逆転世界はもうどうしようもない   作:あああああ

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52 君なら知っているだろう

 

 『信頼の魔法』に時を止める効果はない。

 だが、まるで時間ごと凍結されたかのような、冷たい静寂があたりを包んでいた。

 

 キサラの『嫌悪の魔法』が行き場を失う。

 『不信の魔法』が解除され、その妨害を行う必要がなくなったからだ。

 奪われていた存在力も戻ってきたようで、座り込んでいたはずのティアやセルウィタがいつの間にか立って、様子を見ていた。

 

 何をすればいいのか――それはエマと真正面から対峙していたルナでさえも分からない。

 今はただ、『信頼の魔法』の作用を確認すべきだろう。

 

 やがて、エマが立ち止まった。

 まるで帰り道が分からない迷子のように。

 

「妾は、何がどうし、て……」

 

 静かだった戦場に、呟きが漏れる。

 聞き覚えのある声だった。

 『不信』に囚われきっていない、エマ本来の声。

 

 腕からドロドロと流れ落ちていた神性が途絶える。

 端末ごと塗り潰す神性の奔流がなくなったことで、『不信』に支配されていた意識を取り戻すことができたのだろう。

 

「なに、この感覚……ボク知らない……!」

 

 そして同時にスクリータの神性が悲鳴を上げている。

 とりあえず、狙いは合っていたようだ。

 

 『信頼の魔法』は神界を通じて対象の神性とパスを繋げる。感覚の共有なども術者と対象間で相互的に作用する。

 よって、本来エマに流れ込んでいた神性が術者であるスクリータに流れ込み、外付けの端末として代わりの器になっているわけだ。

 

 神性の供給が途切れてしまえば、液状の腕を維持することもできない。

 それどころか壊れた端末が修復されることで元の人間的な腕を取り戻していた。

 

 どうやら『信頼の魔法』は想像していたより効果的に機能しているらしいが、いつスクリータの神性が決壊するか分からない。

 

 決着を付けよう。

 もう、こんなことは終わりにしよう。

 

「エマ、話がある」

「ギ、ギルバート様。えっと、どうして、その、抱きあげられているのですか……?」

「私が妹でお兄ちゃんがお兄ちゃんだから」

「そういうことだ」

「どういうことですかっ!?」

 

 ギルベリタから降りて、一歩近づく。

 エマが一歩引く。

 

「逃げないでくれないか」

「それは、できません。妾は、きっと、もうすぐ神族化してしまいますから」

「俺がそれを何とかするって言っているんだ」

「できません。早く、妾から、離れてください。妾も皆様から、離れますので……」

 

 エマの引いた足が何かにぶつかる。

 振り返れば、戦鎚を手に、ルナが立っている。

 

「エマさん。生きるのが、そんなに辛いですか?」

「そんな、ことは」

「言ってましたよ。ハッキリと、『もう妾のままで生きたくない』って。『殺してください』って。そう思い詰めるほどに辛かった。違いますか?」

「妾は……あれほど、生きろと、言っていただいたのです。生きたくない、などと。殺してほしい、などと、そんなことを思うなんて……」

 

 ないはずがない。

 神性に体が作り変えられ、端末としての機能を半ば手放した状態で叫んでいたのだから、それが嘘のはずはない。

 

「ごめん、なさい……ごめんなさい、ハイミシア様。……妾は、あれほど真摯に、向き合っていただけたのに……死んでしまいたい、と、考えてしまいました……」

「だから手を取ってください。司教様は、あの人は、どうせ許してくれますから」

「妾は、妾はこれほどまでに罪深いのです……! そんな資格が、どこにあるのですか。妾は何を以て、皆様の思いに応えればよいのですか……っ!」

 

 あと少し。

 

「妾は、皆様の思いに応えるまで、あとどれほど心を砕かねばならないのですか!」

 

 エマに触れて、神性親和症で神族化を抑え込む。

 それだけでいい。

 たった三歩で辿り着く距離だ。

 

「もう、嫌なんです。おかけくださる優しき言葉が負債のように溜まって、もっと良き人間を目指さねばならなくなるのが……苦しくて堪らない……!」

 

 それだけが――こんなにも遠い。

 遠すぎたんだ。

 

「もう、妾に関わらないでください……っ!」

 

 エマが地面を蹴りつけ、逃げ出した。

 夜の森の中へと。

 魔物がどこにいるかも分からないが、後を追うしかないだろう。

 

