僕の作戦、コード"
当然、「彼女」救済の手段はこれ以外にも存在する。けれど、大抵はほぼ都市伝説みたいな情報しか出てこない。僕たちは碌な情報網を持っていないのだ。ああ、腹が立ってきた。
「敵連合共の意味記憶全部飛ばしてやろうかな」
「どうした急に」
七音は僕のつぶやきに反応してスマホから顔を上げた。画面を見るとWi-Fiを繋げるのに苦戦しているらしかった。僕はスマホ依存症の可哀想な現代人を横目に、本屋で貰って来た面白そうな推理小説を開いた。
現在、僕と七音はアメリカへフライト中。出張というやつだ。アイオワ州で脳死状態だった筈の人間が街を歩いていたという投稿を発見したのだ。二つも。
投稿者曰く、新興宗教絡みらしい。十中八九ガセだが、確かめない訳にはいかなかった。
メインに据えていた策が潰れた事によって、リソースは次に優先度が高いナガレボシのエンチャントに流れるだろう。エンチャントは僕でも対策しきれない程に万能だ。僕は別の案を押し上げてでも阻止する必要があった。例えそれが、全く信憑性の無いたった二つの投稿だったとしても。
僕は首を振って思考を整列させた。
「何でもない。ただ、無駄になったコストについて考えていただけだよ」
「ああ、お前頑張ってたからな。じゃあ、この旅は慰安旅行ってことにするか」
それを聞いた僕はスパークリングワインを頼んでグラスに注いだ。
「躊躇ねえな……」
躊躇する必要なんて全くなかった。
七音は個性「7」により残高が7777777円から変わらない銀行口座を持っている。「彼女」の生命維持費や、僕以外の「個性の集い」のメンバーの生活費もそこから出ている。こうして僕たちがファーストクラスのシートに座っているのも、彼の底無き財力によるものだった。
横を見ると、彼も僕に倣って酒類を頼んでいた。流暢な英語だった。
そう、これこそ僕が彼を連れて来た理由だ。彼は七か国語を操るマルチリンガルだ。僕自身も高校卒業レベルの英会話力は持ち合わせているが、その程度の語学力で現地の人間とまともに意思疎通ができるとは到底思っていない。熟達した英語力を必要として、僕は彼を頼ったのだ。
因みに、僕も話せるようにして欲しいと頼んだのだが、七音はノータイムで断った。僕はしばらく彼が日本語を思い出せないようにした。
七音はグラスを右回しで香りを立て、細やかな泡を喉に流し込んでいる僕を見た。
「お前、成人してたっけ」
「さあ。忘れたよ」
アルコールが回って、少し身体が火照る。僕はモニターで到着予定時刻を確認した。残り15時間。やっぱりトランスポーターに頼むべきだったかもしれない。いや、後でどんなことを要求されるか分かったものじゃないな。七音の個性もナシだ。強引にフライト時間を操作したら何が起こるか分からない。
この本を読み終わったらさっさと寝るか。
結局時間が余って、ありふれたホラー映画を一本見た。
到着後は入国審査をすり抜けてターンテーブルで素早く荷物を回収。税関をスルーしてバスターミナルへ出る。頭上には、どこまでも青く澄んだ空が晴れ渡っていた。
日本のじめじめとした気候とは全く異なり、乾燥した、爽やかな空気が肌を撫でる。ターミナルには、様々な人種の人々が行き交い、それぞれの目的地へと急いでいるようだった。
どこまでも続くような広い道路とそれ以外を覆う芝生。ごく一般的なアメリカの風景を見渡した七音は、スマホのSIMを入れ替えながら僕に訊いた。
「それで、今ある情報は?」
僕はジャケットの内ポケットから取り出した手帳を開き、そこに走り書きしたメモに目を落とした。
