逆転世界はもうどうしようもない 作:あああああ
教会の中は冷たく、暗かった。
主神たるメア様と、東方領の象徴たる『憤怒』の属神ティリウス様の石像がステンドグラスから差し込む月の光に照らされている。
ハイミシアの姿はない。
教会を出た時のまま、あの部屋にいるのだろう。
俺を待っているのか。
あれほど重い内容を――最後こそセクハラだったが――告白された以上、そうでないことを考えるのは失礼だ。
覚悟を決めなくてはならない。
あの人はもう、ただの恩師ではなくて、俺を導いてくれる都合のいい存在ではなくて、一人の人間だから。
俺は向き合うべきだ。
彼女が人知れず抱えていた感情が曝け出されたなら、その責任の所在は。
『ただの意思表明。それに大層な意味をつけるのは聞き手じゃなくて話し手の特権だと思う』
ヴァレリアの言葉が脳裏をちらつく。
言葉を投げかけられた俺は、ボールを渡されたんだ。
投げ返してやらないとキャッチボールにはならないから、そうする。
それは俺の責任じゃないのか。
ハイミシアが勝手にボールを投げただけ、なんて、そんな解釈をして、それは正しいのか?
分からないが、とにかく会わなくては。
ただの意思表明にしかならなくたって、少なくとも、俺がボールを持っている。
そのまま明日を、同時に終わりを迎える?
地獄の始まりだ。
きっと一生忘れることができない。
俺のためにも、ハイミシアを放っておくのは無理なんだ。
「ハイミシア」
彼女は変わらず窓の外を眺めていた。
「エマは、どのように?」
「あなたの覚悟を尊重する以外に選択肢はないと」
「……ふふふ。エマはあなたに似ています。何事にも誠実であろうとする態度は美徳ですが、見ていて危なっかしいと感じてしまうのもまた事実です」
気がついた。
彼女はいつもの聖職者然とした服装から着替えている。テーブルに置かれた黒い鍔のある白帽子は軍の管轄下であることを示すもの。
それに加えて、二つの勲章と、一つの大綬が光っていた。
彼女は司教であると同時に栄誉ある終章魔法軍大将の地位を授かっている。
たんに教会から貸し出された聖女であるキサラとは軍帽の重みが違う。
「エマとは明朝が最後になるのでしょう。あなたの隣にいないということは、その気配りの賜物なのでしょうが……少々、寂しいものを感じてしまいますね」
「困らせてしまうのが嫌だったんだと思います」
「私を惜しんで流す涙を疎むことなどありませんが、ええ。それもエマの美点です。あまり寂しがってしまうのも頼りないというものでしょうか」
俺がこうして泣きださずにいられるのは、エマより覚悟が定まっていないからなのかもしれない。
明日が最後になる。
それを、本当の意味で、理解できていない、とか。
「エマはその選択を。では――」
ハイミシアがこちらを向く。
「ギルバート。あなたはいかがするのでしょうか?」
まるで死人のように冷たい覚悟を携え、終点を見据えたまま、ハイミシアは俺に問いかける。
「色々と、考えていたんです。益体もないことですが。そのどれもが、ハイミシア、あなたに会えば整理がつくだろうと言っていました」
「まだ答えが決まっていないと?」
「いいえ」
もうダメだ。
この人は思っていた通り死ぬつもりだし、俺はそれに耐えられないって、分かった。
だからもうダメだ。
何がダメって、自制できそうにない。
「俺が傲慢になったらどう思います?」
「何かの病気を疑います」
「じゃあ、きっと、何かの病気なんだと思います」
俺、この人を失いたくない。
「死なないでください。どうか、救われてください」
ハイミシアが意外そうな顔をした。
「たぶん、ハイミシアなら、戦場にいる幾人もの兵士を救うことでしょう。そして、そのうちどこかで機会があるはずだ。これ以上効率よく命を消費することはない、そう判ってしまう時を、聡明なあなたなら、見つけるだろう」
少し、嬉しそうにしている。
俺がハイミシアの人生にこれ以上ない価値を見出していると知って、喜んでくれている。
「止まってほしい。生きていてほしい。傲慢でしょう。罪人にでもなったみたいに言葉が重いんだ。あなたの覚悟を踏みにじってでも、いなくならないでほしいんだ」
俺の言葉は響いてくれる。
ただ、ハイミシアは揺るがない。
「あなたの言葉はとても甘美に響いてくれます。私は幸福ですね。どちらを選んでも幸せになれるなんて、もったいない選択肢です。ギルバート、あなたがいてくれてよかった」
ハイミシアはうっとりと頬を緩める。
「運命というのは数奇なものですね。西方遠征から帰還したあの日、私の夢は叶わないと思い知ったというのに。それから希望を見つけてしまうのですから、どうにも憎めません」
まるでよく知らない他人のようだった。
情欲塗れの言葉はない。もう戻ってこない。
「二つ目の命が欲しいものです。全く悲しいことに、このような未練を残されては死んでも死にきれませんから」
俺の心を軽くするためだけにそう振舞っているんだ。
本来の自分を覆い隠すことで、傷は最も浅くなるって、そう思っているから、こうして俺を拒絶している。
「俺は他人ですか」
「いいえ。大切な隣人ですよ」
ハイミシア、あなたも傲慢だ。
そうして自分が一番傷付く選択で、俺の傷を一番浅くしようとして、それが正しいんだと思い込んで。
言葉は本心で語られている。
