逆転世界はもうどうしようもない 作:あああああ
風呂というものは普通、公衆浴場を指す。
大陸南部に位置する人間種領は天候が安定しているため、降雨が少ない。それによって地下水脈も安定せず、日常的に使用できる井戸が街の郊外にしかないというのもまあ少なくない。
俺たちが拠点とするこの都市ではそうでもないが、人間種領全体として個人の家宅で入浴するという文化が未発達だ。
わざわざ人が浸かるほどの温水を作るのも手間だし、湯船を作るほどの情熱もないし。
公衆浴場で済ませるのが合理的というものだろう。
しかし、この屋敷は違う。元々それなりな貴族の別荘として建てられていたらしく、『男の子と一緒にきゃっきゃうふふな生活を』という指針でかなり広めの脱衣所と、小さな公衆浴場ほどの浴槽がある。
俺は風呂が大好きである。
一人で広々とした空間に身を投じ、芯から暖まりながら日頃の悩みを忘れる、あの時間は他の何にも代えがたい。
どうせすぐに東方戦線へ行くことになるのだから、今のうちに楽しんでおくのがいい。
服を脱ぎ捨てるように洗濯物のカゴへ放り投げ、タオルを腰に巻き、いざ出陣。
「あ、えっ、ギル?」
なんかリアと目が合った。
そういえば誰もいないことを確認していなかった。
いやはや、失念していたなあ。
リアは浴槽に浸かって目を見開いている。
まあ、誤差か。
「ちょっと待とうか、ギル。何の躊躇もなく中に入ってこないで。僕がパニックになるから」
「今更かなって」
「どういう意味で? もう裸なんて晒し合ったからってこと? まあ、ギルがいいなら、いいけど。ギルベリタに知られたら殺されそう」
「俺と時間が被った不運を呪ってくれ」
「……それは紛れもなく幸運かな」
臆面もなくキモいことを言っているリアを横目に体を洗い、垢を流す。
確か石鹸はセルウィタの手製だったか。
何かにつけて器用なんだよな、あのメイドは。
「背中、流してあげようか」
「セクハラだぞ」
「この状況下でもそれって有効なんだ。距離感が掴めなくておかしくなりそう」
「あっはっは。俺は羞恥心でおかしくなりそうだよ」
「なんで入ってきたの?」
誤差だと思ってたけど意外と恥ずかしかったんだよ。
早く出て行ってくれねえかな。
あとそんなにまじまじと見つめるんじゃない。
「……これって襲ってもいいのかな」
「できない」
「僕のことを知ってくれてるのは嬉しいけど、そう断言されるのは複雑かもしれない」
「別に俺だってそのあたりの警戒心を失くしたわけじゃない。今は風呂が最優先なだけだ」
色々と考えたいこともあるし。
「ティアの話?」
「よく分かったな。リアは聞かされてるのか、実家の話」
「知らない。でも、最近のティアはどこか張りつめた雰囲気があったから。それくらい分かるよ」
「さすがはリーダー様だ。ちょっと向こうに詰めてくれ」
「僕の理性が飛んでも知らないよ」
「殺す気で来ないなら魔法でどうにかできるさ」
『冷笑の魔法』に『期待の魔法』、『悲観の魔法』に『自責の魔法』と、対人戦において魔法使いは幾つもの有効札がある。どう調理するかも思い通りだ。
そういう話じゃない、と不満げに漏らすリアの横に腰を下ろす。
ちょうどいい温度だ。
疲れが湯の中に溶けて広がっていく。
「なあ、リア。この状況ってどうかしてるよな」
「冷静になった? 僕は最初からそう言ってるよ。ティアのことを考えたいとか言ってたけど、もう真剣な話とか始められるわけないよね」
仰る通りで。
ただ、まあ。
「目下最大はティアだ。次に東方戦線が気掛かりで、ギルベリタのエスカレート具合も問題だ。キサラは毎晩意味もなく俺の部屋に来るし、エマはなんか重いし、ファトゥスは相も変わらず奔放で、セルウィタは爆弾だ」
はあ、と溜息が出る。
「スクリータ、ルナ、リア。それくらいだ。俺が何も気にせず付き合えるのはな」
「少しくらいは気にしてくれたって罰は当たらないと思う」
「リアだし」
「それ魔法の言葉じゃないよ」
分かってる。
「ハイミシア様とは結局どうなったの?」
「……きっと、死ぬことはないだろう。何が何でも生き残ろうと思えばそれができてしまう人だからな。そうなってくれるように祈るしかない」
「そう。僕はあの人嫌いだな」
息をするように自然な言葉だった。
「仲間じゃないからか」
「そうだね。僕の仲間はギルとティアとルナだけ。名目としてはセルウィタとファトゥスもそうだけど、壁はあるよ。ファトゥスはギルを傷付けた。セルウィタはティアをどうするか分からない」
「……キサラやギルベリタは無理だろうが、スクリータとは仲良くしてやってくれ」
「殺してないけど」
「仲が良いの基準バグってるぞ」
「ギルを拉致して監禁しようとしたその三人を許す気はないよ」
「それなら、エマは?」
「羨ましいかな」
羨ましい?
