同世代のUMAさん   作:カニ漁船

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運命のラストラン。


第52回有馬記念・後編

 スタートから悲鳴が上がった有馬記念。原因となったハレヒノカイザーは現在、4番手でレースを進めている。

 

《まもなく第1コーナーのカーブ。先頭を走るのはチョウサン、チョウサンが先頭を走ります。競りかけるダイワスカーレットが2番手、すぐ後ろにはサンツェッペリンとハレヒノカイザーがつけている。ハレヒノカイザーはこの位置につけた!》

《逃げるのではなく、最内を取るためのロケットスタートでしたか。ホッと一安心ですね》

《好位置につけたハレヒノカイザー、すぐ後ろにはマツリダゴッホが追走。1番人気のメイショウサムソンはウオッカの後ろ、後方から2番手の位置でレースを展開しています》

 

 逃げるチョウサンに競りかけるダイワスカーレット。逃げ馬2頭はハレヒノカイザーの飛び出しにあてられたのか、掛かっている。

 無理もない。気性の関係で自分が先頭でなければ気が済まない馬からしたら、自分よりも前を走る存在がいるのは我慢ならない状況だ。すぐにでも追い越したいと走るだろう。

 その状況を、ハレヒノカイザーは作り出した。他馬よりも一歩先にスタートする技術、他馬よりも優れた加速力によって可能にした。

 ジョッキーたちは戦慄する。

 

「ハレヒノカイザーは全く衰えていない」

 

 ケガ明けでこのスタート。レース勘が鈍っていないと、気持ちが切れていないと確信した。

 加えて、最内を取ったら自分はさっさと下がる。これもまた凄い。

 なにがなんでも前に行くスタイルではない。競りかけたところで、ハレヒノカイザーは揺らがない。

 

「自分たちが相手にしているのは、本当にケガ明けの馬か?」

 

 そう思わせるほどの圧があった。

 

 

 序盤、コーナーを曲がるまでは4番手でレースを進めていたハレヒノカイザー。

 後方から上がってきたマツリダゴッホの競りかけに応じることなく、最内で淡々とレースを展開する。

 第1コーナーを過ぎると、ペースはやや落ち着いてきた。

 

《第1コーナーから第2コーナーへ。先頭を走るのはチョウサン、そしてダイワスカーレットこの2頭がペースを握ります。わずかに早いペース、1分を切ろうかというタイムで最初の1000mを通過しました》

《チョウサンもダイワスカーレットも掛かっていますね。落ち着きを取り戻したいところですがっ》

《後ろからサンツェッペリンとマツリダゴッホが上がってくる。3番手にサンツェッペリンとマツリダゴッホの2頭。ダイワスカーレットから遅れること1馬身で2頭が並んできた。マツリダゴッホがハレヒノカイザーの前を走る、ハレヒノカイザーは5番手だ》

 

 ハレヒノカイザーの後ろはデルタブルース、コスモバルク、ポップロックにダイワメジャーと続く。縦に長い馬群を形成しており、外から捲りやすい状況だ。

 無理に先頭を奪おうとはしない。堂々とした、ゆったりとした走りで先行気味に立ち回る。

 観客は、安堵の息を吐いた。

 

「よ、よかったぁ。一時はどうなることかと思ったけど」

「でも、ケガ明けであのスタートはヤバいだろ。もしかすると」

 

 衰えていない技術、ハレヒノカイザーはいけるんじゃないか? と、淡い期待を抱く。

 だが、それでも不安は拭えない。

 

「前までは、もっと速かったよな?」

「あぁ、やっぱり気のせいじゃなかった」

「スピードが、格段に落ちている」

 

 序盤の展開は、技術と加速力でどうにかなった。

 問題は中盤以降。他馬よりも優れた巡航速度を展開することで、これまでのレースを勝ってきたハレヒノカイザー。そのスピードが衰えていると、そう感じてしまう。

 ケガの影響がモロに出ている、ついていくだけでも精一杯ではないか? 不安が頭から離れない。

 

「やっぱり無理なのかな?」

「バカ、出走してくれるだけでもいいだろ! こうして走る姿を見れるだけでっ」

「けど、やっぱり……」

 

 スタンド前では3番手だったハレヒノカイザー。向こう正面に入った今はもう6番手、7番手まで順位を落としている。

 脚を溜めているのか。それすらも分からない。溜めたところで、発揮できるかどうかさえも。

 

