「彼女」は僕の星だった。
「彼女」は万能だった。「彼女」に不可能はなかった。僕は「彼女」を姉のように慕った。
ある時、「彼女」は自分と同じ、異常なまでに強力な個性を持った人間を集めた。それには僕も含まれていた。こうして出来たのが「個性の集い」だ。どんな意図があったのか今では分からない。僕たちは毎日ゲームをして過ごした。楽しかった。
だが、ある日「彼女」は自動車に轢かれて後頭部を強打した。それから現在に至るまで、「彼女」は目を覚ましていない。
外傷はない。脳が傷ついている訳でもない。何故か目を覚まさないのだ。現代医学の手はもう届かない。解決策は個性だけだ。今のところ、選択肢は二つ。ナガレボシがエンチャントで何とかするか、治せる個性持ちを連れてくるか。
僕は後者を選んだ。ナガレボシを信用していないからだ。あいつの個性「エンチャント」は物体に個性を付与できる。恐るべきは、一つの物にいくらでもエンチャントが可能であるという事だ。それは何回でも掛け直せるという意味ではなく、本当に幾らでも能力を与えられるのだ。それでも、「彼女」を治す能力は付与できないという。僕は噓だと思っているが、確かめる術はない。ウソ発見器の個性でも連れて来て虚飾が日の下に晒された時には、僕はあいつを躊躇なく殺す。
話が逸れた。僕は該当者を探すために病院のコンピューターから全国の医師の情報を抜き取った。しかし、「彼女」を救える個性はなかった。なので、次は闇医者と呼ばれる類の輩も視野に入れて再捜索した。そうして裏社会に沈み、深くまで溶け込み始めた頃、僕はその存在を知った。
敵連合なる組織が発足したらしいがまだ突入はしない。狙いは雄英のようだから、僕は雄英の方に侵入してみることにした。
水曜日、校門にやって来た僕は困惑した。マスコミがいっぱいいる。そんなことしたって誰も出てこないと思うのだが、もう退くに退けないのだろう。オールマイトパワーすごい。僕は人の隙間を抜けて、あっさり雄英の敷地内に入った。センサー程度には引っかかるはずもない。取り敢えず、職員室にでも向かうとするか。
悠々と廊下を歩いていると、何かのアラームが鳴った。侵入がばれたのかと思ったが、直ぐにマスコミが一線を越えたのだと察する。マスゴミなら不法侵入くらいやってもおかしくない。まさか、僕と同じように侵入しようとする輩もいるなんてこともないだろうし。
一向に鳴りやまないアラームを無視して進んで行くと、職員室が見えて来た。ちょっと広い以外は普通の学校と同じだと思う。お邪魔しまーす。
オールマイトが担当するのは一年だから、一年生の担任のデスクから探そう。そう思ったが、一年の担任なんて知らないので結局片っ端から物色していく羽目になった。しばらく机を漁っていると、職員室のドアが開く音が聞こえた。誰か来たのかと顔を上げると、顔面に手を張り付けたパリコレでも見ない謎ファッション男と全身から黒い靄を出している性別不詳不審者が入って来た。これが雄英の教師か。日本は終わりだな。
不審者二人は迷いのない足取りで一つの机に向かう。教材でも取りに来たのかと眺めていると、その机を探り始めた。いや、違う。探るのではなく、漁る手つき。こいつら、同業者だ。
暫くすると、パリコレが一枚の紙を取り出してそれを折ってポケットにしまった。僕はすぐさま彼のポケットに手を突っ込んで紙を取り出す。開いてみると、この先一か月くらいの予定表だった。
こいつらもしかして敵連合じゃないか? と思っていたら黒い靄が広がってそいつらは消えた。予定表を見てみると、来週の所にUSJで訓練と書かれていた。楽しそう。僕は来週また来ることにした。
あ、紙返し忘れた。
ググって見たら、USJというのは「ウソの災害や事故ルーム」という雄英の施設の略らしい。騙された。しかし、校内にこんな施設を作るとは、莫大な敷地面積の成せる業か。
ともかく、これだけオールマイトが参加予定と書かれていたから絶対に奴らは来る。入って見た感じ、USJは隔離空間だ。入り口も限られるし、ガラスのドームの天井がある。これほど襲撃に適した地形はないだろう。
