昼休みの教室は、喧騒で満ちていた。
机を囲んでおしゃべりに興じる声、スマホを覗き込んで笑い合う生徒たちの弾んだ笑い声。
けれど、その輪のどこにも僕の居場所はなかった。
僕は自分の席にぽつんと座り、購買で買ったサンドイッチを口へ運びながら、ただ時計の針が進むのを待っていた。
そうしていると、聞くつもりもないのに周囲の会話が耳に飛び込んでくるものだ。
「白鳥さんってすごく綺麗よね。あの髪、自分で巻いてるのかしらぁ?」
「ほんと美人ね、お人形さんみたいだわぁ」
女子たちのひそひそ声につられて、僕はふと視線を上げた。
窓際、そこに彼女はいた。
どこかこの騒がしさから切り離されたように、ただひとり。
彼女の背中には、月光を閉じ込めたような淡金色の巻き髪がいっぱいに広がっていた。
白い肌は透き通るようで、遠くから見るだけでもその柔らかそうな質感が際立っている。
形の良い鼻筋と、淡い桃色の唇。そして、凛々しい金の瞳はどこか遠くを見つめ、長いまつげがその美しさをさらに引き立てている。
一言でいうと、絵画から出てきたような美少女であった。
彼女のことは知っている。ここ私立印務中学校で一番のお嬢様だ。
名を白鳥珍子という。「珍」と書いて「うず」と読むらしい。読者の良心を信じてルビを振るような愚行はしない。
彼女の家系は代々続く旧華族の名門で、明治時代から政財界で重きをなしてきた由緒ある家柄らしい。彼女の曽祖父は実業家として財を成し、現在でも国内有数の資産家として知られている。
彼女自身もその名にふさわしく、成績は常に学年トップ。スポーツ万能で、特に空手と水泳はプロ級の腕前を誇る。
彼女の存在は夜月のようだった。眩しく、手の届かない美しさに、誰もが目を奪われる。
僕もその光に惹かれた一人だった。
だが、完璧すぎる彼女には、誰も踏み込めない壁のようなものがある。
それは──白鳥珍子は人前で笑ったことがないということだ。
彼女の表情はいつも凛として冷たく、その物憂げな表情は他者を近づけさせない。
それでも、いつか彼女の笑顔を見てみたいものだった。
きっととびきり素敵な笑顔だ。
願わくば、僕が彼女を笑わせられたらいいのに。
だが、僕と白鳥珍子は生まれからして違う。
彼女は名家の出で、容姿にも恵まれ、きっと本人の資質まで完璧なのだろう。
何ひとつ欠けることのない、豊かで満ち足りた人生。
それに比べて、僕はどうだ。
いつだって他人の顔色ばかり窺って、何もできないつまらない人間。
だから、これから先の人生、僕と彼女との間には何の関わりも無い。
そのはずなのに。
ふと、珍子がこちらを見た。
一瞬だけ、目が合う。
彼女の物憂げな金眼の奥に、何か揺らぎのようなものが見えた気がした。
けれど、次の瞬間には、さっと目をそらし、再び窓の外へ視線を戻してしまう。
……なんだったんだ?
妙な胸騒ぎを覚えながら、周囲のざわめきに意識を戻す。
教室の前の扉からだいちくんが入ってきた。
そして、自然とみんなの輪の中に入っていく。
そんな風に誰も彼もが、違和感なくその場にいて、そのことが僕に違和感を覚えさせる。
息苦しさが胸を締めつける。
僕は、なんなんだ?
