凱旋門賞の複雑骨折。栄光と悲劇が同時に起こったあの事件から、ファンの時計は止まったままだった。
もう無理だと思っていた。走るだけでも精一杯だと思っていた。
それでも、彼は走った。走り続けた。止まることなく、いつもと変わらない笑顔で走り抜けて、彼は見事──1着で駆け抜けた。
「テイオーみたい……!」
「テイオーだ、テイオーの息子が! 同じことをやったんだ!」
彼は何も変わっていなかった。前と変わらない走りで、笑顔で。有馬記念を駆け抜けた。
歓喜と喝采に包まれる中山競馬場。いつまでも岳隆の名前とハレヒノカイザーの名前が、コールされていた。
ウィナーズサークルでは、記者が涙交じりの声でインタビューをしている。
受け手側の富士澤たちもまた、歓喜の涙を隠しきれていなかった。
「本当にっ、本当に、よく頑張ってくれたと、お疲れさまと言ってやります」
「最後の最後に、ワガママを叶えてやりたくてねぇ。それでこんな走りをされちまったらねぇ……!」
当のハレヒノカイザーは、堂々とした佇まい。
彼らの涙が悲しみではないことを分かっているのだろう。どことなく、微笑んでいるようにも思えた。
そして、岳隆へのインタビュー。こちらでは、騎乗に関する質問がされていた。
とりわけ、なぜ今回のレーススタイルを選んだのか? である。
「今回僕は、カイザーが一番強いと思うスタイルで挑みました。今回のレースこそが、カイザーの一番強い走りです」
「と、いいますと?」
「ルドルフ戦法。かつて岡邉さんがカイザーに教え込んだ走りこそが、カイザーにとって一番だったんでしょう。嫌がることもしませんでしたし、考えも一致してました」
ハレヒノカイザーにとって、最も強さを発揮できる走り。それが、かつて岡邉が教えた走りだと岳は断言した。
逃げて差す競馬ではない、全ての理想を体現するかのようなスピードで蹂躙するレースではない。
これこそがハレヒノカイザーにとって一番の走りなのだと、岳はそう断言した。
「それにしても恐ろしい。これ、カイザーが賢いからこそ本当にヤバいことできますよ」
「え?」
「だって、ロケットスタートがあるじゃないですか? 今回のレースも、逃げ馬のダイワスカーレットを掛からせてましたし」
思い出すのは序盤の攻防。ハレヒノカイザーのスタートだ。
他馬よりも一歩先にスタートしたカイザー。引っ張られるように、ダイワスカーレットとチョウサンは飛び出してきた。我先にと、先頭は譲らないとばかりに。
肝心のカイザーはというと、さっさと控えて最内をキープし続けていた。無理に競り合うことをせず、スタミナの消費を抑えることを選択したのだ。
「あのスタートができて、さらには行くか抑えるか選択できるんですから。対戦する側はかなり厳しいんじゃないでしょうか?」
「……あっ!?」
記者も気づく。あまりにも恐ろしいことに。
「逃げ馬を自由にさせないためにはスタート段階でどうにかする必要がある。けど、カイザーはスタートをミスらないし、加速も凄いから絶対にハナを取れる」
「だ、だから、えぇ~っとぉ」
「本当に悪い条件が重ならない限り、カイザーを抑えるのは不可能じゃないかな、うん」
あっけらかんと、とんでもないことを言い放つ岳。
つまりはまぁ、カイザーを止めるのはほぼ無理ゲーだと、岳隆ほどの騎手がそう判断したのだ。
「ディープぐらいじゃないと無理じゃないかなぁ。そのディープも、相性的にはめちゃくちゃ悪いし」
「お、おぉ……とんでもないってことですね、カイザーは」
「そうですね。日本競馬の歴史に残る名馬、最強馬の一頭だと思います。ディープと並んでね」
自分が騎乗していたディープのことも忘れずに付け加える岳。会場には笑いも出ていた。
また、手綱についても質問される。
「今回は、ラインクラフト号と一緒の手綱を使わせてもらいました。これは、世戸口調教師から託されたものですね」
「世戸口調教師から?」
「えぇ。今回の復帰戦、どうかラインクラフトと一緒に戦ってくださいと。そうエールをもらっていたので」
手綱を握り締め、そう答える岳。感極まっているようだ。
「きっと、ラインクラフト号も後押ししてくれたと思います。心なしか、ハレヒノカイザーも気合いが入っていたみたいですからね」
「は、はは。そうですね、きっとそうです!」
勝利に繋がったと、そう断言していた。
そして、引退式の時間がやってくる。ダイワメジャーと一緒に、中山競馬場での式となった。
少しでも近くで見たいファンが押しかける。警備員がこれ以上はいかないようにと必死に止める。
なんとか混乱を抑えつつも、引退式はつつがなく行われた。
『もっかい勝負だカイ坊! 今度こそ勝ってやる!』
