同世代のUMAさん   作:カニ漁船

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脱走したカイザーはどこに。


自分たちのエゴ

 ハレヒノカイザーの脱走はすぐに厩舎全体に広まった。

 

「今すぐに捕まえろ! どこにいるのか見当はついているのか!?」

「そ、それが。建物の外には出ていないみたいで!」

「なら放牧地か!?」

「恐らくそうです!」

 

 着地検査を終えて、舎代へ向かう準備を進めていた職員たち。検査の間は大人しく、素直に言うことを聞いていた。

 無理に走ろうともしないし、飼葉食いも悪くない。健康状態も良好であり、着地検査が終わればすぐにでも、なんて話も出ていたぐらいだ。

 が、いざ着地検査が終わって旅立つ日が来ると思ったらコレである。幸いにも美浦の外には出ていないようだが、今すぐにでも捕まえないとまずいのは明白である。

 

「ほ、放牧地です! 放牧地で走り回っています!」

「さっさと捕まえろ! 人員はいくら割いてもいいから!」

 

 馬主に怒られるだけではなく、もし大事にでもなれば社会的に終わる。自分たちの管理不行き届きで、路頭に迷う羽目になる可能性もある。本当の本当にヤバいのだ。

 

 

 幸運だったのは、ハレヒノカイザーが放牧地で走り回っているのがすぐに発見できたこと。大人しくしているところに近づいて、彼を捕まえようとする。

 

「よ~し、そのまま大人しくしててくれよっ」

「慎重に、慎重に」

 

 足音を立てないように近づき、ハレヒノカイザーを捕まえようとする……が。

 

「ヒヒィィィィン!」

「わぁぁぁ!?」

 

 あっという間に捕捉されて逃げられる。走って追いかけるが人と馬。追いつけるはずもなく。

 

「周りこめ! カイザーは賢いから、目の前に人間がいたら止まるはずだ!」

「了解です! 頼むからついてきてくれカイザー!」

 

 包囲網を敷いて捕まえることに。10人近いスタッフが取り囲み、逃げられないように包囲しようとする。

 だが、これすらも無意味である。

 

「畜生包囲網を抜けられた!」

 

 あっという間に抜け出されて包囲網は瓦解。新たに囲もうとするが、それすらもあざ笑うように崩していく。ハレヒノカイザーの捕獲は、困難を極めていた。

 

「なんだって急に! 今まであんなに従順だったのに!」

 

 悪態をつくスタッフ。ハレヒノカイザーは放牧地を走り回るだけであり、外に出ようとしていないのだけは幸いだが、今後のことを考えると胃が痛くてしょうがない。

 どうしたものか、なぜいきなりハレヒノカイザーは脱走を企てたのか。そうこう考えていたら。

 

「あ、あのぅ」

「誰だこの忙しい時に……って、春陽さん!?」

「な、なんだかカイザーがお騒がせしているみたいで……本当にすみません」

 

 カイザーの馬主である春陽が到着していた。物腰低く謝罪をしようとする春陽を大慌てで止める。

 

「いやいや、こちらの管理が行き届いていないせいで! ほんっと~にすみません! 春陽さんの大事な馬を!」

「いや、大丈夫だよ。ただ、どうしてこうなったんだい?」

「それが、スタッフが言うには馬房の扉を自分で開けて出ていったとか。発見したスタッフの証言です」

「な、なんともまぁ」

 

 事のあらましを説明する職員。その間にも、疑問は収まらなかった。

 

「それにしても、どうして急に脱走を。今まであんなに大人しかったのに」

「一度も脱走してなかったのかい?」

「えぇ。こちらが心配することが分かっているのか、あまり走ることもせず素直に従っていました。放牧地でも極力走らないようにしてましたし……本当になんで急に?」

 

 職員の言葉を聞いて、考え込む春陽。

 どうしてハレヒノカイザーは急に脱走したのか? 大人しかったカイザーがどうして言うことを聞かなくなったのか?

