あの夏に逆行した青年がみんな救おうとして勝手に曇っていく話 作:イリノイ州の陰キャ
硝子体を覗くと、僕は白い夢を終わらせる電源ボタンを握っていることに気が付いた。
大学の講義の取り方なんてのは、誰に習う訳でもなく、ほぼ全員フル単で取る。つまり一年間で取れる授業を限度いっぱいまで取って、三年の頃には単位をほぼ取り切ることで、就活とか院進のための準備とかに備えようとするはずだ。
僕も大体はそんな感じだった。正直後悔している。水曜日に五限まで大学に残って、そこから三十分かけて家に帰る間に、機嫌の安定しない空が催いを何度も変えていた。
「電話……」
さて最後の講義が終わり、ようやく家に帰れるという時に、ポケットに入れたままにしていた携帯が震えた。ディスプレイされた名前は
電話に出ようとして、やめた。要件が何かは知らないが、外ででかい声で話し声を響かせるのは好きではない。家に帰ってから折り返せば、向こうも満足だろう。
……こんなものは、単なる逃避行動だ。それが如何な思惑によるどのようなものであれ、いつか必ず、自分の行動の代償を支払わなければならない時がくる。ただその時の僕は、それが心の準備もなしに突然訪れていいものであるとは、どうしても思えなかった。
「ふむ。見ない顔だな」
ジロジロと見聞するように見回してくるこの少年は、
「つまり貴様……不審者だな!!」
というのも、こういうことだ。
これでは全く説明になっていない自覚はあるので、注釈にしては長すぎる補足を付け足しておこう。
彼は父が警視庁勤めで、その父に憧れている。だからちょっと角張った言葉遣いを好むものの、中身を暴けば人より少しだけ自意識高めの単なる男子高校生そのものなので、硬い口調のキャラが悪目立ちしているのだ。
「違うって。あー……イクヒ」
「シオはね! 真崎史緒って言うの! ウチの従兄弟で、お兄ちゃん!」
「ほぉ……! では今年からこの町に越して来る予定だという同年代の子供というのは」
ミツルは合点がいったように手のひらを拳で叩いた。そこまで聞いておいてなぜ最初にそれに思い至らないのかが甚だ疑問だが、とにかく容疑が晴れたので良しとしておく。
「あぁ。よろしく。ミツル」
「むっ? なぜ僕の名前を知っている!? さては貴様ッ!? 凄腕のハッカーか!?」
「何でそうなる……」
「僕の家のコンピュータを何やかんやして個人情報を、こう……何やかんやしたんだろう!」
泳がせておけば大抵愉快な奴だ。こういう突飛な推理が、いつも僕を笑顔にする。彼自身も本気で言っている場合と、冗談とで半々だ。突然繰り広げられる素っ頓狂な推理に僕が笑うと、彼はいつも持ちネタが通じた芸人みたいに嬉しそうな顔をしていた。
誰が言ったか推理には少しばかり発想の飛躍が必要になるという。あるいは彼には意外とそういう才能もあるのかもしれない。今のところはそんな兆し、全然見えないけど。
「イクヒから聞いたんだよ」
「えー? ウチ言ったっけー?」
「あぁ。覚えてない?」
本当は聞いていない。ただ、イクヒがその程度の情報の左右を気にしたりはしないだろう。視線の下の方で首を捻っているこの子には、内心で詫びを入れておくことで義理を通したとしておこう。
「何だそうか! 僕もイクヒから話は聞いている! 名前は、あー……何と言ったか」
「
そう言って僕が右腕を差し出すと、ミツルは極めて自然な動作で僕の手を取り、力強く握手をした。彼はこういうのを屈託なく受け取ることができる溌剌な性格をしている。結び目が複数付く勢いでねじ曲がった僕とは大違いだ。
「そうか! もう知っているようだが、僕は
「俺も下の名前で呼んでよ。シオって」
前回の記憶でも、彼は僕のことを下の名前で呼んでいた。続いてるのが幼い頃からの友達付き合いばかりの僕に言わせれば、そっちの方が友達っぽくていい。
「僕もそちらの方が好みだ! 人の苗字は呼び慣れなくてな」
田舎じゃ全員顔見知りだろうから、その分距離も近いのかもしれない。あるいは彼が一際フランクな性格をしているのかもしれないが、僕の記憶の中では、少なくともこの夏の間に知り合った人とは、大抵下の名前で呼び合った。
「ねぇシオー、もう一個買って、これ、〝すっぱすっぱ昆布〟」
「はいよ。これで最後な」
イクヒが差し出してきた駄菓子のパッケージには〝すっぱすっぱ昆布〟と書かれていた。つまりアレだ、酢昆布。確かに僕も好きだけどね。あんまり駄菓子ばっかり食べて夕飯が食えなくなったら、お母さんに怒られるぞ?