僕はワープゲート個性での侵入一点読みで、食料を持ってUSJに潜伏した。中央の広場が見える岩の裏に位置取った僕は時を待った。
十三時を回ったくらいで生徒たちが到着した。宇宙服を着ている人が何やら話を始める。暫くすると生徒が拍手をした。終わったらしい。身体の向きを変えた宇宙服だが、その時、広場に黒い靄が広がる。お出ましだ。
靄から現れたのは無名のヴィラン多数と、それを率いるパリコレファッション&人型の靄。僕の個性が広場とは別に、各エリアに人間が出現したことを告げる。配置は成された。僕はナガレボシのエンチャントが施されたイヤホン型のインカムを装着した。効果は会話のテキスト化、不壊、形状記憶、摩耗耐性、水属性、消臭、遠隔操作、発光、耐油性、撥水性、無限電源、あと十個くらいあったけど忘れた。僕は広場にいる全ての人間を選択して会話をログに起こした。
「さ。子供を殺せば、来るのかな」
「ヴィラン!? バカだろ!? ヒーローの学校に入り込んでくる何てアホ過ぎるぞ!?」
「何にせよ、センサーが反応してねえのなら向こうにそういう事が出来るヤツがいるって事だ。バカだがアホじゃねえ。これは何らかの目的があって用意周到に画策された奇襲だ」
センサーは僕の所為じゃない。本当にそういう人員を集めたか、作ったのだろう。名も知れぬ彼の言う通り、きちんと計画が練られている。だからこそ彼が来ていないというのは不自然だ。ログにはいないし、個性でも確認できない。どういうことだ?
「――一芸だけじゃヒーローは務まらん」
いつの間にか会話が進んでいた。先生の一人が白いマフラーのようなものを手に飛び出し、次の瞬間にはヴィランをボコボコにし始めた。はー、肉体派には見えなかったけど凄い。さて僕は、どうしよう。
僕の目的は敵連合との交渉だ。何故僕が「個性の集い」の中で交渉役に選ばれたかと言うと、二つの理由がある。一つ目は、消去法だ。
先ず七音。論外。何をしでかすか分からない。次にトランスポーター。論外。会話のドッチボールが始まる未来しか見えない。玻璃。論外。コミュ障で初対面の人間と会話ができない。最後にナガレボシ。可能性はある。発声器官がないのでラジオを通しての会話になるが、人間性に問題はない。ただ、信用できないのと発言のレパートリーが「スター性がある」くらいしかないので待機となった。
僕が行くことにも反対の声は上がったが、他よりマシなのと僕の欠点がそれ程致命的ではなかったので採用となった。
僕は交渉の為に色々な用意をしてきた。その一つが、ヴィラン『ゴースト』としての活動だ。ある程度のネームヴァリューを持つことでようやく交渉の舞台に立てる。そして、それは同時に交渉材料の価値を高めることに繋がる。
もちろん、公的な功績とは別に印象は良くしておきたい。しかし、ここで敵連合に加勢するのは悪手だ。流石に子供を殴ると「彼女」に怒られる気がする。かと言って、学校側に味方をする気もない。それこそ本当に意味がない。この事から導き出せる、僕のやるべき行動とは。そう、キリが良い所までおにぎりを食べて過ごすことだ。
コンビニおにぎりの美味しさは異常だ。添加物がたっぷり入っているからか知らないが、とんでもなく美味しい。海苔がパリパリで、米はほのかに塩の味がする。正直、家で作るより断然美味い。身体に悪いからとか関係なしに、毎日でも食べたいくらいだ。難点は包装が剥き辛いくらい。どう足掻いても海苔が割れて少し落としてしまう。加えて、手が付かないように食べるのが難しい。まあ、これはしょうがない。僕は四つ目のおにぎりの包装を剥いた。
それにしても全然オールマイトが来ない。広場は先生一人が無双して死屍累々だ。敵連合はこのまま負けるのかと眺めていると、パリコレがムキムキ男に指示を出した。
「脳無、やれ」
筋肉達磨は一瞬で先生の背後に回ってその手を掴んだ。本命はこいつか。脳無と呼ばれた大男は先生を地に叩きつけた。先生は倒れて動かなくなってしまった。死んだか?