 いろいろと考えを巡らせて、一つの結論に至る。

 

「……もしかしたら、何か伝えたいことがあるのかもしれないねぇ」

「伝えたいこと、ですか?」

「あぁ。あの子は素直ないい子だ。言うことを聞かないってことは、あの子にはやりたいことがあるんじゃないかって、そう思ったのさ」

 

 ハレヒノカイザーはなにかを伝えようとしている。そのなにかは分からないが、大人しく従っていてはできないことなのだろう。

 だからこそ、脱走を企てた。でもあまり大きな心配はさせないために、敷地の外には出ないように中で逃げ回っている。それが、春陽の出した結論である。

 

「ひとまず、案内してくれないかい? カイザーのいる放牧地へ」

「わ、分かりました。今はまだ捕まえていないようですが、春陽さんがいれば」

「富士澤さんたちもすぐに来ると言ってたからねぇ……穏便に済めばいいんだけども」

 

 カイザーが逃げている放牧地へと歩を進める春陽。その胸中に、複雑な思いを抱きながら。

 

 

 

 

 

 

 春陽たちが現場に着く。そこでは、ハレヒノカイザーが職員から逃げ回っている姿が確認できた。

 

「絶対に捕まえろ! なにかあってからじゃ遅いんだぞ!」

「クソ、絶妙なペースで逃げてやがる!」

「お願いだから言うこと聞いて~!」

 

 いまだに捕まえることができない職員。全員汗だくで息が上がっており、大変な苦労をしているのがすぐに分かる。

 いつまで逃げ回るのか? そう思っていた時のこと。

 

「カイザーっ」

 

 走り回るカイザーを見て、春陽は思いが込み上げてきた。

 

(本当に、走れるようになったんだねぇ)

 

 凱旋門賞の大怪我は、最悪走れなくなる可能性すらもあったと聞いた時、春陽は絶望した。

 楽しく走る姿はもう見れないのだと、最悪の可能性も考えなければならないと眠れない日が続いていた。

 けれど、目の前でカイザーが走っている。楽しそうに、無邪気に走り回っているのだ。あの頃と何ら変わらない姿で、ハレヒノカイザーは走っている。それだけで、春陽は嬉しい気持ちで溢れかえった。

 

 

 目尻に涙を浮かべる春陽。その時。

 

「ヒヒィン!」

「……カイザー?」

 

 春陽の存在に気付いたカイザーが、嬉しそうに駆け寄ってきたのである。あれほど捕まえるのに苦労していたハレヒノカイザーは、あっさりと捕まった。

 

「よ、よかったぁ」

 

 へたり込む職員たち。ようやく終わったと、一息つくことができた。

 カイザーは春陽の前に立つ。ジッと春陽の顔を見つめ、なにかを伝えようとしている。

 人の言葉を離せない以上、春陽は理解することはできない。それでも、カイザーは必死に伝えようとしていた。

 春陽は、そんなカイザーを窘める。悪いことをした子供を叱るように、優しく叱った。

 

「なぁ、カイザーよぉ」

「ブルル」

「人様に迷惑をかけちゃあダメじゃないか。みんな、お前のことが心配なんだ。分かるだろ?」

 

 春陽の言葉にしゅんとするカイザー。悪いことをしたと理解しているようだ。

 思わず笑みが込み上げてくる春陽だが、聞かなければならないことがある。真面目な話だ。

 

「カイザー、種牡馬になるのが嫌なのか?」

「ヒヒン」

「なにがそんなに嫌なんだ? 向こうでも走ることはできる、嫁さんだってより取り見取りだ。きっと、レースよりも楽しいことが待っているんだぞ?」

 

 お前が行くところは怖くない、不安なことは何もない、レース以上に楽しいことが待っている。そう教える春陽。

 レースで走る姿を見たくない、といえば嘘になる。それでも、これこそが最適解なのだと自分に言い聞かせて、春陽はカイザーを説得する。

 

「大丈夫だ、カイザー。お前が行こうとしているとこは怖いとこじゃあない。むしろ、お前に優しい人がたくさんだ」

「ヒヒン」

「それに、ゼンノロブロイにシンボリクリスエス、ディープインパクトだっている。お前、仲が良かったろ? だから嬉しいんじゃないのかい?」

 

 カイザーと仲が良かった馬たちの名前を挙げる。安心感を抱かせるために。

 わずかに反応を示すが──カイザーは姿勢を崩さない。まだ春陽の目を見つめたままである。

 強い意志の籠った瞳。通して伝わってくるのは、走りたいという感情。走ることへの情熱を、春陽は強く感じていた。

 

「……それでも、レースで走りたいのかい?」

 

 この言葉に、カイザーは頷く。

 

そうだよ。僕をレースに出させて

 

