あの夏に逆行した青年がみんな救おうとして勝手に曇っていく話   作:イリノイ州の陰キャ

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 しかし、未来時空の僕から見た僕は、僕を構成する〝塵〟の一部に他ならない。




4、背理:否定的解法による時空不可逆性の定義

 

 ショウリの唐突な決闘申し込みは、周囲のギャラリー(小学生8人程度)を大いに沸かせた。

 

「明日の午前10時、この場所に来い! 決闘の内容はその時に伝えよう」

 

 めちゃくちゃ不利じゃん。相手が場所も時間も決闘のルールも決められるなんて、少し僕に与えられた自由の範囲が狭すぎやしないだろうか。

 いや、別に勝とうが負けようがどっちでもいいんだけど、それはそれとして、折角こんな風に催し事っぽくなっているのだから、少しは真剣に向き合うべきだ。やってる奴が本気じゃなければ、見てる方も冷めるだろうし。

 

「見てろよユカ……お兄ちゃんがトカイ人なんかやっつけて、ユカのお兄ちゃんが一番なんだって証明してやるからな!」

「うん……! うん……! 絶対ね、お兄ちゃんがね、一番だから!」

 

 兄妹が熱く鼓舞し合う様は、まるでスポ根モノの一幕だ。あちらさんの熱気に触発されたのか、イクヒも鼻息を荒くして僕の方をこれでもかと見つめてきていた。止めてくれ。僕の顔に穴が空いたらどうする。

 

「シオ! シオも負けないからね! シオも負けないもんね!」

 

 期待が重い。もちろん、この素直すぎる妹分のためにも、全力で頑張ろうという所存ではある。ただ、どんな競技かも分からないうちから気合いを発しろと言われても、中々そうはいかない。それ以上に懸案事項(主に逆行に関すること)を抱えている身としては、すぐに他の物事に集中を切り替えろと言われても……という状況だ。

 

「とにかく明日な。ほら、イクヒ。遅くならないうちに帰ろう」

「絶対勝ってね! ウチね、ハチマキとハッピで応援するよ!」

 

 小学校の運動会で使った奴があるらしい。応援団のハチマキって回収されないんだ。これは学校にもよるだろうけど。

 僕以上に気炎を渦巻かせるイクヒの背を押しながら、僕等は盛り上がってる兄妹と小学生達を置いて先に帰ることにした。前回の高一の頃は、こんな変なイベントに巻き込まれた記憶はないんだけどな……。

 

 

 

 日付変わって翌る日、僕は約束通り、あの浜辺に来ていた。ジャスミンが倒れていたあの、キャラが濃い少年に出会ったあの浜辺にだ。時刻は9時50分。冷たすぎない潮風が気持ちいい。

 

「何で人が集まってる……」

 

 まだ朝だというのに、浜辺の婉曲に沿った枠擁壁の上に、既に見物人がパタパタと足を投げ出して座っている。砂浜にはイベントテントが二箇所ほど設置されており、中でラムネとビールが売られていた。つまり、大人の見物人もここにはいるということだ。昨日唐突に決まった、高校生同士のじゃれ合いみたいな対決を、商機を狙える人数の大人が見に来ているらしい。

 

 暇人しかいねーのかこの町は。

 

「シオ! 早いね! 気合い入ってるね!」

 

 気合い入ってんのはお前だよ。イクヒは昨日言っていたとおり、青いハッピとハチマキに身を包み、そのハチマキにマジックペンで「必勝」と書いていた。いかにもだな。その下が明るい花柄のTシャツでなければもっと良かった。

 

 はぁー…………。

 

 全くこんなことになるとは思ってもみなかった。これじゃトんだ見せ物だ。しかもこの町に来てからまだ三日目だぞ。ロクに町の人への挨拶とか町の把握とかできてないんだけど。

 

「ハッピ暑ぢー……シオー、ラムネ買ってー」

 

 僕は氷水の中で冷やされていたラムネを二本購入し、一本をイクヒに手渡すと、擁壁の日陰でショウリの奴を待つことにした。

 

