ハレヒノカイザーの脱走はすぐに厩舎全体に広まった。
「今すぐに捕まえろ! どこにいるのか見当はついているのか!?」
「そ、それが。建物の外には出ていないみたいで!」
「なら放牧地か!?」
「恐らくそうです!」
着地検査を終えて、舎代へ向かう準備を進めていた職員たち。検査の間は大人しく、素直に言うことを聞いていた。
無理に走ろうともしないし、飼葉食いも悪くない。健康状態も良好であり、着地検査が終わればすぐにでも、なんて話も出ていたぐらいだ。
が、いざ着地検査が終わって旅立つ日が来ると思ったらコレである。幸いにも美浦の外には出ていないようだが、今すぐにでも捕まえないとまずいのは明白である。
「ほ、放牧地です! 放牧地で走り回っています!」
「さっさと捕まえろ! 人員はいくら割いてもいいから!」
馬主に怒られるだけではなく、もし大事にでもなれば社会的に終わる。自分たちの管理不行き届きで、路頭に迷う羽目になる可能性もある。本当の本当にヤバいのだ。
幸運だったのは、ハレヒノカイザーが放牧地で走り回っているのがすぐに発見できたこと。大人しくしているところに近づいて、彼を捕まえようとする。
「よ~し、そのまま大人しくしててくれよっ」
「慎重に、慎重に」
足音を立てないように近づき、ハレヒノカイザーを捕まえようとする……が。
「ヒヒィィィィン!」
「わぁぁぁ!?」
あっという間に捕捉されて逃げられる。走って追いかけるが人と馬。追いつけるはずもなく。
「周りこめ! カイザーは賢いから、目の前に人間がいたら止まるはずだ!」
「了解です! 頼むからついてきてくれカイザー!」
包囲網を敷いて捕まえることに。10人近いスタッフが取り囲み、逃げられないように包囲しようとする。
だが、これすらも無意味である。
「畜生包囲網を抜けられた!」
あっという間に抜け出されて包囲網は瓦解。新たに囲もうとするが、それすらもあざ笑うように崩していく。ハレヒノカイザーの捕獲は、困難を極めていた。
「なんだって急に! 今まであんなに従順だったのに!」
悪態をつくスタッフ。ハレヒノカイザーは放牧地を走り回るだけであり、外に出ようとしていないのだけは幸いだが、今後のことを考えると胃が痛くてしょうがない。
どうしたものか、なぜいきなりハレヒノカイザーは脱走を企てたのか。そうこう考えていたら。
「あ、あのぅ」
「誰だこの忙しい時に……って、春陽さん!?」
「な、なんだかカイザーがお騒がせしているみたいで……本当にすみません」
カイザーの馬主である春陽が到着していた。物腰低く謝罪をしようとする春陽を大慌てで止める。
「いやいや、こちらの管理が行き届いていないせいで! ほんっと~にすみません! 春陽さんの大事な馬を!」
「いや、大丈夫だよ。ただ、どうしてこうなったんだい?」
「それが、スタッフが言うには馬房の扉を自分で開けて出ていったとか。発見したスタッフの証言です」
「な、なんともまぁ」
事のあらましを説明する職員。その間にも、疑問は収まらなかった。
「それにしても、どうして急に脱走を。今まであんなに大人しかったのに」
「一度も脱走してなかったのかい?」
「えぇ。こちらが心配することが分かっているのか、あまり走ることもせず素直に従っていました。放牧地でも極力走らないようにしてましたし……本当になんで急に?」
職員の言葉を聞いて、考え込む春陽。
どうしてハレヒノカイザーは急に脱走したのか? 大人しかったカイザーがどうして言うことを聞かなくなったのか?
