逆転世界はもうどうしようもない 作:あああああ
お久しぶり。
二人とは別れて、しばらく歩く。
果物屋台のお姉さんや旅籠屋の娘など、顔見知りがひっきりなしに声をかけてきた。
調子はどうだ、祭りの準備はしているのか。
今日は仲間をどうしたのか、一緒に見て回らないか。
体のいい同行人になってもらいつつ誘いを断る。
向かっていたのは終章教会東方領スピナ支部。
開かれた門を抜け、少し前までは手入れのされていた庭を眺めながら礼拝堂へと足を踏み入れる。
「お待ちしておりました、ギルバート」
淑やかに目礼を一つ。
石造りの教会に隙間風が吹き、薄桃色の髪が揺れた。
その燃え上がるような緋色の眼とは裏腹に、今日の彼女はどこか冷ややかな覚悟を含んでいるようだった。
「お願いというのは?」
「ここで申し上げることはできません。鍵付きの密室にてじっくりたっぷりお話いたしましょう」
「相変わらずみたいで安心しました」
誰だ冷ややかな覚悟とか言ったやつ。
鍵付きの密室がどこの部屋を指しているのか知っている。ファトゥスが創られた時も同じ部屋に鍵をかけて話したからな。
そこへ向かおうとして、ハイミシアが動いていないことに気がついた。
「メア様、どうか私をお許しください」
ステンドグラスの前に悠然と佇むメアの彫刻。
何を思ったのか、ハイミシアは膝をついて一心に祈っていた。
その横顔にありありと浮かぶ苦悩は、やはり俺に対するお願いと何かしらの関係があるのだろうか。
「先に行ってますね」
その歪んだ表情が見てはいけないもののように思えて、目を逸らし、俺はハイミシアをそこに置いて奥に進んだ。
部屋には一対一でテーブルを挟む椅子、ベッド、そしてワードローブが一つ。テーブルの上にはカップが一つ置かれていた。
一ヶ月ぶりにしては清潔だ。
ベッドのフットボードに指を滑らせてみても全く埃がつかない。
ついさっきまで掃除していたのだろうか。
「お待たせいたしました」
きい、ばたん、がちゃり。
鍵をかけるまでが早すぎる。
「テンポよく密室に――んむっ!?」
思考が止まる。
なんだ、どうして、こんなにも近い?
淫猥な音が響く。ちゅ、と子供のように触れ合わせるものから、じゅる、と口内を貪られ唾液まで持っていかれそうになるものまで。
背と頭の後ろを押さえられて身動きが取れない。
感情の見えない緋色の瞳に射竦められていた、というのも正しいだろう。
正気を取り戻して突き飛ばすまで、十秒近くかかった。
「何してんだ、司教様」
「ハイミシアと呼んでいただいて構いません」
「エンライト司教」
「他人行儀はよしてください。私はあなたをこんなにも近く感じていると言うのに」
ハイミシアの指がしっとりと濡れた桜色の唇をなぞる。
あまりにも咄嗟な状況に、ピンク色の欲望さえ反応していない。
「どうしてこんなことを?」
別に執着してはいない。
どうせ初めてキスした相手はリアだ。
二番目が誰だって、然して重要ではないし。
「何かおかしいことがありますか? 私に残った最後の望みはギルバート、あなたであり、それ以外にないのですよ」
本心からそう言っているのか。
今までも、心の底からそう考えていたのだろうか。
そんなはずはない。
俺は、ハイミシアの本質がそこにないことを知っている。
エマくらいしか信じてくれないかもしれないが、この人は高潔なんだ。
誰にも嘘が吐けないからこそ狂ったように自らを開示しているわけで、もっと上手くやれるくせしてそれを選ぼうとしない、ある意味ひねくれた人なんだ。
「もう少し、考えを聞かせてくれないか」
少なくとも言葉を単純に受け取ってはいけない。
「かねてよりお伝えしていたはずです。私はあなたを好いているのですから、それに従っただけのこと」
「……震えてます?」
「ええ、まあ。初夜ですから」
「司教様が言う初夜っていつも日中なんですが」
「ではおやつということで」
「まだ昼前だよ?」
「いただきます」
ふむ。
「板抱きます、って言うなら俺では?」
「人を傷つける冗談はおやめなさい」
すみません。
「……それで、雰囲気は少し軽くなりましたが。相談事の一つや二つなら聞きますよ、エンライト先生」
「懐かしき呼び名です。興奮しますね」
俺は別に何もかもを理解してやれるほど、ハイミシアのことを知っているわけではない。
ただの教師と生徒、司教と信徒。
だから相談もなしにわかってやることはできない。
「俺じゃダメですか」
「いいえ」
「まだ、死ぬつもりですか」
「……さて、どうなのでしょう?」
なんとなく頭に浮かんでくるものといえば、それだった。
この人は異様に自己肯定感が低い。
生きにくそうな信念を後生大事に抱えているからなのだろうが、傷つきやすいくせに頑固なのだ。
嫌われると分かっていて、それを貫く人なのだから。
「ただ自分勝手には違いない」
「否定はできません」
ハイミシアが死んで喜ぶ人間などそう簡単には見つからない。
仮に見つかったとしても、それよりずっと多くの人間が期待し、望んでくれているはずだ。
「東方戦線で、散るつもりなら」
「それは誤解ですよ、ギルバート。私はあなたやエマを置いて逃げ出せるほど、薄情ではありませんから」
「だったらどうして」
ハイミシアは瞳を揺らした。
「笑わないで、いただけますか」
「誰に聞いてます?」
「ふふ。挑発的ですね」
ゆらり、ベッドに力なく腰かける。
薄桃色の髪が窓から差し込む光に照らされていた。