「はーい」
店番をしていた老婦人にお金を渡し、後ろで小躍りしているイクヒを宥める。子供に相応な性格は可愛らしいが、このくらいの年齢ならもうちょっとマセていても全然可愛げはあるよな。偏にイクヒのご両親の教育の賜物だろうか。
僕もイクヒに倣う訳じゃないけど、〝阿蘇大根〟を一緒に買った。大判型の大根の漬け物だ。これが駄菓子の部類に入るというのが何だか面白くて、幼い僕はこればかり買っていた。
「時にシオ、折角だからこの町を案内させてくれないか? 話によれば昨日、この町に来たばかりだろう」
ミツルが全く曇りない善意から、僕にそう提案してきた。この町の一員が、それも同年代が増えたことに少し浮かれている面もあるのだろう。僕だって、初めてこの町に訪れた時には少し浮ついた気分になった。
今では別の意味で心境が左右に浮動している。対外的には初めて見る景色に感じる、帰属意識、ノスタルジー、それから、記憶を引き継いで戻ってきた者として、より良い未来を目指すべきであろうという自責。
「あーミツルばっかりずるーい!! ウチも行くー!」
ここは……こういう繋がりになるのか。
元々の記憶でも、ここでミツルと初対面を果たしている。それは、僕はイクヒが当初予定していたこの町の案内を甘んじて受けていた時だった。喉が渇いたというイクヒに手を引かれ、この商店に寄り道したところ、中にいたミツルと初対面を果たした、という流れだ。その時はミツルが同行を願う形で、その後は三人行動になった。
そしてこの日、僕は〝彼女〟の後ろ姿を見た。あの時は全く意識していなかったが、あれはきっと……。
「あー……二人とも、気持ちは嬉しいんだけど」
「えー!? 何!? ダメなの!?」
「悪い」
イクヒが店の中で暴れ出しそうになるのを、謝り倒して何とか黙ってもらう。心からの不服を表すようにほっぺを膨らませ、僕に抗議の意を示してくる。
ただ、そこはミツルがうまくやってくれた。彼は「これはむしろチャンスだ。今のうちに僕達で最適な案内経路を考えておこうではないか!」とか言って、うまいことイクヒを丸め込んだ。イクヒもそれで何とか分かってくれたようだ。
「残念だが、また機会もあるだろう。何せ、明日から僕達も夏休みだからな!」
僕達、とミツルが言った。別に、この町にある学校が小中高一貫とかいうめちゃくちゃ省エネ省スペースな学校という訳ではない。確かに小中は一貫だけど。
こういう町なもので、学校間の連携も結構大変なようだ。色々な行事の兼ね合いで、数少ない学校間の休みはなるべく合わせているというような話を、前に聞いたことがある。
「そろそろ行かないと。二人とも悪い。イクヒ、今度、あー……ほら、漫画貸すからさ」
「ホントに! 約束ね! 絶対だよ!」
「あぁ。絶対ね」
イクヒが小指を差し出してくるので、僕も小指を絡めて、子供の小さな手の振りに合わせて動かした。指切った、と言って手を離した時、イクヒはもう、そのうち借りられる漫画本への期待でいっぱいの目をしていた。
「それじゃミツル、また」
「あぁ。またなシオ!」
過去に戻ってきたとかは関係なく、彼とはまた会いたいと思っていた。二回目の高校一年生の荷川取ミツルは、記憶の中の彼と全く同じ、僕が気に入っていた彼だった。
彼等の厚意を蹴ってまで、しかも前回の流れを早速壊してまで、僕にはやらなければならないことがあった。
「はぁっ……はぁっ……」
まだ間に合うはずだ。きっと彼女はあそこにいる。
「くっ、そ……」
この炎天下に硬い舗装路を走り、山道に逸れて急な階段を登っている最中だった。老体とか足が不自由な人とかの事情を一切気にしていない石階段は、山の中頃にある小さな古びた社に繋がっている。
社に神主みたいな者はおらず、町の所有物ということになっている。すなわち、町の職員である公務員の誰かが、この嫌がらせみたいな階段を定期的に登り、あの社を掃除したり管理したりしている訳だ。その誰かには頭が上がらない。
