つい先日、フランスからハレヒノカイザーが帰国したニュースが流れた日本競馬。すでに輸入検疫を終え、着地検査のため検疫厩舎へと移ったことが報道される。
秘密裏に戻ってきていたカイザー。無事に帰ってきてくれたことを喜ぶファンだが、数日後には衝撃のニュースが流れてきた。
そのニュースとは──ハレヒノカイザーの引退にまつわるものである。
【ハレヒノカイザー引退!?今後は舎代で種牡馬か!】
検疫が明ければ、レースの世界に戻ることなく引退することが明かされる。まだ確定ではないが、ほぼ決まっているかのような情報がオーナーである春陽の口から明かされた。
「えぇ!? ハレヒノカイザーも引退かよ!」
「ディープも引退するし、一気に寂しくなるなぁ」
残念に感じるファン。同時に、仕方ないことも理解していた。
前提として、ハレヒノカイザーは凱旋門賞を制した。日本の悲願を叶え、世界トップレベルのレースで強さを証明した。
加えて、フォワ賞と凱旋門賞の結果から、ハレヒノカイザーは欧州の年度代表馬であるカルティエ賞を受賞したのだ。イギリスのウィジャボードを抑え、最優秀古馬に輝いている。
たった2走。それだけで向こうの人間を認めさせた。向こうの記者曰く、選出にはかなりの議論がなされたそうだが、カルティエ賞受賞派の主張を聞き、反対派は黙ってしまったようだ。
「これまでの凱旋門賞レコードを3秒も縮めたのだ。それだけでも偉業に値する」
大レコードを樹立した結果、さらには前年の年度代表馬であるハリケーンランを子ども扱いする強さから、カイザーは十分に相応しいと判断された。
日本の馬が、なんて声もあったそうだが、固執しすぎるのは良くない、むしろこの経験をバネに自国の競走馬を強くすればいいと諭され、議論は終結。ハレヒノカイザーが、日本の競走馬で初めてカルティエ賞を取ったのだ。
……一説では、ハレヒノカイザーの悪評を沈静化させるためだとか、やらかした経緯から少しでも印象を良くしておきたいなんて噂も流れていたがあくまで噂。どのような思惑があるかは不明である。確実に言えるのは、これぐらいで晴れるほど甘くはない、というところだろうか。
こうして、欧州にも実力を認められたハレヒノカイザー。身も蓋もないことを言ってしまえば──別にこれ以上出走しなくても種牡馬価値が高いのである。
日本馬初の凱旋門賞というブランドだけでも大きいのに、加わるように受賞したカルティエ賞。種牡馬としてのネームバリューは、他の牡馬よりも格段に上だ。
「ハレヒノカイザーは今後の日本競馬で重要となる存在だ」
そう口にする馬産家も少なくない。というより、多数派だ。
現在日本において飽和気味であるサンデーサイレンス系。血を介さないキングカメハメハの需要がとても高いことから、ハレヒノカイザーも需要が高くなると予想できる。未来を考えれば、特定の血を偏らせないために薄めるのは大事なことだ。
それだけではない。ハレヒノカイザーは絶滅寸前のヘロド系。さらにはシンボリルドルフのラインを繋ぐことができる、とても貴重な存在だ。
注目されているのは日本だけでなく、海外もである。
「ヘロドの血は、我々としてもぜひ欲しい。もし種牡馬になるのであれば、どれほどの金を積もうが惜しくはない!」
とりわけ欧州はハレヒノカイザーを欲しがっている。自分たちの牧場で種牡馬をやってもらい、ぜひとも活躍してもらいたいと声を大にしていた……フランス以外。
フランスは、流石にハレヒノカイザーにやってきたことがでかすぎるためか自重していた。それでも内心、その血を欲しがっていたが。
すでに億を超える金が動こうとしているハレヒノカイザーの種牡馬事情。現状だけで、ディープに匹敵するどころか超えそうな勢いの人気っぷりだ。
つまるところ、ハレヒノカイザーがこれ以上レースに出走する意義は薄いのだ。なんならケガをするリスクがある以上、出す方がおかしいともいえる。
十分に結果を残した、もうこれ以上はいいじゃないか。そう思えば、ハレヒノカイザーが引退するのはなんらおかしくない話で納得できるものだ。
これ以上ケガをしてほしくない、彼の子供が活躍するのを見たい。自分を納得させる。それでも──ハレヒノカイザーのファンは思わざるを得ない。
「もう一度、カイザーがレースで走るのを見たいなぁ」
「お前っ」
「わ、分かってる! 分かってるよ! だけど、あと一回だけでもいいから見てぇよ、カイザーが走るところをさぁ! 別に、言うだけならタダだろ!?」
「そうだけどよぉ」
一回でいい。一度だけでもいいから、カイザーが日本で走るのを見たい。そう思ってしまうのが、ファンの心理だろう。
凱旋門賞で予後不良一歩手前の骨折をしたハレヒノカイザー。お疲れさまと言っても許されるほど頑張ってきた、これ以上頑張ってケガをしてしまったら。そうなったら最悪だ。悔やんでも悔やみきれない。
しかし、それでも。ファンは願わずにはいられない。
「カイザーがもう一度走る姿を見たい」
父であるトウカイテイオーがかつて奇跡の復活を果たしたように。ハレヒノカイザーも復活してくれるんじゃないか? そう願う気持ちは大きかった。
だが、所詮は叶わぬ願いと諦める。どうしようもないと沈黙する。だって、ケガをした方が耐えられないから。これ以上傷ついてほしくないから。これこそが最善だと自分を納得させる。
そんなファンに。
「突然すいません。私、こういうものですけども」
氷見記者は、ファンの嘘偽らざる気持ちを聞いていた。
◇
えーはい、私です。今日はね、いろいろとニュースがあるので報告したいと思います。
まずは嬉しいニュースから。なんとなんと! プイちゃんが無事に有馬記念を勝ちましたーぱちぱちー。
凄いね。今日の新聞を見たらまた一面を飾ってましたよプイちゃん。ファン投票は前回よりも落ち込んだみたいですが、それでも圧倒的得票率で堂々の一位。それに応える形での圧勝だったようで。
(大歓声だったようで。新聞でも絶賛されていますからねぇ)
プイちゃんの名前がコールされたのでしょうか。ぐぬぬ、何と羨ましい! ちなみに、この有馬記念にはメジャーさんも出走してたみたいです。結果は3着と中々でした。今着地検査中だから会えませんけどね!
