あの夏に逆行した青年がみんな救おうとして勝手に曇っていく話   作:イリノイ州の陰キャ

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 記憶という記憶を試せば、年齢の数だけ夏につながっている。




1、過去へのウィンターミュート

 

 古い夏の朝、あの小さな日々に僕は立っていた。

 

「シオ」

 

 頭上いっぱいの青い夏のかんばせが目に痛い。上機嫌一辺倒な鬱陶しい猛暑、東から吹く慇懃な潮風、円心から放射状に解放される末期的な連続スペクトル……何もかも、細切れになった活動写真のフィルムのように、僕の記憶の箱にとりとめなく混ざっている。

 

「シオ」

 

 誰かに名前を呼ばれた記憶が、二重スリットみたいに常識的ではない動作で存在していた。過去として、あるいは現在として存在するそれは、僕の後悔であり、何よりも取り戻したい失せ物だった。

 

「シオ……」

 

 頼む、やめてくれ。もう僕の名前を呼ばないで……よりにもよって君の声で、僕を追い詰めるのか。僕の後悔の先で立ち塞がる。その行き止まりにあるのは、掘り返した罪悪感だけなのに……。

 

 

 

 大学2年生の一期は最悪の気分で始まった。ゼミの先輩にしこたま酒を飲まされ、視界の端でまんざらでもなさそうな同級生の女が、他の先輩に連れられて店を後にしていくのを見送りながら、僕は、真崎史緒(マサキシオ)は暗澹たる後悔を好きでもない酎ハイと共に飲み下していた。

 

(入るとこ間違えた……)

 

 都市社会学じゃなくても別によくある手法だが、このゼミは実地調査を主軸に、毎年共同で論文を発表するというコンセプトで二、三年生が合同研究する。

 シカゴ学派的な古い方法に従って、真面目に東京の都市構造を社会学的エクスペリメントとして研究しようとか何とか息巻いていたのだが、蓋を開いてみればこのゼミは不真面目な学生の受け皿みたいなもので、彼等の軽薄な態度に引きずられるようにして、僕のやる気も早速低迷し始めた。

 

「それでよぉ! あいつ全然競馬とかやったことなくてさ!」

「えぇー? 嘘ー!? あはははっ!!」

 

 先輩達は僕の知らない娯楽を知っている。賭博、車、それから巷間で口に出すのは憚れる悪い遊び……知らないというか興味もなかったようなことだ。

 汗水垂らして働いてきた親の金で車を乗り回し、公営ギャンブルで湯水の如くバイト代を溶かしては、男の価値が自分の価値だと思い込んでる女を酒でコマしていいようにしている連中。誰かに迷惑をかけない内は僕も咎めようとは思わないが、明らかにそういう人間じゃありませんって雰囲気を醸している僕にも絡み酒でしなだれかかってくるのはどういう了見か。

 

「真崎くんっつったよなぁ! マジ俺らのゼミは飲み必須だから、これからも来いよ!」

 

 多分親切で言っている。あの陰キャ全然楽しそうじゃないな、よしここは一つ、先輩が絡んで話の輪に入れてやるか、みたいな。そもそも飲み会が強制参加なんて知っていたら、このゼミを選んだりはしなかったよ。

 

「全然飲んでねぇじゃん! ほらもっとさ」

 

 やめてくれ。嫌いなんだ。

 

「ギャハハハッ! 真崎くぅン? もう顔真っ赤だな! 情けねぇなぁ! そんなんじゃやってけねぇよ!?」

 

 うるせぇよ。お前等は社会じゃやってけねーだろ。

 

「真崎くんっておさけ弱いんだぁ 何かちょっとかわいーい」

 

 何を遊んであげるみたいな雰囲気出してんだ。股ぐらが軽いのを遊び慣れてるとか勘違いしてんじゃねーよ。

 

「おい、先輩が話振ってやってんだろ? 何とか言えよ」

「は――――」

 

 

 

 そんな感じで、めでたくゼミをクビになったのが一昨日のこと。何があったかというと、思わず手が出た。手というか頭。先輩の頭を掴んで鼻先に頭突きを喰らわせ、さらに怯んだ顔を膝に叩き付けたところ、まぁ当然というべきか、周囲は一瞬にして騒然となり、賑やかな酒の席は蹴散らされた。

