有馬記念前夜。私は自宅で、まだ迷っていた。
「明日の有馬記念に、カイザーが出走する」
デビューからずっと騎乗していたお手馬。シンボリルドルフのような月の流星に、賢さも併せ持ったカイザーのことを考える。
誰にも鞍上を譲りたくなかった。しかし、彼に無理を強いてしまった自分にはもう騎乗する資格がないと、私は彼の下から離れる判断をした。
もう走ることはないだろうと思っていた。このまま種牡馬入りして、彼の子供たちの活躍を遠くから眺めていよう。それくらいは許されるはずだと、そんなことを考えていた。
でも、出走する。カイザーは、明日の有馬記念に。
「得票数15万票。これだけの人が、カイザーの走る姿を見たいと思っているのか」
ただ、勝利を信じているのはごく少数だろう。それが私の推測である。
当然だ。ハレヒノカイザーはかなりの期間レースを走っていない。最後に走ったのは凱旋門賞、そこから1年後の有馬記念に直行である。
まともな判断ができる人ならば、まず無理と断言する。いくらトウカイテイオーの息子とはいえ、これは無理だと声を揃える。
彼の強さならば問題なくこなせるし、勝ちにも絡めるだろうが……それでも厳しいものがある。
(彼の勝利を疑っているわけではない。それでも)
「観にいくべきか……」
私は、まだ迷っている。彼のラストランを観にいくことを、躊躇している。
万が一にも負ける姿を見たくない、もし自分が騎乗していれば、などという幻想を抱きそうになるから、彼のレースを観るのが怖い。
女々しい? なんとでもいえばいい。私にとってハレヒノカイザーの存在は、あまりにも大きくなりすぎた。
葛藤。頭によぎるのは──一雄さんの言葉。
「ハレヒノカイザーは私に伝えたいことがある、か」
初めてカイザーの復帰を聞いたあの日から、一雄さんは本当に1ヶ月ごとに電話をかけてきた。
その度に、彼は言うのだ。カイザーは、私に伝えたいことがあるのだと。
ケガをさせてしまったことの恨み言だろうか? 私に対する侮蔑だろうか? 想像するだけで震えが止まらない、それと同じくらい、仕方ないと思わざるを得ない。
「彼は私に、何を伝えようとしているのか」
想像ができない。受け取るのが、怖い。
結局観にいくのは止めようか、そんなことを考えている私に。
「観にいきましょう」
「えっ?」
「観にいきましょう? あなたの相棒の、最後なんでしょ?」
妻からの後押しが入った。
「あなたがハレヒノカイザーを気に入ってるのは知ってるわ。あの事故が、どれだけの影響を与えたのかも」
「……すまない」
「いいのよ。支えるのが私の役目ですもの」
妻は、私にレースを観に行くべきだと主張する。カイザーのラストランを、見届けるべきだと。
「行きましょう。年末の中山に、あなたの相棒の雄姿を見届けに」
「……」
「ハレヒノカイザーだって、きっとあなたを待っているわ。そういう子でしょう?」
私が競馬場に行くための後押し。
今でも怖い。カイザーは私を恨んでいないだろうかと、カイザーがまた同じようなことになるんじゃないか? と考えたら、脚が竦んでしまう。
同じくらい、観たい気持ちがある。デビューからずっと乗り続けてきた相棒のラストラン、観にいかなければ一生後悔する。
悩んで、悩んで。永遠にも近い時間を感じて、私は。
「……分かった。観にいくよ」
有馬記念を観戦すると、決めた。
◇
12月23日。中山競馬場の朝は雨が降っていた。
「なんとなく不吉だよな」
「あぁ、なにか起こるんじゃないかって不安になる」
雨は人の心を不安にさせる。曇天が、不吉なことの前触れではないかと考えていた。
それでも、ファンは足を運んだ。かつて凱旋門賞を駆け抜けた【太陽の皇帝】ハレヒノカイザー、そのラストランを見届けるために。
「これが、カイザーの最後のレース」
「……ううん! どんな着順でも、笑って見届けなくちゃ!」
勝利を信じているファンは少ない。ファン投票数も1位ではあるものの、当日の人気は5番人気。そのほとんどが応援馬券だ。
無事に走り切ってくれるだけでいい、どうかケガすることなく完走してくれ。それがファンの願いであり思い。
そんな願いと思いを背負って、ハレヒノカイザーは出走する。
第52回 有馬記念
| 枠順 | 番号 | 馬名 | 性齢 | 人気 |
1 | 1 | メイショウサムソン | 牡4 | 1 |
1 | 2 | ドリームパスポート | 牡4 | 8 |
2 | 3 | マツリダゴッホ | 牡4 | 10 |
2 | 4 | ダイワメジャー | 牡6 | 7 |