にしても、アレですね。別のことがちょっと話題になってますねこの有馬記念。
(ゲート入りを嫌がる子がいて発走が遅れたとかなんとか。そんなこともあるんですね~)
私は遭遇したことがないので分かりませんが、やっぱり影響があるんじゃないでしょうか? う~ん、気になる。
こちらが嬉しいニュース。で、次が悪いニュース、とは言えない、何とも言えないニュースです。
私の引退が決まったそうです。今後はプイちゃんと同じ、種牡馬として活動することが決まりつつあるんだとか。
(正確には確定ではありません。ただ、人間さんはほぼ確定、みたいなことを言ってましたね)
これ以上無理をしてほしくないから、ケガをしたら一大事だから。今後私の血を繋ぐためにも、ここで引退するのがいいと判断されたようです。
思うことがないわけじゃありません。欲を言えば、もっと走っていたいと思いますよ。
けど、走ることはあちらでもできるみたいですし。ならまぁ問題はないかと考えてます。前々からそうですが、私は走れればそれでいいのでね。
(それに、今回の一件で春陽さん達には多大な迷惑をかけてしまいました)
心配させて、とても苦労をかけました。こっちに戻ってきた時のやつれた表情といったら。よっぽど私が心配だったのでしょう。
「良かった、よかったなぁ、カイザー!」
そう抱きしめる春陽さんは震えていました。本当に無事でよかったと、心から思っていたんだと思います。
だからこそ、気持ちは分からんでもないというのが現状。これ以上ケガをしてほしくない、凱旋門賞のようなことは二度とごめんだ。春陽さん達の気持ちは痛いほど分かります。
春陽さん達の気持ちを考えれば、引退するのもやぶさかではない。それが結論です。
(レースのバチバチも良いですが、引退スローライフも悪くはありませんね)
走りたいときに走って気ままに過ごす。それに、私が会ったことがない先輩方にも会えるし、なによりロブロイさんやクリスエスさん、さらにはプイちゃんがいるかもしれません。なんてこった、悪くないんじゃあないですか?
種牡馬生活も悪くないかもしれない。走れるならそれでいいや~、なんて考えていると。
「ファンの人達、残念がってるよな」
「バカ、口にするなって!」
「わ、わりぃ!」
そんな会話が聞こえてきました。むむ? ファンの人達が、残念がっている?
(一体どういうことですか?)
気になりますが、人間さんはどっか行ってしまいました。これでは聞くことができぬ!
仕方ありません、新聞を持ってくるまで待ちましょうか。そうすれば分かるでしょう。
で、新聞を持ってきてくれたので早速拝見。そこには、ファンが残念に思っていることの内容が書かれていました。
【年内で引退するハレヒノカイザー。しかし、日本で走る姿をもう一度見たいファンは多い。父であるトウカイテイオーが果たした復活を、子であるハレヒノカイザーにも期待してしまうのは我々のエゴだろうか?】
そう書かれる新聞には、実際に聞いたであろうファンの声が多く書かれています。というかこれ書いたの氷見さんか。記者の名前が書いてましたよ。
【もう一度カイザーが走るのを見たい】
【笑顔で走るハレヒノカイザーが好き】
【難しいのは分かってるけどそれでも見たい】
そんな声が多数。なんてこった、私の引退を惜しむ声がこんなにあるとは。
ただ、ファンの人達も仕方ない事情があることを分かっているみたいです。もし私がまたケガをしてしまったら立ち直れない、無事でいてほしいと願うのもまた事実。
レースは見たい、けど私には無事でいてほしい。困ったさんですね。
(できるっちゃできる。けれど、万が一が起こらないとは限らない)
だから仕方ない……これが、ファンの人達が出した結論でしょう。
しかもこれ、春陽さん達も同じ気持ちっぽいんですよね。前に検疫厩舎を訪れた壬生さんがこぼしていました。
「もう一度、お前が元気に走る姿を見たいよ」
悔しそうに、無理やり自分を納得させるようにつぶやいた壬生さん。その姿を私は覚えています。
春陽さんも富士澤さんも、きっと同じ気持ち。私ともっと過ごしたいと考えていることでしょう。理由? 私の勘。当たってる確率は高いですよ。
ここまで思われて黙っちゃいられねぇのが私でございます。こんなにファンの人達が思ってくれてるんですよ? これで動かなきゃ私じゃないね!