いろいろと考えを巡らせて、一つの結論に至る。
「……もしかしたら、何か伝えたいことがあるのかもしれないねぇ」
「伝えたいこと、ですか?」
「あぁ。あの子は素直ないい子だ。言うことを聞かないってことは、あの子にはやりたいことがあるんじゃないかって、そう思ったのさ」
ハレヒノカイザーはなにかを伝えようとしている。そのなにかは分からないが、大人しく従っていてはできないことなのだろう。
だからこそ、脱走を企てた。でもあまり大きな心配はさせないために、敷地の外には出ないように中で逃げ回っている。それが、春陽の出した結論である。
「ひとまず、案内してくれないかい? カイザーのいる放牧地へ」
「わ、分かりました。今はまだ捕まえていないようですが、春陽さんがいれば」
「富士澤さんたちもすぐに来ると言ってたからねぇ……穏便に済めばいいんだけども」
カイザーが逃げている放牧地へと歩を進める春陽。その胸中に、複雑な思いを抱きながら。
◇
春陽たちが現場に着く。そこでは、ハレヒノカイザーが職員から逃げ回っている姿が確認できた。
「絶対に捕まえろ! なにかあってからじゃ遅いんだぞ!」
「クソ、絶妙なペースで逃げてやがる!」
「お願いだから言うこと聞いて~!」
いまだに捕まえることができない職員。全員汗だくで息が上がっており、大変な苦労をしているのがすぐに分かる。
いつまで逃げ回るのか? そう思っていた時のこと。
「カイザーっ」
走り回るカイザーを見て、春陽は思いが込み上げてきた。
(本当に、走れるようになったんだねぇ)
凱旋門賞の大怪我は、最悪走れなくなる可能性すらもあったと聞いた時、春陽は絶望した。
楽しく走る姿はもう見れないのだと、最悪の可能性も考えなければならないと眠れない日が続いていた。
けれど、目の前でカイザーが走っている。楽しそうに、無邪気に走り回っているのだ。あの頃と何ら変わらない姿で、ハレヒノカイザーは走っている。それだけで、春陽は嬉しい気持ちで溢れかえった。
目尻に涙を浮かべる春陽。その時。
「ヒヒィン!」
「……カイザー?」
春陽の存在に気付いたカイザーが、嬉しそうに駆け寄ってきたのである。あれほど捕まえるのに苦労していたハレヒノカイザーは、あっさりと捕まった。
「よ、よかったぁ」
へたり込む職員たち。ようやく終わったと、一息つくことができた。
カイザーは春陽の前に立つ。ジッと春陽の顔を見つめ、なにかを伝えようとしている。
人の言葉を離せない以上、春陽は理解することはできない。それでも、カイザーは必死に伝えようとしていた。
春陽は、そんなカイザーを窘める。悪いことをした子供を叱るように、優しく叱った。
「なぁ、カイザーよぉ」
「ブルル」
「人様に迷惑をかけちゃあダメじゃないか。みんな、お前のことが心配なんだ。分かるだろ?」
春陽の言葉にしゅんとするカイザー。悪いことをしたと理解しているようだ。
思わず笑みが込み上げてくる春陽だが、聞かなければならないことがある。真面目な話だ。
「カイザー、種牡馬になるのが嫌なのか?」
「ヒヒン」
「なにがそんなに嫌なんだ? 向こうでも走ることはできる、嫁さんだってより取り見取りだ。きっと、レースよりも楽しいことが待っているんだぞ?」
お前が行くところは怖くない、不安なことは何もない、レース以上に楽しいことが待っている。そう教える春陽。
レースで走る姿を見たくない、といえば嘘になる。それでも、これこそが最適解なのだと自分に言い聞かせて、春陽はカイザーを説得する。
「大丈夫だ、カイザー。お前が行こうとしているとこは怖いとこじゃあない。むしろ、お前に優しい人がたくさんだ」
「ヒヒン」
「それに、ゼンノロブロイにシンボリクリスエス、ディープインパクトだっている。お前、仲が良かったろ? だから嬉しいんじゃないのかい?」
カイザーと仲が良かった馬たちの名前を挙げる。安心感を抱かせるために。