たくさんの人の人に囲まれているから一層の孤独を感じる。
ここにいるのが嫌になった。
サンドイッチが入っていた袋を折りたたむと、そっと立ち上がった。
周囲の視線を避けるように静かに教室を後にする。
向かった先は屋上。
複製した鍵で扉を開けた瞬間、肌を撫でる風が頬を冷やした。
騒がしい教室から解き放たれたように、心の奥に詰まっていた重たいものが少しずつほどけていく。
目の前に広がる空はどこまでも高く、澄んでいた。
雲がゆっくりと流れ、さっきまでの喧騒が嘘のように遠のいていく。
風が吹き抜けるたび、胸の奥の固まったものまで一緒に運び去ってくれるようだった。
手すりに触れ、深く息を吸い込む。
やっと、一人になれた。
僕は屋上に座り込んで、昼休みが終わるまでの時間を遠くの景色を見ながら過ごした。
◯☆
放課後は数時間図書室で勉強してから、家に帰ることにしている。
親に淫夢バレして以来ずっと気まずいからだ。
できれば家に帰りたくないまである。
「ぬわああん疲れたもおおおおおおん」
図書室を出て、あくびをしながら思わず声が漏れた。
好きでもない勉強を数時間続けて疲れていたのだろう。
思ったよりも大きな声が出てしまった。
いかんな、気を抜くと心の中の野獣先輩がこんにちはしてくる。
気を引き締めていけ。
放課後の廊下には夕焼けが差し込み、窓際の床をオレンジ色に染めていた。
遠くから吹奏楽部のトランペットの音が響き、グラウンドからは運動部の掛け声と金属バットがボールを打つ軽快な音が聞こえる。
そして、通り過ぎる掲示板には進路に関わる書類が画鋲で止められていた。
その全てを他人事のように感じていた。
だからやることなすこと妥協ばかりで、余った時間はYouTubeショートに消費されていく。
そうして僕は大人になっていくのだろうか。
心に空いた穴から冷気が吹き込んでくるような気がして、知らずポケットの中に手を入れた。
「あれ? 無い」
制服のポケット全てひっくり返すと、次にカバンの中身を廊下にぶちまけて、目を皿のようにして"例のアレ"を探した。
まずい、"アレ"が誰かの手に渡ってしまうと僕の学生生活が終わるナリ。じゃなくて、終わってしまう。
「そうか、今日は体育があったから、ロッカーにしまったのか」
急いで鞄の中に教科書やノートを詰め込むと、小走りで自分のクラスの教室に向かう。
その途中、「忘れもの、忘れもの」と二回繰り返すだけでそれに繋がる卑猥な言葉を言い出しそうになってしまうのはもはや病気であろう。
教室の前の廊下にたどり着くと、辺りを見渡し、誰もいないことを確認してからロッカーを開ける。
そこにはUSBメモリが置かれていた。
それは僕が過去集めてきた素材や、作り上げてきた動画のデータをコピーしたUSBメモリだ。
動画投稿は辞めたが、どうしてもこれだけは捨てられずにいる。
しかし、これを家に置いておくと、また母が余計なことをしそうだから仕方なく学校に持ってきているのだ。
そして、この中身を誰かに知られたときが僕の最後だろう。
僕は安堵のため息を吐くと、USBメモリを手に取り、制服のポケットに押し込むと、バァン! (大破)とロッカーの扉を締めた。
その時のことである。
どこからか歌声が聞こえてくるではないか。
唐突な告白、しかしそれはどこか懐かしい。
それは確かに教室の方から聞こえてきた。
「誰かいるのか?」
返事はない。
僕は恐れとともに唾を飲み込むと、決心して教室の扉に手をかけた。
ギシ、と軋む音。
わずかに開いた隙間から中の様子を伺う。
教室の中央。机と椅子は端へ追いやられ、そこだけが別世界のように空間が切り取られていた。