「ルナ、行くぞ!」

「行くって、どこにですか? えっと、確か、さっきまで戦って……」

 

 踏み出そうとした足を止め、ルナを見る。

 その様子は俺より状況を理解していなかった。

 

 エマが「認識できない」状態でなくなったのは、過度に存在力を高めたせいで、異界に逃げ込む能力が不安定になったからだろう。

 だったら、これは『信頼の魔法』で神性をスクリータの方に回したからだ。

 スクリータが受け皿になることで存在力が失われ、「認識できない」状態になる。

 

 予測できたはずのことだが考えから抜けていた。

 

「いいから来てくれ、見えない相手がいる。ルナの力が必要なんだ!」

「ひゃ、はい! 分かりました! どこへでもついていきます!」

 

 存在力を失ったエマが森の中を走るスピードなんてたかが知れている。

 星明りがあるとは言え、夜は足下が更に悪いからな。

 

「ティア!」

「分かってるわよ。使いなさい」

 

 どこからか調達してくれていたランタンを投げてくれる。

 

「スクリータを頼んだ」

「ええ。あなたはさっさと、エマ様を連れて帰ってくることね」

 

 ティアの傍らで、少し俯くように、異物の神性を抑え込んでいるスクリータ。

 どうやら言葉を交わすほどの余裕はないらしい。

 またあとで、終わったら労うとしよう。

 

 リアは手を挙げてゆらゆらと振っていた。

 ギルのことだから心配してないよ、と幻聴が聞こえたような気がした。

 本当にアイツはいつも通りだな。

 調子が狂う。

 

 セルウィタの姿が見えない。

 どこへ行ったのか――と一瞬考えた隙に、ひょいと死角から掬い上げるようにして抱えられた。

 

「こっちの方が早いでしょ、お兄ちゃん」

「……認識は?」

「ない。でも、お兄ちゃんの視線を追えば、見えないものを見るくらいならできると思う」

「この天才め。ありがとうな」

「感謝なんていいよ、家族なんだからさ」

 

 『不信の魔法』が消えたことでギルベリタと俺の身体能力差はより開いている。

 頼もしいことこの上ないな。

 

「最後の大詰めだ。行こう、二人とも」

「はい!」

「まっかせてよ!」

 

 まあ、俺は走らないんだけど。

 

 

 樹冠の隙間から、しららかな明かりが広場に差し込む。

 エマはその中でへたり込んでいた。

 両手を地面につけて、吐き気でも我慢しているかのように、逃げてしまったことの罪悪感を心臓の中に留めているのが分かる。

 

 神性親和症は繕うことを許さない。

 本当は生きたかったのだろう。

 

 ルナが踏み割った枝の音で、エマの体はぴくりと震えた。

 顔を上げたエマと目が合う。

 

 ギルベリタ、ちょっと、格好付かないからもう一回降ろしてくれない?

 

「なんで、どうして、ここに……妾はもう、神族化してしまうのです。その時、近くにいて、命が残る保証などないのですよ……?」

「君を置き去りにして、ハイミシアを連れて帰って、それで。目を覚ましたあの人にどんな顔で報告すればいい?」

「……申し訳ありません。妾のせいで、妾の都合に、付き合わせてしまった、のですね」

 

 ファトゥスによって神族化が早められている。

 エマという人間を利用し、俺で遊ぶためだ。

 それを償うために立っているというのも理由の一つには違いない。

 だから、俺たちを巻き込んだのはエマじゃない。

 

 だがこのシナリオを選んだのは、エマだった。

 神族化への『不信』は彼女本来の感情で、その運命に身を任せ、生きることを諦めたのは、エマ本人に他ならない。

 誰かを加害するかもしれないと分かっていて神族化に委ねているのなら、それは紛れもなくエマの責任だ。

 それを否定する気はない。

 

 一歩、また近付く。

 

「ギルバート様。妾に、まだ、生きろと仰るのですか?」

「それで生きてくれるのなら」

「ようやく、終わりが見えて、それでも……」

「それは正しくないな。終わりになったのは可能性だけだ。逃げただけで恩までもなかったことになるなんて、幻想だ」

 

 一人の人間が消えてなくなっても、繋がりは残る。

 

 逃げ出すことを否定してるわけじゃない。

 それだってエマの選択だ。

 でも、逃げ出したことですべてを終わらせた気になってるなら、それは不誠実だ。

 エマ自身の選択に対してすら向き合えていない。

 

 それを自分でも分かってはいたのだろう。

 否定することなく、ぼうっと空を見上げる。

 