「つら……」
商店から走ってきて、ほとんど休憩なしで半分を登り切った僕は、中頃にある一つ目の鳥居に手をついて、息を整えることにした。この息切れの状態で彼女に会ったんじゃ、流石に格好が付かない。それに、この時間ならまだそこまで猶予がない訳ではない。
「バク……」
彼女の俯き加減の横顔を今でも思い出せる。ついに一度も笑顔を見ることができなかった。その心の闇の源流を知って、僕は怖気付いた。彼女の闇に触れ、自らもその闇に呑まれることを。
彼女の心に不躾な足跡を残して、余計に傷付けることを恐れた……いや、これは言い訳だ。やっぱり僕はあの時弱虫だった。その背に深くのしかかる憂鬱に、自分の肩を差し入れる覚悟がなかった。だから彼女はあんなことに……。
「いた……!」
石階段を全て登り切ると、何でそんなところにと思わせる木が、参道のド真ん中を確保して伸び立っている。その裏には裏寂れた小さな社があり、周縁を囲むようにして広がる濡れ縁(縁側みたいなヤツ)に彼女が座っていた。
「あ……ぅ…………」
二の足が進まない。頭の中に嫌な想像が巡った。過去の失敗、やったことにもやらなかったことにも後悔する性根の弱さ、僕は果たして前に進もうとしているのか……? それとも、立ち行かなくなった壁に沿って横に逸れているだけ……。
「何で……!」
こんなところまで来てなぜ止まる!? 自分が情けない。もう話しかけるしかない。折角誰とも知らない誰かが、こんな絶好の機会をくれたのに、それを不意にしていいものか!?
「くそッ……」
僕は自分の頬を叩こうとして、音が出たら彼女に気付かれてしまうことを思い出した。中途半端に上げた腕で、もう片手の手の甲をおもいっきりつねり上げる。痛すぎて涙出てきた。
でも、あぁ。そうだ。ここまできて、もう選択肢なんかないだろ。馬鹿が。
「ぐすっ……ん……」
彼女は泣いていた。この場所には誰も来ないことを知っていて、いつもここで時間を潰している。それを教えてもらったのは、もう取り返しが付かなくなかった頃だ。
握り拳に力が入る。僕よりもずっと辛い気持ちでいる彼女の前で、何をくだらない怖気にかかずらっているか。僕なら救えるなんて自惚れたことを言うつもりない。しかし、前回のようにはさせない。そう覚悟しただろ。
「あ、あの!」
声が上擦った。くそ。ここぞという時に格好が付かない奴だな、僕は。
彼女は突然かけられた声に驚いて、目を擦っていた手も一緒に顔を上げた。その表情には悲哀のみならず、恐怖が混じっている僅かに寄せられて吊り上がった眉毛が、癖っぽい茶髪の裏で震えていた。
「だ、誰……?」
彼女は座ったまま少しだけ後退りをした。当たり前だ。突然知らない男が話しかけてきたら、誰だって怖い。でもそんなことで躊躇っていい段階はとっくに過ぎている。
「これ……良かったら」
僕はポケットからハンカチを取り出した。赤い万華鏡柄の小洒落たものだ。祖母の趣味で持たされた。
「え、あ……」
彼女はその柔い髪で自分の肩をくすぐりながら、おずおずとハンカチを受け取った。返事とかお礼は返ってこない。前もそうだった。誤解されやすいが、感じが悪い性格なのではなく、戸惑っているだけだ。それを町の人達すら知らない。
「その……」
ハンカチを持ったまま、彼女はどうすればいいか分からないみたいな目でこちらを見てくる。どうとでもしてくれて結構だ。こんなものいるか、と、茂みの中に投げ捨てたって文句は言わない。バクがそんな奴じゃないことは知っているが、もしそうしたとしても、後で僕が人知れず回収しておくだけだ。流石に自然の中にゴミを放置するのは良くない。
「あ……」