わずかに反応を示すが──カイザーは姿勢を崩さない。まだ春陽の目を見つめたままである。
強い意志の籠った瞳。通して伝わってくるのは、走りたいという感情。走ることへの情熱を、春陽は強く感じていた。
「……それでも、レースで走りたいのかい?」
この言葉に、カイザーは頷く。
そうだよ。僕をレースに出させて
走りたい。そう主張している。春陽は確信した。
そんなカイザーに、春陽は。
「無理だ。もうお前さんをレースには出したくない」
きっぱりと、Noを突きつける。これ以上出す気はないと、はっきりと伝えた。
「別に、お前さんに意地悪したいってわけじゃないんだ。お前さんには良い思いをたくさんさせてもらったし、できる限りワガママはかなえてやりたい」
「ブルル……」
「重賞を初めて取ってくれて、俺にダービーの称号をプレゼントしてくれて……なにより、世界の頂に上り詰めた。本当に、感無量で、天にも昇るような気持ちだったさぁ」
つらつらと、嘘偽りのない思いを語り続ける春陽。
ハレヒノカイザーは自分にたくさんのモノをくれた。重賞に縁がなかった自分に、初めての重賞を取ってきてくれて。
最強馬と名高いディープインパクトとの戦いを制し、自分にダービーの称号をプレゼントしてくれて。
安田記念では圧巻のレコードで春のマイル王に輝いて。日本の調教馬として初めて、凱旋門賞を制してくれて。
この孝行息子にはたくさんのモノをもらった。だから、できる限りワガママは聞いてやりたい。
「けどよぉ」
しかし、それでも。
「
それだけは、看過できなかった。
「意地悪をしたいわけじゃねぇんだ、お前さんには他に大事な仕事が待ってるって、そう言いたいわけじゃねぇんだ」
理由は。
「今でもよぉ、夢に見るんだ。お前さんが辛そうな表情で立っていたあの凱旋門賞を、あの悪夢を……!」
「……ブルル」
「俺らが願いすぎたせいで、お前さんを壊しちまった。託しすぎたせいで、走ることを奪っちまうところだったっ。いつまでも頭にこびりついてるんだっ」
凱旋門賞の悪夢を払しょくできていないから。もうこれ以上、カイザーに傷ついてほしくないから。だから、レースには出したくなかった。
「急げ壬生! カイザーが……いたっ!」
「……春陽さん」
春陽の独白。遅れて到着した富士澤と壬生も、彼の言葉に耳を傾ける。
涙を必死に耐える春陽。彼とて、叶うならばもう一度走る姿を見たい。ハレヒノカイザーが競馬場を駆け抜ける姿を見たい。思いは確かにある。
けれど、無事でいられる保障はどこにもない。もしまた骨折してしまえば、今度こそ助からないかもしれない。
「お前さんが大切なんだ。大切だからこそ、これ以上傷ついてほしくねぇんだ」
優しく抱きしめて、カイザーに言い聞かせる。もう頑張らなくてもいいのだと、自分の思いを伝える。
「ただでさえお前さんは、人間の悪意に触れ続けてきた。ダービーのブーイングも、下手すりゃとんでもないことになっていた」
この先また、悪意にさらされる可能性がある。そうなる前に、大人しく舎代で種牡馬になってくれ。そう言い続ける。
「なぁ、もう傷つかなくていいじゃねぇか? お前さんは頑張ってきた、頑張りすぎた。だからこそ……もう立ち止まっても誰も責めやしない」
気に病むことはない、カイザーを責める人は誰もいない。
「きっといい思いをさせてくれる、たくさんの楽しいことが待っている。だからもう、休んでほしい」
それでもなお、ハレヒノカイザーは。
「……なぁ、カイザー」
「ヒヒィン」
「何が、お前をそうさせるんだい?」
走りたい、レースを駆け抜けたい。強い意志で、春陽を睨んでいた。絶対に曲がることのない強い意志で、春陽に訴え続けていた。
どうして、なぜ。辛いことが待っているのに、苦しいことが待ち受けているはずなのに。それでもなお、ハレヒノカイザーはレースに走りたいと主張している。
「お願いだ、聞き分けておくれカイザーっ!」