(何とかして走れたりしないでしょうか?)
考えるのは、どうにかしてレースに出走できないか。ただ、とても大きな問題が立ちはだかる。
私の意思を伝える手段があまりにも乏しいこと、これに尽きますね。なんせ会話できないので。
(レースは私の意思じゃ決められない。決めるのは人間さんで、私は走るだけだから)
そんな人間さんをどう説得したものか、ってのが課題ですね。あまりにも課題がでかすぎる。
どうしたものですかねぇ。
(あまりいい考えも浮かびませんし、人間さんにテレビでも点けてもらいましょう)
実はここ、私が暇にならないようにと小さいテレビが備え付けられてます。やったぜ。
さっそく人間さんにお願いだ。
「ブルル。ブモ」
「どうした? カイザー。放牧の時間はまだだぞ」
「ブルル」
テレビの方へと頭を向けて、点けてほしいとお願い。人間さんは察してくれたようで、テレビを点けてくれました。
やっているのはニュース番組。お、ちょうど競馬の話題ですね。
《──日本の調教馬として、初めて凱旋門賞を制したハレヒノカイザーについて、ファンの声を聞いてみました》
おいおい、なんてベストタイミングなんですか。こりゃあ聞くしかないね……あ、消そうとしないでくださいね人間さん。
《やっぱり、寂しいです。ハレヒノカイザーの走り、好きでしたから》
ほうほう、嬉しいことを言ってくれるじゃあないの。蹄のサインをあげましょう。
《もう一度走るとこが見たいです!》
《凄いワガママだけど、贅沢言ってるのは分かってるけど! それでも見たいんですよ!》
あらやだ情熱的。そこまで思われて嬉しい限りですよ。
《でも、ケガをしちゃったら》
《うん。しょうがないよね……》
心配してくれてますね。ありがとうございます。
ファンの声が聞こえます。もう一度走ってほしい、でもケガをしてほしくないから諦めるしかない。自分の気持ちに、蓋をするしかない。だから、私に多くを望まない。
(元気に過ごしてほしい、ケガをしてほしくない、ですか)
みんなそう口にしています。そんな人間さん達の表情は──一様に暗い。
見たいと願っている。だけど迷惑がかかるから、だから諦めるしかない。ワガママを言って、私がまた骨折したら嫌だから。どんなに悲しい気持ちになっても我慢するしかない。だって、私がケガをするのが嫌だから。
《ケガの影響も心配だよな。走るの大好きだったらしいし、もう走れないなんてことも》
《カイザー大丈夫かな?》
《もしかしたら……》
不安になる気持ちを必死に抑えている。そんな表情が見え隠れしている。
(……決めました)
人間さんの表情は──私の覚悟を決めるには十分すぎるものでした。
これほどの人が私が走ることを願っている。それだけならまだ、我慢はできたかもしれない。
けれど、不安を感じる。私のことを案じている。前に進めず、暗い気持ちを抱えたままになっている。
この不安は、私が走ることで解消できるかもしれません。私が走れると分かれば、みんなは安心する。そう思います。
もう私は心配ないよ、元気いっぱいに走れるよ。そう教えてあげることで、きっと人間さんも安心する。壬生さんも富士澤さんも、春陽さんの心だって晴れる。そう確信できます。
えぇ、ならばこそ。
(私は走りましょう。ハレヒノカイザーの大復活劇を、人間さんに見せてやりましょう)
私はレースを走る。みんなを照らして、笑顔の花を咲かせましょう。
しかしどう主張したものか。私と人間さんの会話は成立しないという高い壁がありますし、難しい問題。
そんな私に、天啓のごとく降りてきた案。
(そういえば、私といえばなアレがあるじゃないですか)
そうと決まれば作戦立案。いつ実行するかを決めて、私の意思を伝えるとしましょうか──みんなが笑顔になるために、ね。
◇
あれから年が明け、日は過ぎていき。ハレヒノカイザーは着地検査を終えた。
これから新天地に向かわせよう──そんな時である。
「たたたたた、大変です大変ですぅぅぅ!」
「どうした騒々しい。いったい何があったんだ?」
「おおお落ち、落ち、おちちゅいて聞いて!」
「お前が落ち着け!」
1人の職員が大慌てで駆けつけてきた。汗だくであり、急いで伝えようと来たのが分かる。
深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる職員。吸って、吐いて。彼は、衝撃の言葉を口にした。
「は、ハレヒノカイザーが──脱走しましたぁ!」
「……ハァ!?」
最後の最後に、大事件を起こしたカイザーである。
忘れた頃にやってくる。