「投稿は一か月前。場所は不明。投稿者も二人とも不明。脳死状態だったのはLyla Ferrar。母はMonique Ferrarで父はいない。脳死の原因は自動車事故らしい」
「それだけ?」
七音は少し眉をひそめた。僕は肩をすくめる。
「それだけだよ。一応、投稿者にDMを送ったけど、どちらも返信は無かった。でも、いつもの事だろう?」
情報は少ない。けれども、今回は多分楽な方だ。僕は手帳と地図を取り出した。
「先ずは彼女が運び込まれたElbro総合病院に向かおうか。何処にある?」
七音に訊くと、彼はしばらくスマホを操作した後顔を上げた。
「直ぐそこだ。歩いて行ける」
そう言うと、彼はハンドサインを送った。それは、彼の個性を使う合図だった。7分間、歩幅を7メートルにするという効果だ。分類するならば、継続的な過去改変。たとえ足踏み程度の一歩でも、その歩幅は物理法則を踏みにじって7メートルになる。僕たちにとっては日常的な移動手段の一つだった。
僕たちはさっさと歩きだした。空港周辺でありながら、どこか寂れた雰囲気の田舎町を背景に、僕は頭の中で状況を整理し始めた。
Elbro総合病院は事故現場から一番近い病院で、最初に運び込まれた病院だ。大きめの病院だから、別の病院に移送されることもなかっただろう。彼女の患者情報が何らかの形で残っているはずだ。そこから彼女の住所や連絡先といった情報が取得できる。運が良ければ、入院中の症状経過もあるかもしれない。宗教が後付けかどうかというのは重要なポイントだ。
「おい、着いたぞ」
七音の声で現実に戻る。思ったより早いな。僕は早速自動ドアを通って病院に入った。
一歩足を踏み入れると、そこは外の喧騒とは隔絶された静謐な空間が広がっていた。高い天井から降り注ぐ自然光が磨き上げられたベージュのタイルを照らし、清潔感を演出している。
受付カウンターには、数人のスタッフが忙しそうに電話応対をしたり、パソコンの画面に向かって作業をしたりしている。待合室の椅子には少なくない人数の患者が座っており、その繁盛ぶりが伺えた。
七音はカウンターに向かい、受付に英語で話しかけた。
「Lyla Ferrarという女性の見舞いに来たんですけど、病室はどこにありますか?」
「少々お待ちください。……あー、彼女は既に退院されていま――」
僕は受付の目の前に手を出して認識能力と思考を停止させ、その隙にパソコンの画面をのぞき込んだ。画面には患者の一覧が表示されていて、Lylaの名前もある。その横には詳細を示すためのコメント欄があり、「The patient is being discharged home for religious reasons to receive end-of-life care」と書かれていた。僕は七音に手招きをした。
「これ、宗教上の理由で終末期をケアする為に退院したって事だよね」
「そうだな。こういうのってアメリカでは珍しくないのか?」
僕は少し考えて答えた。
「いや、アメリカは信仰心の深い人が多いけど、家で看取るのが戒律になっている宗教は聞いた事がない」
僕はLylaの名前をクリックしてカルテを開いた。フォーマットは日本とあまり変わらない。住所らしきものもあったので、七音にスマホで調べてもらう。僕も一応メモしておこう。
「あった。近所だ」
運がいい。早速行くとしよう。僕たちは病院を出て、7メートルの歩幅でその住所に向かった。
特に変わりのない、どこにでもあるようなアメリカの郊外の景色を見ながらくだらない話をしていたら、あっという間に目的地に到着した。
「あれがその家だ」
それは平べったいレンガ造りの家だった。庭には青々と芝生が広がり、白いフェンスが家を取り囲んでいる。周囲の家屋と違いを探す方が難しいような、ごく一般的で普遍的な家だった。さて、先ずは情報収集からだ。