 走りたい。そう主張している。春陽は確信した。

 そんなカイザーに、春陽は。

 

「無理だ。もうお前さんをレースには出したくない」

 

 きっぱりと、Noを突きつける。これ以上出す気はないと、はっきりと伝えた。

 

「別に、お前さんに意地悪したいってわけじゃないんだ。お前さんには良い思いをたくさんさせてもらったし、できる限りワガママはかなえてやりたい」

「ブルル……」

「重賞を初めて取ってくれて、俺にダービーの称号をプレゼントしてくれて……なにより、世界の頂に上り詰めた。本当に、感無量で、天にも昇るような気持ちだったさぁ」

 

 つらつらと、嘘偽りのない思いを語り続ける春陽。

 ハレヒノカイザーは自分にたくさんのモノをくれた。重賞に縁がなかった自分に、初めての重賞を取ってきてくれて。

 最強馬と名高いディープインパクトとの戦いを制し、自分にダービーの称号をプレゼントしてくれて。

 安田記念では圧巻のレコードで春のマイル王に輝いて。日本の調教馬として初めて、凱旋門賞を制してくれて。

 この孝行息子にはたくさんのモノをもらった。だから、できる限りワガママは聞いてやりたい。

 

「けどよぉ」

 

 しかし、それでも。

 

走ること(それ)だけは無理だ……それだけは、本当にダメなんだよぉ」

 

 それだけは、看過できなかった。

 

「意地悪をしたいわけじゃねぇんだ、お前さんには他に大事な仕事が待ってるって、そう言いたいわけじゃねぇんだ」

 

 理由は。

 

「今でもよぉ、夢に見るんだ。お前さんが辛そうな表情で立っていたあの凱旋門賞を、あの悪夢を……!」

「……ブルル」

「俺らが願いすぎたせいで、お前さんを壊しちまった。託しすぎたせいで、走ることを奪っちまうところだったっ。いつまでも頭にこびりついてるんだっ」

 

 凱旋門賞の悪夢を払しょくできていないから。もうこれ以上、カイザーに傷ついてほしくないから。だから、レースには出したくなかった。

 

「急げ壬生! カイザーが……いたっ!」

「……春陽さん」

 

 春陽の独白。遅れて到着した富士澤と壬生も、彼の言葉に耳を傾ける。

 涙を必死に耐える春陽。彼とて、叶うならばもう一度走る姿を見たい。ハレヒノカイザーが競馬場を駆け抜ける姿を見たい。思いは確かにある。

 けれど、無事でいられる保障はどこにもない。もしまた骨折してしまえば、今度こそ助からないかもしれない。

 

「お前さんが大切なんだ。大切だからこそ、これ以上傷ついてほしくねぇんだ」

 

 優しく抱きしめて、カイザーに言い聞かせる。もう頑張らなくてもいいのだと、自分の思いを伝える。

 

「ただでさえお前さんは、人間の悪意に触れ続けてきた。ダービーのブーイングも、下手すりゃとんでもないことになっていた」

 

 この先また、悪意にさらされる可能性がある。そうなる前に、大人しく舎代で種牡馬になってくれ。そう言い続ける。

 

「なぁ、もう傷つかなくていいじゃねぇか? お前さんは頑張ってきた、頑張りすぎた。だからこそ……もう立ち止まっても誰も責めやしない」

 

 気に病むことはない、カイザーを責める人は誰もいない。

 

「きっといい思いをさせてくれる、たくさんの楽しいことが待っている。だからもう、休んでほしい」

 

 それでもなお、ハレヒノカイザーは。

 

「……なぁ、カイザー」

「ヒヒィン」

「何が、お前をそうさせるんだい?」

 

 走りたい、レースを駆け抜けたい。強い意志で、春陽を睨んでいた。絶対に曲がることのない強い意志で、春陽に訴え続けていた。

 どうして、なぜ。辛いことが待っているのに、苦しいことが待ち受けているはずなのに。それでもなお、ハレヒノカイザーはレースに走りたいと主張している。

 

「お願いだ、聞き分けておくれカイザーっ!」

 

 ここで初めて、春陽は語気を荒らげてカイザーを叱りつける。先ほどまで優しい口調だった春陽が、思いを吐き出すように声を大きくした。

 