「ありがと!」

 

 一挙手に至るまでを見られている気がする。トカイ人がラムネを買ったぞ! ……とか聞こえてきた。そらトカイ人でもラムネくらい買うよ。サイボーグかなんかだと思っているのだろうか。お望みならばオイルでもガソリンでも飲んで見せてやりたいところだが、残念ながら僕は人間なので、そんなものをラムネの如くガブガブ飲めば、レースが始まる前にご臨終だ。

 

「なんか大事になっちゃったなぁ……」

「んっ、んっ、んっ……ぷはぁー!!」

「慌てて飲むなよ」

 

 上から押し込んで落としたビー玉が、ラムネ瓶の半ばで小気味のいい音を鳴らした。ビー玉を押し込んで開栓するこのピンクのプラスチックの物体、なんて名前なんだろ。

 

「あー、うま……」

 

 何をさせられるんだろうか。一体。水泳とかだと正直自信はない。いや、人並みには泳げるが、つまり、人並みだ。ビーチバレー対決? 一対一でそれはないだろう。あるいはこの浜辺で相撲とか。僕のフィジカルじゃ負けは見えている。

 もし相撲を競技として宣言したら猛抗議しよう。一方的に決闘を申し込んでおいて、全部そっちの好きにできるなら、出来レースもいいとこだろ、てな感じに。

 あれ、なんか僕、意外と興が乗っているのか……?

 

「待たせたな。真崎史緒ッ!!」

 

 スポーツウェアにヘルメットを被ったショウリが、デカい声で人混みを一喝した。ズルいぞ。こちとらワイドジーパンだぞ。運動するには重いんだけど。いや、勝負と言われた時点で、運動に最適な服を選ばなかった僕の失態か。

 彼は小脇に抱えていたヘルメットを投げ渡してきた。

 

「早速だが決闘の内容を全然しよう。オレと競ってもらう競技内容はそう……」

 

 そうとか言われても全然検討なんかついてないけど。ただ町民等は薄々気付いているようで、期待に溢れた眼差しで僕等を見下ろしてくる。クラス対抗リレーのアンカーになったみたいな気分だ。

 ショウリは腕組みをして目を瞑り、沈黙によって観衆の膨れる期待を煽ると、唐突に刮目して宣言した。

 

 

 

ママチャリレースだッ!!

 

 

 

「うおおおぉぉ!」

「待ってましたー!!」

「ショウリー!! 前回大会準優勝者の実力をトカイ人に見せてやれーッ!」

 

 周囲の盛り上がりが凄い。熱気が四割り増しになった。ただでさえ蒸し暑いんだからやめてくれ。あー、ラムネ飲み切っちゃった。

 

「説明しよう! ママチャリレースとは、ママチャリでおこなうレースであるッ!!」

 

 全然説明になってないので、僕が補足を入れておこう。まぁ精々斜めに読み飛ばしてくれ。

 暮葵町では、毎年夏になると様々な大会が開催される。全て町民には参加権が完全に解放され、また名前を記述さえすれば旅行者の参加も認められる。その辺めちゃくちゃ緩いのは田舎って感じがする。とはいえ、参加者はみんな本気だ。

 その数ある大会の一つがこれ。ママチャリレース。暮葵町の沿岸部(つーかこの場所)から山の麓までを走り、また外周をぐるっと回って戻ってくるという非常にシンプルなコースを取る。

 自転車はカゴ付きの電動ではないママチャリに限定される。タイヤも最近の全ゴムみたいな奴じゃなくて、都度空気を入れなければならないもの。ギアがあるものは6で固定しろ、という風に、意外と厳しめに規定を作っているようだ。こういう大会にプロ仕様のスポーツサイクルを持ち出すなんてのは興醒めだし、誰でも用意できる〝ママチャリ〟というのが加減がいいのかもしれない。

 

「オレは去年、このママチャリレースで惜しくもイクヒのとこの爺さんに敗北を喫し、準優勝に甘んじた……」

 

 そういえばイクヒにはめちゃくちゃパワフルな漁師の祖父がいたっけ。成人男性を一度に二人とか振り回す剛腕の男。

 