ここで初めて、春陽は語気を荒らげてカイザーを叱りつける。先ほどまで優しい口調だった春陽が、思いを吐き出すように声を大きくした。
「もうお前が傷つく姿を見たくねぇ! お前さんがケガをする姿を見たくねぇ! だからどうか、どうか……っ。このまま諦めてはくれねぇか!?」
もはや息子同然のように愛おしいハレヒノカイザー。息子がまた苦しもうとしているのに止めない親はいない。
涙の訴え。ハレヒノカイザーは。
大丈夫
そう言いたそうに、なお佇んでいた。
涙の訴えが届いていない? 違う。届いたうえで、カイザーは大丈夫だと伝えている。不思議と、春陽はそう感じた。
「なんで、自分から傷つこうとするんだい? 苦しいのに、辛いのに。それでもなんで、お前さんは走ろうとするんだい?」
カイザーは、何も言わない。鳴くこともせず、ただ。
心配しなくても大丈夫
そう言わんばかりに、にっこりと笑った。
揺れ動く春陽の心。周りにいる富士澤と壬生もまた、揺さぶられていた。
みんな笑顔じゃない。それが僕は嫌
カイザーの強い信念。レースを走ることができれば、きっと前を向くことができる。
僕が走ったら、みんなきっと笑顔になる。楽しいがいっぱい溢れる
そう信じてやまない。だからこそカイザーは。
僕は大丈夫だよ、皆にそう教えてあげたい。僕が走って、みんなの不安を吹き飛ばすんだ
笑顔のために。ただそれだけのために、走ることを願う。自分の意志を絶対に曲げずに、春陽に強い意志を伝えようとしていた。
その意志を感じ取る春陽。笑顔を見せられて、自分の気持ちに向き合って。どことなく察しはついていた。
(俺が前を向けてないのを分かってるのか。あの日以来、俺らの心は止まったままだって、そう教えてぇのか……カイザーよぉ)
揺るがない鉄の意志。決して曲がることはないだろう。
絆されそうになる春陽。追い打ちをかけるように、声が響く。
「どうかお願いします、春陽さん! カイザーの好きにやらせてくれませんか!?」
壬生だ。担当厩務員である彼が、春陽の前で頭を下げていた。
「春陽さんにも伝わったと思います、カイザーの気持ちが」
「壬生君……」
「カイザーは、まだ走りたいって思ってる。レースに出たいって言ってる! だから、だからもう一度だけお願いできませんか!」
壬生の頭をよぎったのはアレクの言葉。最後に交わした言葉が残っている。
(最後までカイザーの味方であり続けろ。カイザーが走ることを願うなら、俺は!)
「勿論、俺達が全力でサポートします! もう二度とケガをしないようにします! だから後一回だけ、レースに出してやって下さい!」
懇願。馬主である春陽がレースに出すと言えば、レースの出走は叶う。だからこそ、壬生は必死に頭を下げ、土下座までしていた。
だが、しかし。
「やめろ壬生!」
調教師である富士澤が、壬生を止めさせる。怒りをにじませ、拳を震わせながら叱る。
「無責任なことを言うな。ケガをしないなんて誰に分かる? もし凱旋門賞のような時になれば、今度こそ終わりだぞ」
「それでも、できる限り排除することはできます! 可能性を0に近づけることはできます!」
「だが、完全に0にすることはできない。今後のリスクを考えれば、ここで種牡馬になるのがハレヒノカイザーにとって良い選択だ」
淡々と、合理的な選択肢を押し付けようとする富士澤。事実、富士澤の方が正論だ。
「万が一にでもケガをしたら、それこそもう立ち直れなくなる。凱旋門賞の時のような気持ちを、お前はまた味あわせるつもりか!?」
ケガのリスクはレースの方が高まる。完全に0にすることなどできない。だからこそ、安全なまま種牡馬の道を整える。それがハレヒノカイザーにとっての最善だと、富士澤は信じている。自分のエゴよりも馬の安全を考えていた。
たじろぐ壬生。それでも、諦めない。
「良い選択? カイザーは走りたがっているのにか!」
「……」