僕はハンカチを渡すだけ渡すと、まるで最初からこっちが目的でしたよ、みたいな雰囲気で、溜まっていた一円玉を賽銭箱に処理して、控えめに鈴緒を振った。
カラコロ、と、これでいいんだかダメなんだか分からない、判然としない音が鳴る。これで僕の作戦終了、後のことはなんにも考えちゃいない。我ながら愚か極まりない。
「あの……! あ、あの……」
僕はまるで偶然指定席が被ったみたいな素振りで、濡れ縁の彼女から少しだけ離れたところに座ると、話しかけるでもなく、何か言ってくるのを待った。
「だ、誰……?」
消え入りそうな声には、強烈な怯えが込められていた。ここで勘違いしてはいけないのは、彼女は誰に対してもそうだ、ということ。ここで腰が引けて慇懃にこの場を去ってしまえば、もうこれ以上の機会は訪れないかもしれない。
「えー……と、あれだ。昨日からこっちに引っ越してきた。
「引っ越し……あっ……」
ちゃんと彼女にも話が伝わっているようで安心した。この時点ではまだ全然彼女の影も形も知らなかったから、この辺は微妙なところだった。
「あ、あの……私、は……」
そこまで言って、彼女は押し黙ってしまった。決して催促したり、「私は、何ですか?」とか聞いてはいけない。別に責めている訳でもないのに、彼女は問責されていると感じてさらに口の結び目を固くしてしまうだろう。
辛抱強く待った。目を見るのも良くない。目を合わせるのが苦手だと聞いたことがある。それを確と本人の口から聞き出すまでに二週間はかかったけど。
「と、
そうしてたっぷり一分くらい間を空けたバクは、まるで悪事を告白するかのように迫真めいた声色で、蚊の鳴くような小さな声で自己紹介をした。
「時任、さん? バクさん? あー……バクさんは、距離近すぎか?」
こっくりと頷いた。やっぱりまだ下の名前を呼ばせてはくれない。
「俺のことは……シオでも真崎でも、あーいや、シオって呼んでくれると嬉しい」
これにも彼女は神妙に頷いた。彼女の方から僕を呼ぶこと自体、少ないだろうが、まぁ希望を言ってみるくらいはいいじゃないか。
「これ、あの……」
彼女は、僕がさっき渡したハンカチを差し出してきた。折り畳んだ布地の端の方が濡れている。
「あぁ」
ハンカチを返してもらう時、バクは僕の目を見ようとはしなかった。青いワンピースの終端から伸びる裸足の白さが、木陰の下では特に眩しい。彼女はこういう時、言葉に詰まってお礼も言えない自分を責めている。自己嫌悪で膝の間に顔を埋める癖のせいで、傍目には拒絶に見えてしまう。
僕は全然気にしていないという素振り(実際気にしていない)を演じながら、ハンカチをポケットに戻す。多分朝にでもこれを用意してくれたのであろう祖母には、後で詫びを入れておこう。何のこっちゃと思われるかもしれないが。
「迷惑だった?」
彼女はふるふると首を横に振った。僕は彼女が首を振ると分かっていてそう聞いた。というか、とにかく会わないと、と思って無計画でやって来たので、準備がない。
「ごめん。ここ、涼しそうだったから」
彼女からの返事はなかった。また無言。無言で軋む床板の上で体育座りをしている。顔は見えなかった。
「……………」
僕も彼女につられて、僕も自然と閉口してしまう。どうにかして頭の中の単語箱をひっくり返してみるも、この場に適当な言葉は浮かんでこない。
あー……こりゃ、失敗したな。いや、前回よりは絶対いいはずだ。少なくともこの時点で彼女と知り合えたのだから、より猶予時間は増えている。最初の高一の夏は、彼女とはっきり知り合いになったのが八月も半ばの頃だから、多分……。
「……あ、あの」
彼女の方から声をかけられるとは思っていなかったから、僕は肩を振るわせた。彼女に動揺が悟られないように、なるべく機嫌良さそうな表情を……くそ、違う、なんだこの下手くそな笑顔は。アホめ。
「あ、ありが、と……」
ありがと、と、言ったのか? バクが、僕に?