 結局僕はほとんど抵抗することもできず諸先輩方にがっちり押さえ付けられ、頭を冷やして来いと店の外に放り出された。

 ドン引きしていた先輩方の顔に酒混じりの唾を吐き付けてやった僕はさっさと家に帰り、至極晴れやかな気持ちで眠ると、次の日には騒ぎを聞きつけた教授からメールが届いていることに気が付いた。

 

 

From 伊藤和寿

 

 真崎君、君の席は撤去しました。既に除名したので、来てもゼミ室には入れません。

 

 

 教授から直々に〝クビ〟を言い渡されてしまった僕は、ゼミの途中参加願書をワード形式で開いたまま、だらしない格好で天井を眺めていた。ワードの横には学生専用のポータルサイトが小さな窓で開かれている。現在開講されているゼミの一覧と、その横に定員超過とか参加不可とか書かれているページだ。うち四つはまだ新規学生を募集していたので、とりあえず願書をメールに添付して送ってみたが、未だに返事はない。

 

「どうすっかなー……」

 

 僕の在籍する学部は卒論が必須だ。なのでどこかのゼミにあやかりたいところだが、懐が広いことで有名らしい伊藤ゼミを叩き出されたヤバい学生を、慈悲深くも拾ってくれるゼミはなかった。

 専門科目の単位も、卒論も自力で何とかするしかない。だというのに、目の前の課題から目を離した思索ばかりが捗って仕方ない。僕は枕元に投げ出された二ページ半しか進んでいない小説を手に取って、目次を開くだけしてまた机に置いた。熱心に読書していた日々もまた遠い。大学に入って、ファストなメディアと享楽的な交友に慣れ始めた頃から、ビカビカ光ってくれない娯楽からは興味も薄れつつある。

 

「あ……」

 

 本の栞がわりにしていた封筒に気が付いて、僕はそれを抜き取った。こんな雑な使い方をしていいものじゃないのに。

 中から一枚の写真を取り出す。僕を含めた三人の少年少女が、笑顔でピースサインを突き出してるだけの写真。

 

「戻りてー……」

 

 僕は数年前の夏を思い出していた。母の遺品を整理しに、どっか関東の田舎に行った時のこと。東京(と言えば聞こえはいいが、多摩のエセ東京)から出たことのない僕は、電車の旅路に辛苦して、行く前からあの町を嫌っていた。今思えば愚かな決め付けだ。

 今にして思えば、あそこに僕の後悔がたっぷり置き去りにされている。諸君にも甚だしく共感するという者がいるだろう。時折枕に頭を突っ込んで叫びたくなるような失敗を、何とかして取り戻したくなる時がある。僕にとってそれはあの町だ。

 

「やめた」

 

 ゼミの途中参加願いのページがスクリーンされたパソコンを、僕はウィンドウも閉じないままシャットダウンした。人間万事なるようになれだ。精々三年頃の僕が二年の僕をぶち殺したくなるくらい恨むだけ。その時になればやりたくなかろうが何だろうが何とかしなければならず、またそうするのが人間だ。

 

 

 

 こんなことを出し抜けに言われても困ってしまうかもしれないが、僕には友達がいない。いや、小中高の頃の交友関係はか細く続いているのだが、大学には友達はいない。いたこともあったが、どいつもこいつもパチンコと酒と女、たまにタバコと車の話しかせず、あまりに無益だったので、友達付き合いをキッパリ全部やめたというのが正しいか。

 

「――――ブルク自身ではなく、後継者であるザクルスが研究内容をアラビア語的に継承し……」

 

 講義の内容は全く頭に入ってこなかった。ノートの端っこに「『ピカトリクス』って何?」と、たわ言の走り書きがあった。書いた記憶はない。多分重要な語句だが、このノートはほとんど雑記のような使い方をしているので、定期試験の前には何をどこに書いたか分からなくなっているだろう。

 ごちゃごちゃとインテリ毒電波を発信する教授の声はもはや読経に近いものがある。僕以外にも早々に理解と意識を放棄した学生達は、ノートの上に突っ伏して体力の回復を図るか、机の下でスマホを光らせていた。