3 | 5 | レゴラス | 牡6 | 16 |
3 | 6 | ポップロック | 牡6 | 2 |
4 | 7 | ダイワスカーレット | 牝3 | 6 |
4 | 8 | ロックドゥカンブ | 牡3 | 4 |
5 | 9 | サンツェッペリン | 牡3 | 15 |
5 | 10 | コスモバルク | 牡6 | 13 |
6 | 11 | インティライミ | 牡5 | 9 |
6 | 12 | デルタブルース | 牡6 | 11 |
7 | 13 | ハイアーゲーム | 牡6 | 14 |
7 | 14 | チョウサン | 牡5 | 12 |
8 | 15 | ウオッカ | 牝3 | 3 |
8 | 16 | ハレヒノカイザー | 牡5 | 5 |
午後になると雨は上がった。微かに陽光が差し込んでおり、どことなく安心感を覚えるファンも少なくない。
この日中山競馬場に駆けつけたファンの数は約16万人。中には日本調教馬初の凱旋門賞馬を一目見たいというファンもいる。
「もうすぐ有馬記念。馬場はどうなんだろう?」
「朝は雨だったし、良馬場はなさそうだよな。2つ前が稍重だったから、多分稍重だと思うけど」
馬場のことを考えるファンもいれば。
「カイザーまだかな? もうすぐかな?」
「本当に出走するのだろうか……?」
ハレヒノカイザーを探すファンに、いまだに夢を疑うファンもいる。様々な人の夢と思いが、この中山競馬場に集まっていた。
そして、時が来る。パドックでの入場、その中に──ハレヒノカイザーの姿があった。
「カイザーだ……カイザーだッ!」
「ハレヒノカイザーがいる!」
思わず大きな声を上げそうになるファン。それを必死に我慢して、ハレヒノカイザーの姿を目に焼き付ける。
あの日沈んでしまった太陽が、いつも明るく照らしていた日輪が、輝きが帰ってきた。ファンは感激の涙を零しそうになる。
馬体は特に異常なし。パドックの様子を観察するファンは、
「ん? 手綱の色が、ちょっと違う?」
「あの色……もしかして、ラインクラフトの色と一緒?」
騎手である岳が掴んでいる手綱。よく目を凝らさないと分からないが、その色はかつてラインクラフトが使用していた手綱と一緒だった。
普段とは違う色の手綱。仲が良かった2頭のことを思い出し、ファンは僅かに色めき立つ。
「きっとラインクラフトが力を貸してくれる」
「ハレヒノカイザーを後押ししてくれる!」
プラス方向に考えていた。
パドックの周回を終えて、各馬が中山競馬場の芝コースに姿を見せ始める。
《この日を迎えました、第52回有馬記念。英雄が緑のターフを駆け抜けた衝撃から1年が経ちました。天皇賞春秋連覇の馬、64年ぶりの牝馬のダービー馬、G1を3勝の牝馬、G15勝の牡馬、さらには凱旋門賞馬も出走する超豪華メンバーでの出走となります。G1馬は実に7頭、どのようなグランプリになるのか?》
実況が各馬の紹介を進める中、最後の馬が、ハレヒノカイザーが姿を見せた瞬間、スタンドは大歓声に包まれた。
《ついにその姿がターフに現れました、日本初の凱旋門賞馬ハレヒノカイザー! かつて沈んでしまった太陽が、この中山競馬場で凱旋を果たします! 本来ならば彼の姿はなかった、しかし俺はまだまだ走れるぞと、そう主張しての有馬記念出走! どんなレースを見せてくれるのか? いや、どうか無事に走り切ってくれと、ファンは願います》
すでに涙交じりの声になりつつある実況。ハレヒノカイザーがもう一度走る姿を見れる、それも日本の競馬場で。それだけで感涙ものだと、声を上げる。
ファンも同じだ。
「本当にカイザーが出走するんだ」
「カイザーが、太陽の皇帝が日本のターフに戻ってきたんだ!」
フランスで沈んだあの日、栄光と悲劇が同時に襲ったあの日を乗り越えて。ついに日本のターフに戻ってきた。
誰もがカイザーの名前を口にする。しかし心のどこかでは理解していた。
「あの日の力を十全に発揮できるわけがない」
確かに、あの凱旋門賞は凄かった。伝説とも呼ぶべきレースであり、レコードは永遠に塗り替えられることはないだろうと、欧州の調教師が口を揃えるほどの強さを見せつけた。
だが、ケガをした。それも複雑骨折、ターフに戻ってきたのが奇跡なほどの重傷を負った。
走りに影響が出ないわけがない。本来の実力を発揮できるはずがない。
さらにはメンバーもメンバーだ。
《先ほど言ったように、今回の有馬記念は超豪華メンバー。クラシック二冠、天皇賞春秋連覇のメイショウサムソンが1番人気を取りました。さらには二冠牝馬のダイワスカーレット、エリザベス女王杯も勝って勢いに乗っています。デビューからの連対記録は継続中!》