「七音、あそこの奴に話しかけてくれ」
「え、俺嘘苦手なんだけど」
「僕が行くよりマシだ」
七音はしぶしぶ男の元へ歩いて行った。
「あの、私はLylaの友人なんですが、彼女が事故に遭ったと聞いて様子を見に来ました。彼女の家を知っていますか?」
彼が話しかけたのはキャップを被った小太りの男。男は立ち止まり、少し訝しげな表情で七音を見た後、後頭部を掻いた。
「Lyla? 聞いた事があるな。そうだ、あの子か。家は知らないけど、噂は知ってるよ」
「噂?」
「彼女は▮になったんだってさ。凄いだろう? そうとう頑張ったんだろうなあ」
は、▮? ▮ってなんだ? いや、▮か。何が凄いのかは分からないが、彼女は有名人らしい。僕は七音にだけ聞こえるようにもっと情報を引き出してくれと言った。
「ええと、彼女が脳死って話を聞いたんですけど」
僕は冷や汗をかいた。脳死になったら大抵は一週間以内に死ぬ。事故から一か月も経ってから友人が様子を見に来るというのは、どう考えても不自然だ。慌てて会話を逸らすよう指示するが、その前に男が口を開いた。
「そうなんだよ。まさに奇跡だ! 僕は見てないけど、友人がその場にいてね。いやー僕も行けばよかったな」
危ない。気付かなくて助かった。僕は胸をなでおろした。それより、脳死からの回復が現実味を帯びてきた。早く終わらせて帰ろうと思っていたが、これは根が深そうだ。もっと情報がいる。七音もそれを察したのか、会話を引き延ばしに掛かった。
「その場には誰がいたんです?」
「司祭さんとLylaのお母さん、他は良く知らないけど六十人くらい来てたらしいよ」
結構規模が大きい。だとすれば、もっと情報が落ちているものだが。まあ、この点は後で考えよう。
僕が会話をメモしていると中年は不意にスマホを取り出した。そして、一瞬画面を見た後、レストランが混むからと立ち去ろうとする。会話を切る流れだ。男が完全に背中を向ける前に、七音は問いかけた。
「因みに、あなたの宗教は」
男は振り返りもせずに、軽い口調で言った。
「僕も▮教だよ。良い一日を!」
「あなたも」
七音が密かにハンドサインを送る。僕は認識阻害を強めて、僕と七音の会話が漏れないようにした。七音が振り返って口を開く。
「なんか変だよな」
「僕もそう思う」
先ず、今の人はおかしい。信じられないくらい協力的だった。普通、誰かも分からない外国人にそこまで話さない。こんなの罠を疑うレベルだ。
次に、脳死からの回復について。これは情報の洩れ方が妙だ。ニュースや記事の一面に載っていないのはともかく、それに関するSNSの投稿が二つしかない。よほど信仰心が篤いのか。だとしたら二件の投稿は誰によるものなのか。
それに関連して、投稿がどちらも新興宗教の儀式という書かれ方をしているのもおかしい。▮教と言えば四大一神教の一つだ。いくらアメリカ人の学がないとしても、それすら知らないのはどう考えても異常だ。
「偶然の可能性は?」
「勿論ある。だけど、やっぱりきな臭い」
人間の思考は読めない。所詮は経験則だ。それでも僕は不安感を拭いきれなかった。解決できるのは情報だけだ。何時だってそうだ。情報収集は続けるべきだろう。
「しかし、脳死した人間を回復させたってのがマジだったとは」
「それは僕も驚いた。こういうのは大抵幻覚か、何か絡繰りがあるんだけど、新興宗教じゃなくて▮教だからなあ」
真と断定していいだろう。僕はそう続けようとして口を閉じた。なんてことはない。勝手なことは言わない方が良い気がした。それだけだ。いや、違う。僕は何かを忘れている。何を?