 

「――――ネストリウス派が公会議で異端認定された頃に……」

 

 僕よりも前の席で、男子学生数人がニヤニヤと内緒話をしているのが目に映った。どうやらこの講義を真面目に受けようという奇特な学生は存在せず、大体先輩から受け継いだ過去問を参考に適当に試験をパスして、雑に単位をもらうのが目的の奴しかいない。友達なし、サークル不参加、ゼミ追放の僕には使えない妙手だ。羨ましいよ全く。

 

 

 

「見ろよ……あいつだろ……?」

「先輩の顔をね……こう、膝で……」

「うわ……終わってんな……」

 

 慣れない酒盛りで正気を失っていた僕の可愛げしかないちょっとしたお茶目は、学内でこれまたちょっとした噂になっていた。学食のカウンター席に座っているだけで、背後から全然隠しきれていないコソコソ話の声が聞こえてくる。

 

「どの面下げて学食来てんだよ……ちょっと文句言いに行くか」

「やめなって……! 刃物とか持ち歩いてるらしいよ……」

「それ私も聞いた……なんかヤバい人と変な白い粉を交換してるって!」

「えぇ〜!? 激ヤバじゃん!」

 

 もう声を隠さなくなってきた噂話には、本人すら初耳のとんでもない武勇伝がいくつか紛れていた。刃物なんか包丁しか握ったことないし、白い粉っつったら片栗粉か薄力粉くらいしか交換したことはない。脱法片栗粉とかそんなんでもないぞ。ちゃんと日本銀行券で正規の手続きを踏んで購入したものだ。

 この分では、あと二日もすれば学校中に居場所がなくなるかな。あるいはまた一ヶ月もすれば噂も流れていくであろうが、困ったことに醜聞の発端は全くの事実なので、今後は色々とやりにくくなりそうだ。主に就活とか。

 

 

 

「今日もグレートな日々だった……」

 

 僕は万年布団に灰色のスケーターキャップを投げ付けると、冷たいフローリングに寝転がった。春先とはいえ、まだ夜気は冬の感触を忘れておらず、寒がりな奴は着膨れして教室で目立っている。

 うつ伏せのまま紺色のハーフモッズから腕だけ脱出させると、それをかけ布団のようにして床にへばり付いた。硬い床が頬やら顎に当たって痛い。だが動く気にもなれなかった。

 六畳一間と四畳一間の快適物件は、夜になれば両隣から恋人の営みや猫の大サーカスで僕を飽きさせず、朝になれば痴話喧嘩と飼い主の怒声でやっぱり僕を飽きさせない。全く最高の立地だ。駅まで徒歩で十五分なのもセールスポイントだ。急勾配と頻繁なカーブを無視した直線距離なら、あるいは走れば十五分かそこらで着くかもしれない。

 

「学務科からお知らせ……真崎史緒、来週までに学務科窓口に来られたし」

 

 普段何してるか分からん奴等が、こういう時に限ってはりきって仕事しやがる。学生への重要なお知らせを全部適当なPDFで済ませたことを僕は忘れてないぞ。

 学務科からの呼び出しメールをゴミ箱に入れると、僕は冷蔵庫から取り出した瓶入りのラムネを開けた。昔は上手に開けられず、床一面をびしゃびしゃにしたものだ。アスファルトに浸透していく二酸化炭素とコロイド溶液の混合物が、僕の記憶の中ではまるで美しさの象徴であるかのように振るまう。いや、夏に対する過度な期待がそうさせるのかもしれない。夏なんて、雰囲気ばっかでいいことなんかないけど。

 

「夏か……」

 

 なんと蠱惑的な響きであろうか。僕等にはその袖の先をも掴ませてくれない癖に、思わせぶりな態度で非日常を見え隠れさせる。その先には枯れ尾花、枯れ柳、暗いとこで見たらちょっと幽霊に見えなくもない枯れたおっさんしかいないというのに。

 

「寝よ」

 

 夏なんかどうせ、待ってれば嫌でもやってくる。学生の夏は社会人になってからのそれとは別モンだろって? 知るかよ。

 

 

 