「僕は完璧な人間じゃない。でも、完璧な英雄を目指してる。だから救われるわけにはいかない。僕は誰かを救っていたい。エマ様みたいにはなれない」
「よく分からないな」
「僕はギルに救われたいんだよ。でも、それじゃダメなんだ。僕が憧れたのは完全無欠のヒーローだから。支えられてもいい。力が足りなくてもいい。塗炭の中で絶望して、泣き喚いて、そんな時、自分で立ち上がれないなら、死んだ方がマシだ」
「……手は貸してやる」
「それでいい、それがいいよ。あはは、僕って大概だよね」
リアは自嘲混じりに笑った。
「うん。ごまかすために色々と語ってみたんだけど、ダメみたいだ。ごめん、ギル。このままだと本当に押し倒しそうだからもう出るよ」
「今の話はもうちょっとマシな動機で聞きたかったな」
「いや、ほんと、ごめん。自分でもびっくりするくらい頭の中がいっぱいになってる。……僕のものになってくれない?」
「そういうセリフはもっと別のタイミングで言え」
「それってもしかして、ちゃんとした場所だったら――ああ、やっばりいいや。頭冷やしてくるよ」
立ち上がり、浴槽から溢れた湯を踏んで、リアが出ていく。
ハイミシアとの情事で幾分かマシになった性欲が飽きもせず鎌首をもたげた。ファトゥスがこの世界に生まれ、呪いをかけられたあの日から、もう二ヶ月が経った。
未だ慣れているとは言えないが、付き合い方も分かってきた。
水面に視線を落とし、考え事に頭を使う。
そうしていれば俺は俺自身を見失わずに済む。
リアが扉の前に立ったちょうどその時、がらら、と音を立てて扉が開いた。
「ヴァレリア。話したい、ことが、ある」
「……最悪のタイミングだね」
えっ。
咄嗟に隠れることもできず、キサラと目が合う。
曝け出された裸体。テーピングのように巻きつけられた四肢の包帯だけが肌を覆い、大事な部分は全くのノーガードだった。
そしてガン見されている。
脳内で危機感と性欲が鬩ぎ合っている。
本当に最悪のタイミングである。
「とりあえず、キサラ。僕の声は届いてる? 届いてないか。一旦出るよ。そうなるのは分かるけどさ」
「ギルの、ギルが、今、幻覚?」
「無理に考えない方がいいよ」
「わたし、目が合った」
「ああもう、さっさと――動かないな。根でも張ってる?」
卯の花色の長髪がゆらりと揺れた。
瞬きを一切しないまま、キサラが風呂場に侵入する。
すごくヤバい。
具体的に言うとかなりマズい。
「ちょっと、邪魔」
「待って、待とうか、力強くなってない!?」
存在力が大差で優っているはずのリアがキサラに押し負けている。
危機感が最大値に達した。
魔法を使うしかない。
対象の意思を削って奪い取る『期待の魔法』を真っ先に候補から外した。あれほど強固な意思がその程度で完全に勢いを失くすはずがないからだ。同じような理由でこちらを嫌わせる『嫌悪の魔法』も大して意味がないだろう。
神性に作用して痛みをダイレクトに与える『悲哀の魔法』も恐らく効果はない。今のキサラが怯むとは思えない。
対象の
俺に『驚愕』の適性があれば『不信の魔法』がクリティカルだったのにな。つくづくエマはいい魔法を使っている、と思わされる。
ハイミシアお得意の『自責の魔法』は攻撃性が高すぎる。聖女たるキサラの神性を不可逆に傷つけた場合、とんでもない事態に発展する。
であれば――『期待』と『悲哀』の応用感情、『悲観の魔法』を使うしかない。
「
あらゆる中で最悪の未来を想像する。
『期待』が持つ予測の性質と『悲哀』が持つ不快の性質を併せられた『悲観』の感情は、その実現を以て応えられる。
「ギル、が、そこに――」
キサラの足が滑った。後頭部を強かに打ちつけ、すぐに起き上がるも足取りが覚束ない。ふらりと手をつけば、緩んでいた包帯と腕の隙間にレバーが入り込んだ。
無理に引っ張ればシャワーから冷水が出る。
思わず身を捩ったキサラがシャワーの水圧で倒れた風呂桶を踏みつけ、一回転。
包帯はレバーにより一層強く縛り付けられた。
『悲観の魔法』は運命を改変する。
対象の神性が持つ欲求に反する出来事を無限の可能性から拾い上げて成立させる。
『冷笑の魔法』ほど派手な現実改変は起こらないが、対象の目的を達成させないということにおいては最も優れた、そしてインチキじみた効果を持つ。
ただし欲求を持たずに『破壊』をばら撒く魔物には効かないが。
「なんで。……わたし、だって、ギルと一緒に、入りたい」
「当たり前のことだから言わせてもらうけど、自制できないうちは無理だよ」