 今日はよく晴れている。

 星が綺麗だ。

 

「妾は、これほどまでに情けなく、恩知らずな人間です。胸の中から溢れ出した神性が体を壊していく感覚を、ぼんやりと覚えていて……とても心地よく感じてしまう。妾に与えられた罰などと、そんなはずはないのに、思ってしまうのです」

「分からないわけじゃない。けど、自己満足だ」

「仰る通り、です。……生きて返さねばならないことは理解しています。理解、しているのです。しかし、ギルバート様、どうか分かってください……」

 

 エマは力なく立ち上がった。

 司教服(キャソック)が前腕の部分から溶け落ちたようになくなっている。

 戦闘と神性の余波に擦り切れてボロ布のようにさえ見違えてしまいそうなそれが、裾を夜風に靡かせ、宵闇に溶ける。

 

「壊れてしまったものは戻らない。妾はもう、壊れてしまったのです。もう、もう……前を向くことなど、できません……っ!」

 

 一陣の風が目元に浮かぶ涙を拭い去った。

 

 エマの神性が俺の認識からも消え始める。

 「認識できない」能力は半分ほど存在を異界に移すことで成り立っていたものだ。

 エマはとうとう完全に異界へと逃げ始めたらしい。

 

 一歩近くに寄れば、エマはそれを警戒するような目で後退る。

 

「ルナ、ギルベリタ」

「ハイミシア様にとって無二の存在であるギルバート様を、巻き込むことなどできませんから。妾はこのまま消え去って、それで……」

「彼女を捕まえてくれ」

「お終いにしましょう、ギルバート様」

 

 ギルベリタが迷いなく踏み出し、ルナがそれに追随する。

 ルナには見えない。俺が指示を出していないなら、どこを狙うべきか判断が付かない。

 

 条件はギルベリタも同じだ。

 だが、彼女は……俺の妹は、嘘を吐く人間じゃない。

 ギルベリタなら――。

 

『お兄ちゃんの視線を追えば、見えないものを見るくらいなら――』

 

 できる。

 

 女性の身体能力を活かして、俺より機敏に、しかし慣れない全力で後退するエマの眼前で、瞬く間に距離を詰めたギルベリタが握り固めた拳を振りかぶる。

 

()()だ」

「分かった、()()ねっ!」

「痛いっ! な、なんで分かるんですか……?」

「俺が兄で、ギルベリタが妹だから」

「そういうこと!」

「だからそれはどういうことなんですかっ!?」

 

 俺はエマから目を離さない。

 エマが大きく動いたり、腕を動かせば、それを視線で追っているだけだ。

 

 ギルベリタは時折、ぐん、と俺を見て確認する。

 片付けるべき相手を俺の視線から見つけるためだ。

 恐らくはエマの行動を映す鏡として俺を使い、その反応から逆算して位置や行動を割り当てているのだろう。

 ……アホらしいほどに超人だな。

 

 やはり最初の一撃はまぐれではなかった。

 ギルベリタが、今度はエマの腕を引っ掴み、一本背負いを決める。

 

 そしてこの一連の動きは、即ち、エマの居場所が分かりやすく示されてしまうということで。

 つまり、ウチの戦鎚娘が黙ってない。

 

「ここですか?」

「ひっ! こ、殺される……っ!?」

 

 エマの頭のすぐ横を通り過ぎて、戦鎚が地面に突き刺さる。

 

 ルナ、あくまで捕まえるためだから。

 そんなにフルスイングで振り降ろしたら今のエマだと死んじゃうから。

 容赦しなさいな。

 

「むぅ、手加減ですか。ちょっと苦手です」

「今度制圧術くらいなら教えてあげよっか?」

「離し、て、くださ……ぐぅっ、やめ、て……!」

 

 うつ伏せに転がしたエマの背中へと腰を下ろし、雑に腕の関節を極める。

 「認識できない」ことで返って降参すらできない様子が哀れにさえ思えてしまう実力差。

 

「どこにいるのか分からないって、誰か一人でもそれを看破したら意味ないよね。お兄ちゃんに見つかってるんだから逃げ切れるはずないでしょ」

「むぅ……! ギルさん、私もできますから! 殺していいならもう殺せてます!」

「オーケー、二人とも。そのあたりにしよう。エマが痛みと恐怖で泣き始めてるから」

 

 血気盛んだなぁ。

 良いことか悪いことかはともかく、そう思う。

 