 夢の中でくらいは、自分の思い通りの世界にいたいものだ。実際に願望を夢に見たことは一度もなかった。もっぱら古い記憶のリバイバル上映だ。良いものも悪いものも、僕の過去ばかりを見せたがる。

 

「シオ! シオってば! 起きてよ!」

 

 だからこれも、そろそろ次に来るセリフすら覚えつつある、いつもの喧しい夢に違いないと思っていた。

 寝苦しい眩さを上から隠す人影が、やけに現実味がある気がした。それに丁度いい案配の圧迫感で僕を包む、愛しの布団の重さも感じられなかった。枝葉の隙間を縫って差す陽射しの不揃いな放射状の光が、たちまち僕の頭上で雲に閉ざされる。影の形がぼんやりとする瞬間に、僕は夢の中の違和感を遂に隠しきれなくなり、躊躇いつつも目を開いた。

 

「やっと起きた! ねぇねぇ! ねぇねぇねぇ!」

 

 この次は、何と言ったか。確かそう、町に来てから二日と経っていない僕のため、という名目で、この暑い中を遊歩に付き合わされたんだった。

 

「町の案内するってんだろ……」

 

 僕はほとんど機能を回復していない思考が、半ば無意識に次に来るであろうセリフを先回りするのを、まるで他人の口から出た言葉のように聞いていた。夢の中の住人は僕の言っていることなど耳に入らない。彼等は与えられた役目を全うするかのように、同じ言動を遵守する。だから僕の指摘など無視して、今にも「町の案内してあげる!」とか言い出すはずだ。

 

「え!? 何で分かったの!? すごーい!」

 

 今度こそ僕は完全に目を覚ました。

 

「え?」

 

 寝汗が滲む黒いTシャツ(こんなもの着ていたか?)の襟口を掴みながら、服の隙間から入ってくる風が体の熱を取り払っていくのを、現実の肌が感じている。記憶の追想ではこうはいかない。冬には寒さに耐えながらこの夢を見ていたし、春ならば日増しに暖かくなる心地よさの中で夢を見ていた。たかが夢の中でしかないのに、あの日のオープンマインドな暑さまでもをどうやって再現しているというのか。

 というか、今のセリフは何だ? まるで僕の言っていることを認知しているかのようではないか。夢の中の住人が?

 

「ほら早く立ってよ! 行こ! 行こ!」

 

 僕の従姉妹であるこの子は、確か今年頃に中学に進学したとか聞いた。名前は……確かそう、古葉郁日(コバイクヒ)とか言ったっけな……。

 

「ねぇーえ! はーやーく!」

 

 少なくとも十二、三歳の女子が、こんな初等教育も修了していなさそうなあどけない見た目である訳がない。カラフルなワンピースやら、ちょっと下手なサイドテールが、背伸びしたがりな中学生の身分に許されるだろうか? いや、別に僕の許しはいらない。今のは中学生でもサイドテールをしている向きに失礼か。

 

「シオー……?」

 

 あまりに反応のない僕の様子を不審がって、イクヒが下から覗き込んでくる。待ってくれ。僕だって君を無視したくしてそうしている訳じゃないんだ。

 というか今どこにいる? この蒸釜みたいた暑さは何だ? 木立の下にいる時点で、全く当然だが僕の借りている部屋じゃない。古ぼけた記憶の端と重なる景色は、その色合いを取り戻していく。東に見える海、西に見える山、若者が本気で怒りを覚える類の大自然の中。間違いなく東京でもない。

 

「どこだ……?」

「もー!! 暮葵町(クレギチョウ)に決まってるでしょ! 寝ぼけてるのー!?」

暮葵町(クレギチョウ)……!? ここが、そうだってのか……?」

 

 暮葵町(クレギチョウ)というのは、関東某所にある田舎町、ギリギリ町を名乗ることを許されているだけの限界集落のことだ。母の故郷であり、僕の後悔の源泉。

 

「イクヒ、変なこと聞いてもいいか?」

「変なこと? 言ってみてよ」

「イクヒは今、何歳?」

 

 僕の質問に、イクヒはポカンとした顔で、というか実際にポカンと大口を開けた。

 

「9歳!! 何で忘れるの! 誕生日プレゼントくれたじゃん!」

 

 そして大いに怒り始めた。確かにイクヒとまだ交流があった頃は、彼女に誕生日プレゼントを贈ったことがある。大したものではない。単なる文房具だ。

 9歳ということは、僕の認識とは4年のズレがある。この格好やら年齢自認が彼女の壮大なイタズラであったとしてもだ。誕生日プレゼントとはいえ、4年も前のくだらない小物のことを一々覚えているか?