「もうお前が傷つく姿を見たくねぇ! お前さんがケガをする姿を見たくねぇ! だからどうか、どうか……っ。このまま諦めてはくれねぇか!?」

 

 もはや息子同然のように愛おしいハレヒノカイザー。息子がまた苦しもうとしているのに止めない親はいない。

 涙の訴え。ハレヒノカイザーは。

 

大丈夫

 

 そう言いたそうに、なお佇んでいた。

 涙の訴えが届いていない? 違う。届いたうえで、カイザーは大丈夫だと伝えている。不思議と、春陽はそう感じた。

 

「なんで、自分から傷つこうとするんだい? 苦しいのに、辛いのに。それでもなんで、お前さんは走ろうとするんだい?」

 

 カイザーは、何も言わない。鳴くこともせず、ただ。

 

心配しなくても大丈夫

 

 そう言わんばかりに、にっこりと笑った。

 揺れ動く春陽の心。周りにいる富士澤と壬生もまた、揺さぶられていた。

 

みんな笑顔じゃない。それが僕は嫌

 

 カイザーの強い信念。レースを走ることができれば、きっと前を向くことができる。

 

僕が走ったら、みんなきっと笑顔になる。楽しいがいっぱい溢れる

 

 そう信じてやまない。だからこそカイザーは。

 

僕は大丈夫だよ、皆にそう教えてあげたい。僕が走って、みんなの不安を吹き飛ばすんだ

 

 笑顔のために。ただそれだけのために、走ることを願う。自分の意志を絶対に曲げずに、春陽に強い意志を伝えようとしていた。

 その意志を感じ取る春陽。笑顔を見せられて、自分の気持ちに向き合って。どことなく察しはついていた。

 

(俺が前を向けてないのを分かってるのか。あの日以来、俺らの心は止まったままだって、そう教えてぇのか……カイザーよぉ)

 

 揺るがない鉄の意志。決して曲がることはないだろう。

 

 

 絆されそうになる春陽。追い打ちをかけるように、声が響く。

 

「どうかお願いします、春陽さん! カイザーの好きにやらせてくれませんか!?」

 

 壬生だ。担当厩務員である彼が、春陽の前で頭を下げていた。

 

「春陽さんにも伝わったと思います、カイザーの気持ちが」

「壬生君……」

「カイザーは、まだ走りたいって思ってる。レースに出たいって言ってる! だから、だからもう一度だけお願いできませんか!」

 

 壬生の頭をよぎったのはアレクの言葉。最後に交わした言葉が残っている。

 

(最後までカイザーの味方であり続けろ。カイザーが走ることを願うなら、俺は!)

「勿論、俺達が全力でサポートします! もう二度とケガをしないようにします! だから後一回だけ、レースに出してやって下さい!」

 

 懇願。馬主である春陽がレースに出すと言えば、レースの出走は叶う。だからこそ、壬生は必死に頭を下げ、土下座までしていた。

 だが、しかし。

 

「やめろ壬生!」

 

 調教師である富士澤が、壬生を止めさせる。怒りをにじませ、拳を震わせながら叱る。

 

「無責任なことを言うな。ケガをしないなんて誰に分かる? もし凱旋門賞のような時になれば、今度こそ終わりだぞ」

「それでも、できる限り排除することはできます! 可能性を0に近づけることはできます!」

「だが、完全に0にすることはできない。今後のリスクを考えれば、ここで種牡馬になるのがハレヒノカイザーにとって良い選択だ」

 

 淡々と、合理的な選択肢を押し付けようとする富士澤。事実、富士澤の方が正論だ。

 

「万が一にでもケガをしたら、それこそもう立ち直れなくなる。凱旋門賞の時のような気持ちを、お前はまた味あわせるつもりか!?」

 

 ケガのリスクはレースの方が高まる。完全に0にすることなどできない。だからこそ、安全なまま種牡馬の道を整える。それがハレヒノカイザーにとっての最善だと、富士澤は信じている。自分のエゴよりも馬の安全を考えていた。

 たじろぐ壬生。それでも、諦めない。

 

「良い選択? カイザーは走りたがっているのにか!」

「……」

「カイザーはレースを走りたがっている! 富士澤さんにだって分かるでしょ? カイザーの思いが、伝わっているはずだ!」

 

 感情に訴えかける。それでもなお、富士澤は主張を曲げない。

 