「カイザー……」

 

 不安を隠すことができず、名前を呟くファン。勝利は無理なのかと、奇跡は起きないのだと、そう思い込んでいる。

 ──しかし、ファンは気づかない。

 ハレヒノカイザーのペースが遅いのではなく、周りのペースが速いのだと。

 今日の馬場は稍重であり、十分に早いペースであること。

 ハレヒノカイザーはずっと最内をキープし続けていること。

 最小のリスクで、最大の効果をもたらそうとしていることに、ファンはまだ気づいていない。

 

 

 そして、不安を隠せないのはファン以外にも。

 

「ハァ……ハァ……っ!」

 

 ハレヒノカイザーに騎乗する岳隆。彼もまた、()()()()()に苛まれていた。

 

 

 

 

 

 

 今日は、一段と濃く感じている。ずっと前を走って、僕らを追いつかせまいと走る幻影。

 

(スズカっ、待ってくれ、スズカッ!)

 

 かつての相棒が、僕の手で散らせてしまった相棒が、今前を走っている。

 僕が作った幻なんてことは分かっている、都合の良いまやかしなんてのは百も承知だ。

 けれど、今こうして僕らの前を走っている。

 

追いつけ

 

 そう言わんばかりに、こちらを睨みつける幻影。

 思わず手綱を緩める。鞭を入れそうになる。

 

「ぐ、うぅっ!」

 

 それだけは絶対にしないようにと、自分を殴りつけようとしてでも止める。

 レースの初めから変わらない。追いつけと主張する幻影に対し、僕は鋼の理性で手綱を緩めない。

 

(追いつけば答えを得ることができる)

 

 スズカがなにを伝えようとしているのか、それが分かる。あの幻影に追いつくことができれば、きっと。

 

(そのために、僕はカイザーに騎乗したんだろう?)

 

 依頼を受けたのも、スズカをより強く感じることができるから。カイザーを選んだ理由はそれだけだ。

 あの幻影に追いつけばきっと、スズカに追い越せば、僕は……ッ!

 

「ク、ソぉっ!」

 

 ダメだ、余計なことを考えるな。

 今僕が騎乗しているのは? サイレンススズカじゃない、ハレヒノカイザーだ。

 確かに動機は不純だったかもしれない。けれども、ここに来るまでの間、信頼関係を築き上げてきた。

 

(カイザーは、こんな僕でも受け入れてくれたんだ。その期待をっ!)

「裏切るわけにはいかないっ。カイザーの、富士澤さんたちの期待を!」

 

 緩めそうになる。必死に耐えて、カイザーに騎乗する。

 僕が耐えるほどに、スズカはもっと強く主張する。なにかを伝えようと、僕を連れて行こうと圧が増していく。

 

《まもなく第3コーナーのカーブ! ここでウオッカだ、ウオッカが上がってきた! 早々にウオッカが上がってくる、先頭はチョウサンとダイワスカーレット譲らない! 3番手はマツリダゴッホ、マツリダゴッホが3番手。ハレヒノカイザーはまだ7番手に控えたまま! 進路がなくなる前に抜け出したい内側だ!》

《岳隆はまだ動かない様子。このままだと本当に進路がなくなってしまうぞ!》

《岳隆はまだ手綱を動かさない、まだ動かない! さぁ~各馬が一斉にペースを上げ始めてきた。逃げるチョウサンそしてダイワスカーレット。先頭の競り合いもずっと続いてきました、それでもまだ粘っている!》

 

 スズカ、君は僕に何を伝えたいんだ? そんなに主張してまで、君は僕に何を伝えたい!

 

(やっぱり、僕を恨んでいるのか?)

 

 君を死なせてしまった僕を、軽蔑しているのか?

 走るのが好きだった君から、走るのを奪ってしまった僕を、憎んでいるのか?

 だからこそ、僕を君と同じところに連れて行こうとしているのか?

 考えれば考えるほどに、スズカは僕を恨んでいるのではないか? と考えてしまう。

 

(当然だ。僕は、恨まれて当然のことをしたのだから)

 

 それだけのことをした、許されないことをした。その自覚はある。

 事故のようなものだった。そう片付けるのは簡単だ。

 けれど、僕にやれることはもっとあったはずだ。僕がもっと上手くやれていれば、スズカはあぁならずに済んだ!