 

「もう一つ聞くけど、僕は何歳?」

「〝ボク〟!? 何ボクって!? いつも自分のこと〝オレ〟って言ってるのに!」

 

 確かに高一の頃に自称を変えた。作文の学生発表やら、文化祭実行委員のスピーチとかで、度々一人称を指摘されるのが鬱陶しかったから、もう〝僕〟で統一しておこうと思い立ったのが発端だ。

 ということは、少なくとも3年以上前、先ほどイクヒが自称した年齢から考えて4年も前?

 

 過去に、戻ってきた?

 

 そんなことがあり得るか? これが普段よりちょっとトリッキーな夢ではないとして、なぜ、どういう理屈やら原理で4年も前に戻ってきた? 誰の仕業、どんな理由で?

 

「15歳……? 15歳か!?」

「そぉに決まってるでしょ! ねーそれ何の遊びなの?」

 

 15歳の、夏……。

 そうだ。15歳の夏からぐるっと丸一年、僕は東京を離れて暮らしていた。小学校に入学する前に亡くなった母の、遺品整理を手伝うという名目で、この町、暮葵町(クレギチョウ)の住人となっていたのだ。

 

「あ……そうだ、携帯……!」

 

 過去に戻ってきたのだと自覚すると、突然自分の身辺についていくつも記憶が蘇ってくる。遠方に離れることになるなら、と、この頃に父がスマートフォンを買い与えてくれたのだった。田舎では携帯なんか持っている子はいなくて、この頃の僕は内心でそれを自慢に思っていた。

 

「7月……って?」

 

 4年前の、7月20日。

 携帯の画面には確かに、7月20日と表示されている。寝る瞬間までは春先だったのに。それも、最悪のスタートを切った大学生活二年目の。

 それが今、この表示に従えば、僕は4年の歳月を逆行している。高校一年生。誰に対しても無意味に尖っていた頃の、できれば忘れたい部類の過去。その真っ只中にいる。

 

「は、は……」

「なになになに!? ねーお母さーん!! シオがおかしくなったぁ!!」

 

 変な笑いがしてきた。人聞きの悪いことを言いながら走り去るイクヒの背が、あまりの暑さに揺らぐアスファルトの眩い照り返しの中へと消えていく。木下闇の胸を撫で下ろしたくなる安寧と、酷くギラついた日当の油断ならない可視光線的視線が、僕のつま先より手前で輪郭を作っている。

 

「嘘だろ……?」

 

 僕は何かの小説で読んだ章句を思い出していた。形とは輪郭であり、輪郭とは境界であり、境界とはせめぎ合う力、世界は全て占有率をせめぎ合う境界の反目でできており、世界の全てが力に満ちている。

 だとすれば、僕一人が過去に戻ってきてしまったくらいのことは、せめぎ合う力のモーメントによる小さな歪みに過ぎないのだろうか?

 

 

 

 たとえば……真崎青年、そう、そこの大学生の君だ。君の本棚の上段二列目には、オクタビオ・パスの『鷲か太陽か?』がある。フォークナーの『八月の光』がある。パイパーの『リトル・ファジー』が、森敦の『月山』が、クラークの『幼年期の終わり』がある。クイーンの国名シリーズがギリシャ棺を最初にして時系列順に並べられている。クリスティは純粋なパズラーより『春にして君を離れ』の方が好きだっただろう? その隣には兄が勝手に置いていった民俗学的資料、学術書にしては過激な性的ポートレートが載せられている、古い風俗学書が肩身狭そうに置いてあるはずだ。

 

「漫画しかねー……」

 

 僕はどこかへ走り去ったイクヒを放っておいて、この暮葵町での僕の居候先である祖母宅に帰ってきていた。

 祖母が僕に割り当てた和室の隅には、見覚えある小さな三段カラーボックスが壁の角に体を合わせていた。中にはおそらく世界で最も売れた海賊漫画と、おそらく世界で最も売れたバトル漫画が並んでいる。