でも、本当のハイミシアじゃない。
俺はそれだって悲しくて寂しいんだよ。
何せ、傲慢だから。
「俺は『大切な人』とか言って、逃げません。ハイミシア、あなたが好きです」
「しかしそれは、恋慕ではないのでしょう」
「恋慕じゃなきゃダメですか」
ハイミシアは目を伏せた。
少しの間を置いて、にこやかに。
「私もあなたを好いていますよ」
「それは」
「恋慕でなくてもいいのでしょう?」
ああ、泣きそうだ。
あまりにも覚悟が違う。
この人は、自分のすべてを隠してしまうつもりだ。
何一つとして本心を言わないんだ。
俺が教会を空けていた間に、より大げさな覚悟を決めてしまったんだ。
もったいない二つの選択肢なんて言って、初めから俺を選ぼうとしていなかった。
教師と教え子の立場が何も変わっていない。
「どうしても、本音でぶつかってはくれないんですね」
「嘘は言っていません」
「嘘を除いたって本音が残るわけじゃない」
「その通りです」
俺はハイミシアの本音が聞きたいんだ。
一切欲望を隠すことがなくていい。
それだからいいんだよ。
それがハイミシアって人間じゃないのか。
ハイミシアはベッドに腰かけている。
窓の外を見るためだ。
一歩前に進むことすら恐ろしい。
拒まれたら終わりだ。
それでも、もう、欺瞞を剥がすためにはそれしかない。
「ハイミシア」
近寄った俺をじっと見つめている。
これ以上の話が必要だろうか、そんな意図さえ感じる。
勝手な被害妄想だ。
そんな考えが生まれるほどに偽装は完全だった。
ただの問答では仮面に触れることもできない。
キスをした。
すぐ引き剥がされそうになって。
「ギルバート!」
制止の言葉すら聞けなかった。
俺が部屋に入った瞬間、強引に迫り、それを最後に、こうして覚悟を決めていたんだ。あれを最初で最後のキスにしよう、――そう思っていたのかもしれない。
だったらそれを壊してしまうしかない。
「関係が進んでしまうのが怖くて、だから、俺は踏み出せなかった。性欲に正直な人間はだらしないと思ってる。ファトゥスに刻まれたこの呪いを恨むことは多い」
ハイミシアを押し倒した。
その目の奥が微かに揺れている。
「勝手に進むなら、区切られてしまうなら、俺は、これだって利用しよう。後悔はしない。このまま足踏みしている方が嫌なんだ」
俺があなたに寄り添えるなら、それがどんなに最低な手段だって取ってやる。
傲慢だ。どうしようもなく。
「……そんなにも、想われていたのですね」
ぽつり、そう呟いた。
目が合って、かあっと赤くなっていく。
「あなたの覚悟は分かりました。ええ、とても、今、動揺しています。ですから、少しクールダウンをして、それからもう一度お話を」
「どうせ繕うでしょう」
「そんなことは――あっ、あぁっ、服を脱がせないでください、些かえっち過ぎるというものですよ!」
酷く安心した。
建前ばかりの物言いで煙に巻かれて別れを待つよりはずっといい。
もう一度キスをする。
「うう、こんなにも大事な場面だというのに、それでも私は興奮してしまう。……なんと融通の利かない体でしょうか」
「嫌ですか」
「組み伏せられて襲われることの何を嫌えと言うのですか? ご褒美です。ああ、いえ、しかし、私は弱いのです。これが唯一でないことを願ってしまう、情欲に塗れた女なのです……!」
「生き残らなきゃいけない理由になりますか」
「意地悪が過ぎます! えっち!」
なんだこの人、かわいいな。
「俺は、もう、あなたが生き延びようと思ってくれるなら、何でもいい」
「ひぅっ、み、耳は、やめてください。敏感なんですから!」
一旦止まって、考える。
「死んでも生き残ってくれますか?」
「それは、それは……」
続行で。
「あ、あぁ、待ち焦がれていた瞬間が、どうして今になって、覚悟までしたのに、どうして……っ!」
「覚悟が溶けたらやめますよ」
「それは生殺しが過ぎるというものでは!? ――あっ、いえ、その、ちが、違うというのもアレなんですが」
ハイミシアはしばらくわちゃわちゃと言い訳をして。
それから、躊躇いがちに。
「うぅ、最後まで、お願いします……」
防衛線が決壊した。
名前:ハイミシア・エンライト(Hymisia Enright)
所属:終章教会司教/終章魔法軍大将/エンライト教爵令嬢
適性:『悲哀』『嫌悪』『恐怖』
容姿:腿まである薄い桃色の髪、緋色の瞳
性的嗜好:ドM、手フェチ、逆強姦、誘い受け、その他諸々
詳細:
五百年前の大侵攻を受けて行われた遷都の際、祖先であるミアが魔法研究を一つに纏めた著作を残し、その影響の甚大さから教会に擁立された新興貴族、エンライト教爵の第三女。
三女という立ち位置から放置され、教会を第二の家として育った。類稀な魔法の才能を持つが、聖女として大成した妹に及ばない。
ネグレクトと劣等感により肥大化した被害妄想を抱える愛着障害待ち。『好かれる』ということを根本的に理解していない。
特記:
『嫌悪』の神族に唆されると簡単に寝返って国家転覆に助勢すると予見されているため、西方遠征からすぐさま聖都に戻された。
人類最高峰の存在力強度に加えて同族殺しへの忌避感が欠如していることから、対人戦では無類の完成度を誇る。
コントロール不能なはずの性的欲求を絶えず自制しているため、アルコールや自白剤などを与えてはいけない。