 

(僕が原因を作ったんだ)

 

 あぁそうだ、やっぱりスズカは僕を恨んで……っ!

 

(っ、なんだろうか)

 

 思考がどんどん底に向かいそうになる。暗い気持ちに支配されそうになる。

 そんな時。僕は──温かさを感じた。鞍から、熱を通して伝わってくる。

 

もっと耳を傾けて

 

 優しい声が、聞こえてきたような気がした。

 心が落ち着く。底に沈む僕は、引っ張り上げられる。

 いいや、違うな。底に沈む僕を、照らしている。

 

(君、なのか? カイザー)

 

 今日騎乗している馬が、スズカに似た彼が。底に沈もうとしている僕を照らしているような、そんな気がした。

 

優しい子だったんでしょ? もっと聞いてあげて

 

 僕に伝えようとしている。

 

きっと恨んでなんかいないよ

 

 さっきまでは、ずっと悪いことばかりを考えていた、はずなのに。

 不思議と、暗い気持ちがどんどん照らされ晴れていく。あれほどあった負の感情が、どんどん消えてなくなっていく。

 カイザーの熱を通して伝わってくる温かさ。彼の温かさが、僕を守っているような、そんな気がする。

 

(カイザー……)

 

 今も一生懸命に走っている。常に考え、レースを支配し、今できる最善の手を打ち続けている。

 本当なら、すぐにでも飛びだせるだろう。もっと前で展開することもできるだろう。

 けど、彼はそうしない。それはきっと。

 

(僕を待っているのと、これが最強と信じているから、だろうね)

 

 僕が苦しんでいるのを知っている、分かっている。

 だからこそ、僕が苦しみから解放されるその時を待っている。

 

頑張って、岳さん

 

 っはは、君は、本当に。

 

(優しい子だっ)

 

 先ほどよりもクリアになった視界。あれほど狭まっていたのに、僕の視界は開けていた。

 スズカの幻影も、感じている。先にいるけれど……状況が全く違う。

 ()()()()()。スズカの幻影は、僕が追いつくのを待っていた。

 いきなりどうして? そう思うけれど、幻影から通して伝わってくる感情が──僕に答えをくれた。

 

(あぁ、なんだ)

 

 どうして似たような走りをするハレヒノカイザーを見て、君は現れたのか。

 今まで見えなかったのに、見えるようになったのか。

 カイザーがいることで、より強く感じたのか。

 

(見えない時もきっと、君は僕を見ていたんだろう)

 

 幻影を通して伝わってくる感情。僕を恨んでいるとか、憎んでいるとかそういうものじゃない。

 

(スズカ、君は)

 

 スズカが僕に伝えたいことは。

 

大丈夫? 隆さん

ずっと僕を、心配してくれていたんだね

 

 自分と似たカイザーを見ることで、僕が気に病んでしまわないか。だからこそ君は、僕の前に幻影として現れた。

 また僕が自分を責めてしまうんじゃないか。だからこそ君は、こうして僕の前に出てきたんだ。

 僕が心配だから。優しい君は、最悪の事態になるんじゃないかと思ってきたんだね。

 そうならないために。絶対に止めなきゃいけないと思ったからこそ、君はこうして現れた。

 

(僕はそれを、ふいにしようとしてたのか)

 

 彼の優しさを忘れて、自分が楽になるために逃げようとした。自分が悪いと責め立てて、楽な方向に舵を取ろうとした。

 この罪は背負うべきもの。けれどそれは、下を向くためなんかじゃない。

 

(上を向くために、僕は背負わなきゃいけない)

 

 カイザーがそう教えてくれた。みんなを明るく照らす太陽が、前を向くべきだと教えてくれたんだ。

 だから、かつての相棒に──さよならをしよう。

 

大丈夫だよ、スズカ。僕はもう、大丈夫だ

 

 手綱を緩める。今走っているカイザーをしっかりと認識して、僕はしっかりと手綱を握る。

 幻影はどこか。

 

──頑張って、隆さん

 

 薄く微笑んだ、ような気がした。

 

 

 状況を整理しよう。現在僕らは7番手、下手したらもっと下がっている。

 

(カイザーはスタミナがある方じゃない。瞬発力はあるけど、持続力がない)

 

 判断を誤るわけにはいかない。

 まずは周りに合わせていたペースを戻す。一つ目のギアを解放だ。

 

もっと先に行こう

分かった

 

