7限目の授業が終わった。
気の抜けたようなため息と、椅子を引く音が至る所で聞こえて、ホームルームが始まるまでの僅かな時間に生徒たちは帰り支度を始める。
でも僕は机に突っ伏したままだった。
精神が疲れ切っていて動く気になれないのだ。
珍子の泣き顔を思い出す度にあのタイミングで言うしかなかったのだと、それが彼女のためなんだと、心のなかで繰り返す。
そうやっていつまでも言い訳している自分が嫌だった。
自分で傷つけたくせに。
苦しみを感じることすら烏滸がましいと思わないのか。
無気力に制服のポケットからスマホを取り出した。
ブラウザのお気に入りからニコニコ動画をタップすると、アドレスバーの下の細長い線が左から右へとじんわりと進んでいく。
投稿した動画も消したほうがいいだろう。
あんなものが残っていたから、珍子の人生を歪めてしまったんだ。
僕がニコニコ動画にアクセスしようとしている最中に、教室のドアが開き、担任の先生が入ってきた。
「はい、みんな席について。ホームルームを始めるぞ」
先生がそう言うと、ぞろぞろと生徒たちが席に戻っていく。
僕もなんとか起き上がって姿勢を正すと、先生の視線が珍子の席に向けられた。
「おや、白鳥はいないのか?」
その言葉に教室内が一瞬静まり返った。
先生の言うように珍子の席は空のままだった。
過去に一度、僕と屋上で放課後までニコニコ動画を見ていたときでさえ、ホームルームには教室に戻っていたというのに、今日に限って彼女は一向に姿を現さない。
あんなことがあった後だから、僕がいる教室に戻りたくないのだろう。
だが、先生に心配をかけるのは違う。
電話でもかけた方がいいだろうか。
そう思って、手元のスマホに目を向ける。
スマホの画面は白いままで、まだニコニコ動画のサイトにアクセスできないでいた。
というか、よく見るとアドレスバーの下の線が全く動いていない。
更新ボタンを押すと、画面に「サーバーに接続できません」というメッセージが表示された。
学校のWi-Fiに繋げたために制限をくらっているのかと思って、ネットの接続状況を確認してみたがそんなことはなかった。
試しに別のサイトにアクセスしてみると、問題なく接続できる。
なぜかニコニコ動画だけにアクセスできないのだ。
なんだこれ?
困惑していると、不意に後ろの席のクラスメイトが大声で叫んだ。
「おい、ニコニコ本社が爆発したらしいぞ!」
その言葉に教室内がどよめく。
「はあ? 爆発ってなんだよ、冗談だろ?」
「いや、本当だって! ネットニュースで流れてきたんだよ!」
僕もスマホを操作してニュースサイトを開く。
そこのトップに見出しが大きく表示されていた。
「……速報、ニコニコ本社爆発。サービス停止で混乱広がる」
「そんな……」
呼吸が浅くなり、空気を吸おうとしてもうまく肺に届かない。
まるで心臓が自分の意思とは無関係に暴れ出し、身体の中で跳ね回っているかのようだ。
全てが、無くなってしまった。
その事実を受け入れられず、頭の中が真っ白になっていた。
あれほど否定してきたものだ。
あってはいけないものだと、存在が罪なのだと何度も言い聞かせてきた。
消えることを望んでさえいた。
けれど、どうしてこんなにも辛いのだろう。
心を埋め尽くすのは喪失感と後悔。
僕は何を望んでいるんだ。
他人に合わせるためについた嘘。
自分の感情を押し殺し、そうすることで周りと溶け込もうとした日々。
その積み重ねが、僕自身を惑わせ、本心さえも霞ませてしまったのだろうか。
僕は、自分のことがわからない。
砂のように崩れていく世界を前にうなだれる僕の心には、はっきりとしたものが何一つ残っていなかった。
──私は、好きなものを堂々と好きだと言える自分でいたい。
不意に珍子のことが頭をよぎった。
彼女もまた、ニコニコ動画を愛している。
しかし、すでにニコニコ動画は消滅した。
彼女は今、どこで何をしているのだろう。
その時だった。
「キャー!」
早々にホームルームを終えて部活に向かう途中だったのだろう、校庭の方から女子生徒の悲鳴が聞こえた。
その直後、廊下の方で誰かが叫んだ。
「屋上に人がいる! 柵を乗り越えてる!」
廊下から聞こえた声に僕の身体は反射的に硬直した。
慌てて他の生徒たちに知らせる声が次々と広がり、ざわめきが校舎中を包み込んでいく。
遠くのクラスからも戸惑いの声が聞こえてくる。
──屋上?