「カイザーはレースを走りたがっている! 富士澤さんにだって分かるでしょ? カイザーの思いが、伝わっているはずだ!」
感情に訴えかける。それでもなお、富士澤は主張を曲げない。
「それでも、カイザーの安全を考えるならば引退一択だ。すでに話はまとまっている、お前の出る幕はない」
「っ、だとしても。俺はカイザーの願いを叶えてやりたい! こいつの思いに、応えてやりたい!」
しかし、壬生もまた主張を曲げない。正論をぶつけられても、感情論を否定されても、壬生は──カイザーをレースに出させることを諦めない。
「コイツは、カイザーはずっと俺達のエゴに振り回され続けてきた! 嫌な顔一つしないで、ずっと俺達についてきてくれた! 反抗したことは一度だってない!」
「壬生ぅ……!」
「だったら! 一回のワガママぐらい許したっていいはずだ! 俺達はエゴを押し付けてきたのに、カイザーがエゴを押し付けるのは許さないのか!? それが本当に、馬のためだって言えるんですか!?」
「その一回のワガママで全てが終わるんだぞ! それを分かっているのか!」
「終わらせないようにするのが俺達の仕事じゃないんですか!」
感情論の壬生と合理的な富士澤の対立。話は平行線であり、まとまる気配は微塵もない。
春陽は、そんな2人の言葉を聞いていて、一つ腑に落ちたことがあった。
(……あぁ、そうだねぇ)
カイザーに種牡馬の道を提示している。そのことにどこか、違和感を抱いていた春陽。口論を聞いて、とある言葉が耳に入って。その違和感に気づいた。
結局種牡馬の道を選ばせようとしているのも、自分たちのエゴに過ぎないのだ。自分たちはまた、カイザーにエゴを押し付けようとしている。
確かに合理的だ。その道を勧めるのが、カイザーのためになるはずだ。そう信じて突き進んだ。
けれど、カイザーは走りたがっている。辛い道でも、カイザー自身が選ぼうとしている。
だったら、自分のやるべきことは一つだ。春陽は思い至る。
「ごめんなぁ、カイザー。俺ぁまた、お前に押し付けようとしてた」
「ヒヒン」
気にしないで。そう言わんばかりに春陽の顔を舐めるカイザー。思わず笑みを零す。
「ちょっと待ってておくれ、カイザー。すぐに話をつけてくるから」
春陽は、覚悟を決めた。
「なぁ富士澤さん。一つ頼まれてくれねぇか?」
口論をしている2人の間に割って入る春陽。富士澤と壬生の視線が、春陽に向く。
「……何ですか?」
訝しむ富士澤。春陽は──富士澤に頭を下げる。
「俺は、カイザーのワガママを聞いてやりてぇ。だからどうか、後一回だけ頼まれてくれませんか?」
「ッ! 春陽さん……、正気ですか?」
「正気も正気さぁ。俺は、カイザーの走りたいってワガママを聞いてやりたい。それがどんな道であっても、俺は走らせてやりてぇ。だから、お願いします富士澤さん」
春陽の要望。馬主である春陽が、レースの出走に傾いた。首を縦に振った。この事実に、富士澤は困惑する。
それでも、富士澤の考えは変わらない。馬の安全を第一に考え、春陽の提案を断る。
「できません。ケガのリスクがある以上、これ以上レースに出るのは厳しいかと」
「そこをなんとかお願いできないかい? 俺の、一生の頼みだ」
なおも頭を下げる。お願いを聞いてくれるまで下げる覚悟を見せる。富士澤は、拳を強く握っていた。
「酷なことを言ってるのは分かってる。富士澤さんの方が正しいってのは、俺も痛いほど理解してるつもりだ」
「ッだったら!」
「それでもよぉ、カイザーは
気づく富士澤。雷に打たれたかのような衝撃が襲い、目を見開いている。
「壬生君の言うとおりだぁ。カイザーは、これまで俺達のエゴを押し付けられてきた。嫌な顔一つせずについてきてくれた」
「……っ」
「そんなカイザーが、初めてワガママを押し通そうとしているんだ。だから俺は、そのワガママを叶えてやりてぇ、カイザーの思いに、応えてやりてぇ」