「ゴースト?」
七音の声でハッとする。僕は思考を棚に上げた。これは大切に仕舞っておこう。僕は小さく息を吐いた。
「ちょっと考えてた。何?」
「この後はどうする?」
無難に行くならもう一人くらい聞き込みをしたいが、母親のMoniqueに話を聞くのも悪くない。まあ、確実に情報を持ってる方にするか。
「家に凸ろう」
「いいね」
僕はLylaの家のドアベルを押した。しかし、何分待っても出てこない。ああ、そう言えば今日は平日だ。家にいる方がおかしいか。予定変更だ。
「よし。司教さんの方に行こう。つまり、教会にお邪魔する」
「今日は礼拝日じゃなかった気がするんだが」
「それでも邪険にされることはないと思う。▮教だしね」
そう言いつつ、僕は道中の記憶を呼び覚ます。確か、数ブロック前に教会があった気がする。何故かあの時は気付けなかったが、周囲にビルは無いし間違いない。七音の目力が強くなり、個性が発動する。物理法則を超越した僕たちは、滑るように教会へと向かった。
▮教の教会は三階建てのビルだ。窓はなく、入り口以外は真っ黒。非常に目立つ造りだ。そう言えば、日本で見たことがないな。何故だろう。まあ、気にすることでもないか。
到着した僕たちは自動ドアを潜って中に入った。その外見と同様、内部もシンプルなつくりである。一階は司教の部屋、二階に礼拝堂、三階は何もなし。僕たちは当然、司教の部屋への扉をノックした。
「はい。どなたです?」
くぐもった声が返る。僕と七音は顔を見合わせた。
「セブンと言います。入信希望です」
七音は迷いなく言った。少しして扉が開く。中から現れたのは、どこにでもいそうな普通のおじさんだった。
「どうぞ、お入り下さい」
部屋の中は非常に簡素だった。インテリアに該当するものどころか棚すらない。長方形のテーブルと向かい合うようにソファが二つ。それがこの部屋にある全てだった。
「お掛け下さい」
僕たちは入口に近い方のソファに座った。
司教は七音をじっと見つめた。その表情からは、特に驚きや警戒の色は感じられない。ただ穏やかな、底を見るような眼向けられている
「入信希望、でしたか」
司教はゆっくりと繰り返した。その声には僅かな歓喜が読み取れた。
「それは、どのような理由からでしょうか? そこまで深く考えることはありません。ただの確認ですので」
七音は何かを考え込むようにゆっくりと瞬きした。僕はその意味を知っていた。こいつ、何も考えずに入信希望とか言いやがった。仕方ないので、僕に続けて言ってもらうことにした。
「実は、私はLylaの友人でして。その母親から入信してはどうかと勧められました」
「実は、私はLylaの友人でして。その母親から入信してはどうかと勧められました。あと、Lylaが回復したと聞いたので凄い所なんだなと思いまして」
アドリブ入れてんじゃねえよ。それは空気が良くなってからするべき話題なんだよ馬鹿が。しかし、僕の懸念を他所に司教は顔をほころばせた。
「ああ、Lyla Ferrarさんですか。それはそれは。多くの人に知って貰えて嬉しい限りです」
司教は懐から▮を取り出して、机の上に置いた。僕たちはそれを覗き込む。
これは、▮様? 何故▮様を今見せる必要があるんだ?
僕たちが疑問に思っていると、不意に視線が増えた。僕は反射的にパチンと指を鳴らした。一分、帰還は三分後。七音が顔を上げて言った。
「▮様がどうかしたのですか?」
「いえ、これは儀式のようなものです。重要なのは、これであなたも▮教の新たな一員だという事です」
どうやら、今のがバプテスマ的な入信儀礼だったらしい。手軽でいい事だ。僕は七音を肘で突いた。七音は慌てて本題に入った。
「あの、それでですね。Lylaについて聞きたくて」
「ああLyla! 彼女は素晴らしいですね。この街で初めて▮になったのは彼女なんですよ!」
「そうだったんですか!?」
僕は目を見開いた。まさか、それ程凄まじいことを成し遂げていたとは考えていなかったからだ。
「写真もありますよ。見ますか?」
僕たちは揃って首を縦に振った。▮になった人間なんて今まで見たこともない。是非、見てみたかった。司教は数秒スマホを操作して、画面をこちらに向けた。
「こちらになります」
そこには、一人の少女が写っていた。マーカーで真っ黒に染めた大きな紙の中央に仰向けになっている。両腕と両足がそれぞれ数か所折れており、▮に収まるようにゆっくりと動いていた。やがて皮膚が引き延ばされ、肉から覗いた骨が砕けて完璧な▮になると動画は終わった。僕は動画が再生を終えても、身体の震えが抑えられなかった。
なんて事だ。こんな、こんなに素晴らしい▮は見たことがない。芸術的だ。これは紛れもなく▮なのだ!