「……珍子!」
全身の血の気が一気に引いた。
教室の騒ぎが遠くなって、耳鳴りのように聞こえる中、僕は廊下に向かおうとした。
そして、すぐに足を止めた。
窓際にへばりつくクラスメイトたちが視線を外に向ける中、ひとり教室の中心で立ち尽くす。
僕が行っていいのか?
珍子が泣いたのは僕のせいだ。
焦りと恐怖が押し寄せる。
もし珍子が僕を拒絶したら?
逃げてばかりの僕に珍子を連れ戻す事なんてできるのだろうか?
足が、動かない。
まるで地面に縫い付けられたように、ただその場に立ち尽くす。
指先まで冷たくなり、鼓動の音まで遠のいていく。
僕なんかが行ってもきっと何も変えられない。
そう思って、俯いた瞬間だった。
──痛いですね…これは痛い
どこか耳に残る独特な声。
顔を上げると、そこには──
「あ、あなたは……!」
それは、この場には居るはずのない存在だった。
身長は170センチ、体重74kg。
筋肉質の逞しい肉体に、身に付けているのは灰色のブリーフだけ。しかもやけにもっこりしている。
──えーっとそうですね…伸縮性のあるボクサー型のっていうんですかね、ちょっとスパッ…ツに近い感じ
「でもそれブリーフじゃ」
──そうですね…うーん…ブリッ、ブリーフもいいんですけど、ふたいたいはボクサー型の
すごい、本物だ!
頑なにブリーフを認めようとしない!
もはやネットミームとして知らぬ者はいないであろう至高の男優。
野獣先輩。
その彼が僕の眼の前に立っていた。
「でもどうして野獣先輩がここに?」
──まずうちさぁ、屋上…あんだけど、焼いてかない?
「そうだ! 屋上! 今、ニコニコ動画が無くなっちゃって、珍子っていう淫夢厨が飛び降りようとしてるんですよ! だから野獣先輩が行って勇気づけてくれませんか?」
──ないです
「そんな、どうして!?」
──王道を征く
野獣先輩はそれだけ言って、僕を指差した。
「無理です! 僕にはできません!」
──頭にきますよ!
「だって僕は、珍子にひどいことを言ってしまったんです。それにいつも逃げてばかりで、しょっちゅう嘘をつくし、親に泣かれるわ、友達に拒絶されるわ、それにあなたのことも傷つけました。僕は生きているだけで迷惑をかける人間のクズなんです!」
──わかるわかる(タメ口)
「でしょう? だから僕にはなんにもできないんです!」
──んまぁそう…よくわかんなかったです
「なんでわからないんだ!?」
僕は半狂乱になって喚き散らした。
そんな僕を野獣先輩はしょうがないねとでも言いたげな顔で見つめた。
──お前のことが好きだったんだよ!
野獣先輩は唐突にそう告白すると、僕のポケットの中にするりと飛び込んできた。
僕は驚いて尻もちをつく。
あの大きな体躯がこの小さなポケットの中に入り込むなんて、物理的に不可能だ。
なのに、あたりを見渡しても野獣先輩はいなかった。
僕は恐る恐るポケットに手を差し入れる。
なにかが蠢いている感覚がする。
引き抜くとそれはただのUSBメモリだった。
──行きませんか? 行きましょうよ。
そう、野獣先輩が僕を励ましてくれているような気がした。
「くっ……ひぐっ……くっ……うっ……ぐ、ぐぅ……!」
僕は泣いた。
野獣先輩の優しさにではない。
この期に及んで一人で淫夢ごっこなんかをしている自分に絶望して、だ。
しかも、野獣先輩という淫夢の被害者に僕を好きだと言わせる無神経さ、傲慢さ。
恥ずかしいなんてもんじゃない。
僕は本当にどうしようもないやつらしい。
きっと生まれた事自体間違っていたんだ。
「フ、フーッ……ハッハッ、アハ、アハ……! アハハハハハ! アッハッハッハ!」
でも、僕は笑っていた。
こんなときなのに、いやこんなときだからこそ。
創作意欲が溢れて止まらない。
ニコニコ動画が爆発して淫夢が見れなくなったから、死のうとしてる馬鹿がいる。
その馬鹿の下で淫夢ごっこをして遊んでいるもっと馬鹿なヤツがいる。
そんなものが動画のネタになるのだ。
なんて不謹慎なんだ。
死ぬべきは珍子ではなく、僕だろう。
それでいい。
いいわけがないが。
でも、そうやって意地を張ることしかできない。
それが僕の生きるということなのだろう。
「そうと決まれば、視聴者が必要だ」
僕は立ち上がって、教室の扉を開ける。
廊下に出ると、生徒や先生がいくつかの集団になって騒いでいる。
そのざわめきを突き抜けるように、僕は階段に向かって走り出した。
──いいゾ~これ
──お前、もしかしてあいつのことが好きなのか?(青春)
──男なら、背負わにゃいかん時はどない辛くても背負わにゃいかんぞ!