 カイザーはすぐに動いた。僕の気持ちが、手綱を通して伝わっているのかもしれない。そう思うほどの動き出し。

 

《第4コーナーの中間。後方からウオッカとメイショウサムソンが上がってくる、後続がぐんぐん差を詰めてくる! 逃げるチョウサンとダイワスカーレット、ダイワスカーレットが内側有利か? マツリダゴッホは外から上がる、最内をキープして走るダイワスカーレットの内をこじ開けることを諦めて外を回る!》

《おっと、ここでハレヒノカイザーが動きましたよ!》

《さぁこれで最内はハレヒノカイザーとダイワメジャー、2頭が上がってきています! しかし前は壁、外に抜け出したいところだ!》

 

 前は壁。けど、どうしてだろうか?

 きっと空く。そう直感が働いた。

 なにより、カイザーが外を走りたがらない。ならば、僕が邪魔をする道理はない。

 

(それにしても、君は本当に凄いね)

 

 幻影が晴れて、迷いが晴れたからだろうか? カイザーの意図していることが、全て伝わってくるような気がする。

 どうしてロケットスタートを選んだのか。あの日と同じようなスタートを切ったのか?

 

(みんなの時計が、あの日止まったままなのを知ったから)

 

 時計を前に進ませるために、カイザーはあえてロケットスタートを選んだ。有利を取りつつ、気持ちを前に向かせるために。

 そして、この好位追走。あぁ、そうか。君が選んだ最強は、この形なんだね。

 

(岡邉さん、観に来ていますか?)

 

 これが、カイザーの選んだ最強です。このスタイルこそが最も強いと、カイザーは信じている。

 

 

 行こう。みんなの時計を前に進めるために。

 

「カイザー。君の強さを、見せてやれ!」

 

 手綱を握る。勝利に向かって、視界良し。

 

 

 

 

 

 

 揺れる中山競馬場。各馬が一斉にスタンド前の直線へと入ってきた。

 最後の勝負が始まる。負けられない意地の戦いが幕を開ける。

 

《最後の直線、先頭で入ってきたのはダイワスカーレット、ダイワスカーレット先頭だ! 外からはマツリダゴッホ、マツリダゴッホが伸びてくる! チョウサンは落ちた、後はダイワスカーレットだけ! ダイワスカーレットだけだが驚異の粘りを見せる新世代女王! ダイワスカーレットが先頭譲らない!》

《ダイワメジャーも来ていますよ! 最後の勝負、末脚を発揮しています!》

《ダイワスカーレット逃げる逃げる! どこにこの脚を残していたのか! もしくはただ根性だけで走っているのか! ダイワスカーレットが逃げている中山の直線は短いぞ、マツリダゴッホ躱せるかどうか!》

 

 先頭はダイワスカーレット。競り合っていたチョウサンを競り落とし、単独で躍り出た。

 追いかけるのはマツリダゴッホ。後からはダイワメジャーにドリームパスポートも追い込んできている。

 

「頑張れー!」

「いけいけー!」

 

 必死の声援を送るファン。それと同時に、察した。

 ハレヒノカイザーはもう来ないのだと。もうきっと、落ちているのだと。そう思っていた。

 ロケットスタートで期待した。しかしもう走れない身体だった。

 きっと今頃最後尾を走っている……その時。

 

《マツリダゴッホに重なるようにハレヒノカイザー! ……はっ?》

 

 実況の言葉で、我に返る。

 どういうことだ? 聞き間違いじゃないのか?

 戸惑う観客、ファンは口々に嘘だ、夢だと呟く。

 よく目を凝らして、ターフを見つめる。最内はかなり見にくい。他の馬に重なっていて、よく見えない。

 だが、その先。その先に視線を送ると──確かにいた。

 

《ハレヒノカイザー、最内をついてハレヒノカイザー!》

 

 あの日沈んだ太陽が。

 

《マツリダゴッホが並んでいる! ダイワスカーレットが逃げている!》

 

 フランスで散った太陽が。

 

《ダイワメジャーも追い込んできた! 外からはドリームパスポート、ドリームパスポートが伸びてきている! しかしこれは!》

 

 今1年の時を経て。448日の長い時間を経て。

 

《最内をぶち抜いてハレヒノカイザーだぁ!! カイザーきた! カイザーきた! 太陽の皇帝が昇ってきた!》

 

 今再び、中山の地で光り輝く。

 

 