『いや、もう終わりですってメジャーさん』
『うるさいうるさい!』
ダイワメジャーがハレヒノカイザーにちょっかいをかけている、微笑ましい場面もあったりしたが。
最後に関係者全員で写真を撮ることになる。
その時だった。
「岡邉さん! 見に来ていますか!」
岳が大声で、岡邉の名前を呼んだ。
ファンの中に交じっていた岡邉は、突然自分の名前が呼ばれたことに驚く。
自分が何かしたのか? と思うが、心当たりがない。戸惑っている岡邉に、岳は声を上げ続けた。
「こちらに来てください! 岡邉さんが、ハレヒノカイザーに乗るんです!」
その提案は、あまりにも予想外であり。
「──えっ?」
岡邉も素っ頓狂な声を出すしかなかった。
なぜ自分が? すでに騎手を辞めた身だぞ? 疑問が止まらない。
発見したファンに押し出されるがまま、列の一番前までくる岡邉。岳や富士澤たちと目が合った。
「どうやら、ちゃんと観に来ていたようだな」
「いや、1ヶ月ごとに電話したの一雄さんだろ」
「今回の引退式では、カイザーに誰が乗るか? って問題が出てきてな。だが、一発で決まったよ」
富士澤はなおも戸惑う岡邉に対し、笑みを浮かべながら。
「お前が乗るべきだ。カイザーの背に乗るべきは、お前だ」
「そ、そうはいうが……私はもう、騎手ではない」
この期に及んで、カイザーの騎乗を拒もうとする岡邉。
自分はもう騎手ではないと、そう断る岡邉だが。
「何言ってるんですか、岡邉さん」
岳が逃げ道をふさぐ。彼だけではない、他の騎手もいつの間にか集まって、岡邉を逃げないように取り囲む。
「これはただ乗るだけです。なにも問題はありません」
「そ、そうは言ってもだな」
「ただ乗るだけじゃないですか。ちゃんとJRAの許可もありますよ」
結局すったもんだの末に、ハレヒノカイザーに騎乗することになった。決まり手はカイザーの
乗らないの?
と言わんばかりの訴えである。
恐る恐る、カイザーに騎乗する岡邉。最初は不安を感じていたが。
(──あぁ)
一度乗ると、岡邉の不安は吹き飛んだ。ハレヒノカイザーの背が、彼に安心感を与えた。
慣れ親しんだ背中。1年ぶりに乗っても変わらない、相棒の背中が。岡邉の不安を一蹴した。
「お疲れ様、カイザー」
相棒の頑張りに労いの言葉をかける。嬉しそうに一声鳴いた後、彼らの姿は写真に納まった。
この後は、どこもかしこでもお祭り騒ぎだった。過去一の賑わいだった、と証言する飲み屋も少なくなく、居酒屋での騒ぎは次の日の朝までずっと、続いていた。
第52回有馬記念勝者 ハレヒノカイザー
◇
はい、私です。なんだか早いような気がしますね。
有馬記念も無事に勝ちまして、私は美浦トレセンから去ることになりました。メジャーさんと一緒に、新天地である舎代に行きますよ。
『いいかカイ坊! あっちでもよろしくだからな!』
『勿論ですよ。一緒に走りましょうね』
どんなところなんでしょうね~。楽しみですよ。
美浦とお別れ、ということは。富士澤さん達ともお別れということで。
「向こうでも頑張るんだぞ、カイザー。第二の生活を楽しんでくれ」
「達者でな~、カイザー!」
富士澤さんも壬生さんも、涙を流していました。ちょっとうるっとしちゃいますね。
思い出はたくさんあります。調教のこととか、本当にいろいろと。
どれも大切なことで、忘れたくないことです。本当は、去るのが寂しい。
けど、これが今生の別れではない。また私に会いに来てくれると、そう言ってくれました。
(涙の別れなんて似合いません。笑顔で別れましょう)
ほら、富士澤さんも壬生さんも笑って。
「っふ、やっぱり最後まで、お前は笑顔なんだな」
「そ、そうですよ、テキ。カイザーに涙は似合わない、笑顔で別れないと」
「……そうだな」
最後ににっこりと笑って、私達はお別れをしました。
そして新天地の舎代。私はここで、次代に繋げるためのお仕事をするらしいです。
(種牡馬……漢字で、種の牡馬。つまりはまぁ、そういうことですよね)
まぁいいや。お仕事以外では自由にできるらしいですし、たくさん走りましょう。
スタッフさんも優しい人ばかり。これからの生活は楽しいものになるでしょう、と思っていた矢先!
『『あっ!』』
放牧地で、見覚えのある馬がいるじゃあないですか。
おいおいおい、あそこにいるのは間違いない!
『プイちゃーん!』
『カイザー君!』
マイベストフレンドのプイちゃんではありませんか! なんてこった、プイちゃんと同じところでお仕事することになるとは!
『カイザー君もこっちに来たんだ?』
『そうですよ。今日からここでお世話になります』
ま、私達が揃ったということでね。やることはただ一つ!
