
なお、この話はハレヒノカイザーがお世話になっている厩舎の声明により、すぐに鎮静化した。
「ハレヒノカイザーのドーピングなど事実無根だ。いったいどこからそんな噂が出たのかね?」
「い、いえ。とある筋からの情報でありぃ……」
「そのとある筋とはなんだ? 牧場の関係者か?」
「そ、そのぉ……」
「まさか、一般市民のくだらない戯言を真に受けた、などとは言うまいな? それならば、然るべき処置を取らせてもらうぞ」
そんなのはでたらめだ、なんなら検査の結果も開示しようと声を上げ、実際に獣医からの診断結果も全て陰性であることを示している資料を提出した。さらには、日本での検査資料も全て公開される。
これにより、すぐに事態は沈静化。ドーピングをしていないことの確たる証拠が、こうしてすぐに並べられたのだ。納得して当たり前だろう。これ以上突っついても、恥の上塗りをするだけなのだから。
結果、ファンとも呼べない連中のくだらない僻みとして処理される。これにて
欧州ファンの間ではいろいろとあったが、日本でも大きな動きがある。
「今回の凱旋門賞の様子を生中継します!」
1つのTV局が、今回の凱旋門賞を放送する旨を発表した。これに、日本のファンは歓喜の声を上げる。
「現地に行くことはできなかったからな。すげぇ嬉しいぞ!」
「日本から応援してるからな~。ディープ、カイザー!」
「絶対に勝ってきてくれよー!」
凱旋門賞の生中継。さらには。
《それは、サラブレットたちのワールドカップ。本当の世界一は誰だ》
JRAによる特別CMが作られるなど、凱旋門賞に対する関心がさらに深まっていた。
今度こそ勝ってほしい、凱旋門賞の栄光をその手に掴んでほしい。ファンの熱は高まり続け、様々なことが起こる。
「これ、日本から送られてきたんですか?」
「はい! これだけの人が、ディープインパクトとハレヒノカイザーに期待しているんです!」
応援のメッセージが込められた手紙だったりと、たくさんのものが現地にいる生江たちに贈られる。それも、かなりの数が。
これには生江も富士澤も、苦笑いを浮かべるしかない。
「あ、あはは。これは、えらい応援のされ具合ですね」
「全くだ。タイキの時も同じようにしてくれればいいものを」
富士澤に関しては、ファンとは現金なものだ、と思ってそうな顔をしていたが。ただ、好意を無下にする気はないようで、しっかりと手紙には目を通していた。
このことを馬房で話す壬生と生江、そして壱河。この3人も、遠征を通してすっかり仲良くなっていた。
「えらい注目のされ具合だわ。ホンマにプレッシャーがかかるねぇ」
「それだけ、ディープとカイザーの実力が評価されているんでしょう。それと」
「あぁ。凱旋門賞は、日本にとっての悲願だからな」
思いを馳せる3人。
凱旋門賞は、日本にとって悲願ともいえるべきもの。スピードシンボリが初挑戦し、これまで何度も挑戦しては阻まれてきた壁。
世界の頂点を決める戦い。その舞台に、最強の2頭が挑む。
「……ディープとカイザーならば勝てる。俺らもそう思うてることやからね」
「勿論です。まぁ勝つのはカイザーですけどね」
「いや、ディープだから。何言うてんの壬生君」
「いやいや、カイザーだから。そっちこそ何言ってるんだ壱河」
「こないとこで喧嘩しないでくれる? 2人とも」
お互いのお手馬が一番だと信じて疑わない2人。やり取りに生江は呆れていた。
馬房から、ハレヒノカイザーがなにしてるの? と言わんばかりに乗り出している。
「ほらも~、カイザーが興味持ってしもうたじゃないか。大丈夫やからねカイザー。なんでもないから」
「うっ、ごめんカイザー……」
ハレヒノカイザーは気にしていない様子。機嫌良さそうに1つ鳴いた。
