全身が軋むように痛い。
どうやら無理な姿勢で眠ってしまったらしい。
「今、何時だ?」
かすれた声で呟くと、すぐに穏やかな声が返ってきた。
「11時半よ。あれから一時間は経ってるわ」
「え?」
驚いて顔を上げると、目の前にはベッドに横たわったまま、こちらをじっと見つめる珍子の顔があった。
僕はびくりと後ろにのけぞる。
そんな僕の反応が可笑しかったのか、珍子はくすりと微笑むと、上半身を持ち上げてベッドボードに背中を預けた。
「あなたがAI拓也を流してくれたおかげですごくよく眠れたわ」
「でも、まだ一時間しか寝てないんだろ? 本当に大丈夫なのか?」
僕の心配をよそに、珍子はどこか満足そうだった。
「なんだかすごく深い眠りだったのよね。もしかして、あなたがそばにいてくれたから安心できたのかしら?」
「そ、それならよかったけど」
気恥ずかしさに視線をそらす僕を見つめながら、珍子はふーんと興味深そうに金の目を細めた。
「ところでひとつ聞きたいのだけれど、どうして貴方は私のスマートフォンのパスコードがわかったのかしら」
「はぁ?」
思わず声が裏返る。何を言っているんだ、こいつは?
「目が覚めたら、私のスマートフォンが枕元に置かれていたの。で、思い出したのよ。昨日、あなたに預けたままだったわね。だから持っててくれたのね。そこまでは理解できるわ」
「あ、ああ。たしかにそのとおりだ」
戸惑いながらも、僕は相槌を打つ。
だが、珍子はにやりと口角を上げ、まるで獲物を追い詰めるように意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「私がわからないのはね、誰も知らない秘密のパスコードである810931を、どうして貴方が知っていたのかってことよ」
そりゃそうだ。
誰だって自分のスマホを勝手に使われたら疑問に思う。
僕はなんて迂闊なんだ。
自分から淫夢厨である証拠を残してしまうなんて。
「……Face IDを使っただけだ」
「無理よ、寝顔じゃ反応しないわ」
「ぐっ……」
鋭い指摘に咄嗟についた僕の嘘はあっけなく砕かれた。
「不思議ね。淫夢厨でもないあなたが、どうしてそんな意味不明な数字の羅列を入力しようと思ったのかしら?」
痛いところを突かれて僕は沈黙するしかない。
「答えは簡単よ」
珍子は勝ち誇ったように微笑む。
「あなた、嘘をついているわ。それならすべて説明がつくもの」
その一言で僕のポーカーフェイスはついに崩れた。
まさか、こんなところで、僕が淫夢厨だとバレるのか?
いつかのように足元から音もなく砂となって崩れ落ちていくような感覚に襲われる。
全身がひやりと冷え、背中を伝う汗の感触だけがやけに鮮明だった。
他人に自分の罪を知られること。
それは怖いことだ。
だから、僕はここで終わるわけにはいかない。
緩みかけた頬の筋肉に力を込め、動揺の色を塗り潰すように表情を引き締める。
「申し訳ないが僕は淫夢厨という言葉を知らないし、パスコードは100万分の1の確率を引き当てただけなんだ。そして君はこの偶然を否定できない」
苦し紛れの説明だったが、完全に否定できるわけでもない。
少なくとも、僕が自分から認めない限り、彼女の99%の確信が100%の事実になることはないはずだ。
だから僕は、ぎりぎりの線で否定し続ける。
「……そうね。あまりにも非現実的で、馬鹿げた話ではあるけれど」
「だろう? 僕は、君の言うような淫夢厨なんかじゃないんだよ」
無理に取り繕った笑みを浮かべる僕に、珍子は少しだけ視線を伏せ、何か考え込むような素振りを見せた。
「では、別の話をしましょう。今日の貴方の授業中の不自然な行動。あれは私が不覚にも淫夢ごっこをしてしまったときに貴方はそれを隠したのよ。つまり、貴方は淫夢ごっこが恥ずかしいことだと認識しているのね」
「違うね。君が体調不良で苦労していたから手助けしてやっただけさ。あんな些細なミスで君が笑い者になるのは心苦しいからな」
嘘をついている時、僕は饒舌になる。
「でも、私がAI拓也を聞きながらでないと寝られないと言った時、貴方はスマホを取り出すより先に何が聞きたいのか尋ねたわ。もしも貴方が本当にノンケなら、AI拓也という動画が複数あることを知らないはずなのにね」
「大した観察眼だね。でも、本当にそうだったのかな? 寝不足の君が都合よく記憶を作り変えたんじゃないの? この部屋に監視カメラがあるわけでもないのだから、君はそれを証明することはできない」
僕の往生際の悪さに、珍子は苛立たしげに爪を噛んだ。
あと少しで彼女を打倒し、この状況を抜け出せると思った。
「記憶の作り変えね。でも貴方は確かに「たくや姫」を再生したわ。検索履歴に残っているもの。どうして「たくや姫」なんて寝落ちするのに最適な作品を選び出したのかしらね。投稿されたばかりの作品とか、再生回数が一番多い「AIの力で拓也に保育園を開園させた」とかならまだ不慣れなノンケっぽいのだけれど」
「それは違う。AI拓也のタグで一番再生回数が多いのは「AIを使って拓也さんをセルゲームに強制参加させる」という釣り動画だ。まぁ、淫夢厨ならそのくらい知ってて当然じゃない?」
「そ、そうなの?」
「そうだ……あっ」
「……マヌケは見つかったようね」
しまった!