その中心で、淡金色の巻き髪の少女が踊っていた。
背を向けたまま、白磁のような腕をゆるやかに広げ、しなやかに弧を描く。
ふわり、ふわりとスカートの裾が揺れ、そのたびに金の髪が柔らかく跳ねて光を弾いた。
細やかなステップはまるで床に見えない波紋を描くかのようで、彼女が動く度に空気は静かに震え、風が吹いたわけでもないのにカーテンが揺れた気がした。
彼女の周囲だけがひときわ幻想的に浮かび上がって、僕は息をするのも忘れて見惚れていた。
しかし、それはまさしく幻想であった。いや、幻覚というべきか、それとも悪夢と言い切ってしまってもいいのかもしれない。
ただのダンスなら良かった。
だが、僕はそのミュージカル風の曲調を知っている。
そして、「YAJU&U」というアルファベットと「114514」という数字を作る振り付けを知っている。
それは野獣先輩ダンスであった。
「何やってんだ、あいつ……」
踏み入れてはならない禁忌の領域に足を踏み入れたような感覚。
脳の奥から軋む音がし、警鐘のような不協和音を幻聴する。
見るな、と訴えかける心。
しかし、目はもうその光景から逃れられない。
そして、曲が間奏に入った。
そのとき──
女子生徒が、優雅にターンを決めた。
くるりと回転し、止まる。
そして、そのまま二人の視線が重なった。
「あっ……」
一瞬、時が止まったかのような静寂が降りる。
「……見た?」
そう言って頬を赤らめた彼女は、僕が密かに意識していた相手、白鳥珍子だった。
……たまげたなあ。
きっとその時の僕は世界一間抜けな顔をしていたに違いない。
だって、好きな子が淫夢厨だったんだもの。
へぇっ!? ってもうダブル☆オドロキですよね。もうどうしたらいいんだろう。
放心する僕より先に動き出したのは、珍子だった。
スマホから流れていた「YAJU&U」のカラオケ音源を切ると、ズカズカと僕の前まで近づいてきたのだ。
そして、開口一番にこう問うた。
「貴方この曲を知っているの?」
巧みだ。
僕は内心うろたえた。
つまり、彼女は間接的な表現で僕が淫夢厨であるかを訊いているのだ。
まさに「指摘したら淫夢厨ってバレるな……」というやつだ。
「僕は、その曲を、知って」
「知って?」
「知っている」
珍子が目を見開いた。
僕は目を閉じた。
──淫夢厨は嫌いなんだよ。
「TikTokの曲だよな?」
「……それは本当?」
「それ以外のどこで流行っているっていうんだ?」
僕がすっとぼけて見せると、珍子は僕の顔をじっと見つめて嘘をついていないか観察する。
そんな風に美人に詰められることなんて初めてのことだったので少しドキドキした。
だが、僕は嘘を付くことに慣れていた。それが僕のライフワークだからね。
だから珍子には僕が淫夢厨であるとの確信が持てない。
余裕そうな僕の態度が納得できないのか、彼女は眉をひそめた。
次に彼女は僕の周囲をうろうろと警察犬のように回り、わずかでも異常が無いか確認する。
そして、くるくると何度も回る度にその顔は次第に失望に変わっていく。
彼女のそんな表情を見たのは初めてのことだった。
「ま、それならそれで都合が良いわ」
「は?」
「貴方、このスマートフォンで私が踊る姿を撮影してくれないかしら」
「と、撮るの?」
「ええ」
「撮ってどうするんだ?」
「もちろん投稿するのよ。ニコニコ動画にね」
そう言って、珍子は僕を教室の中に連れ込むと、最新型のiPhoneを押し付ける。
それがあまりにも自然な動きだったので思わず受け取ってしまったが、こいつ今なんて言った?
ニコニコ動画に投稿する、だって?
自分が「YAJU&U」を踊る姿を?