期待に応えてくれた、願いを叶えてくれた。だからこそ、今度は自分たちが彼の願いに応えてやる番だ。そう主張する春陽。
富士澤とて、ハレヒノカイザーの走る姿が見たくないわけじゃない。走らせてやりたいとは思っている。
それでも、またケガをしたら。そう考えたら足が止まってしまう、竦むのだ。今でもまだ、凱旋門賞の景色がこびりついているから。
(理性を働かせろ。感情論に流されるな。馬にとっての最善を)
視線をそらすと、偶然カイザーと目線があった。
強い意志で、カイザーは訴えかけてくる。
走りたい。走らせて
富士澤の決意を鈍らせるように。
もう大丈夫。心配ないよ
走るような仕草を見せて、自分は大丈夫だとアピールする。心配する富士澤に、自分は大丈夫だと主張する。
(馬にとっての、最善を……)
走りたがっているカイザー。その姿を見て富士澤は、本当に種牡馬入りが正しいことなのか分からなくなった。
少なくとも、カイザーは走りたそうにしている。放牧で走るのではなく、レースで走りたいと主張している。
最後に、壬生の言葉。
(俺達のエゴは通したのに、カイザーのエゴは通さない、か)
痛いところを突かれた。そう思う。感情論だとしても間違っていない事実に、富士澤は目を伏せる。
(これまでずっと、カイザーには我慢させていたのかもしれないな)
素直に言うことを聞いて、手のかからない馬。こちらを心配させないようにと振舞う彼の姿は、今でも鮮明に思い出せる。
逡巡する富士澤。頭を下げ続ける春陽と壬生。遠巻きにハラハラと見守る検疫厩舎のスタッフたち。
富士澤はやがて天を仰ぎ、ぽつりとつぶやく。
「きっと、世間からの批判が集中します。また、誹謗中傷に悩まされる日が来るでしょう」
これからも困難が待ち受けている。そう告げる富士澤に、希望の表情を見せる春陽と壬生。
2人の答えは、決まっていた。
「あぁ、構わないさぁ。凱旋門賞でもう慣れっこだからねぇ」
「良いですよ。そういう時こそ、最後に大逆転した時が気持ちいいんですから」
二つ返事で即答する。
「舎代にも話を通さないといけません。ほぼ種牡馬入りが内定していたのに、反故にするのだから」
「ま、まぁ……そこはほら、どうにか頭を下げてね?」
「急に勢いをなくさないでくださいよ春陽さん!」
そういえばそうだった、と冷や汗をかく春陽。思わず富士澤は笑いそうになる。
「……必ず困難が待ち受けている。それでも」
富士澤は、顔をあげた。
「──ハレヒノカイザーを走らせたいと思うなら、俺が最後まで面倒を見ましょう」
約束。もう一度だけ、ハレヒノカイザーを走らせると、そう宣言した。
春陽と壬生は、笑顔を見せる。そして。
「ヒヒィィィン!」
ハレヒノカイザーも、歓喜の咆哮をあげていた。周りで見ていたスタッフたちからも歓声が上がる。
こうしてハレヒノカイザーは、もう一度だけ出走が叶った。
◇
ちなみに後日。舎代に平身低頭して謝る春陽の姿があった。
「ほ、本当に申し訳ありません。種牡馬入りの話を受けたのに、もう一年だけ待ってくれと都合のいいことを言ってしまい……」
その言葉に、舎代の代表は朗らかな笑みを浮かべている。
「いえ、それでもウチで種牡馬をやってくれるのであれば、大丈夫ですよ。気長に待つことにしますわ」
春陽のお願いを無下にせず、問題はないと謝罪を受け入れた。
「それに、私も見たいと思っていましたから。ハレヒノカイザーがもう一度日本で走る姿を」
「……嘉田さん」
「あの子の走りは、とても楽しそうですからねぇ。思わずこっちも元気をもらえるような、不思議な走りだ」
遠い目でハレヒノカイザーの走りを思い出す代表。彼もまた、ハレヒノカイザーの走りに魅せられた一人かもしれない。
ただ、ビジネス的な観点でも抜け目はない。
「ま、無理を言っているわけですからね? ここはひとつ」
「うっ、わ、分かっています」
問題なく話はまとまったようである。
話は円満にまとまりました。ただ、課題は山積みである。