──俺はお前の味方だゾ! 頑張れ!
──ああ^~いいっすね~
──覚悟決めろ
心臓が速く鼓動を打ち、人とぶつかる度に足元がふらつく。
そんな僕を励ますようにどこからか語録の幻聴が聞こえた。
──生きてる証拠だよ
──私は負けない!
──がんばるしかないよ
──ベストを尽くせば結果は出せる
──大丈夫だって安心しろよ~
──突っ込めって言ってんの、ね? 突っ込めって言ってんだよォ!!
そこをどけよ、精神異常者のお通りだぜ!
人の波をかき分けて進むうち、喧騒が徐々に遠のいていった。
ざわめきは背後に消え、気づけば僕は静まり返った廊下に立っていた。
両側に窓が並ぶ人気のない長い廊下。
その先に、たった一人の人影があった。
男子生徒だ。
彼はこちらに向けて腕を組み、廊下の真ん中で立ちはだかっている。
壁にもたれるでもなく、ただ僕を見据えている。
その視線には無言の問いかけが込められているように感じた。
「君は、だいちくん」
名前を口に出した瞬間、体の奥がざらつくような感覚に襲われた。
僕が動画投稿を辞めるきっかけとなった友人。
いや、今となってはもう友人と呼べる間柄ではない。
だいちくんは何も言わない。
ただ、目を細めて僕を観察するようにしている。
その無表情が、かえって冷たく感じられた。
だが、立ち止まってはいられない。
僕はもう辞めたんだ、自分を偽ることを。
「そこをどいてくれないか」
だいちくんは眉ひとつ動かさず、そこから動こうとはしない。
「お前はそれでいいのか?」
その低く鋭い声が、廊下の静寂を突き破る。
息が詰まるような緊張が走った。
「覚悟はできている」
自分でも驚くほど、声は強く響いた。
他人に嫌われても。
爪弾きにされても。
石を投げられても。
吊し上げられても。
袋叩きにされても。
消えろと言われても。
それでも、僕は自分を貫き通す。
僕がそう宣言すると、だいちくんは目を瞑り、首を傾げ、心底失望したようにため息を吐く。
そして、ふっと口元を歪めるように笑った。
「なら、これを受け取れ」
だいちくんは僕の近くまで歩み寄ると、なにか小さなものを放り投げてきた。
僕はそれを片手でキャッチする。
手のひらを広げれば、そこには銀色の鍵があった。
「……これは」
「どうも屋上にいるヤツは鍵をかけて閉じこもっているらしいからな」
それは屋上の鍵だった。
同時に懐かしい記憶が蘇る。
うん
屋上…あんだけど…
はえ~
焼いてかない?
あ~、いいっすね~
ウン
だいちくんが淫夢厨だった頃、僕達は屋上で毎日のように四章を再現するという気色の悪いお遊びをしていた。
つまり、屋上はもともと僕とだいちくんがいた場所だったのである。
その時、だいちくんが複製した二本の鍵の一本を僕はもらったのだ。
友情の証として。
それを彼が手放すということは、そういうことなのだろう。
「これで僕達は他人か」
「そうだ」
「いいよ、この鍵のことも僕が一人で作ったことにしてやるよ」
「あー、マジ? 助かるわ」
「その代わり、二度と君と関わることのない、過去の友人の頼みを聞いてくれないか」
「……まぁ、俺に出来ることなら」
僕はだいちくんに耳打ちする。
その内容を聞いた瞬間、彼の顔が険しくなった。
「そんなことやったら、お前、学校にいられなくなるぞ」
「それがどうした?」
「狂ってる」
「それ、誉め言葉ね」
僕はポケットからUSBメモリを取り出し、彼の手に押し付ける。
「ちなみに失敗したら、先生に君の名前出すからよろしく」
「おい!」
「頼むよ、もうこれが最後だからさ」
僕はだいちくんの肩を叩く。
すると彼は小さく舌打ちしてから、階下へと走り出した。
「さようなら」
遠ざかる彼の背中に独り言のようにそう呟くと、最後にだいちくんが手を振るのが見えた。
「じゃあな!」
その声が廊下に響き渡り、天井に染み込んで消えていく。
なんだよ、あいつ。
全然淫夢忘れられてないじゃん。
彼が最後に僕にかけた言葉、それはゆうさくからの引用だ。
そして、それは僕が淫夢厨になったきっかけでもある。
そんなだいちくんとの出会いを思い出すのであった。