「どうして、できる? ギルが、そこにいるのに」
「処女じゃないからじゃない?」
リア、それはオーバーキルだ。
相手がティアだったら泣き喚いてるぞ。
縛り付けられた右手をだらりと上がったまま、キサラは床に座り込んだ。
「なん、で。わたし、一番遠いのに。だから、頑張った、のに。なんで、とっくに、取られてるの。わたし、が、一番近くに、いたい」
「そんなこと言われても」
「ずっと、ギルだけ、見てる。それ以外、考えてない、のに。ずるい。ギルしか、いないの。わたし、ギルしか、いない、から。……ギル以外に、あるなら、譲って」
初めて、キサラがリアを見た。
自分勝手な言い分だが、気持ちは理解できる。
キサラにしてみればリアが真面目に向き合っているとは思えないのだろう。
他のことにも手を出しているあいつが選ばれるのは気に食わない、そう思うのは当然の心理だ。
「わたし、は。ギルが、一番だから。自分勝手、だけど、強欲じゃない。ギルのこと、一番愛してるのは――」
「黙りなよ」
リアがキサラの頭を蹴りつけた。
お前はお前で何してんだ。
「君が近寄れば、ギルは傷つく可能性が高い。だから止めた。それだけだよ。君がどれだけ吠えようと、加害者だ」
「リア、二回も蹴るんじゃない」
「せめて同じ土俵に立ってから言ってくれないかな。僕は君が嫌いだ。自分ことしか見てないのは君だよ。だから、ギルを、傷つけるんだ」
「リア!」
言っても止まらないなら無理矢理にでも止めるしかない。
「一番に考えてるだけで相手のことを思ってない独りよがりな君が、僕のどこに勝ってるって? 言ってみなよ、どっちがギルのことを考えてる?」
「……自分の夢に、付き合わせて。戦場に送り出す、なんて、正気じゃない」
「僕はギルの仲間だ。ギルも僕の仲間だ。聖女だか何だか知らないけど、部外者が口を出せる話じゃない」
「リア、やめろって言ってんだろ!」
羽交締めにして拘束する。
リアはなおも怒気を隠さなかった。
「ギルに甘えるだけが能なら、自分勝手なことを言うしかできないなら、黙れよ」
「おい、いいかげんに落ち着け!」
「僕は君が嫌いだ」
吐き捨てるようにそう言うと、リアは勝手に拘束を抜け出して風呂場から出て行った。
二人の相性が悪いことは知っていたが、まさかここまでになるとは。
鎖のように巻き付いた包帯を解いてもキサラは座り込んだままだった。
冷水を頭から被っていたことを思い出し、温度を調節してからシャワーをかけてやる。
「ヴァレリア、と。話すために、来た」
水が打ちつける音にも負けそうな、小さな声でそう呟いた。
「ギルは、戦場に、行ってほしくない。聖女ですら、もう、二人も負けてる。わたし、でも。ファトゥスでも、きっと、守りきれない」
「キサラ、俺はいいんだよ。リアについていって死ぬなら、後悔はするけど、本望だからさ」
「我儘、だけど、嫌だった。今も、そう。ギルが、何を考えていても、変わらない。死んでほしく、ない」
俺の世界には、聖都があって、この街がある。
心を許せる相手は何人もいる。
心を預けてくれる相手ならもっと多い。
それが俺の世界だ。
キサラには俺しかいない。
自分すら色を失って、そんな世界で。
「独りよがり、だけど。それでも。それが、本当に大切なら、正しい、って。わたし、間違ってる?」
間違ってない。
ただ、正しいかどうかは分からない。
「わたし、死んでほしくない。死んでほしくない、の」
キサラが俺の手を握る。
弱々しい少女の力だった。
「ありがとうな」
俺が答えられるのはそれだけだ。
とりあえず風呂に浸かってリフレッシュするのはどうだ、と言えば、キサラは力なく立ち上がった。泥濘を進むような足取りだった。
何かしてやれることがあるとすれば、諦めることだけだろう。
俺がキサラやリアと同行することを取り止めれば、それだけで安心してくれるはずだ。それだけ。仲間だけを戦場に向かわせ、家族や幼馴染すら見送って、俺がこの街で、一人。
脱衣所に入る。
ドアを閉め、堪らず座り込んだ。
「どうすればいいって言うんだよ、こんなの……」
俺はリアについていくだろう。今までのすべてを差し置いて自分だけが安全圏にいるなんてのは正直言って論外だ。
もし、誰かが戦場から帰ってこられなかったら、その時俺は、「行かなくて良かった」と思えない。助けられた可能性を僅かにでも信じて、「行けば良かった」と後悔するはずだ。
誰かが死ぬかもしれないなら、俺はそれを助けられる立場にいたい。手を差し伸べてやりたい。
たとえキサラが何を思うとしても。