まさか、淫夢知識を持っているがゆえの自爆を誘われるとは!
白鳥珍子、侮れないやつ!
どうにかしてこの窮地を切り抜けようと、僕は必死に思考を巡らせる。
そして、ひらめく。
「あ、窓の外に野獣先輩!」
「え、ホント!?」
珍子は僕の言葉に騙される。
僕は仕切りのカーテンを勢いよく払いのけ、保健室の外に向かって走り出した。
「騙したのね!」
「馬鹿が!」
「逃さないわよ!」
怒った珍子は逃げ出した僕の背中に向かってベッドから勢いよく飛びかかってきた。
不意を突かれた僕は体勢を崩し、そのまま床をごろごろと転がりながら押し倒される。
「何すんだおまっ……流行らせコラ!」
「〆サバァ!」
気がつけば仰向けに倒れ込み、珍子は僕の腹の上に跨っていた。
「こう見えても私、空手の全国大会で優勝したことがあるの」
「空手に寝技なんて無いぞ!」
「でも、野獣先輩は寝技も得意よ」
「それは違う寝技だ!」
珍子は必死に抵抗する僕の手首を掴み、そのまま覆いかぶさるように床に押さえつけると、彼女の淡金色の巻き髪がカーテンのように僕を包み込んだ。
揺れる髪の中で彼女の金の瞳が、どこか冷徹に、でも確かな意思を宿して僕を見下ろしている。
「これでもう逃げられないわよ」
「なんで僕がこんな目に」
「貴方が逃げるからでしょ」
まさに絶体絶命。
このまま僕は淫夢厨であるとカミングアウトをさせられてしまうのだろうか。
しかし、そんなことよりもはるかにまずいことをしている気がしてならない。
考えてみれば、僕は今、同級生の女の子に組み敷かれているのだ。しかもお互いの呼吸が混ざり合いそうなほど至近距離で。
そんな異常事態に冷静を装おうにも、どんどん感覚が研ぎ澄まされ、冷静になれない僕がいるのだった。
「どうしたのよ、急に顔を赤くして」
「わからないのか? 君、僕の上に乗っているんだぞ!」
珍子はその言葉を聞いた途端、目を見開き、顔を赤く染めた。
「そ、そんなつもりじゃ──」
彼女がそう言おうとすると、突然保健室の扉がガラッと開くと、廊下から叫び声が聞こえた。
「キャー! 保健室で中学生が不純異性交遊してるー!」
保健室の先生が帰ってきたのだ。
しかもこんな最悪なタイミングで。
しかし、さっきのお遊びとは違って本当に問題になりそうな事態になると、かえって気持ちが落ち着くものだ。
僕と珍子は目を合わせると、頷きあった。
僕は大きく息を吸い込むと、その命を尽くさんばかりに大声を出した。
「ヌゥン! ヘッ! ヘッ!
ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛
ア゛↑ア゛↑ア゛↑ア゛↑ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!!!