 

「やっぱ、戻ってんのか……」

 

 ここまで走ってきた分、息を切らしている。現実でないのにここまでリアルな息切れを起こすか? それに、このおよそ男子高校生の〝らしさ〟を追究したような本棚のラインナップには、やはり激しく見覚えがある。

 

「帰ってたのかい。シオ」

 

 本棚を眺めながら突っ立っていると、背中に懐かしい声が投げかけられた。僕は驚いて肩を振るわせてしまった。不自然に見えていないといいのだが。

 声の主は、僕の祖母だ。知識と経験を録した顔中のシワと、硬く結ばれた唇が、まるで往年を過ぎた気難しい学者のようにも、入れ歯を忘れた痴呆老人のようにも見える。

 

「は、はい。忘れ物を取りに、戻りました」

「そうかい」

 

 敬語で、問題ないはずだ。祖母は僕の話し口調に何か指摘を挟んだりはしなかった。

 祖母とはこの夏に初めて会った。話によれば、僕が生まれる前に死んだ祖父よりも気風のいい女家主で、両親はこの人に頭が上がらなかったという。人間関係において小ざっぱりとした人であるから、娘夫婦が盂蘭盆会や正月に帰って来ないだとか、孫の顔がどうこうとかはあんまり気にしていないようだ。

 

「これ持ってきな。水筒」

「あ……」

 

 ステンレスのありふれた奴。持ってみるとカラカラと音がする。中身は多分、祖母が毎日冷蔵庫で冷やしていた水出しパックの緑茶だろう。

 

「ありがとう、ございます……」

 

 祖母は返事をするでもなく奥へ引っ込んでいく。そうだった。この人は孫に対して完全な無関心という訳ではなかった。そういう素っ気ない距離感と優しさが、僕の惨憺とした夏の思い出の中でも、少ない部類の良い記憶だった。

 

 

 

 僕は舗装がはげてガタガタの往来を逍遥しながら、自分の格好を改めていた。

 

「んー……」

 

 長年使っているツバが真っ直ぐのスケーターキャップは、丁度この頃に買ったものだ。僕の知るそれよりも新品で、被った時に布地が少し硬い心地だった。それから灰色のワイドデニム。これも大学生となった今でも着用している服。今では膝小僧が破れてダメージジーンズみたいになっているけど、この頃はまだ穴も空いていなかった。靴は青いビーサン。これは一昨年くらいに鼻緒のゴムが切れて捨てた奴だ。

 上は、三本くらい腕が入る袖口の広い七分丈の黒Tシャツを着ていた。これは去年、背中が破れて部屋で寝巻きと化している。今着ているこれにそんな様子はない。

 

「マジで高校生の頃じゃん……」

 

 この頃から大学生になる今までに、身長は4センチくらいしか伸びなかった。だから時間が巻き戻ったせいで視線に違和感がある、ということはない。複雑な気分だ。

 

「シオー! ねぇね、頭、元に戻ったー?」

 

 直球で失礼なことを言ってくる人影が、なだらかな坂の上からこちらへと降りてきた。

 

「イクヒ……」

「あのねー、お母さんにシオが頭おかしくなったって言ったら、怒られた」

 

 イクヒは少しだけ、当社比二割減でテンションを落としていた。傍目には元気な少女がいつも通り元気にしているようにしか見えないだろう。

 実際(彼女の視点で)おかしなことを言い出した僕に非がある。僕はイクヒよりも視線が下になるようにしゃがみ込んで、片手で拝むようにして悪びれて見せた。

 

「悪い。〝俺〟が変なこと言ったから」

 

 心の中ではともかく、彼等と話す時の自称には気を付けた方が良さそうだ。一々自分の呼び名を僕に変えたんだー、とか、聞かれるのも面倒だし。

 イクヒはそれだけで機嫌を戻してくれた。7歳も年下なのに、僕よりも情緒が安定していそうだ。ありがたい反面、申し訳なくなる。精神年齢も含めれば11歳は違う。こんな小さな子に気を遣わせてしまった。

 