「その親族であるお前に勝てれば、今年の自転車レースこそ、勝利の……ショウリの日の目があるッ!!」

 

 なるほど、イクヒの祖父という目標を見据えて、僕を現在の己の実力を測るための試金石にしようという腹積りらしい。だからイクヒがあそこまで気合いを入れていたのか。僕を含めて親族同士の対決みたいな気分なのだろうか。

 

「上がれ! スタート位置まで案内する!」

 

 舗装路に上る階段を二段飛ばしで登るショウリを追って、僕もスタートの目標らしき白線が書かれた位置まで移動する。公道になんてことしてるんだ。警察は止めなくていいのか。お巡りさんもオーディエンスに混じってたけど。

 

 うーん。それにしても、どうしよう。ママチャリなんて持ってないぞ。こっちに持ってきた荷物は大部分が服と本、それから高校に必要なものだけだ。高校はバスを利用しないといけない距離があるようで、自転車が活躍できる場面がない。

 

「なきゃ貸すぜ」

「あぁ。それじゃ――――」

 

「シオーー! こっちー!」

 

 イクヒの呼び声に会話を遮られた。本当によく通る声だね君は。

 

「あっ」

 

 客席と化した擁壁の方を見ると、イクヒの隣にはその母と、祖父が立っていた。二人とも興味深そうにこちらを見ている。しかも祖父の方に関しては、イクヒ同様にハチマキとハッピを着て仁王立ちしていた。ハチマキの中央には〝無敗〟の二文字。流石にその二文字は威風にあふれすぎじゃないか。というか〝無敗〟なんて頭に掲げているのに違和感がない見た目が恐ろしい。

 負けたらお前は古葉一族の恥晒しだ! とか言われるんだろうか。いや、僕は古葉じゃなくて真崎だけど。

 

「真崎君か」

「あ、はい。は、初めまして」

 

 話しかけられた。イクヒの祖父は小さな子が見たら泣き出しそうな巨躯で、しかも筋肉もすごいもんだから、僕は怯えた風な態度が透けないようにするので精いっぱいだ。

 むっつりと結ばれた唇を開くと、その眉間の細かなシワも相まって、枯れ木のウロのように貫禄を醸している。体は大きな古木の如くまんじりともせず……本当に根とか張ってないだろうな。ガッチガチだ。

 

「孫と遊んでくれよぉとな。迷惑かけとんか?」

「い、いえ! むしろ僕の方が元気もらってます」

「ほーか。あいがとなぁ」

 

 隣ではイクヒの母が微笑んでいた。会釈を返すと、朗らかな笑みを浮かべる。イクヒにそっくりだが、イクヒの祖父とは全く似ていない。こっちも親子らしいんだけどなぁ。ただイクヒとその祖父に関しては、何となく眉毛が似ているような気がする。

 

「これ使ってけ。ちゃあで用意しとった」

 

 多分、いいタイミングで用意してあった、みたいなことを言っている。彼が指差したのは、中々年季を感じさせる青い自転車だった。しかし手入れは行き届いており、チェーンは新品のように銀色を発しているし、泥ハネ避けが取られたフレーム部分はBMXみたいに見えなくも……ない、かも。

 

「い、いいんですか」

「よけ。血ィ繋がっとるよしみじゃ。これ乗って気張りぃ」

「あ、ありがとうございます」

 

 身長に合わせてサドルを下げ、試しにまたがってみる。ペダルが軽い。それに本体も軽かった。どうやら大会のためにがっつり改造してあるようだ。流石町民。本気だ。

 

「で、出た!!アレが出たぞッ!!」

「伝説の〝コバジェット・ニアマリンカスタム〟だッ!!」

「説明しよう! 〝コバジェット・ニアマリンカスタム〟とは、ママチャリレース12連覇中の古葉庸三(コバヨウゾウ)氏が初優勝の際に使用していた名ママチャリのことである!!」

 