ウ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ!!!!!」
それは僕が中国の某淫夢厨に影響されて一人で練習していた目力先輩のモノマネであった。
まさか、こんなところで披露するハメになろうとは思いもしなかったが。
「アカンこれじゃ患者は死ぬゥ! 」
珍子も合わせるようにそれらしい語録を使って、胸骨圧迫のマネごとをしている。
しかし、グハッ、こいつ結構力を入れてマッサージするから、臓器が口から溢れてしまいそうだ。
「一体ここで何が起きているの!」
「先生はAEDを持ってきてください! 今すぐに!」
「ええっ!? わ、わかった!」
混乱する保健室の先生に珍子が畳み掛けると、先生は驚きながらもAEDのある職員玄関の方に走っていった。
「今だ!」
僕は一気に身体を起こすと珍子の手をぐっと掴み、そのまま保健室の外へと飛び出した。
「ちょ、ちょっと! どこに行くのよ!?」
驚く珍子の声が背後で響くけれど、振り返っている余裕はない。
視界の端に映る「走るな」と壁に貼られたポスターを無視して、廊下を駆け抜け、僕達はひた走る。
足音が廊下に反響する。
曲がり角で珍子がコケかけるも、手を引いて体勢を立て直した。
階段につくと、一段飛ばしで駆け上がる。
息が切れそうになるが、振り返れば彼女も必死に走ってついてきている。
「屋上まで行くぞ」
最上階に着くと、僕は制服のポケットから銀色の鍵を取り出して、開錠する。
「えっ、その鍵……」
珍子の困惑する声が背後から聞こえたが、今は説明している暇はない。
扉を押し開けた瞬間、視界いっぱいに澄み渡る青空が広がった。
屋上に飛び込むように駆け込んだ僕たちは、勢いのまま真ん中で倒れ込んだ。
冷たいコンクリートの感触が背中を打つのも気にせず、仰向けになって大の字に広がった僕は息を吐き出した。
隣で珍子も、美しい巻き髪を広げながら横たわっている。
最初は荒い呼吸だけが聞こえていた。
けれど、お互いに目が合った瞬間、その愚かしい姿がたまらなく可笑しくて、僕たちは同時に吹き出した。
「んふふっ」
「あはははっ」
風に吹かれるまま、空を見上げる。
世界の境界線を消し去ったように果てしなく広がる青空が解放感で胸を満たし、雲は白く淡い無垢で、風がそっと頬を撫でるたびに絡みついていた見えない鎖がほどけていくようだった。
立ち上がって見下ろせば、整然と並ぶ校舎の窓、決められたルールの中で行き交う人影。
それらはすべて遠く、まるで別世界の出来事のように霞んで見えた。
ここにはルールも、役割も、縛りつけるものもなく、ただ、そこにあるのは解き放たれたような自由と、無限に続く静かな青の世界だった。
「いい場所ね」
「逃げるのにぴったりなんだ」
息を整えた珍子がフェンスを掴む僕の後ろから話しかける。
僕は振り返り、彼女の顔を正面から見つめた。
「君みたいなお嬢様が淫夢厨だなんて世も末だな」
「だって面白いんだもの」
「まったくその通りだ」
「え? じゃあ……」
「そうだ。君の期待通り、僕は淫夢厨だ」
正確には「元」であるが。
だが、今だあの輝きを忘れられないのだから、それこそ嘘であろう。
僕はこの場所では嘘を付く必要がないのだ。
「私、自分の趣味をわかってくれる友達が欲しかったの。なのにどうして私から逃げたのよ」
「逆に聞くがどうして逃げない? 淫夢厨であることは恥ずかしいことなんだぞ」
「好きだから。それ以外に理由は必要で?」
珍子はわずかに顎を上げ、淡金色の巻き髪が陽の光を受けてきらきらと輝いた。
その金の瞳はまるで真実を見抜くかのようにまっすぐで、揺るぎない自信を宿している。
「私は、好きなものを堂々と好きだと言える自分でいたい」
風に揺れる髪を押さえもせず、彼女は凛とした笑みを浮かべた。
その姿は、誇り高く、まるで何者にも縛られない自由そのもののように見えた。
僕はその姿に正しく憧れた。
「……それなら、仕方ないね♂」
「仕方ないね♂」
僕達は顔を見合わせて笑った。
「ねぇ、せっかく授業をサボったのだからここでニコニコ動画でも見ていきましょうよ」
「どうせ淫夢なんだろ?」
「それしかないじゃない!」
僕が一人で過ごした屋上には、もう一人の淫夢厨が増えて、僕達は一人から二人になった。
そして、二人は屋上に座り込んで、放課後まで一つのスマホの画面を見て過ごした。