「教えてやるよ、イレイザーヘッド。そいつが対平和の象徴、怪人脳無」
なるほど。狙い撃ちの襲撃ではあるが、恐らく真の目的はこの生物兵器の試運転。そういうことなら、彼が出てこないのにも説明が付く。そんなことを考えている間に、先生の腕が脳無に折られた。痛そう。更に顔面を地面に叩きつけられる。痛そう。
先生がボコボコにされるのを見ていると、何時の間にか帰って来たワープ個性がパリコレに報告を始めた。
「十三号はやったのか」
「行動不能には出来たものの、散らし損ねた生徒がおりまして……一名逃げられました」
「は?」
頭をガシガシと搔き始めるパリコレ。無言のワープ。ギスってる。おもしろ。
「黒霧、お前……。お前がワープゲートじゃなかったら粉々にしたよ」
ブチギレてて草。しかし、そんな気軽に粉々にできるってことは、もしかして幹部かそれに次ぐ役職なのだろうか。これは思わぬ収穫だ。
パリコレは踵を返した。
「帰るか」
帰るらしい。と思っていたら、急に方向転換して隠れていた生徒たちに飛び掛かった。汚い。そこから生徒と先生対敵連合のイチャイチャが始まった。なんか生徒側が可哀想になりかけたところでオールマイトが登場。脳無が善戦するも、意味の分からない超パワーで押し切られて星になった。説明が雑だって? だって僕何もしてないから。過程はいいんだよ過程は。結果が大事なんだ。
足が速くなる個性の生徒が連れて来た先生群の力もあって、敵連合は敗退。パリコレ君は手と足を打ち抜かれてそのままゲートに撤退。襲撃は失敗に終わった。
床に倒れ込むシガラキ。その口からは恨み言が流れ落ちた。
「子供は強かった……平和の象徴は健在だった……。話が違うぞ先生!」
「違わないよ」
テレビに映った顔の無い男がそれを否定した。
「ただ見通しが甘かったね」
「僕もそう思うな」
突如、居ない筈の男の声が部屋に響く。そう、僕だ。僕はパリコレ君と一緒にゲートに入った。重役なら必ず本部に撤退すると踏んでいた。そして、それは上手くいった。僕は顔と声以外の認識阻害を外す。
「初めまして先生。否、『AFO』。僕はゴースト。取引をしに来た」
テレビの中で男は笑い、手を挙げてパリコレと黒霧を制止した。
「興味深い」
予行練習は何度もしている。当然、僕は次のセリフも憶えている。
「僕の個性である『認識阻害』。これと引き換えにある個性が欲しい」
テレビの中の男が椅子に座り直す。
「ふむ。一体どうやって私の個性を知ったのかな?」
「オールマイトとやり合ったって言うのは裏社会では知れた話だ。気になったから警察庁に入って事件のデータを覗いたんだよ」
僕がそう言うと、彼は口角を上げて言った。
「あそこはちょっと気付かれにくい程度の個性で入れる場所じゃないんだけどね。ますます君に興味が湧いてきた。参考までに、どんな個性が欲しいのか言ってみたまえ」
「植物状態の人間を回復できる個性」
僕は即答した。ここまではシミュレーション通りだ。彼は少し黙ってから言った。
「決めたよ。今からそっちに向かう」
乗って来た。思ったよりあっさり行けた。
床一面に黒い沼のようなものが広がって、そこから呼吸の補助機みたいなものと共にAFOが生えるように現れた。彼はゆっくりと歩いてカウンターの椅子に腰かけた。
「顔が見えにくいのは画面越しだからかと思ったけど、直接会ってもやっぱり分からないね。一応、記憶力を高める個性も使っているんだけど」
首を傾げるAFO。まさか、その為だけに来たのか? いや、まだだ。僕の個性に対する関心は高まっている。このまま押し切ろう。
「いろいろなヒーローに会ったが、個性を破られたことは一度もない。その強度には自信がある」
AFOは足を組み直す。
「『ゴースト』。テレビで見たよ。一か月周期で街を移って毎日三件以上の窃盗を犯す透明人間。その個性があれば僕は色々と動きやすくなる。けどね」