「いいよー。代わりにお菓子買ってくれたらね!」

「はいよ」

 

 高校生如きの小遣いでも、駄菓子を買ってやるくらいなら平気のはずだ。父はその辺適当で、この時は確か、先に丸一年分の小遣いを持たせてくれた。

 多分本当に適当にしている、という訳ではなく、父なりに息子を放置していることに、親として負い目を感じているのだろう。その証拠に、父は最初に持たせた分だけではなく、祖母を介して月一で小遣いを送ってきていた。僕は半年バイトで貯めた分があるからいらないと言ったのだが、そういえばあの時は、父にしては珍しく強情だったな……。

 

「じゃあね、あそこ! こっちにね、いいお店があるの! ウチが案内してあげる!」

 

 坂を上がっていくと、海が見える小高い場所に雑貨店がある。老夫婦が営んでいる老舗、というと聞こえはいいが、夫婦のどちからかでも体調を崩したら、即営業休止になるような廃業寸前の奴。夫婦は長年の貯金やら年金で普通に暮らしていけるようで、ほとんど道楽目的であの店を開いていた。と、記憶している。

 

「おーそーい! ねぇ走って!」

「待てって」

 

 地上の生き物を全部焼き殺そうと思ってるらしい酷暑の中でも、正気を疑う工合で大はしゃぎなイクヒを追いかけて、緩やかだからいいじゃんとでも言いたげな長い長い殺人スロープを登っていく。

 

「うわ……」

 

 坂の終わり頃に着いた時、あぁ僕は、この景色の前に何度同じ感想を覚えたことか。

 海と夏は不可分だ。夏と青空が不可分であるように。静かに干満を繰り返す目の眩むような海が、僕にようやく、この目に見える世界を紛れもない現実であると信じさせた。

 

「シオー! 〝ファニーガール〟買って!」

 

 懐かしい名前の飲料菓子をねだるイクヒの声が、反響するものが何もない広大な畑の上をそぞろに流れていく。夏野菜の高い背の合間に立つ疎な民家と、遠くに見える山を迂回する海沿いの道路、車なんか一台も走っていないが、少し歩けば路肩に停まった土埃を付着させた軽トラが何台か見つけられるだろう。ちょっと顔を上げれば見える山なんて、東京じゃあり得ない光景だ。

 

 

 戻ってきたんだ。本当に。気が付いた時には失っていたあの日々に、僕は……。

 

 

 僕だけがこんな幸運に恵まれていいものか、誰の思惑であるかとかはこの際どうでも良い。やり直してもいいというなら、甘んじてその機会を享受させていただこう。

 

「やり直せるのか……」

 

 僕は、恐怖によるものではない体の震えを自覚した。いつか全てを清算しなければならない日が来るとは思っていたが、こんな形になるとは、思いもよらなかった。

 

「会わないと」

 

 会わなければいけない人が何人もいる。彼等にどんな顔をして挨拶をすればいい? 卑屈にも敬語を使ってみようか? シニカルな自己弁護で防衛線を張ってみるが、やはり僕は緊張しているのかもしれない。

 

 今度こそ、間違えてはならないから。彼等のため……いや、自分自身のために。

 

 





SF紹介 読み飛ばし推奨!(ごめんね)
 ここでは僕の華麗なる読書遍歴を自慢する目的で、たまーにオススメSF小説群を紹介しようと思います。何もなければ黙ります。運営様に怒られたら活動報告にでも載せようかな。

『夏への扉』
 言わずと知れたハインラインの入門書。これの何がいいかって、「あっ、SF小説ってこんな感じでいいんだ」と思わせてくれる軽さがいい。入門で最初にニューロマンサーとか火星年代期とか読んでSFが嫌になっちゃった人にオススメ。ハードSFをちょっと小馬鹿にしちゃう愛嬌もあり。

『グラン・ヴァカンス』
 飛浩隆氏の傑作SF。廃園の天使シリーズ第一作。AIの楽園というSFとしての設定もさることながら、アクリル画のような寂寥感のある描写力が秀逸。この美しさが破壊されていく過程にも退廃的な誘惑がある。実は俺こんなに語ってるけどラギッド・ガールは読んでない……あっ待って石投げるのはやめて。
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