「妾の、うぅ、妾の見立ては、どこまでも甘かったのですね……故に痛みという罰が妾を懲らしめたのです……」

「なんかごめんな」

 

 まあでも、エマの命が優先だから。

 スクリータがいつまで耐えられるかも分からないし、今のうちにさっさと触れて、神性親和症の力で神族化を止めるとしよう。

 

「エマ、先に謝っておく。俺に君の人生を左右する責任はない。ただ、ハイミシアの思いと身勝手な同情に動かされただけだ。俺は他ならぬ俺自身のエゴで、君に生きていてほしいと思うから」

「そんな、ことで……」

「ごめんなさい、エマ様。俺はあなたを、もう放ってはおけない」

「そんな理由で、妾を、助けないでください……っ!」

 

 手首を掴む。

 エマの神性に接続しようとして、振りほどかれる。

 まるで最後の力を振り絞ったかのように、必死な抵抗だった。

 

 もう一度。

 今度は背に触れようとして――空振った。

 

「わっ、と。……あれ? お兄ちゃん、何したの?」

 

 エマの涙が目から零れて、落ちた。

 それはもはや風に拭われることもない。

 草の葉に受け止められることもなく、透過して、土に還った。

 

「妾にこれ以上の責を負わせ、生かそうとして、いったいどの口で、人生を左右する責任がないなどと仰るのですか……っ!」

「なんだ、これ。……なんで、触れられない?」

 

 何度触れようとしてもダメだ。

 エマはまるで液体のようにするりと抜ける。

 

 神性親和症が感じ取ってくれていたんだ。

 俺が一度手首を掴んだ時、エマの神性や端末はまだ大部分がこの世界に残っていた。

 

 いくらなんでも、振りほどかれたその一瞬で、物理的な接触すら許されないほどに進行するとは思えなかった。

 

「ギルバート様も神性親和症をお持ちなのだと気づいたその時から、ずっと、妾は神性を偽っていました」

「俺がまだ残っていると感じたあの神性は、張りぼてだった、ってことか? ……そんなことが、できるのか?」

「妾は、かのハイミシア様から直々にご教示いただいた身です。その程度、できて当たり前のことでしょう……!」

 

 そんなわけあるか、と言ってやりたかった。

 自分の神性を偽ることは即ち、そうしようと考えないままに行動することと同じだ。

 況してや、能動的に偽るなど。

 

 そこにあると気づかずボールを蹴り飛ばすことはあるだろう。

 だが、そこにあると気づいたうえで、蹴ってしまおうと思わないままに、そう行動するなどと――意味が分からない。理屈が通らないだろう。

 

 通らない、はずだったんだ。

 

 もう触れられない。

 もはや感じることしかできない。

 エマの神性に干渉する手段は、どこにも残っていない。

 

「……どうして逃げるのかは分かってる。エマが生きることを何より辛いと思っているのも、理解したよ。何が何でも、終わりにできる機会を物にしたかったんだな」

 

 逃げ出して、偽って、力を振り絞って。

 そして得たものは「終わり」だった。

 エマがその生涯で最も強く求めたものは、きっと、恩に報いられる自分と、その「終わり」だったんだ。

 

 それは分かってる。

 分かってるけど、なあ。

 

「逃げないでくれ。どうか、俺たちと一緒に、生きてくれないか。何でもするよ。いくらでも待つし、どんな協力だって惜しまないから……」

 

 頭を地面につけ、懇願する。

 俺にできることはもうそれ以外にない。

 

「どうか、ハイミシアを。俺の恩師を、誰も寄り添ってやれないあの人と……どんな形でもいい、共に生きてやってはくれないか。あの人にこれ以上の孤独を押し付けるのは、お願いですから、やめてください……」

 

 なあ、良い人なんだよ。

 君なら知っているだろう。

 

 あの人の信念は「メア様より賜った情動を誰にも隠さないこと」だ。

 それが一見アホな方向に出力されているだけで、本当は誰よりも敬虔で、バカが付くほど真面目なんだ。

 どんな人も馬鹿にしない。

 誰が相手だろうと慈悲を持って、正面から受け入れてやる。

 

 手を下すのは道を違えてしまった相手にだけで、それも、悩み抜いた果ての決断だったはずだ。

 誰かを守るために力を付けたと言っていた。

 誰かと結ばれるために誰よりも実直な努力を重ねたと言っていた。

 

 そんな人の大事な存在を。

 ハイミシアの、大切な(エマ)を。

 

 どうか、殺さないでくれ。

 

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