AFOは無い目を細めた。
「回復系の個性は貴重でね」
ここだ。僕は興奮による震えを抑えて第二の切り札を切った。
「足りないと言うなら、もう一つ加える。情報だ」
「それは君の個性を貰うからいらないかな」
「未来予知の個性を持つ人間を知っている」
嘘だ。そんな人間知らない。
AFOの足が微かに動いた。興味を持っているらしい。
「勿論、サー・ナイトアイじゃない。デメリットもあるが、恐らくあなたの持っている個性で打ち消せる。これ以上は個性を交換した後で」
AFOは少し考えた後、ニヤリと笑った。
「契約成立だ」
勝った。やっと終わる。「彼女」が戻ってくる。僕は表情が崩れないように認識阻害を強くして、契約内容を再確認した。
「僕が差し出すのは僕の個性と、未来予知の個性を持つ人間の情報。そして、あなたは僕に植物状態を回復させられる個性を与える」
「認識の齟齬はないようだね」
あと少しだ。僕は最後のピースを嵌めに掛かった。
「個性の交換は契約成立の握手で。僕の個性を奪うと同時に与えてくれ」
「いいよ」
僕は右手を差し出す。彼がそれを握って、握手が成された。
個性の奪取と譲渡は同時。だが、僕に新しい個性は流れてこなかった。代わりに、彼の個性が僕の個性を探って、すり抜けた。あー、やっぱりね。
「は?」
僕が交渉役に選ばれた理由その二。僕の個性は「彼女」を除いてあらゆる個性に先行する。誰も僕を何かの対象に出来ないし、出来たとしても僕はそれを外せる。
彼は契約違反をした。先に僕の個性を奪おうとした。AFOが指を鳴らす前に僕は個性を発動させた。
部屋中が炎に包まれる。シガラキと黒霧は急いで逃れようとするが、熱を少しも感じないことに気付いた。AFOが二人にバリアを張ったのだ。暫くして炎が収まると、そこには誰もいなかった。
「こういうタイプの個性は範囲攻撃に弱い。彼は面白そうな人間だったから実に――」
「残念だよ」
僕は認識阻害を解いた。パリコレが僕の肩を掴んだが、肩は崩れない。目を剥くパリコレ。僕は構わず個性の説明を始めた。
「僕の個性は正確には認識阻害じゃない。その本質は隠す事だ。当然、世界から鑑賞されないように、干渉されないようにも出来る。今回は何が来るか分からなかったから仕方なくこうしたけど、他の方法もある。僕の個性は選択肢から外れる個性でもある。例えば、そこのパリコレ君の個性は触れた場所を崩壊させられるけど、それは物質的な破壊だ。概念を破壊することは出来ない。これはつまり、触れた物質を対象にした個性って事だ。だから、僕に触れても僕を物質として認識できないから破壊できない。炎だって物質的な攻撃だ。僕に当たる訳が無いだろう」
僕はAFOから盗んだ腕時計で時刻を確認した。
「そして、もう時間だ」
ガチャリと扉が開く。そこから姿を現したのは金髪に青いメッシュを入れたティーンエージャー、トランスポーターである。
「依頼開始。時刻ぴったり」
「じゃ、お願いするよ」
僕は彼女と手を繋いだ。AFOは彼女が現れたことに疑問を抱いている様子だ。
「どうしてここが分かったのかな? 電波は届かない筈だけど」
「目的地が分からないって言うのは旅に於いて障害になりうるからじゃないかな」
「なんだって?」
「ああ、それと植物状態なのは僕の友達なんだ。じゃ」
僕が出ようとすると、AFOが何かの個性で扉を溶接した。が、トランスポーターが近付くと壁が舞台のセットの様に倒れて通れるようになった。
「もうこないからねー」
僕たちは敵連合のアジトを去った。
道すがら、彼女は僕にぐちぐちと文句を言ってきた。
「あれなに?」
「何って?」
「何で個性を説明したの? バカなの?」
「そうした方が効き目がいいんだよ。僕の個性は情報に宿る」
「いや目立ちたがりなだけでしょ。そんな個性持ってるのに」