 解説モブみたいな奴が沸き始めた。長いよ名前が。というか初優勝の際、ということは、今は別のママチャリを使っているのか。イクヒのお爺ちゃん、そんなに何台も自転車を用意しているのか? ママチャリレースのために? 熱意が違いすぎる。

 ……確かにこのコバなんたら、軽く乗ってみただけでそこらのママチャリとは比べるべくもない良品であることが分かる。素人の僕にすら。しかし他方を見ると、ショウリの自転車にもマニアみたいな人が何人も引っ付いていた。

 

「見ろ! ショウリの奴、〝クレギシャークtyc 2,0チューン〟を出してきやがった!」

「くっ、〝クレギシャーク〟って、この大会のためだけに暮葵町の板金屋が趣味で製造販売してるとかいうあの!?」

「マジかよ! 最強と名高い〝コバジェット・オーバーカスタム後期改修型〟にも匹敵するというモンスターマシンをかッ!?」

 

 それがママチャリに付ける名前か? 大仰すぎるだろ。ロボットアニメみたいなことをしたいという気持ちは分かるけど。

 あと解説役を二人も用意するなよ。そういうのはどっちかにだけ喋らせて、もう一人は適当なリアクションとかさせておけばいいのに。何を煩雑な工程を踏んでいるのか。

 

「悪ィがな、シオ。本気でいかせてもらうッ!」

 

 そのチャリの名前を聞いたら本気なのは分かるよ。僕だって勝ちを譲るつもりはないけど、それにしたって勝ちにかける熱意が別格だ。背後にオーラが見える。

 

「お兄ちゃーん!! 頑張ってー!!」

 

 いつの間にかギャラリーは勢力を左右に二分していた。僕(というか古葉側)を応援する派閥と、ショウリを応援する派閥に分かれている。当然彼の妹はショウリの側に立っていた。

 

「シオッ!!」

「お、おう。始めるか?」

 

 

 

 …………なんだこの嫌な間は。

 

 ショウリはたっぷり20秒くらい黙ったまま僕の顔を眺めてきた。そしてこの一言。

 

 

 

「準備運動だッ!! 見てる奴等も輪になれッ! まずは屈伸だッ!!」

 

 あー。そら妹にも好かれるわ。

 

 

 

 現在位置、中間地点。海風の気持ちいい臨海部を通過し、山の麓へ続く町中への通りに切り替わる。一般車の侵入禁止とコース限定目的で、ご丁寧にパイロンが設置されていた。準備時間一日しかなかったけど。誰がやったんだろう。

 

「はぁっ……はぁっ……!」

「どうしたトカイっ子! オレは、全然、余裕だぜッ!!」

 

 僕等はここまでほとんど並走状態で抜けてきた。要所らしきポイントで待つ疎らな観客の声援に背を押され、何とか食らいついている現状だ。くそっ、運動能力にはそこそこ自信があったつもりだったんだけどな。ショウリの無尽蔵な体力に負けている。

 現在は、競馬とかでいうハナを前に抜かれている状態だ。ほとんど差はないが、僕の体力的にも、そろそろ距離を離されるかもしれない。

 

「くっ、う……まだまだァ!」

 

 大声を出して疲れを誤魔化してみた。一瞬だけは効果がある。木陰と日向が順番に迎える右曲がりのカーブを走り切り、ここからゴールまでの直線ライン、長い長い下り坂がお目見えする。

 僕は前傾姿勢の体をさらに横に倒し、ブレーキを使わずに無理やりカーブを曲がり切った。スピードを落とす訳にはいかない。今減速してペダルが重くなれば、この後ショウリの前を取るどころか、背に付くことすら叶わなくなってしまう予感があった。

 

「へっ、ラストスパートだッ! 行くぜぇ!!」

 

 下り坂に差しかかったのは、1秒未満の差でショウリが先だった。

 ここからは体力ではない。下り坂というスピードの乗りやすい場所で、どれだけバランスを失わず、かつ自然には人体が体感しない速度に怯えずにいられるかという勝負になる。

 

「いくぜッ!!」

 