3人は上機嫌で会話をする。内容は、凱旋門賞。
「……もうすぐ、全てが決まるんやね」
「はい。世界の頂点を決める戦い、凱旋門賞。これまで、日本の名馬が何度も阻まれてきた」
エルコンドルパサーが惜しいところまで来た。その雪辱を、果たす機会がきた。
「もう、これで勝てへんかったらアレだね。この先勝つことは一生ないんじゃない? アハハ」
「言い過ぎですよ生江さん。やけども、ディープとカイザーの実力ならば、強ち間違ってなさそうですけど」
冗談を言い合う生江と壱河。2人の冗談につられて笑う壬生。
「ヒヒン」
「うん? どうしたカイザー。餌か?」
笑い声に反応してか、ハレヒノカイザーが一つ鳴いた。ただ、餌ではないようで、首を横に振っている。
「ただ鳴いただけ、か」
「まぁそんなこともあるでしょ」
また、他愛もない会話を繰り広げる。
「日本のファンもえらい期待してるからね。こりゃ、気合いを入れんと」
「カイザー勝ってくれ、ディープ勝ってくれって凄いですよね。本当に」
「俺らも頑張らないと!」
日本のファンの様子を口にする3人。楽しい会話を広げていた。
◇
ホテルの一室で、カイザーの馬主である春陽は物思いに耽っていた。
「まさか、ここまでくるなんてねぇ」
自分のお手馬が凱旋門賞に挑戦。それも、最有力候補として、事前のブックメーカーでは1番人気に推されるほど。感慨深いものだと、涙を浮かべていた。
同じ部屋で打ち合わせをしていた富士澤は、春陽の思いを理解している。
「ついに、巡ってきたというわけですよ。春陽さんにも」
「……重賞に縁がなかった俺が、カイザーと出会ってねぇ。こんないい思いをさせてもらってねぇ」
元は400万の、売れ残りの格安馬。そんな馬がクラシックで死闘を演じ、ダービー馬に輝いて、春のマイル王として君臨し、世界の大舞台に立つなど誰が予想できようか?
運命としか言いようがない。富士澤は、春陽とカイザーの出会いをそう感じていた。
目を閉じれば、これまでの蹄跡が甦ってくる。
「春陽さん、カイザーは勝てますよ」
「……あぁ、勝ってほしいねぇ」
感慨深く、そう呟く2人だった。
また別の部屋では、岡邉も凱旋門賞に思いを馳せていた。
(……ルドルフ)
かつての相棒。彼とは挑むことも許されなかった世界の頂点に、彼の孫で挑むことができる。そのことが、岡邉の気持ちを昂らせていた。
充実期を迎えているハレヒノカイザー。成長を続け、未知の景色を見せてくれる彼。凱旋門賞は、ハレヒノカイザーの力をどれだけ発揮することができるか? これに尽きる。
「勝てる。カイザーならば勝てる。後は、私が彼の邪魔をしないだけだ」
拳を強く握る。衰えを自覚しても、彼の鞍上は決して譲らず。凱旋門賞を勝つと誓い、鞍を継続してきた。
負けるわけにはいかない。そう、強く誓う。
そして、もう一人。ディープインパクトの鞍上である岳は。
(……ディープならば勝てる。けれど)
「どうしてもチラつく。
ある不安を抱いていた。
ハレヒノカイザーのフォワ賞はしっかり見ていた。恐ろしいことをするものだと、岳も震えあがったものである。
そして──より色濃く植え付けられる幻影。かつての愛馬、サイレンススズカの姿を、ハレヒノカイザーに重ねてしまう。
「……カイザーとスズカは違う。しっかりしろ、僕」
頬を叩き、気合いを入れる。考えるべきはいかにして勝つか? 充実期を迎えるハレヒノカイザー。勝つためにはどうしたらいいかを考えるべきだと切り替える。
資料を取り出して、対策を練る。夜遅くまで続いていた。
様々な思いが交錯する凱旋門賞。戦いの舞台は──まもなく上がる。
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