「それでも、カイザーの安全を考えるならば引退一択だ。すでに話はまとまっている、お前の出る幕はない」

「っ、だとしても。俺はカイザーの願いを叶えてやりたい! こいつの思いに、応えてやりたい!」

 

 しかし、壬生もまた主張を曲げない。正論をぶつけられても、感情論を否定されても、壬生は──カイザーをレースに出させることを諦めない。

 

「コイツは、カイザーはずっと俺達のエゴに振り回され続けてきた! 嫌な顔一つしないで、ずっと俺達についてきてくれた! 反抗したことは一度だってない!」

「壬生ぅ……!」

「だったら! 一回のワガママぐらい許したっていいはずだ! 俺達はエゴを押し付けてきたのに、カイザーがエゴを押し付けるのは許さないのか!? それが本当に、馬のためだって言えるんですか!?」

「その一回のワガママで全てが終わるんだぞ! それを分かっているのか!」

「終わらせないようにするのが俺達の仕事じゃないんですか!」

 

 感情論の壬生と合理的な富士澤の対立。話は平行線であり、まとまる気配は微塵もない。

 春陽は、そんな2人の言葉を聞いていて、一つ腑に落ちたことがあった。

 

(……あぁ、そうだねぇ)

 

 カイザーに種牡馬の道を提示している。そのことにどこか、違和感を抱いていた春陽。口論を聞いて、とある言葉が耳に入って。その違和感に気づいた。

 結局種牡馬の道を選ばせようとしているのも、自分たちのエゴに過ぎないのだ。自分たちはまた、カイザーにエゴを押し付けようとしている。

 確かに合理的だ。その道を勧めるのが、カイザーのためになるはずだ。そう信じて突き進んだ。

 けれど、カイザーは走りたがっている。辛い道でも、カイザー自身が選ぼうとしている。

 だったら、自分のやるべきことは一つだ。春陽は思い至る。

 

「ごめんなぁ、カイザー。俺ぁまた、お前に押し付けようとしてた」

「ヒヒン」

 

 気にしないで。そう言わんばかりに春陽の顔を舐めるカイザー。思わず笑みを零す。

 

「ちょっと待ってておくれ、カイザー。すぐに話をつけてくるから」

 

 春陽は、覚悟を決めた。

 

「なぁ富士澤さん。一つ頼まれてくれねぇか?」

 

 口論をしている2人の間に割って入る春陽。富士澤と壬生の視線が、春陽に向く。

 

「……何ですか?」

 

 訝しむ富士澤。春陽は──富士澤に頭を下げる。

 

「俺は、カイザーのワガママを聞いてやりてぇ。だからどうか、後一回だけ頼まれてくれませんか?」

「ッ! 春陽さん……、正気ですか?」

「正気も正気さぁ。俺は、カイザーの走りたいってワガママを聞いてやりたい。それがどんな道であっても、俺は走らせてやりてぇ。だから、お願いします富士澤さん」

 

 春陽の要望。馬主である春陽が、レースの出走に傾いた。首を縦に振った。この事実に、富士澤は困惑する。

 それでも、富士澤の考えは変わらない。馬の安全を第一に考え、春陽の提案を断る。

 

「できません。ケガのリスクがある以上、これ以上レースに出るのは厳しいかと」

「そこをなんとかお願いできないかい? 俺の、一生の頼みだ」

 

 なおも頭を下げる。お願いを聞いてくれるまで下げる覚悟を見せる。富士澤は、拳を強く握っていた。

 

「酷なことを言ってるのは分かってる。富士澤さんの方が正しいってのは、俺も痛いほど理解してるつもりだ」

「ッだったら!」

「それでもよぉ、カイザーは()()()()()()()()()()()

 

 気づく富士澤。雷に打たれたかのような衝撃が襲い、目を見開いている。

 

「壬生君の言うとおりだぁ。カイザーは、これまで俺達のエゴを押し付けられてきた。嫌な顔一つせずについてきてくれた」

「……っ」

「そんなカイザーが、初めてワガママを押し通そうとしているんだ。だから俺は、そのワガママを叶えてやりてぇ、カイザーの思いに、応えてやりてぇ」

 

 期待に応えてくれた、願いを叶えてくれた。だからこそ、今度は自分たちが彼の願いに応えてやる番だ。そう主張する春陽。

 富士澤とて、ハレヒノカイザーの走る姿が見たくないわけじゃない。走らせてやりたいとは思っている。

 それでも、またケガをしたら。そう考えたら足が止まってしまう、竦むのだ。今でもまだ、凱旋門賞の景色がこびりついているから。

 