頭おかしいんじゃないか。
「僕がこのスマホで撮影するなら音源として使えないぞ?」
「それなら貴方のスマートフォンを使えばいいわ」
「そ、そうですか」
辞めさせようと設備の不備に言及したが、かえって僕まで巻き込まれる結果に。
心のなかで泣きながら、「YAJU&U」と検索した。
頼むから僕の検索履歴を汚さないでくれ。
「タイトルは「YAJU&U」というの」
「え? あ、はい」
「ん?」
「いえいえ、何でも」
まずい。珍子に教えて貰う前に検索してしまった。
僕は淫夢厨じゃなくて、元淫夢厨のノンケ。
こんなつまらないことでボロを出すわけにはいかない。
机の上に僕のスマホを置いて、音量をマックスに。
「準備できたぞ」
「はい、よーいスタート(棒読み)」
録画開始のピコンという音がして、イントロのヴァイオリンが愉快に響き始める。
珍子はその音に導かれるようにステップを刻み、リズムに合わせるように肩を揺らした。そして軽やかにビズマーキー。
体を斜に構えて揺らし、ウチという言葉に自分を指差し、返す手で屋上らしきジェスチャー。
いかにもわからなそうに肩を竦めると、手を頭の後ろで組む野獣先輩ポーズ。
そのまま体のラインをなぞるようにしてセクシーさを演出。
なんでこんなに本気なんだ。
僕のことを指差すとぶりっ子ポーズをしながら、突然の告白。
そして、僕は驚いた。
──白鳥珍子が笑っているではないか。
ぱっと花が咲いたような笑顔だ。
不覚にも可愛いと思った。淫夢厨なのに。
腕を縦横に振り、タンタンタンとリズムに合わせてステップを踏むと、次はサビだ。
パタンと顔の前で手を叩くと、元気よく「Y」、「A」、「J」、「U」と体で表現し、「&U」で僕を指差す。この振り付けを見る度に「僕も!?」と驚愕してしまうが、驚くべきことにこの曲は他人をも巻き込むのだ。
珍子は素早く数字を作り、右手を頭上で回す。
そのまま間奏だ。
そして、僕と彼女の目があってしまったキックをしながらの一回転。
さらにもう一回転。
珍子は野獣先輩ポーズを取りながら腰を横に振り、ギターを引くフリをする。とっても楽しそうだ。
来た! 怒涛の野獣先輩ラッシュ!
これだけ激しく動いているのだから息も乱れているだろうに、珍子の「YAJU&U」は指先までピンと伸ばして一切の疲れを感じさせない。
それどころか、一回、二回、三回と繰り返していくうちに、だんだんと動きのキレが増してイキイキとしている。
そして、最後にくるりと後ろを向くと左足を手前にクロスさせ、つま先を突き立てて終わった。
僕は録画を止めると、自然と拍手をしていた。
恥じらいも、馬鹿にする気持ちも無く、純粋に淫夢が好きなんだと思わせてくれる、そんなダンスだった。
この踊りを見るだけで彼女の心根がわかるというものだ。
「素直な感情が伝わってくる良い踊りだった」
「そ、そう? 照れるわね」
「照れる必要なんか無い!」
「え、えひっ、えへへ。ま、当然よね。もっと褒めてもいいのよ」
「あんたイカれてて、ぶっ壊れてて、最高に輝いているよ!」
赤くなった顔をあせあせと扇ぐ白鳥の手を、僕は両手で握るとぶんぶんと振った。
すると彼女は耳まで赤くなって、顔を伏せた。
「あ……わ、わたしこれからヴァイオリンのお稽古がありますので、失礼しますね!?」
珍子は教室の扉を勢いよくスライドさせるとそのまま駆け出していった。
アレは嘘だなとガタイで分析。
今更になって淫夢ごっこが恥ずかしいことに気づきやがったのか。
「まったく、とんでもないヤツだな」
そう呟いて、ふっと笑みが漏れた。
あれ、僕、笑ってる?
そういえば、久しぶりの淫夢だったのか。
こんなホモビデオネタの何が面白いんだが。
それでも湧き上がる歓喜を抑えられずにはいられない。
でも、笑ってはいけない。
淫夢はもう卒業したんだ。
先に帰ってしまった珍子の代わりに机と椅子を元の位置に戻すと、戸締まりをして教室を後にする。
「あちゃあ、スマホ返すの忘れてた」
ま、明日返せばいいか。
窓の外、オレンジに染まっていた空は次第に群青へと溶け、壁に伸びる影は長く細くなっていく。
もうすぐ"夜"が始まろうとしていた。
引用
モチモチ様『ヤジュセンパイイキスギンイクイクアッアッアッアーヤリマスネ【踊ってみた】』