今でも夢に見る。凱旋門賞のあの日、最後の直線を。
高揚した気持ちでハレヒノカイザーに騎乗する私。その裏で、ハレヒノカイザーは己の身を削りながら走っていたというのに、そのことにすら気づかずに走らせていた事実。
(やめろ、止めてくれ)
止まってくれと願う。もう走らなくていいと手綱を絞ろうとする。それら全ては無意味であり、ハレヒノカイザーの巡行は止まらない。
(止まってくれ、止まってくれ! お願いだ!)
あの日と全く同じ。コンマ一秒変わらない。だから、結末も一緒だ。
ゴール板を過ぎる私達。そして。
彼の骨が折れる音が、私の耳に響いてくる。体の芯まで響き渡り、逃げることを許さないばかりに、私を蝕んてくる。
もう何度目だろうか? この夢を見たのは。騎手免許を返納しても、家族との時間を過ごしていても、どこまでも私を蝕んでくる。
お前の罪から逃れるな
お前が彼の将来を奪った
お前の騎乗が、彼を潰した
分かっている。そんなことは痛いほど知っている。十分に理解している、後悔しなかった日など一度もない!
カイザーに謝りたいとも思った、直接謝罪したいとも思った。けれども、彼は私の顔など見たくもないだろう。走ることが大好きなのに、その走ることを奪ってしまった私のことなど、恨んでいるに決まっている。
現に、夢の中のカイザーは私を咎めるように睨んでいた。軽蔑するような視線、夢だと分かっていても、たじろいでしまう。
岡邉さんのせいで僕、走れなくなった
岡邉さんのせいだ
あぁ、すまないカイザー。私の騎乗が拙いせいで、私が大バカだったせいで。君から大切なものを奪ってしまった。私の無駄に肥大化した功名心が、君という名馬を潰してしまった。
頭の中に響き渡る声。あの日、みんなの悔恨の声が、いつまでも響いてくる。
「なにが馬優先主義だ、何が馬のためにだ! 馬に背負わせてまで、俺は何をやっている!?」
一雄さんの後悔。
「ごめんなぁ……ごめんなぁ、カイザー! 痛いよなぁ……!」
春陽さんの涙。
「僕は、止められなかった……彼を、止めることができなかった」
隆君の悔恨。
「俺がついていたっちゅうのに、なんてことをやってしもうたんやっ」
「私が、この話を持ち出さなければっ!」
世戸口さんと金田さんの叫び。どれも鮮明に覚えている。
違うんだ。全て私が悪いんだ。私が、あの時自分の全能感に酔いしれていなければ、彼を止めるだけの理性を働かせていたら、止められたことだったんだ。
みなが気に病む必要なんてない。全て私のせいだ。私が、もっと上手くやれていれば。
……いいや、違う。もっと別の問題だ。
根本的なこと。全てが腑に落ちる答え。
(私のワガママで、ハレヒノカイザーに騎乗していなければ)
彼が壊れることも、みなが絶望の淵に立たされることもなかったのだ。
◇
目が覚める。何度見たか分からない悪夢に、涙を流す。
「すまない、カイザー……」
これも何度目か分からない、カイザーへの謝罪の言葉。すでに慣れきってしまった、私の新たなルーティーン。
無論彼を責める気など微塵もない。全ては私のせいであり、彼の落ち度など1ミリもないのだから。
いつものようにジョギングをし、朝食を食べ、家族との時間を過ごす。騎手時代はあまり取れなかった時間、引退した今ならばいくらでも取ることができる。
子供の学校行事には参加できなかった。けれど今ならば参加できる。子供を喜ばせてやれる、妻と一緒に楽しい時間を過ごすことができる。
それら全ては、カイザーの犠牲で成り立っているのに?