七音も興奮気味に言った。
「これは、凄い。▮になるってこんなに凄いことだったんですね!」
「そうでしょう。それで、驚かないでくださいね。Lylaはまだ14歳だったんですよ!」
「そんなに若いのに▮になれるなんて、彼女はとんでもない天才ですね!」
若くして▮とは、その信仰心が見て取れる。思い返してみると、少し動きがぎこちなかった気もする。しかし、それが青く、▮になるという事がより美しくなる。素晴らしい。
「さらにですよ、ここを見てください」
僕たちは身を乗り出して――。
僕はいつの間にか知らない部屋に入っていた。時計を確認する。四分経っている。手帳を開く。特に情報は増えていない。隣には七音がいて、前にはおじさん。僕たちはソファに座っている。僕は手帳に数字を書き込んで部屋を見渡した。
なるほど。僕は自分の記憶を消したらしい。しかし、何故? 知るべきではない情報を見聞きした、あるいは洗脳? 記憶処理で解決できる問題はそう多くない、でも少なくとも日常的な問題ではない。警戒は必須だ。
部屋の中は非常に簡素だった。インテリアに該当するものどころか棚すらない。長方形のテーブルと▮様、向かい合うようにソファが二つ。それがこの部屋にある全てだった。不意に視線が増えた。僕は反射的にパチンと指を鳴らす。手帳に視線と書いて僕は――。
僕はいつの間にか知らない部屋に入っていた。時計を確認する。五分後だ。手帳を開く。そこには走り書きで"3,1""視線"と書かれていた。誰の視線だろう。今の所、変な視線はない。僕は感覚を遮断してそのまま時間が過ぎるのを待った。
四分後、何も起きなかったので指を鳴らす。手帳にトリガーと書いて僕は――。
僕はいつの間にか知らない部屋に入っていた。時計を確認する。九分後だ。手帳を開く。そこには走り書きで"3,1,4""視線""トリガー"と書かれていた。
何かをトリガーに視線がおかしくなるのか? 今の所、特に異常はない。取り敢えずトリガーを探そう。先ずは五感から。僕は部屋を見渡した。
部屋の中は非常に簡素だった。インテリアに該当するものどころか棚すらない。長方形のテーブルと▮様、向かい合うようにソファが二つ。それがこの部屋にある全てだった。不意に視線が増えた。僕は反射的にパチンと指を鳴らし、右の人差し指をパキッと鳴らす。手帳に▮様と書こうとして、手を止めた。
僕はいつの間にか知らない部屋に入っていた。時計を確認する。十分後だ。手帳を開く。そこには走り書きで"3,1,4,1""視線""トリガー"と書かれていた。
何かをトリガーに視線がおかしくなる? 今の所異常はない。情報量からして、五感の内の一つくらいやっている筈だ。僕は右の人差し指を鳴らそうとした。だが、音は出なかった。視覚で決まりだ。じゃあ、地道に行きますか。
僕はいつの間にか知らない部屋に入っていた。時計を確認する。四十分後だ。手帳を開く。そこには走り書きで"3,1,4,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1,1""視線""トリガー""視覚""床、天井、壁四方、七音、司教、ソファOK""机△"と書かれていた。そして、隅の方に"消せ""机の上""洗脳?"という文章。なるほど。分からない。
恐らく見ることをトリガーに何か悪い事――洗脳とかが起こる。そして、その見てはいけない何かは机の上のにある。これで多分間違いないだろう。
だいぶ時間を無駄にした。視覚を介した洗脳、ミーム汚染。僕の天敵だ。僕は目を閉じて机の反対方向に体を向けた。先ずは、ウキウキで司教と話している七音をどうにかしよう。
僕は部屋に入ってからの七音の記憶を消し、直ぐに机に背を向けさせた。僕は七音に声を掛けた。
「どこまで憶えてる?」
七音は怪訝そうな表情で言った。
「え、確か司教の人が出て――」
「机の上を見るな」
