「白鳥さん、空手やってるって本当?」
「幼稚園の頃から習ってますわ」
「結構やってるんだ! じゃあ技とか見せて!」
「ちょっとだけならいいわよ……オルルァ!」
乾いた破裂音が教室中に響くと、哀れな机くんは天板から真ん中から二つに折れ、四つの足が均等にひしゃげていた。
それ大丈夫なやつなんですかね。
「うわー、カッコいい! これで悪い奴らをボコボコにするんですね!」
「そんな大げさなものじゃないわ。ただ、たまに役立つときもあるのよ」
「役立つって、どんなとき?」
「ちょっと前に男の子を捕まえるときに使ったわ」
「男の子?」
「私に嘘ついて逃げ出した悪い人がいたのよ。だから押さえつけてやったの」
「もしかして白鳥さんって危ない人?」
最近、珍子は他のクラスメイトたちと話すようになった。
僕はその様子を、今日も教室の隅から眺めていた。
当初、彼女は誰にも心を開かないように見えた。
教室ではいつも一人で、窓際の席に座りながら外をぼんやりと見つめていた。
その退屈そうな表情は他人を寄せ付けない冷たさがあった。
だが、いつからだろうか。
珍子の雰囲気が少しずつ柔らかくなり、誰かが話しかければ自然に笑顔を見せるようになった。
最初は一人、また一人と話しかける人が増えていき、今では彼女がまるで最初からそうであったかのように馴染んでいる。
彼女が笑顔で他の人と話している姿を見るたびに、胸の奥で何かが苦しくなる。
それが何なのかは自分でもよく分からない。
ただ、彼女が変わっていくたびに、自分だけが取り残されているような感覚が強くなっていくのだ。
珍子の笑顔は、もう僕だけのものではなくなった。
僕がいなくても、彼女は十分に輝いている。
ふと考えた。
もう僕が彼女の側にいる必要は無いのかもしれない。
そう思うと、心の奥に鋭い痛みを感じた。
僕はたまらず教室を出た。
すると、バタバタと後ろから珍子が追いかけてきた。
「今日の昼休みは屋上に来てくれるかしら?」
「すまん、今日は図書室で勉強したいんだ」
「それなら私が教えてさしあげましょうか?」
「いや、結構だ。君が来ると目立つからな」
「……そう」
「……ごめん」
理由をでっち上げては僕は珍子を避ける。
その度に珍子はシュンとして、僕は胸が締めつけられるような感覚に襲われる。
矛盾だ。
僕は珍子の幸福を願い、不幸にしている。
自分でも何がしたいのかわからない。
ただ、分かるのは僕が側にいると珍子にとって悪影響だろうということだ。
早くまともな友達をつくるべきだよ。
僕なんかといていい人ではない。
そんなことを続けて数週間が経った。
「そこの君、ちょっと止まって! 淫夢バッジは持っているかな?」
廊下を歩いていると、珍子は僕の前に立ち上がり、両の手のひらを大きく広げて見せつけてくる独特なポーズで僕の進路を塞いだ。
「淫夢バッジってなんだよ」
「淫夢バッジは淫夢バッジよ」
「そんな意味不明なもの持っているはずがないだろ」
「持っていないのね。じゃあ、このまま屋上に来てもらうわよ」
珍子は僕の腕を掴んで屋上に連れて行こうとする。
「待ってくれ」
僕は彼女の手を取って、立ち止まった。
彼女もそれ以上進もうとはせず、足を止めて振り返る。
「なに?」
「……今日は先生に呼ばれているんだ」
「嘘よ」
「嘘じゃない」
「いいえ、嘘よ。あなたは嘘をつく時、いつも辛そうな顔をする。長い付き合いだもの、そのくらい分かるわ」
珍子の声はいつになく冷静だったが、その端々にわずかな震えが混じっていることに気づいた。
「……最近、私のこと避けてるわよね」
「避けてるわけじゃない」
「また辛い顔。ほら、やっぱり分かるわよ、あなたのことなら」
「この気持ちが君に分かるか」
感情を押し殺した低い声でそう言うと、僕は逃げるように彼女の横を通り過ぎようとした。
だが、その前に彼女が立ち塞がる。
「待ちなさい! 言いたいことがあるなら話して! 悪いところがあるなら直すから!」
彼女の叫びには怒りよりも悲しみがにじんでいた。
「……それなら言わせてもらうけど」
珍子と目があった。
その金の瞳はいつかのように揺れている。
「君は淫夢厨を辞めるべきだ」
その瞬間、珍子の目が大きく見開かれる。
「冗談よね?」
「こんなときに冗談は言わない」
「……どうして?」
「どうしてって、淫夢は所詮、人権侵害コンテンツなんだ」
言葉を口にしながら、これが彼女を否定することになるのだと分かっていた。
それでも僕は言わなければならなかった。
僕の失敗を彼女に繰り返させたくはなかったから。
「私、例のアレに救われたんだよ。貴方も淫夢厨なら分かるでしょう?」
「ああ、そうだな。でも、だからこそ思う。淫夢は存在してはいけないのだと」
「今更そんなこと言わないで」
「今になって思い知ったから言うんだよ」
「うるさい!」
珍子の声は震え、目元が赤くなっていった。
僕はこれ以上言葉を続けることが怖くなった。
きっと嫌われる。
せっかく憧れの人とこんなに仲良く慣れたのに。
それでも珍子の未来を思えば、言わなくてはならないと思った。
「君みたいな人が持つ趣味じゃない。あんなものにのめり込んでいては、君は不幸になる」
「それなら不幸になってもいい!」
「いいわけないだろ!」
珍子は僕に怒鳴られたことに驚いたのか、体をビクリと震わせた。
視線を下に落とし、自分の手をぎゅっと握りしめたまま、唇を噛むようにして感情を堪えようとする仕草が、かえって彼女の動揺をはっきりと物語っていた。
「今ならまだやり直せるから」
「……貴方はどうするのよ」
「君と距離を取ることにした」
「どうしてそうなるのよ」
「僕といると君は不幸になる」
「そんなことないわ」
「無理だ。僕はもう取り返しがつかないんだよ」
珍子の頬に一筋の涙が流れ落ちた。
声を上げるわけでもなく、ただ静かに、堪えるような震えをその肩に見せながら、溢れる感情を涙という形でこぼしていた。
普段の凛とした姿が嘘のように、珍子の姿は弱々しい。
見ていられなかった。
胸の奥が押し潰されそうになり、その涙を拭き取ってやりたい衝動に駆られた。
けれど、僕にはその資格がない。
そんな権利は、とうの昔に自ら放棄してしまっていたのだ。
「そう、貴方も私から離れていくのね」
僕は何も言えなかった。
涙を流すことすら許されないのだと、ただ目を伏せていた。
やがて、珍子は僕に背を向けて歩き出す。
僕は追いかけなかった。
その場に立ち尽くすのみで、だんだんとその背中が遠のいていく。
そして、珍子は足音が一つしかないことに気づくと、逃げるように廊下を走り去っていった。
振り返ってもくれない。
それを寂しいと思うのは、僕の身勝手だ。
そう分かっていても、胸の痛みは消えない。
僕は人を傷つけてばかりだ。