凱旋門賞の衝撃は日本中に広がっていた。
日本馬による初の快挙。それどころか凱旋門賞レコードのみならず、ワールドレコードを更新する偉業を成し遂げた彼の活躍に日本中が湧いた。
飲めや歌えやの騒ぎになる……はずだった。
次いで襲ったのは、現地のリポーターによる信じがたい一言。
「ハレヒノカイザーが骨折した」
先ほどの喧騒が嘘のように静まり返り、代わりとばかりに悲鳴が上がる。
そんな、嘘だ、信じられない。誰もが口を揃える。ハレヒノカイザーが骨折したなど嘘だと、あまりにもセンスのないジョークだと必死に目をそらす。
ファンは虚勢を張り続ける。そんなのは嘘だと、本当はみんな笑顔で帰ってくるはずだと、そう信じてやまない。
その幻想は、沈痛な面持ちで帰ってきた富士澤たちによって、容易く崩れ去ることになる。
「ふ、富士澤調教師! ハレヒノカイザーは!?」
一人の記者が、いの一番にマイクを持っていく。富士澤は虚ろな目を向けたかと思うと、ぼそりと呟く。
「この後、記者会見を開く予定です。続きは、その後にでも」
帰国したディープインパクトを検疫のため競馬学校へと連れていく生江たち。全員の表情は暗く、誰もが俯いている。
この表情で、気づかないバカなどいない。ジョークでもなんでもない、本当のことなのだと、ようやく現実を受け入れた。
後の会見で、ハレヒノカイザーが凱旋門賞の入線後に骨折したこと、右前脚の複雑骨折と診断されたこと、今もフランスで療養中であること、担当厩務員の壬生がついていることが説明された。
ただ、記者やファンが気になるのは骨折の状況よりも。
「なぜハレヒノカイザーは骨折したのでしょうか!?」
なにが原因で、ハレヒノカイザーが骨折したのか? どういう事情があったのかに焦点があてられる。
この質問に対し生江たちは──首を横に振る。
「分かりません」
「わ、分かりませんって……そんな無責任な!」
「ハレヒノカイザーを預かっていた身でしょう! そんな無責任な言葉がありますか!」
「まさか、ケガを隠して出走させたのですか!?」
次々と憶測で言葉を並べる記者。生江は、何かに耐えるような表情を浮かべて、反論する。
「担当の獣医師によると、ハレヒノカイザーの出力に脚が耐えられなかった、と言っていました。ただ、詳細な原因は不明です……不明というよりは、ないんです」
目尻には涙を浮かべている。自らの無力さを嘆き、やってしまったことに対する責任を感じているのか、本当に申し訳ないという気持ちが伝わってくるようだった。
「あの日のハレヒノカイザーは絶好調でした、メディカルチェックでも、何の異常もありませんでした! なのに、なのに……!」
「生江さん……」
「本当に、本当に、なんとお詫びすればいいのか……。申し訳、ございませんでした」
深々と頭を下げる生江。他の厩舎の競走馬を預かっておきながら、その馬を骨折させてしまった。どれだけ謝罪しても許されないことだろう。
富士澤は、元より生江を責める気はない。岡邉も春陽も、カイザー陣営は誰も生江を責める気などない。生江が最善を尽くしてくれていたことは知っているのだから。
だが──大衆はその限りではない。
「ふざけないでください! そんな説明で納得できると思いますか!」
「っ」
「ハレヒノカイザーを骨折させといて、自分たちはのこのこ日本に戻ってきたのですか!?」
「あなた方に恥というものはないでしょうか!」
糾弾、罵詈雑言。心無い言葉が、生江たちに投げられる。ハレヒノカイザーを骨折させた原因を作った生江たちを責め立てる。
「なぜディープインパクトだけ先に戻ってきたのでしょうか!」
「ハレヒノカイザーを骨折させておいて、ディープインパクトは日本のレースに出走させようとしているのでしょうか!」