 坂道を順調に加速していくショウリのスピードに焦って、無理にペダルを回すのは悪手だ。突然のスピードアップに体が慣れずにバランスを崩してしまうかもしれない。焦らずにスピードを上昇させ、ここぞという瞬間を……。

 

 

 

 速度……たとえば、光速に近くなればなるほど、物体の時間は停滞するという。そもそも質量がある物体が光速に耐えられるかどうかは脇に置いておくとして、停滞に上限がないという前提が可能なのであれば、理論的には光速を超えた速度で物体が動作すれば、少なくとも過去方向への時間移動が成立する。

 しかし、いや、あえてと言ってもいい。何らかの加速器によってこの身が逆行したのだとは思えない。なぜなら、逆行しているのは僕という単一の物体だけでなく、地球そのものの時間が完全に逆行している。地球を量子に変換し、加速器で僕には見当も付かない規模の電子ボルトで加速させた後、停止させ、再構成したというのだろうか。

 僕の身に起きた〝逆行〟という不可思議な現象が、古典物理学の範疇で説明できるような原則の下に存在するであろうか? もっとエネルギーレスで複雑な過程を踏む別の方法があるように思えてならない、それというのも僕は……。

 

 

 

「あ」

 

 気が付くと、隣には焦ったような表情を浮かべるショウリがいた。僕の自転車は火花でも散らしそうな勢いでチェーンを回転させ、坂の角度が平行に近くなる頃合いに、さらに加速し始めていた。

 

「あれ……」

「クソッ! 急に速ぇ!!?」

 

 無意識のうちにすごいスピードが出ていた。多分、理性が問題なく、というべきか、とりあえず自意識が己を指差せる間においては、絶対に出さないであろうスピードが出ている。自動車でもないのにこの速度に乗ってしまったら、もうブレーキには頼れないというようなギリギリまで。

 

「おぉ……」

 

 間抜けな声が出てしまった。

 僕は今恐怖を忘れている。止まることなんか一切考えていないのに、どっかのニューロン回路に異常なシグナル分子が混入したみたいに、足だけが回り続けている。

 

「このままじゃ……」

 

 焦りを滲ませたショウリの独り言が、さっきから僕の耳にも届く声量で聞こえてくる。彼は熱中していて、自分の口から何事か文句が垂れていることにすら気付いていない様子であった。

 

「ま……けるかァ!!」

 

 熱された地上の怪炎が、ショウリの中に渦巻く不揃いな血液の流動方向に作用し、ペダルを漕ぐ足の筋肉に吸い上げられるようにして、全身を闘志が巡る。

 僕は鷹揚にそよぐ浮雲の影に隠れては、また脱した。まるで処理の拙いゲーム画面のように、不自然に視界が急発進と急停止を繰り返す。滑らかに対数的なグラフ軌道で加速していく体の感覚との乖離に戸惑えば、その時点でショウリの後塵を顔に被る予感があった。

 

「頑張れー!! 頑張ってお兄ちゃーん!!」

「飛ばせー! 追い越せショウリー!!」

「トカイ人なんかブチ抜いちゃえー!!」

 

 右方でショウリへの声援が聞こえれば、

 

「フレー、フレー、シオー!!」

「頑張れ、頑張れシオー!!」

 

 左方には語呂の悪い定句の応援が聞こえてくる。声こそ出していないが、シオの祖父の視線があることも分かった。

 

「うおおぉぉぉ!!!」

 

 ラスト5メートル。ショウリの雄叫びを合図にするかのように、僕達は並び合って白帯に突っ込んでいく。ペダルやチェーンの音が近くに聞こえ、もうどっちがどっちの自転車から出ている音なのか、誰にも判別がつかないようになった。

 

 

 

「最後までよく頑張ったなー!」

「あんちゃん! 準優勝のショウリ相手にすげーじゃねーか!」

「二人ともいい走りだったぞー!」

 

 僕等、つまり僕とショウリは、熾烈な最終盤のデッドヒートを走り抜け、道の先に設置してあった巨大なマットに激突した。だからいつ用意したんだよ。

 それから自転車を降りると、先程まで観客であった町民達にもみくちゃにされ、こうして健闘を讃えられている訳である。

 