「ハンカチ、貸して、くれて……」
「あ、あぁ! いや、気にしないでくれ! こんなの誰かに貸すために持ち歩いてるみたいなもんだからさ!」
僕は一瞬呆けてしまったのを、早口で上書きするようにして返答した。それから、少し声が大きくなってしまったことを後悔した。彼女は大きな音が苦手だ。
しかし、そこに想像していた突然の大声に怯える彼女の姿はなかった。いや、確かに怯えているが、それは今の僕の大声にという訳ではなく、彼女はいつも心痛に苛まれている。つまり、いつも通りの痛ましい彼女の姿だ。
そんな彼女が、自ら顔を上げていた。それは「お礼を言う」というコミュニケーションにおける普遍的な任意ルールを果たそうという義務によるもので、当然彼女の表情に笑顔はなかったが、それでも、彼女の方から話してくれたというのが重要だった。
「う、うん……」
「あぁ……その、嬉しいよ」
「え……?」
「いや、悪い、何でもない。変だな俺」
言ってから自分でもおかしいと感じた。この文脈で嬉しいって何だよ。彼女からしたら意味不明だろう。でも、言わずにはいられなかった。少しでも彼女にネガティブ以外の精神活動を起こせたかもしれないと思うと、小さなトランプタワーを完成させたような達成感があった。
「あの、さ、ここ涼しいから、俺もここに来るかもしれないんだけど……いい、かな」
勢いで聞いてしまった。断られた時のことなんか考えていない。でも、バクに会えるようにならなければ、何も意味がないんだ。それこそ、僕がこの夏に戻ってきた意味さえも。
「…………」
ダメか……いや、当たり前だ。今日会ったばかりの、しかも若干挙動不審の奴が、ほぼまた会いたいという意味のことをほざき始めたのだから、彼女の心境としては恐怖の一方だろう。やってしまった。今のは性急すぎたか。
「あー……何だ、悪い」
何とかして取り戻す方法を考えなければ、とりあえず今のところは退散しよう。これ以上無意味に屯して、他人がいるというプレッシャーを彼女に与える訳にはいかない。
「い、いや、何でもないんだ。ごめん。忘れてくれ。俺はもう消えるから――――」
「いい、よ」
慌てて立ち上がった瞬間に、彼女の小さな声がそう言った。聞き逃さなかった自分を褒めてやりたい。確かに今、いいよと言った。
「い、いい?」
思わず聞き返してしまった。彼女はそっぽを向いたまま、十秒くらい置いて、小さく頷いた。
「あ、ありがとう……! また来るよ。今日は突然ごめん。ぜったいまた来るから!」
やはり、バクは返事をしなかった。これでいい。彼女が無用な恐怖を感じていなかったのだというそれだけで、今は十分だ。
それから祖母の家に帰ってきた僕は、現実感を失っては、取り戻すという繰り返しだった。
「あの、手伝います」
「いいんだよ。座ってな」
「お願いします。俺、結構自信あるから」
夕飯の支度は全部気にするな、という祖母を押し切って、僕は包丁を握らせてもらっていた。三分の一で輪切りにされた大根をかつらむきにしていると、祖母が少し関心したような声を上げた。
「中々包丁が使えるじゃないか。今度から手伝ってもらおうかね」
「へへ。勿論そのつもりです」
それなりの時間を一人暮らしに慣れた男によくあるアレだ。つまりちょっと料理に凝り出すみたいな。だからこれくらいは苦ではない。ただ、正直料理にも慣れ切った頃には、一人暮らしで週に三回程度の自炊でも、まぁまぁ面倒だと思い始めていた。料理の工程それ自体がうまい人よりかは、毎日別の献立を考えて誰かに振る舞っている人をこそ尊敬する。いや、どちらが優れているとかはないんだけども。
「ありがとよ。二人分なのに早くできちまった」
そんなに難しい料理じゃない。昼頃に祖母が事前に作っていたほうれん草のおひたしとか、味噌汁とか、肉じゃが。僕は祖母がテキパキと食卓に皿を運ぶのを背にしながら、たった今調理に使ったまな板や包丁を洗っていた。誰かと料理をするなんて、高二の頃の家庭科以来だ。いや、4年前に戻ってきた今の僕からすれば、高二の調理実習は未来に待ち受けていることか。
「聞いてた話と違うね」
さぁ夕飯をいただこうという前に、祖母がそんなことを言った。何が違うかって、多分僕のことだ。それ以外に何もないし。
「アンタの父さんからは、気難しいから気を付けてくれってよ。でも何だい、全然そんなことないね」
「そう、すか?」
「そうね。てっきりもっとヒネたガキが来るもんだと思ってたよ」