「怖くなってしまいました。エマに、あなたに、大司教様に、教皇様に。私が死ぬということは、私を取り巻くすべての方々に背くことだと思うのです」
「……怖気ついていると?」
「ほんの少し魔法が得意なだけの小娘に、戦場を変える力はありません」
ハイミシアの魔法には大きな力がある。
西方の武装集団を率いているのは『嫌悪』の神族であり、しかし、今回も同じようにいくわけはない、と考えているわけだ。
「死を厭いません。司教とは、他のために私を滅し、それを己が望みとする者しか務めてはいけない立場なのですから」
「メア様はお許しくださるでしょう」
「いいえ、ギルバート。私は初めからその意志を持っていたのですよ。人々のために果てるのであれば本望だと、そう思って杖を手に取ったのです」
「愛欲よりも上であると?」
「それは競合しません。駄々甘でえっちな殿方と結婚生活を送り、そしてこの身を捧げる。どちらも紛うことなき夢であり、覚悟でした」
そんなキメ顔で言われても。
「ギルバートよ。あなたは私の未練です。その行き先を見届けたかった。一助となりたかった。あわよくば、そういうことがしたかった……!」
「エンライト先生はとっくに俺の
「そういうことがしたかった……!」
「別に聞こえてないから反応しなかったわけじゃないんです」
シリアスを吹き飛ばすな。
「死の恐怖は情欲に似ています。受け入れないままにしていては、むらむらと膨らんでしまうのです」
「もう黙ってくれませんか?」
「こうしてあなたと過ごす性の時間――ごほん、生の時間さえ、恐怖を掻き立てるスパイスとしかなりません」
何をどう言い間違えやがった。
「結局、俺に何を求めているんですか」
「とてもえっちな質問です。お答えしましょう」
もう反応しないからな。
「この一身が戦線に投じられること、それは私の人生に意義を与えるでしょう。これまでの軌跡はすべて司教として散る所に意味があった、と。そうなろうともこの覚悟が砕けることは決してありません」
ハイミシアは一旦言葉を止め、ベッドに座ったまま、窓に映る街を眺めた。
今夜の祭りは日が昇るまで続くだろう。街路を忙しなく駆け巡る住民の顔は、今まさに魔物の侵攻を受けている東方領にいるとは思えないほど活気にあふれている。
ハイミシアが守る景色だ。
「ですが――それは、私の人生の半分でしかない。聞き届けられた願いは一つだけ。私は未だ異性を知らぬ身、愛に塗られたことのない、真白の精神。この欲望は欠如に呻いている」
「駄々甘でえっちな殿方、ですか」
「それは、実の所、妥協でしかありません」
妥協? あれほど望んでいたのに?
「ギルバート。あなたに献身の気質が備わっていることを知っています。ですから、これを言っては卑怯になってしまう。私はあなたの性質を利用したくはありません。その汚れなき善徳に縋るつもりはありませんでした」
「買いかぶらないでください。俺はただ誠実でありたいだけです。誰かと関わることの責任から逃げたくない、それだけです」
「ええ。だからこそ、こんなにも愛しいのです」
とうに悟ったような目をしている。
俺と同じ景色を見て、彼女の心の揺れ動きは縹渺としたものだった。
「あなたがよいのです。私にとって代えがたきものとは、あなたを除いて他にありません。これが卑怯な物言いであることは重々承知の上で、しかし……」
ハイミシアはうっすらと頬を赤らめた。
「あなたでなければ中折れしてしまうのです」
お前いいかげんにしろよ。
日没までに残された僅かな時間。
ギルベリタとスクリータに手伝ってもらい、最低限の家具を揃えた屋敷にて。
俺は共用スペースのソファに寝転がっていた。
ふと、珈琲の香りが漂ってくる。
「おつかれさま、ギル」
「ありがとう、リア。俺は疲れてないけどな。重いものは粗方スクリータたちに頼んだわけだし」
「ルナもティアも訓練でへばっちゃったしさ。そっちの手当てしてくれただけでも助かったよ。……それで、何を悩んでるの?」
「ハイミシアのことだ」
「放置でいいんじゃない?」
「この上なく不適格な答えをどうもありがとう」
相変わらず、身内以外にはとことん興味の薄いヤツだ。
「話はだいたい察してるよ。冥途の土産にギルっていうトロフィーが欲しいんでしょ?」
「そう単純な話でもない」
「複雑に考えすぎるのはギルのダメな所だと思う」
「リアの単純明快な部分は長所だと思うが、それにしたって今までの関係性を考えれば誠実な答えじゃない」
俺とハイミシアは浅からぬ仲だ。
プラトニックな意味で。
「……やっぱり死ぬつもりだ、あの人は」
「死のうと思ってはないけど覚悟はできてる、って感じかな」
たんに死のうと考えている人間よりタチが悪い。
自分が死ぬことのメリットをよく理解して、だからその選択肢がいつも頭に浮かんでいる。
「エマはどこに?」
「ここにおりますよ、ギルバート様」
「うわあっ!?」
起き上がり、振り返れば、エマがひじ掛けの向こうの床に座っていた。
目元を覆い隠す薄い布地に、黒と見紛いそうなほど濃い藍色の髪。
「驚かせてしまって、申し訳ありません。その、話に割って入るのは気が引けてしまって……」
「いや、こっちこそ大きな声出して、悪い。ソファに座るか?」
「じゃあ遠慮なく」
「リアに言ったわけではない」
エマはおずおずと一人掛けの椅子に腰を下ろした。
「ハイミシア様のお話、ですよね」
「どこから聞いてたんだ?」
「最初からお聞きしています」
従者ってそんなに全力で仕えるんですか?