……それでも、私の心には深い影が落ちている。
どれだけの時間を過ごそうと、あの凱旋門賞の一件は消えない。私がやってしまったこと、騎手人生最大の後悔はいつまでも残り続けている。
(忘れるわけにはいかない。私が、彼の今後を壊してしまったのだから)
ハレヒノカイザーが無事であることは、一雄さんから知らされていた。手術は無事に成功し、術後は順調であることも教えてもらっていた。
ただ、会いに行こうとは思わなかった。彼も、私の顔など見たくもないだろう。
「いや、彼は優しい。こんな私でも、彼は嬉々として会ってくれる」
笑顔で駆け寄ってきて、楽しそうに私の顔を舐める。無邪気な子供の様に、私に親愛の情を抱いてくれる。優しい彼ならば、きっとそうする。
けれど、私が彼の情を受け取るわけにはいかないのだ。私のような人間が、彼に会うわけにはいかないのだ。
もう競馬に携わる気はない。私を慕ってくれるみんなから何度も懇願されているが、戻る気はさらさらない。
「それだけ、私のしでかしたことは大きいのだから」
最近ではめっきり見なくなったが、マスコミからも随分と非難されたものだ。
【名手の凋落。なぜ凱旋門賞の悲劇は起きたのか】
凱旋門賞の騎乗は私の責であり、私以外が騎乗していれば防げたことだと、随分なことを言われた。
もっとも、騎手は全員この記事に反論していた。
「岡邉さん一人に責任を負わせるのは間違っている」
「全ての怪我を予見できるはずがない」
「勝手な誹謗中傷は控えてほしい。信用問題にかかわる」
優しい彼らは、私のことを庇っていた。嬉しくは思いつつ、申し訳なさも覚えた。私のような人間を庇う必要はないというのに。
凱旋門賞から帰国してしばらくは、どこの新聞も誹謗中傷の記事が多かった記憶がある。特に、ディープインパクトを管理している生江厩舎と私に関するものが占めていた。
ただ、そんな記事も最近は見なくなった。記事の旬が過ぎたから、というわけではなく。
「見て。また捕まったそうよ」
「あぁ、またか」
JRAによる大粛清があったからだ。事実無根の誹謗中傷の記事に対し、JRAはマスコミを提訴し続けていた。すでに何件も訴えられていることから、JRAの本気具合が伺える。
良くも悪くも、凱旋門賞の影響は大きい。こうしてまだ、残っているのだから……ッ!
(待て、どういうことだ)
流れで新聞を眺めていると、一面に目を疑うような文言があった。どうせ嘘だと、これも冗談に決まっていると思いつつも。
「すまない、少し電話してくる」
「はーい、いってらっしゃーい」
音を立てて歩き、いつもより早い歩様で電話へと向かった。
番号を入力し、問題の相手へと電話をする。相手は、数回のコール音の後に出てきた。
《もしもし》
「一雄さん、これはどういうことだ?」
《……岡邉か》
かけた相手は一雄さん。ハレヒノカイザーを担当している調教師で、随分と長くお世話になった人。
《随分と久しぶりのように感じるな》
「あぁ。けど、今は懐かしんでいる余裕はない」
しかし、それでも許せないことはある。気づけば声を荒げ、彼に対し強い言葉で問いかける。
「どういうつもりだ、一雄さん!」
《何の話だ。何を言いたいのか分からん》
「とぼけるな!」
私が先ほど見た新聞。書かれていたのは。
「なぜハレヒノカイザーを有馬記念に出走させる!? 血迷ったか!」
《その件か》
「答えろ! 今更、功名心に駆られるわけでもなければファンの声に流されるあなたではない! 何を考えて出走に至った!?」
ハレヒノカイザーが有馬記念の出走を考えている記事。まだ随分と先のことだが、年内に後一回だけ走るという言葉とともに、有馬記念が最有力候補であることが明かされていた。
信じられないことだ。あれほどのことがありながら、なぜハレヒノカイザーを出走させるのか? それが一雄さんならばなおさらだ。考えられないことだった。
「カイザーは、もう十分に頑張った! だからもう走らなくてもいいだろう!」
《あぁ、そうだな。カイザーは十分に頑張ってくれた。休んだって許される》
「そうだ。彼はその身を犠牲にしてまで凱旋門賞を取ってくれた。レースに出なくてもいいだろう。なのになぜだ!」
どうしてまだ頑張らせようとするのか。人間のエゴを押し付けようとするのか。私にはまるで理解できない。
「答えてくれ一雄さん。なんで──カイザーをまだレースで走らせる!」
大きな声で一雄さんを糾弾する。馬のことを考えていないのかと、これ以上頑張らせて何の意味があるかと問いかけた。
一雄さんは、たった一言。
《ハレヒノカイザーがそれを望んだからだ》
そう告げた。
どういうことだ。カイザー自身が、レースで走ることを望んだだと?