「もしそうだとしたら、ハレヒノカイザー陣営に申し訳ないと思わないのですか!」
無論、生江たちが悪いわけじゃない。むしろ、ハレヒノカイザーの骨折は誰が悪いとかの問題ではない。絶好調で、何の異常もなかったハレヒノカイザーが骨折するなど、誰にも予見できない。それこそ未来でも分からない限りは。
それでも、記者は感情論でまくしたてる。悪いのはお前たちだ、お前たちが不甲斐ないからハレヒノカイザーは骨折したのだ、おめおめと日本に戻ってきて何をするつもりだ。思いつく限りの罵倒を浴びせる。
「ハレヒノカイザーは現在どこに!」
「それは、お教えできません」
「なぜでしょうか!? もしかして、本当はっ!」
「余計な混乱を防ぐためです。それ以上の理由などございません」
生江に助け舟を出すように、富士澤も声を上げる。
「療養している場所に記者が押し掛ける可能性は0ではない以上、この場でお答えすることはできません。ご了承ください」
「なにかバレたら都合が悪いことがあるんですか!? だから教えることができないんですか!」
「いえ、そうではなく」
「ならお答えできますよね? ハレヒノカイザーはどこにいるのですか!」
しかし、火に油を注ぐだけ。逆効果でしかなかった。変わらない罵詈雑言が会場を支配し、その被害はついに岡邉へと向けられる。
「岡邉騎手! 貴方は止めるべきではなかったのでしょうか!」
「……」
焦点の定まらない目。いまだショックから抜け出せないでいる岡邉は、記者の言葉など微塵も届いていない。
「ハレヒノカイザーを骨折させたのはあなただ! あなたが無茶な騎乗をしたからこうなったんだ!」
「ッ! お前……ッ!」
今度は岡邉に責任を擦り付けようとする記者に、怒りの表情で食いかかる岳。しかし。
「すまない、カイザー……」
ぽつりと、岡邉が呟く。その呟きが聞こえたのか、はたまたタイミングが良かったのか。会場全体が静まり返った。
全員の視線が岡邉へと集まる。岡邉は──涙を流していた。
「ごめん、本当にごめんっ、カイザー……かいざー……っ!」
泣きじゃくって謝罪の言葉を口にする岡邉。その姿は痛ましく、先ほどまで罵声を浴びせていた記者も言葉を失う。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい……っ」
子供の様に謝罪の言葉を繰り返す岡邉。これ以上会見など、続けられるはずもなかった。
◇
会見からしばらくの時間が経った。気づけば秋の天皇賞は終わり、凱旋門賞の悲劇から1ヶ月が経とうとしている。
その間に状況が好転……するはずもなく。
【生江調教師が潰した!目障りなハレヒノカイザーを!?】
【本当は兆候があった!?実は過去の併走で似たようなことが】
むしろ悪化していた。生江がわざとハレヒノカイザーを潰したと言わんばかりの記事を書き上げ、大衆を煽る。
無論、これら全ての記事はでっち上げの事実無根なもの。信ぴょう性など0に等しい……それでも、一部が声を上げるには十分すぎるものだ。
「生江がハレヒノカイザーを潰したんだ! 本当はケガの兆候があったのに、無理やり出走させたんだ!」
「ふざけんなー! 俺達のカイザーを返せー!」
特に声が大きかったのはハレヒノカイザーのファンを自称する人々。生江憎しと声を上げ、説明責任を果たせと声を揃える。挙句の果てには、調教師を辞めろと声を上げていた。
冷静なファンも中にはいる。今回の一件は予想ができないものであり、似たような事例としてサイレンススズカがいることを挙げ、防ぎようのないものだったと主張する。
だが、沈静化しない。悪いのはアイツだ、アイツが諸悪の根源だと声を上げ続け、荒唐無稽な主張を広げている。
「「「かーえーせ! かーえーせ!」」」