「まさかショウリの奴相手に〝引き分け〟とはなぁ!」

 

 知り合いでもないおじさんに、そんな風に言われながら頭をガシガシと撫でられる。そう、結果から言ってみれば、引き分けということになった。

 ……正直、こんなものはお祭り裁量だと言っていい。僕の体感ではハナ先ギリギリで彼に抜かされているので、もしこの大会にビデオ判定みたいなハイテクな機能が導入されていたら、完全にショウリの優位が証明されたことであろう。

 

「シオー、お疲れー」

 

 イクヒは上機嫌だった。祖父に買ってもらったのか、二本目のラムネを手にしている。炭酸の糖液が刺激的で爽やかな香りを醸すので、自転車を漕いで汗を流した体は、突然水分を欲していることを思い出した。

 

「よぉ走りだった」

「え……」

 

 イクヒの祖父が、労いの言葉とともに横から顔を出し、麦茶のペットボトルを手渡してきた。冷たすぎない案配で冷えている。

 

「飲みぃ」

「あ、どうも」

 

 自転車を回収したイクヒの祖父も、無表情ながらどこか満足そうだった。こんなことを自分で思うのもアレだけど、貸してもらったものに恥じない程度の活躍は見せられたのではないだろうか。内心ではネガティブな意味で納得いっていないとはいえ、一応引き分けに持ち込めた訳だし。

 

「シオ!!」

 

 僕とは反対方向で労われていたショウリが、彼を囲む町人達を何とか引き剥がし、僕の方へと向かってきた。

 

「……真崎史緒、今回は、オレの負けだ」

 

 そして出し抜けにそんなことを言うので、その場にいた全員が面食らった。負けも何も、しっかり確認したらむしろショウリの勝ちと言ってもいいのだが……。

 

「え、引き分けじゃ……?」

 

 思わず僕がそう言うと、ショウリの側にいた彼の妹が「そうだよ! お兄ちゃんは負けてない!」と彼を擁護した。

 僕もこれを勝ちとは見たくない。突然始まった初参加の催し事とはいえ、僕にもプライド的なものはある訳だから、心境としては素直に喜べない。

 

「いや! これじゃダメだ。お前はルールも知らない状態で、オレが用意した土俵の上で戦って、オレと引き分けた……こんなもんは引き分けじゃねぇ!」

 

 というのがショウリの言い分だった。というか、半ば奇襲染みたやり方で勝負を決しようとした自覚はあるようだ。

 何にせよ、怪我なく終わることができてよかった。途中から僕まで熱くなっていたし、あのスピードまで加速したはいいものの、どうやって止まるかは全くノープランだったから。

 

「今度は再来週の水泳大会で勝負だ!!」

 

 その目はすでに引き分けを忘れ、先にある二度目の対決に向かって眼光を効かせていた。そういや水泳大会なんてやってたな。あれもイクヒの祖父が連続優勝とか聞いたことがあるような気がするけど。

 

「それまでに泳ぎを磨いておけよ!」

 

 まだ出るとは言ってないんだけどな。ま、いいか。そのくらいの暇はある。

 

 

 

「あっちー……」

 

 帰ってきて最初にやるべきことと言えば、エアコンを付ける。これだね。六畳を冷やすのに大した時間はかからない。

 その調子のまま畳に寝転がると、投げ出したスマホの画面に指を当てて、時刻を表示させた。昼の12時。この疲労感でまたどこかに出かけようという気分にはなれなかった。

 

「これからどうすりゃいいのか……」

 

 なぜあんなことになってしまったんだろう。バクも、ジャスミンも、ショウリも。

 いや、原因は分かる。僕だ。僕の怠慢が何もかもを狂わせた。あれほど近くにいたのに、何もしなかった。

 これは僕に与えられた贖罪の機会なのだろうか? つまり、後始末でも尻拭いでも言い方は何でもいいけど、とにかくお前の責任でなんとかしろという、そういう意図で僕が選ばれたのか?