「ありえない、そんなことが!」
《本当のことだ。ハレヒノカイザーがレースで走ることを望んでいる。これは春陽さんに聞いても、壬生に聞いても同じ答えが返ってくる》
「だとしても、それを止めるのがあなたたちの役目だろ!」
《無理だ。彼の強い意志を前にして、止めるなんてことはできなかった》
私の言葉に、淡々と答える一雄さん。
そんな彼を、私は責め立てる。
「これ以上頑張らせてなんになる! 彼が幸せになるのを、邪魔するつもりか!?」
「十分に頑張った、もう休んだっていいはずだ! 私達人間のエゴで、彼の自由を奪うなどあってはならない!」
「なぜだ! どうして走らせる!?」
まくしたて、矢継ぎ早に言葉を浴びせる。相手のことなどお構いなしに、ありったけの思いをぶつける。
ハレヒノカイザーは引退させるべきだ。これ以上レースを走らせるべきではない。私が主張したいのはそれだけだ。
今ならまだ間に合うかもしれない。一雄さんを説得して、今からでも引退させるべきだ。種牡馬としての活動は来季からになるだろうが、それまでの間は牧場で休養させるべきだ。そう主張し続ける。
だが、その言葉は。
《お前に何の関係がある?》
「……なに?」
《ハレヒノカイザーから逃げたお前に、何の関係があると聞いているんだ》
たった一つの言葉で、全て瓦解した。
「逃げ、た? 私が?」
《そうだ。ハレヒノカイザーが復帰するかどうかの確認もせずに騎手を引退。それから一度も会うことはせず、無事という報告を聞いても言葉だけで済ませていた。これを逃げたと言わないでなんと言うんだ?》
「わ、私は! カイザーのためを思って!」
《カイザーのためを思うならば、彼の安否を確認するまで待てばよかっただろう。それすらも確認せずに、お前は全てから逃げた》
今度は私が責められる番となる。私がカイザーから逃げたことを糾弾される。
無論、私は逃げたつもりは微塵もない。カイザーに大ケガを負わせてしまった私に騎手を続ける資格などないのだから、これは当然の判断だと納得していた。
《あの場にいなかったお前には分からないが、ハレヒノカイザーは走ることを強く望んでいる》
しかし、一雄さんの言葉は。
《幸せを願うならば、カイザーがやりたいことをやらせるべきだ。カイザーが走ることを望むのならば、我々は全力でサポートする。それが正解の道だ》
私の主義主張を全て。
《それに、なんで俺達が彼の幸せを決めつける? ここで引退することがカイザーの幸せだと決めつける?》
真っ向から反対していて。
《それこそが! 俺達人間のエゴじゃないのか!》
なにも、反論することができなかった。
「幸せを決めることが、私達のエゴ……」
《そうだ。カイザーがレースで走ることを望んでいるのに、それを否定するのは我々のエゴに他ならない》
「……っ」
《それに、壬生からも言われたよ。これまで私達のワガママを押し付けてきたのに、カイザーのワガママを聞かないのは違うだろ、とね》
その通りかもしれない。いや、だとしても。
(それでも、出走させるのは)
相応のリスクが伴う。ダメかどうかといわれたらダメなこと、そんなことは一雄さん達が一番よく知っているはずだ。
けれども、一雄さんは主張を曲げない。カイザーを出走させるつもりでいる。
《カイザーから逃げた、というのは謝罪する。誰もお前の判断を責めることはできない、私も逃げようとしたのだから》
「一雄さんっ」
《だが、カイザーは出走させる。まだ未定だが、必ず年内のレースを走らせる。誰が何と言おうと、俺は突き進む覚悟を決めた》
言葉から感じる強い意志。私は、気づかされる。
(一雄さんは、前を向いているのか)
あの日の悲劇を乗り越えて、一雄さんは進もうとしている。下を向くことを止めて、前へ前へと行こうとしている。私とは違って。
強い人だ。そう思う私の耳に。
《だから──必ずお前も見に来い。ハレヒノカイザーのラストランを、お前は見に来るべきだ》
「……えっ?」
カイザーのラストランを見に来いと、一雄さんの言葉が入ってきた。
私が? カイザーのラストランを?
「……冗談だろう。私が見に行くなど、許されるはずがない」
《誰がお前を許さない? お前は見に来るべきだ、絶対に。これまでカイザーに騎乗していたからこそ、見に来る必要がある》
そうは言うが、私はカイザーの骨折を起こしてしまった張本人だ。誰もいい気はしないだろう。
なのに、一雄さんは私を熱心に誘う。カイザーの最後の舞台を観戦に来いと、絶対に見に来いと言ってきかない。
《いいか? 絶対に見に来い。これから1ヶ月ごとに確認の電話をするからな》
「いくらなんでもマメすぎるだろ!?」
《知らん。そうでもしなければ、お前は忘れたと言う可能性があるからな》
よほど私に見に来てほしいのだろう。一雄さんは、最後まで見に来いと言い続けていた。
《ハレヒノカイザーは、お前に伝えたいことがある》
最後に、一雄さんはそれだけ告げて電話を切った。ツー、ツー、という無機質な電話の音が、私の耳に入ってくる。
置くこともせず、ただ突っ立って先ほどの言葉を反芻するのみ。ハレヒノカイザーのレースを見に来いという、一雄さんの言葉を。
「……どの面下げて、彼のレースを見ればいい?」
私の言葉に答えてくれる人は、誰もいない。
幸せを押し付けることがエゴに過ぎない。誰かの幸せを、他人が決めつける権利はない。
岡邉さんは今後どうするのか。この後本当に1ヶ月ごとに電話されることに何を思うのか。