(理性を働かせろ。感情論に流されるな。馬にとっての最善を)

 

 視線をそらすと、偶然カイザーと目線があった。

 強い意志で、カイザーは訴えかけてくる。

 

走りたい。走らせて

 

 富士澤の決意を鈍らせるように。

 

もう大丈夫。心配ないよ

 

 走るような仕草を見せて、自分は大丈夫だとアピールする。心配する富士澤に、自分は大丈夫だと主張する。

 

(馬にとっての、最善を……)

 

 走りたがっているカイザー。その姿を見て富士澤は、本当に種牡馬入りが正しいことなのか分からなくなった。

 少なくとも、カイザーは走りたそうにしている。放牧で走るのではなく、レースで走りたいと主張している。

 最後に、壬生の言葉。

 

(俺達のエゴは通したのに、カイザーのエゴは通さない、か)

 

 痛いところを突かれた。そう思う。感情論だとしても間違っていない事実に、富士澤は目を伏せる。

 

(これまでずっと、カイザーには我慢させていたのかもしれないな)

 

 素直に言うことを聞いて、手のかからない馬。こちらを心配させないようにと振舞う彼の姿は、今でも鮮明に思い出せる。

 

 

 逡巡する富士澤。頭を下げ続ける春陽と壬生。遠巻きにハラハラと見守る検疫厩舎のスタッフたち。

 富士澤はやがて天を仰ぎ、ぽつりとつぶやく。

 

「きっと、世間からの批判が集中します。また、誹謗中傷に悩まされる日が来るでしょう」

 

 これからも困難が待ち受けている。そう告げる富士澤に、希望の表情を見せる春陽と壬生。

 2人の答えは、決まっていた。

 

「あぁ、構わないさぁ。凱旋門賞でもう慣れっこだからねぇ」

「良いですよ。そういう時こそ、最後に大逆転した時が気持ちいいんですから」

 

 二つ返事で即答する。

 

「舎代にも話を通さないといけません。ほぼ種牡馬入りが内定していたのに、反故にするのだから」

「ま、まぁ……そこはほら、どうにか頭を下げてね?」

「急に勢いをなくさないでくださいよ春陽さん!」

 

 そういえばそうだった、と冷や汗をかく春陽。思わず富士澤は笑いそうになる。

 

「……必ず困難が待ち受けている。それでも」

 

 富士澤は、顔をあげた。

 

「──ハレヒノカイザーを走らせたいと思うなら、俺が最後まで面倒を見ましょう」

 

 約束。もう一度だけ、ハレヒノカイザーを走らせると、そう宣言した。

 春陽と壬生は、笑顔を見せる。そして。

 

「ヒヒィィィン!」

 

 ハレヒノカイザーも、歓喜の咆哮をあげていた。周りで見ていたスタッフたちからも歓声が上がる。

 

 

 こうしてハレヒノカイザーは、もう一度だけ出走が叶った。

 

 

 

 

 

 

 ちなみに後日。舎代に平身低頭して謝る春陽の姿があった。

 

「ほ、本当に申し訳ありません。種牡馬入りの話を受けたのに、もう一年だけ待ってくれと都合のいいことを言ってしまい……」

 

 その言葉に、舎代の代表は朗らかな笑みを浮かべている。

 

「いえ、それでもウチで種牡馬をやってくれるのであれば、大丈夫ですよ。気長に待つことにしますわ」

 

 春陽のお願いを無下にせず、問題はないと謝罪を受け入れた。

 

「それに、私も見たいと思っていましたから。ハレヒノカイザーがもう一度日本で走る姿を」

「……嘉田さん」

「あの子の走りは、とても楽しそうですからねぇ。思わずこっちも元気をもらえるような、不思議な走りだ」

 

 遠い目でハレヒノカイザーの走りを思い出す代表。彼もまた、ハレヒノカイザーの走りに魅せられた一人かもしれない。

 ただ、ビジネス的な観点でも抜け目はない。

 

「ま、無理を言っているわけですからね? ここはひとつ」

「うっ、わ、分かっています」

 

 問題なく話はまとまったようである。




話は円満にまとまりました。ただ、課題は山積みである。
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