否定できなかった。そう、僕は人の注目をかっさらう事が嫌いじゃない。目立つのが、嫌いじゃない。でも、今回はそれ以上に情報を残すことの方が重要だった。
僕の情報とされる範囲は広い。個性の出力を上げれば僕の発言は勿論、その内容から連想できることもすべて吹き飛ぶ。いわば、情報の時限爆弾だ。僕を含んでいる発言を多くしたから、今頃敵連合は混乱しているだろう。
「少し前の警察憶えてるか?」
「警察。ああ、私の捜査してたらあんたの情報が出て来てお蔵入りになった奴ね?」
彼女の情報から僕の情報が出る。僕の情報が彼女の情報を巻き込んで消える。消えた彼女の情報を復元しようとして僕の情報が出るというループで捜査が停滞し崩壊した事件である。一か月全く同じ行動を繰り返す様子は見ていて可哀想だった。
「そう言うことだよ。だから、あれは仕方なくやったんだ」
「でも、ペラペラ情報喋ってる時、楽しかったでしょ?」
否定できなかった。実際ワクワクした。相手は僕の個性について誰よりも詳しくなったが、それによって絶対に僕を対策できなくなったのだ。僕の情報がこれ以上漏れることはないし、今ある情報も直に収縮を始める。相手は、何もできない。忘却の速度を下げるのもいい。だんだんと記憶に穴が開いていく。何を忘れたのか分からないまま空白を恐れる。もしくは、少し情報を残すのもいいかもしれない。自販機の下のコインを拾おうと伸ばした手がそれを弾いて遠くへ追いやってしまう。自ら遠ざけたことに気付かずにまた手を伸ばし、無限にそれを繰り返す。
でもまあ、今回は僕にも非がある。急な訪問だったし、話も信用に欠ける部分があった。だから――。
「だから、僕と会っていた時間の記憶を飛ばす。そして、僕に関する情報も認識できないようにする。その程度にしておくよ」
「ハ、死ぬほど傲慢で笑うね。自覚あるの?」
ある。でも、こればっかりは性分だから仕方ない。
ホテルに戻った僕はすぐさま衣服を脱ぎ捨ててシャワー室に向かった。
世界の視界から外れるということは存在が不確かになるという事だ。存在強度とでも言おうか。その低下は即ち消滅を意味する。今の僕は存在強度が少し下がっている。それを回復させる方法は今の所一つしかない。
僕は、賀來氏筒見は認識阻害を完全に解いた。シャワーの水が長い黒髪を濡らし、白い背中でいくつもの分岐を作った。身長180cmを超える賀來氏筒見は垂れ下がった前髪を後ろに撫でつけた。スマホと言う享楽から距離を置いた生活は賀來氏筒見に少青年期特有の異常な成長をほぼ完全な形で齎した。四肢は白く艶やかであり、しかし適度に筋肉のついたしなやかな体躯だった。体重80.7kgの賀來氏筒見は汗と共に流れ落ちる疲労に息を吐き、シャンプーのボトルへと手を伸ばした。ホテル備え付けのシャンプーらしい、よく分からない香りが漂う。食べ歩きが趣味な賀來氏筒見は指を立てるようにして頭を後頭部から洗って行く。滴る水は宝石めいて、肌の上を煌めきながら流れ落ちる。速読が特技な賀來氏筒見は手を頭頂部へ動かした。東京都出身の賀來氏筒見は前頭部ともみあげを洗い、手を止める。そして、もう一度頭を全体的に洗い直して水で流した。温かい水が肌を滑り落ちる感触だけが残る。湯葉が好きな賀來氏筒見は顔を拭う。
僕は認識阻害を掛け直した。だからあの方法は取りたくなかったんだ。認識を知覚できるというのはデメリットになりうる。認識阻害を解いた瞬間、誰もいないのに数多の視線が僕を突き刺す。人のものかも分からないそれに身を晒し続けるのは気持ち悪くて仕方ない。だから、嫌だったんだ。
僕は認識阻害を強めた。身体を洗って、バスタオルで拭いた。僕は寝間着に着替えてベッドに横になった。僕は寝た。
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