 信じられない。嘘に違いない。

 しかし瞳に映る光景は決してまやかしではなく、真実のみを映し出している。

 

《カイザーきた、カイザーが来た! あの日沈んだ太陽がまた昇る! ハレヒノカイザーが昇る! 最内をついてハレヒノカイザーがダイワスカーレットに並びかける! ダイワスカーレット必死に粘る粘る!》

 

 ハレヒノカイザーが先頭に追いつこうとしている。ダイワスカーレットを捕まえて、先頭に躍り出ようとしていた。

 気づけばファンは。

 

「……がんばれ」

 

 声を出す。ありったけの声を振り絞って。

 

「頑張ってー! ハレヒノカイザー!」

「頑張れー! 負けるなー!」

「もう少しだよー!」

 

 奇跡を信じて、勝利を願って声を出す。

 もう来ないと思っていた。髪の毛一本ほどの奇跡にすがるしかなかった。

 その微かな奇跡が今、しっかりと、確かに繋がっている。

 どれだけ細くても、頼りなくても。ハレヒノカイザーは奇跡を起こそうとしている。

 

《ぐすっ、頑張れカイザー! 父の様な奇跡を起こすことができるか!? ハレヒノカイザーが飛び出してくる残り200! ダイワスカーレットがまだ粘る、まだ粘る!》

《ま、負け、ずずっ、負けていませんよダイワスカーレット! ダイワメジャーも来ています!》

 

 実況と解説も、涙交じりの声になる。そんなことが気にならないほどに、観客の熱は高まっている。

 最後の勝負残り200m。ハレヒノカイザーが──中山の地を駆け抜ける。

 

 

 

 

 

 

 私は、夢を見ているのだろうか?

 どこかで勝利を疑っている私がいた。もう走れないと思っていた私がいた。

 最初のスタートで悲鳴を上げそうになった。みっともなく、恥も外聞もなく。

 しかし、彼は逃げなかった。彼はそのまま後ろに下がり、好位追走のスタイルを取った。

 

(私が、教えた走りだ)

 

 ルドルフ戦法の代名詞、好位追走。スタンダードな戦法を取った彼を、ずっと見つめていた。

 どこか苦しそうにも見えた。辛そうにも見えた。

 けど、今は決してそんなことはないと断言できる。

 なぜなら彼は。

 

《ハレヒノカイザーが口を割る、カイザーが口を割っているっ! 笑っている、太陽の皇帝が笑っている! この局面で、最後の勝負で笑顔の花を満開に咲かせるハレヒノカイザー! また、また見れるなんて……っ!》

 

 とても楽しそうに、走っているのだから。

 

(……そうだ)

 

 なぜ私は、彼が恨んでいると思っていた?

 なぜ私は、彼は私の顔など見たくもないと思い込んでいた?

 なぜ私は、私達のエゴに振り回され続けていたと思っていた?

 

「違う、ぜんぶ、ぜんぶちがう……っ」

 

 あの笑顔を見て、全て思い出した。

 そうだ、彼はそういう子だ。いつも楽しそうで、笑っていて。

 こっちが悲しんでいると慰めてくれるような子で、笑顔になるように頑張って。

 気づけばみんなが笑顔になる。彼に関わると、誰であっても笑顔になれる。

 全てを照らす日輪のように輝く──【太陽の皇帝】。

 

(彼が誰かを恨むなど、絶対にないというのに……っ!)

 

 私が勝手に思い込んでいた。

 違う、私は逃げていたんだ。取り返しのつかないことをしたと、彼から奪ってしまったと思い込んだ私は、彼から逃げたのだ。

 そうした方が楽だから。誰に何と言われようと、これ以上苦しみたくなかったから。

 だから私は逃げた。彼から、ハレヒノカイザーから逃げた。

 

 

 今、観戦していることで確信した。

 

(彼は私のことなど、一ミリも恨んではいない)

 

 むしろその逆。きっと、私のことを心配しているとさえも思える。

 彼の走りから、感情が伝わってくる。

 

楽しい、走るのは、最高に楽しい!