『『走ろう!』』
走るしかないっしょー!
プイちゃんと一緒に走ります。それはもう、たくさんたくさん走りますとも。
それに、プイちゃんとは約束していましたからね。
『いつかまた走ろう。カイザー君はそう言ってくれたよね?』
『そうですね。しっかりと覚えていましたよ』
『約束、守ってくれた! これからもたくさん、た~くさん走ろうね!』
『モチのロンですよ。いろんな子を巻き込んで、たくさん走りましょう!』
また一緒に走る約束を。こうして守ることができましたよ。
余談ですが、ここにいるのはプイちゃんだけではなく。
『おー、やっぱお前もこっちに来たかカイザー!』
『ろ、ロブロイさん!?』
『久しぶり、だな。カイザー』
『く、クリスエスさんまで……!』
『あれ? カイザー君クリスさんの知り合いなんだ?』
ロブロイさんにクリスエスさん、私が美浦でお世話になった先輩たちまでいるじゃあないですか! なんて楽しいセカンドライフなんだ。
『とりあえず走りましょう!』
『走ろう走ろう!』
『あぁ、うん。なんか懐かしいわ、コイツのノリ。めんどくさ』
『その割には、嬉しそうだな、ロブロイ』
『オレも混ぜろー!』
メジャーさんも混ざって、みんなで走りましたよ。それはもう楽しかったですね。
「はは、もうここの中心になってるな」
「すぐに馴染んじゃいましたね。ハレヒノカイザーは、気づけば中心になっている」
「そういう気質なんでしょうね。生まれながらのボス馬というか」
スタッフさんも微笑ましそうに見守っています……たまに暴走しすぎて慌てて止めに入ってきますけど。
私のセカンドライフは順調そのもの。みんなと走れて楽しいですし、スタッフさんも優しく接してくれるので良いことづくめです。
それに、私のラストランはどうもかなりの反響だったようで。
(いろんな新聞で一面を飾りましたからね。ふふん、私がハレヒノカイザーですよ)
それになにより、有馬記念の勝利が、ファンのみなさんが前を向くきっかけになったようで。中には、前向きに生きていけるというファンもいたのだとか。
私の走りが、みんなに笑顔をもたらした。前を向かせる気力を与えることができた。
それの、なんと嬉しいことか。
「カイザー。今日はこの音楽な」
ラジカセを持ってきてもらって、いつものようにクラシック音楽を流してもらいます。変わらないルーティーン、最初は分からなかった音楽も、徐々に理解を深められましたね。
(いろんなことがあった)
最初はどうして馬に? なんて思いましたが、中々悪くない生活を送ることができて。
レースを走って、みんなに出会って。本当に楽しい時間を過ごすことができました。
これからもきっと、楽しい時間を過ごしていくのでしょう。なんで分かるのかって? 決まってますよ。
『私の勘、ってね』
楽しみだなぁ。これからの生活も、明るい未来が待っている。
希望をもって前に進もう。そうすればきっと──楽しく笑って過ごすことができるから。
どれだけの時間を待ったのだろう?
夏が過ぎて、秋が終わって、冬を迎えて。
花が咲いて、また夏が来て。夏が終われば、また秋が来た。
待ち続けた。ずっとずっと、待ち続けた。
「聞いたか? ハレヒノカイザーのニュース」
「今も闘っているらしいな……無事だといいんだけど」
人間さんは、みんな心配していたけれど。私はなんの心配もしていませんでした。
だって、あなただから。あなたはきっと、いつものように笑顔を届けている。
人間さんを笑顔にして、楽しそうに走っているはず。そう信じていましたから。
季節が一巡して、今年もまたお休みなのかな? そう思っていた時のこと。
人間さんに連れられて、私はどこかへと向かいました。
(どうしたんだろう?)
人間さんは、とても嬉しそうに笑みを浮かべていた。その理由が分からなくて、困惑した。
どうしてだろう? なにか良いことがあったのかな。
疑問を隠せない私が連れられてきたのは、どこかの牧場。過ごしている場所と変わらない、普通の放牧地。
『どうしてこんなところに?』
お仕事かと思って身構えていたのに、分からなくなった。
とりあえず日向ぼっこしていようかな。そんな矢先。
『あー!』
とても懐かしい香りがした。
安心感を覚える、私に安らぎをくれる。
お日様みたいにポカポカしていて、とても明るく、眩しく輝く──私のお日様。
(あぁ、やっぱり……!)
信じていました。ずっとずっと、信じていました。
あなたは、必ず立ち上がるって。ケガから復帰して、また私のところに来てくれるって、信じていました。
振り返る。その先にいたのは──やっぱり。
『クラちゃんだー!』
嬉しそうに駆け寄ってくる姿。とても覚えがある。
お日様のような笑顔。凄く、見覚えがある。
あぁ、本当に……!
『ただいま、クラちゃん!』
『おかえり、なさい──カイザーさん!』
おかえりなさい、
まぁ後いつもの大百科作るんですけど。これにて本編完結です!