そらそうだ。中身は拗らせまくってた未成年の僕じゃない。成人して、流石にガキの頃みたいな尖り方は良くないなと、己が身を反省し始めた頃の僕であるから、父の話と違うのも無理はない。別段、自分ではあの頃から僅かにでも精神的に成長しているという自覚はないが、少しはマシになっていると思いたい。
「お、うま……」
僕が思わずこぼしたひとり言を耳聡く拾った祖母が、対面で満足そうに頷いていた。
「そうだろう?」
別に凝った作り方とかはしていない。精々ニンジンの切り方を雑な短冊切りではなく、少し気合を入れてそれっぽい乱切りにしてみただけだ。祖母が肉じゃがを煮る姿を隣で見ていたが、特別な調味料を入れている様子もなかった。
何でだろ。祖母の家で食べる肉じゃがって、こんなに美味しかったっけ……。
眠れない。高揚感で眠れなかった。
「集中できね……」
引っ越しの時に持ってきたらしい僅かな冊数の文庫本の一つを取り出して、ぱらぱらとめくってみていたが、どうにも気が乗らない。何度も読み返したから、というだけではなさそうだ。
「バク……本当に……」
いい加減現実感がどうこうとか言われても、諸君からすれば「分かった分かった」と言いたくなるだろう。しかし何度でも言わせてほしいのだが、正直未だにこれが現実だとは信じられていない。これが妙にリアルに迫った長い夢であるという不安から、あるいはまた寝て起きた時、この世界が本当に現実かもしれないという期待が、胸の辺りで酷くうるさい。
自信がある教科のテスト答案を受け取る前のような気分だ。不安と期待がない交ぜになった心地は、早く脱してしまいたいような、しかし長く感じていたい気もする。
会えた……会えたんだ。彼女に……。
「うっ、く…………」
僕は自分の鼻から漏れる嗚咽の声を、布団に押し付けて沈めようとした。それでも止め処なく涙があふれてくる。やりなおせるんだ。これほど貴重な一年は、今後の人生にはもう一度も訪れないかもしれない。
彼女が生きている。死んだはずの
「う、うぅ……う…………」
彼女が自殺したと聞いたのは、大いに受験勉強をサボった挙句、第四希望にギリギリ引っかかって胸を撫で下ろしていた頃のことだ。暮葵町での一年間が終わってからは、もう会えないものだとは思っていたが、まさかそんな形で完全なお別れになるとは思っていなかった。どっかで、それなりに幸せに暮らしているのだと、何の証拠もないのに信じ込んでいた。
彼女は、夜の海に身を投げたのだという。理由は知らされていない。遺書も何もなかった。それを町の人が知ったのは、波に打ち上げられた彼女の、海水で膨張した遺体を発見したからだったそうだ。自殺だと断定されたのには色々理由があるが、彼女の遺体に全く抵抗の痕がなかったということ、薬物や暴力で眠らされた形跡が皆無であったことが大きい。
その時の僕は文系の三流大学に何とか引っかかったことで浮かれており、彼女がどれだけの苦悶に精神を揉まれ、憔悴していたか、考えも及ばなかった。
「死なせない……」
溺死なんて、誰にも見られないところで惨めに死なせるなんて、絶対許せない。自殺にしろ、他殺にしろ、そんなことにはさせない。誰の望みで彼女が死なねばならなかったのか。もし誰かに望まれて死んだのであれば、僕にも望みを叶える権利があるのではないか? 僕の望みに言わせるところによれば、彼女を生かす方の未来がより好みだ。
とにかく、彼女を孤独にしてはいけない。知らないところで死なれるなんて、あんな思いはもう沢山だ。
「死なせない……絶対、死なせない……!」
誰にでもなく、僕はそう決意した。
SF紹介
SFの定義というのがこれまた難物で、中々意見の割れるところでしょう。僕は結構広義に捉えているつもりです。そのため、ここに紹介する中で「こいつはSFじゃない」と思われるものがあるかもしれませんが、まぁそこはお目こぼしください。
『パヴァーヌ』
キース・ロバーツの歴史改変SF群像劇。封建制が続いてしまった二十世紀を舞台に、英国並びに欧州全土がローマ教皇のお膝元となった世界(というか主にドーセット)で織りなす中世的スチームパンク。技術の中でも機関車と腕木通信、印刷業(つまりカトリシズム的にも都合がいい技術)だけが発達した世界で、SF的設定というよりかはその世界に生きる人々の辛苦を克明に描写しています。
これほどの迫真の筆を取れるだけに、日本語で書籍化された作品が(僕の記憶では)これだけというのが非常に残念。生来の気難しさから、本土では出版社や批評家などとの折り合いが悪かったそうですね。もしキース・ロバーツの邦訳を他に知っているという方がいれば、報告いただかなくて結構ですが、内心で「こいつアレを知らないんだ」と、ほくそ笑んでいてください。