収まる気配は、少しもなかった。
好転しない状況に、生江の精神もすり減っていく。目には隈ができており、何日も寝れていないのは明らかだ。
「生江さん、寝た方がいいですよ。業務はやっておきますから」
「いいんだ。仕事しとる方が、落ち着くから」
「生江さん……」
それでも、仕事をしている方が落ち着くからと生江は働く。競走馬の世話は、体調面のこともあるから他のスタッフに任せているが。
仕事を始めようとする生江の下に、一人のスタッフが段ボール箱を持ってきた。中に入っているのは、大量の手紙。
「……生江さん。今日も」
「あぁ、
ため息を吐く生江。手紙の内容は、全て脅迫文である。
ハレヒノカイザーを返せ、お前たちだけ帰ってきて恥ずかしくないのか、ハレヒノカイザーが可哀想だと思わないのか。一部だが、こんな内容の手紙が1箱分、ぎっちりと詰められている。
生江は、机を乱暴に叩いた。
「可哀想やと思わないか? だと……そんなもので済まされるかッ!」
唇を噛み、吐きどころのない怒りを必死で噛みしめる。口の端から血を流し、拳は震えていた。
「何べんも思ってる! ごめんて、地面に頭こすりつけて謝りたい思うてる! なんなんや本当! 俺らの気持ちも知らんで……!」
「生江さん落ち着いて!」
「謝りたいに決まってるやろ! 申し訳ないと思うてるに決まってるやろ! 俺らが原因でケガさせたんやぞ? どんだけ謝っても許されんわ……っ!」
最後には、涙を流して俯く。これだけでも、生江がどれほど後悔しているか分かるだろう。
帯同馬としてついてきてもらったハレヒノカイザー。ディープと仲が良く、なおかつ匹敵する逸材ということで、ディープの精神も安定するだろうということで付いてきてもらった。オーナーである春陽を説得して、一緒に夢を見ようといった。
その結果がこれだ。どれだけ謝罪しても許されない、それほどのことをしてしまったと、生江は後悔している。
息を荒らげ、気持ちを落ち着けようとしている生江。彼は、ぽつりとつぶやく。
「……今でも、春陽さんの顔がチラつくんだ」
「カイザーの、馬主さんが?」
生江が思い出すのは、会見が終わった後のこと。ハレヒノカイザーの馬主である春陽幸光と話した、あの夜のことである。
ハレヒノカイザーが骨折した原因は、彼が出せる力に身体が耐えきれなかった、というのが獣医師による診断である。よく分からないものの、限界以上の出力を出してしまった結果、ということだろう。
では、なぜ限界を超えてしまったのか? 今までそんな兆候はなかったのに、なぜ凱旋門賞で悲劇が起こってしまったのか? その究明をしようとしていた。
そんな時である。春陽は、こういったのだ。
「あの子は、頑張りすぎてしまう子でねぇ」
カイザーの性格を語る春陽。表情は俯きがちであり、暗い雰囲気を纏っている。岡邉に負けず劣らずだった。
「笑顔が大好きで、こっちが笑うとあの子も笑うような、そんな子なんだ」
「……春陽さん」
「あの子は賢いからねぇ。俺らが勝つと嬉しいってことに、気づいちまったんだろうねぇ」
ぽつりぽつりと、懺悔するように言葉を続ける春陽。
そして──核心に触れる。
「凱旋門賞。俺らだけじゃない、日本にとっての悲願ってことで、いつも以上に張り切っちまったのかもしれないねぇ」
「「「ッ!!」」」
春陽の言葉には、全員心当たりがあった。
凱旋門賞は日本にとっての悲願。なんとしても欲しいタイトルだった。
ハレヒノカイザーは人間の言葉を理解している。新聞も読めるほどだ。かなりの賢さを誇るのは言うまでもない。
もし自分たちの会話を聞いていたら? 凱旋門賞がいかに難しいレースかを聞いていたら? 日本中から期待されていることを……ハレヒノカイザーが理解してしまったら?