《ダービー馬のウオッカも外せませんね。8番枠が気がかりですが、後輩ダービー馬の意地を見せてくれることでしょう》
《そして、G1を5勝のダイワメジャー! ダイワスカーレットの半兄、マイラーではあるがこれくらいならこなせると陣営は太鼓判。今回で引退が決まっているダイワメジャー、どのような走りをしてくれるのか? さらにはコスモバルク、デルタブルースといった古強者も外せません。特にデルタブルースはステイヤー、注目が集まります》
G1馬がハレヒノカイザー含めて7頭いる有馬記念。1年と長い間戦線から離れていたハレヒノカイザーにとって、勝つのは厳しいだろう。
「メイショウサムソン、秋天やジャパンカップは岳が騎乗してたのに、今回は石走なんだな」
「なんか先約だったらしいぞ」
「だとしても、よく騎乗しようなんて思ったよなぁ。俺だったらプレッシャーヤバくて乗れねぇよ」
勝ちの目が薄く、勝利が難しい。下手な騎乗をしようもんなら怒号が飛ぶこと間違いなしの爆弾。競馬ファンは、岳隆に対しある種尊敬の念を抱いていた。
順調に進む中で、ファンファーレが響き渡る。決戦の時が近づいていた。
ハレヒノカイザーは大外枠。一番最後に入る。
ゲート入りを待っている中、ハレヒノカイザーに騎乗する岳は、カイザーの首を優しく撫でる。
「落ち着いているね、君は。なにも気にしていないみたいだ」
「ブルル」
普段と何ら変わらない様子のカイザー。どこであっても関係ない、レースも泰然自若とした態度で臨む彼に、岳は頼もしさを覚えた。
岳は、カイザーに指示する。今回の作戦を。
「いいかい、カイザー。僕は君の邪魔をしない、君も僕のことを考えなくてもいい」
言葉を交わせるわけではない。伝わっているかも分からない。
それでも、これまでの道でできる限り心を通わせてきた。きっと、言葉や意図が伝わるはずだ。そう信じて、岳は指示を出す。
「君が思う一番強い走りをするんだ。君の強さを、みんなに見せてやれ」
岳の言葉。ハレヒノカイザーは。
「ヒヒィン!」
一つ鳴いて、応えた。
分かった
そう言わんばかりに。
そして、ハレヒノカイザーの番がくる。係員に誘導され、ハレヒノカイザーはゲートに収まった。
《中山競馬場、芝2500m。馬場の状態は稍重の発表。今、大外枠のハレヒノカイザーがゲートに収まりました》
先ほどの喧騒から一転、中山競馬場は静寂に包まれる。
いまだ顔を見せない太陽、雲に覆われた先にいるだろう太陽は、どのような結末を照らし出すのか?
《全馬無事に完走を。人々の願いを背負って今っ》
静かな空気を切り裂いて。ガコンっ、とゲートが開く音が響き渡る。
刹那。
《スタートしました……ッ!?》
誰もが目を疑った。
「おい、嘘だろ!?」
誰もが夢であってくれと願った。
実況や解説ですらも、今の状況を飲み込むのに時間がかかる。どうか止まってくれと、始まったばかりなのに思わずにはいられない。
大外枠。かつての光景を思い出させるように。
《は、ハレヒノカイザーが飛び出している! これはハレヒノカイザーの代名詞ロケットスタート、他馬よりもさらに一歩早く、誰もよりも速く駆け出している! ま、まさかこのままいくのか!? このまま逃げる気かハレヒノカイザー岳隆! そんなことで、果たしていいのか! ハレヒノカイザーが単独抜け出したァァァ!》
ハレヒノカイザーが一気に駆け出していた。外回りの第3コーナーからスタートした有馬記念、一気に先頭を奪いにかかる。
悲鳴。中山競馬場は悲鳴に包まれる。
当然だ。この飛び出しで、思い出したくもない光景を思い出させられるのだから。
凱旋門賞。あの日の景色が。誰よりも速く駆け抜け……そして、散っていった記憶が甦る。
悲鳴が上がろうがレースは止まらない。ハレヒノカイザーは一気に先頭を奪うと内へ内へと進路を取る。第4コーナー走る頃には、すでに最内を陣取ることに成功していた。
ダイワスカーレットとチョウサンが果敢に攻める。ハレヒノカイザーに並ぼうと競りかけてきた。
2頭は並んで走ってくる。闘争心を煽られ、自分が前を走ると突き進んでいく。
ハレヒノカイザーは──スピードを落とした。目的は達成した、そう言わんばかりに。
これで大丈夫。問題ない
そうだ。これでいいカイザー
人馬共に焦りはない。有馬記念が、最後の戦いが──始まった。
初手からトラウマを思い出させるレース展開。しかし突き進む。これこそが最善の道と信じて。