ちょっと怖くなってきた。
ってか、その場合、話に割って入れなかったから隠れてたわけではなく、初めから隠れていたってことにならないか。
「司教という立場は、『五人の犯罪者を救うためなら一人の親友を殺す』ことができなくては始まりません。ですから、殉職は名誉なき行いです。司教にとって粉骨砕身とは当たり前のことなのです」
「……驚いたな。いや、別に否定してるわけじゃない」
「分かっています。妾は、勿論ハイミシア様を心より大切に思っています。紛れもなく、あの方は妾の母親となってくださったのですから」
エマは小さな体を一層縮こまらせて言った。
「世界を嘆く思いは、小さくとも、確かに。ギルバート様がいてくださるだけで満足できるほど、妾は行儀のよい生まれではありません。大恩ある彼女を亡くしたその時、妾はきっと、恨むことでしょう。他ならぬ妾自身を」
「だったら止めればいいのに」
「リア、デリカシー」
「いえ。矛盾しているとは、妾も思いますから」
エマが息を吐く。
ただの呼吸だと分かっていて、それが溜息に見えた。
俺と同じ葛藤を抱えていても、か。
「誰かのために身を擲つ。それを止めるならば、妾は、それだけの責任を奪うことになるでしょう。それだけの不義理を無視できるほどの度胸も、責任を負えるだけの力も、この身には備わっていません」
ハイミシアは強い。
魔法戦において、そしてファトゥスが言うには、格闘戦においても。
誰にも代わりが務まらないカードだ。
「妾にできることは、明日、戦線に旅立つあのお方を……わ、笑って、送り出すこと、それだけです」
もう泣きそうなくせによく言う。
「あのさ、ギル。僕は司教の責任とかよく分からないけど、嫌なら嫌って言えばいいんじゃない?」
「それはハイミシアの覚悟を踏みにじるってことだろう」
「ただの意思表明。それに大層な意味をつけるのは聞き手じゃなくて話し手の特権だと思うし、それにどうこう言われる筋合いなんてないよ」
「そう軽く受け取ってもらえるなら、とっくに言ってるさ」
リアは首を傾げ、ふーん、と曖昧な返事をした。
「傲慢になる覚悟はないんだね、ギル」
「覚悟もクソもあるか。無責任な人間が徒に人生を搔き乱して、それで残るものは惨状だ。そうも厚顔無恥にはなりたくない」
「そう。なら、放置でいいんじゃない?」
「思考を投げ捨てるほど薄情にもなりたくない」
席を立つ。
「複雑に考えすぎるのはダメな所だよ、ギル」
「分かってるよ、リア。ありがとな」
「どういたしまして」
エマは一瞬立ち上がろうとしたが、教会に向かうのだろうと理解して、背もたれに体を預けた。
「どうか、お二人にとって、悔いの残らない形で」
「難しい注文だな」
思わず苦笑する。
「善処するよ、エマ」
まだ答えが出たわけじゃないし、余裕が生まれたのでもない。それでも、またハイミシアと話さなければどうにも結論が出ないようだから、仕方ない。
「行ってくる」
二人に送り出されて、再び俺は教会を目指した。
「あれ、リアさんにエマさん。ギーくんは?」
「お兄ちゃんは?」
「ギルなら、まあ、ちょっと呼ばれてね。急用ができたから申し訳ないけど、ってさ」
「ええっ!? ギーくんと一緒に回りたかったのに!」
「……はあ。そう、お兄ちゃんがまたお節介焼いてるんだ。私はもう不貞寝するから、お兄ちゃんがもし帰ってきたら起こして」
「妾でよろしければ、はい。承りました」
三人目の相手は誰?
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ティア(イーティア・セルペンス)
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ルナ(リリルナ)
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ハイミシア・エンライト
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ギルベリタ
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スクリータ
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キサラ・デミット
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エマ