血の気が引く。背筋が凍る。生江たちは……厩舎での会話を思い出す。
「……ディープとカイザーならば勝てる。俺らもそう思うてることやからね」
「世界の頂点を決める戦い、凱旋門賞。これまで、日本の名馬が何度も阻まれてきた」
「もう、これで勝てへんかったらアレだね。この先勝つことは一生ないんじゃない? アハハ」
「言い過ぎですよ生江さん。やけども、ディープとカイザーの実力ならば、強ち間違ってなさそうですけど」
もしこの会話を聞いたカイザーが真に受けてしまったら。必要以上に、彼に期待を背負わせてしまったのではないか? そう思う生江と壱河。
「あ、あ……っ!」
「もし、かして……!」
ハレヒノカイザーが限界を超えた力を出してしまった原因は、
富士澤にも覚えがある。ハレヒノカイザーならば勝てると信じて送り出し、勝利を期待していた自分がいることを思い出す。
「私は、何ということを……!」
口を手で覆い隠し、己のやってきたことを後悔する。気づけば彼の成長に期待し、限界以上のことをやらせてしまったのではないか? 自らの行動を後悔する。
岡邉は、言うまでもない。そして、春陽は。
「俺も、欲を出しちまったのかもしれないねぇ」
俯き、涙を流す。頬を伝う涙が、地面へと落ちる。
「欲を出しちまったから、罰が当たったのかもしれないねぇ」
「春陽、さん」
「でもよぉ」
震える声。春陽の涙腺は、崩壊する。
「罰を与えるなら、俺でいいんじゃないのかい? なんで、なんで楽しく走りたいあの子に下っちまうんだい? なぁ、神様よぉ……っ!」
「春陽さん……っ!」
「あの子はただ、楽しく走りたかっただけなのに。なのに、俺が欲をかいちまったせいで、あの子から走ることを奪っちまったっ。こんな残酷なことがあるのかい、神様よぉ……!」
口から出てくるのは後悔の言葉だけ。ハレヒノカイザーへの、懺悔だけ。
「なんで……なんであの子なんだい……! 俺ならどんな罰でも受けるから、だからあの子から走ることを奪わないでくれよぉ……!」
「春陽さん、もういい! もういいんです!」
寄り添う富士澤。嘆く春陽を、必死に宥める。
今の春陽の姿を見て、生江たちは──正気でいられるはずもない。己がやってしまったことの過ちを、さらに深く刻まれることになる。
「ごめんなさい、ごめんなさい春陽オーナー! 俺が、俺が不甲斐ないせいでッ!」
「いいや、私だ! 私が、私がハレヒノカイザーに海外遠征を持ち掛けてしまったからッ!」
ディープインパクトの馬主である金田も、生江も土下座する。春陽に対し、地面に頭をこすりつけて謝罪する。
誰が悪いわけでもない。それでも、全員が自分が悪いと思い込む。負のスパイラルに陥った日の夜だった。
目を閉じるだけで、生江は当時のことを思い出す。オーナーである春陽の涙ながらの言葉に、どう償っても償い切れないと感じている。これは生江だけではない、全員が思っていることだ。
それでもと、全員がどうにか前をむこうとしている……しているが。
「みんな、カイザーのことを気に病んどる。誰も前を向けてない」
「……仕方ありません」
「頭では分かってる。分かってるんやけど、な」
それでも拭い去れない。カイザーが骨折してしまったのは自分たちが原因だと、思わずにはいられない。
そんな中で、一人のスタッフが声を上げる。ちょっとした疑問を、生江にぶつけた。
「か、カイザーは。今どうなっているんですか? フランスで療養中、とは聞いてますけど」
絶対に今すべきではない質問。他のスタッフからも睨まれる。質問したスタッフは縮こまるが、生江は構わないとばかりに答える。
「壬生君と、記者の氷見さんが付きっきりでついとる。手術は成功して、ゆっくりしとるらしい」
「ッ! そ、それなら」
「けど、骨折が怖いんはここからだ。骨折は、術後の方が怖い」
喜びの表情を浮かべようとするスタッフを制し、生江は淡々と事実を述べていく。
「知っとると思うけど、手術が成功したからゆうて安心はできん。骨折している脚は勿論使えんし、その間は三本脚で身体を支えないかん」
「そしたら、他の脚にも負担がかかって」
「蹄葉炎を発症する可能性がある。カイザーはここからが瀬戸際だそうだ」
手術は成功したものの、依然として危険な状態が続いていると壬生から報告されていた生江。平静を装っているが、生江はなんとしても助かってくれと願っていた。
「どうにか耐えてるそうや。それがいつまで続くかは……カイザーの精神力次第。獣医師のアレクサンドルさんは、良くはないって言うとるらしいけどな」
「まぁ、アレクサンドルさんって希望的観測をあまり言いませんし」
壱河は遠征していた時のことを思い出す。ぶっきらぼうで怖い彼、アレクサンドル医師の姿を。
それでも、生江たちは願う。いいや、願わずにはいられない。
「……俺らは願うことしかできん。しかも、あっちもあっちで大変やからな」
吐き捨てるように呟く生江。近くにあった新聞を掴み取り、乱暴に机に叩きつける。
記事のタイトルは──【血塗られた栄光。そこまでして栄光が欲しいのか日本人】と、フランス語で書かれていた。
◇
泣いてる、泣いてる。たくさんの人が泣いてる。
泣いてる、泣いてる。悲しくて泣いてる。
悲しみの涙は、好きじゃない。だから──笑顔にしないと。
日本だけではなく。