 

「…………」

 

 自転車を漕ぎながら思いついたことがある。たとえば僕の時間逆行の仕組みを、単純に時空間の物理的な移動であるとした場合、その座標間の距離は簡単なユークリッド計量で求められないだろうか。

 

 そうだな……〝時間〟を4次元ベクトル空間を構成する基底の一つであると見なし、時間を表す基底の代数をtとしよう。三次元的な空間成分は順当にxyzで表示して、そして過去時空間をここではp、未来時空間をqとしてみれば、僕が逆行した時間の3次元的最短距離は……

 

  d ( p, q ) =

 √{( x2-x1) 2+ ( y2-y1) 2+ ( z2-z1) 2+ ( t2-t1) 2}

p, q は 順不同)

 

 こんな感じに表すことができるだろうか。

 

 しかし時間は当然だが、空間とは全く別の振るまいをする。 全ての基底を同一属性に見なすこの簡略的な計算は、時間という暫定的な概念が不可逆であるという問題を全く無視している。完全に妄想の範疇だ。

 だからといって波動関数とか内積を取って重なりを見るとか、そんなものは僕には全く分からない領域だ。そもそも内積では僕等の感覚で言うところの物理的距離を測ることはできないし。時間をそんな掴みやすい形状で理解しようという前提がおかしい訳だけど。

 

 時間が巻き戻らないなんて普遍的な事実は、普通に人生を生きていれば帰謬法的に、かつ自動的に証明される。ま、自明の理ってヤツ。それを破壊されて混乱しているからだろうか。僕はそろそろ魔法とか神様とかを信じてもいい気分になっている。僕等の意思や理論では説明できないものが、今ここにある訳だから。

 

「やめよ」

 

 もっと頭を使うべき問題が山ほどあるはずだ。時任バクについては解決の糸口どころか、何を解決すればいいかも判然としていない状況だし、彼女以外にも何とかしたい奴が何人もいる。頭の中で数列の夏を謳歌するのも結構だが、見た目の高尚さもほどほどに、不毛の加減では何度も読んだことのあるマンガを読み返すのとそう変わらないぞ。

 

 ブブー!

 

 インターホンが鳴った。ピンポーンじゃない。何かにたとえようにも、どうしても品性に欠けた比喩に流れてしまいそうな音。

 祖母は……この時間は大体やることを片付けて、昼寝でもしている時間だ。僕が出るしかないか。

 

「はーい」

 

 サンダルをつま先に引っかけて、僕は建て付けの悪い引き戸を剥がすようにして開けた。

 

「あ……」

 

 そこにいたのは、僕の貧しい発想では何とも形容しきれない、まるで夏が人の姿を取って歩いているかのような少女だった。

 後頭部の高い場所で結った短いポニーテール。同じ方向に揃った見事な黒髪の下に隠れた切れ長の目、女性然とした丸い顔。

 日避けになっているのは精々黒い野球帽だけで、深緑のノースリーブに短パン、サンダルという露出具合で、この炎天下なのにどういう訳か白さを保つ瑞々しい肌。

 

「あの、真崎さんのお宅で、合ってますか?」

 

 新木ジャスミン。訪問者は、浜辺で倒れていたところを介抱した、あの少女だった。

 

 





SF紹介
 今のところSF要素、ほぼここだけ。
 という現状に焦りを感じた作者は、物語の流れをぶった切った上にカスみたいな数式を書いてSFアピールを試みるのであった……。

『我もまたアルカディアにあり』
 ライトノベル(のレーベルから出ているだけのスラッシャーSF)作家、江波光則氏のSF小説。アルカディアマンションに幽閉された、臓器とかつまらん常識とか色々オミットした人々の生活。いわゆるディストピア文学というものに該当するでしょうね。とはいえ、そういう系の最大手である『1984年』や『動物農場』とは毛色が全く違うので、オーウェル的主義を想像しているとちょっとギャップを感じるかも。あるいは何の先入観もなしに見ると、滅びを間近にした退廃的な超技術世界という手の施しようのなさが、多くの人が想像する〝ディストピア〟に近いかもしれません。
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