 

 あぁ、君はどこでも変わらないんだな。

 膝から崩れ落ちる。それを、妻が支える。

 

「……あなた」

 

 妻の優しい声が、私の耳に入る。

 

「楽しそうに走る子ですね、ハレヒノカイザーは」

 

 そうだ。彼はとても、楽しく走る子なんだ。

 ごめん、カイザー。君から逃げて。

 ごめん、カイザー。君と向き合うこともなく去ってしまって。

 君は変わらないのに、変わってしまったと決めつけて。これ以上苦しまないために逃げてしまって。本当にごめん。

 

「がんばれ」

 

 だから今は。

 

「頑張れぇぇぇ! カイザァァァ!」

 

 こうして応援することで、罪滅ぼしにさせてくれ。

 ……いいや、君ならばきっと。

 

(私の罪も、罪とは思わないんだろうな)

 

 思わず笑みがこぼれる。彼を迎えるのに、涙は似合わない。ゴールするその瞬間は、笑っていなければな。

 

 

 

 

 

 

 笑って走る。本当はダメなことらしいけど、それでも笑って走る。

 みんな前を向けていないから。あの日の、凱旋門賞で止まったままだから。

 だから安心させるんだ。

 

(私はここに帰ってきた。フランスから日本に、私はちゃんと帰ってきているよって)

 

 そう伝えなきゃいけない。

 そのためならいくらでも頑張れる。みんなの笑顔のためならば、私はどんなことだって頑張れる。

 それになにより──走るのがすっごく楽しいから!

 

『だから私は、笑って走るんだ!』

 

 楽しいからこそ笑うんだ。辛い時こそ、苦しい場面こそ笑うんだ! そうすれば気持ちは前を向ける、明るい希望をもって明日に進める!

 いつだってどんな時だって変わらない。私はみんなの笑顔のために走る。笑って過ごせる世界は、素晴らしいものだと信じているから!

 さぁ、笑え。

 

『アハハ』

 

 みんな笑え。

 

『アハハっ』

 

 これが私。

 

『アハハハハッ!』

 

 ハレヒノカイザーの走りだい!

 

 

 

 

 

 

 逃げるダイワスカーレット。追うのは3頭。

 マツリダゴッホ、ダイワメジャー。そして──ハレヒノカイザー。

 

《ダイワスカーレットまだ粘る! まだ粘るがっ、最内からハレヒノカイザーきた! ハレヒノカイザーだハレヒノカイザーだ! ダイワスカーレットを捕まえる! マツリダゴッホも伸びてきた、ダイワメジャーも来ているぞ! ダイワスカーレットはここまでか!?》

 

 最後の意地がぶつかり合う。

 差したのであれば差し返す。抜かれたのであれば抜き返す。

 一進一退の攻防。永遠にも等しい時間。

 その戦いに──終わりを告げるように。

 

《残り100でカイザーが抜け出した! カイザーきた、カイザーきた! ハレヒノカイザーが抜け出した! フランスで沈んだ太陽が、暮れの中山でまた昇る! カイザーきた、カイザーが来た!》

 

 ハレヒノカイザーが単独で抜け出した。粘るダイワスカーレット、猛追するマツリダゴッホとダイワメジャーを振り切るように、ハレヒノカイザーが先頭に躍り出る。

 口を割って走る。本来ならばダメな行為なのに、この馬にだけは許したくなる。

 いいや違う。この馬だからこそ許されるのだ。

 

《カイザー抜けた! カイザー抜けた! カイザーが単独で抜け出した!》

《スカーレット来ている! ゴッホもメジャーも来ている!》

《カイザーだカイザーだ! 万物を照らす日輪の輝き! 何度沈もうと陽はまた昇る! いいや違う! 永遠に輝きを放ち続ける!》

 

 なぜなら彼は──【太陽の皇帝】だから。

 

《カイザー1着! カイザー1着! 暮れの中山に笑顔の花を咲かせたハレヒノカイザー1着ゥゥゥ!! ち、父のような奇跡をっ、祖父のようなレースで制した! たとえ沈もうと、陽は何度でも昇りますハレヒノカイザー1着! 2着ダイワスカーレットも見事粘りましたが、これはハレヒノカイザーが強かった!》

《ぐすっ、ぐす……っ!》

《君はいつでも変わらなかったっ! 私達に笑顔を届けるために、フランスから帰ってきました! ありったけの思いを込めて、私達はこう叫びましょうッ!》

 

 駆け抜けるハレヒノカイザー。いつものように飛び跳ねる彼に、ファンは涙を流す。いつもと変わらない、自分たちがよく知る彼の姿に。

 

《おかえりなさい、ハレヒノカイザー!!》

 

 人々は笑顔になり、歓喜の涙を流していた。




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