それを聞いた七音は黙って目を閉じた。それでいい。流石に死ぬことはないだろうが、情報汚染か認識災害を食らう可能性が高い。
続いて僕は司教が何か言う前に身体操作に関する記憶を抜こうとして、思い止まる。相手は脳死の人間を回復させているのだ。迂闊なことはしない方が良い。しかし、自由に動かれると面倒なので、個性をトグル式の忘却に切り替えて脳を問題提起の状態から動けないよう封印した。
さて、選択肢は二つだ。一つ、逃げる。二つ、立ち向かう。
逃げるのは簡単だ。僕の個性をフルに使えば、誰も阻むことはできないだろう。だが、もう手遅れということも考えられる。机の上の何かは、例えば三回見たら死ぬ絵のような性質かもしれない。接触するたびに深度が進むならば、リーチの僕が下手に動く事はかえって危険を招く可能性もある。
立ち向かう。これは難しい。実態が分からない以上僕の個性は意味がないし、七音も数字が関わっていなければ無力だ。物理攻撃による破壊も十中八九意味がない。僕が何度もリセットを掛ければその内解決できるかもしれないが、不確定要素が多すぎる。
二つに一つ。どちらを選んでも地獄だ。僕は頭を抱えた。ケチらずトランスポーターを連れて来ればよかった。あいつならどんな異常も受け付けないのに。今更後悔する僕を置いて秒針は進む。本当にどうしよう。
僕が唸っていると、ガチャっと音がして目の前の扉がゆっくりと開いた。
「え?」
「え?」
間抜けな声が二つ同時に響いた。そこに居たのは玻璃さんだった。僕たちは一瞬フリーズした。お前何でいるの。
先に混乱から抜け出したのは玻璃さんだった。スッと彼女の背後で世界が裂ける。僕は即座に彼女の手首を掴んだ。玻璃さんの身体がびくっと跳ねる。僕は穏やかな口調で問いかけた。
「玻璃さん、何でここにいるんだ?」
「えっあ、え。い、いやその、えー」
玻璃さんは口をまごつかせた。既に嫌な予感がする。
「あの、その。えっと。ち、違うんです!」
ああもう絶対こいつ原因だよ。僕は天を仰いだ。
玻璃さんはまとも枠だったのに。「個性の集い」唯一の良心だったのに。
僕は頭を振った。いや、決めつけるには早計だ。犯人じゃないかもしれない。こんなところに隠れて会社をサボっていることについての弁解が始まるかもしれない。落ち着こう。
「あの、ちょっと前の事なんですけど、私『シュタインズゲート』っているアニメを見たんです」
ああ、ダメそう。
「それで平行世界って言うのを知って、ゴーストさんからお願いされていた『彼女』を救える世界の捜索に使えるんじゃないかと思って」
彼女はそこで息継ぎをして、僕から目を逸らした。
「ゴーストさんって以前、私に視点についての話をしてくれましたよね。それで、平行世界の自分とコンタクトを取る方法を思いついて、ですね」
ちらりと僕を見る。僕は続きが聞きたいので適当に頷いた。
「やって見たら一回で成功して、平行世界の私と会う事が出来ました。でも、世界を渡る前に黒いカードを投げつけられて、混乱している内にゲートが閉じました」
何となく繋がりが見えた僕は机の上を親指で指した。
「もしかしてあれ?」
「そうです。それです」
玻璃さんは何でもないように言った。視線は確かに机の上へ向いている。もしかして、影響を受けていないのか。ならば情報を得るチャンスだ。僕はそれが何なのか質問した。
「長方形の黒いカードですけど、神様です」
「神様?」
「はい。分類上は多分そうです。あれを見ると、見た人が信者になるんです」
なるほど。洗脳とはそういう事か。しかし、疑問は尽きない。
「何故元の世界に返さなかった?」
「その。小説で読んだんです。神様は信仰されるからそこに居るって。信仰されればされるほど力が増すって」
まさか。僕はその先を容易に想像できた。
「だから、この黒いのを世界に広めたら『彼女』も救えるくらい力が付くんじゃないかって」
お前、お前さぁ……。僕の反応を見て、彼女は慌てたように付け加えた。
「もう直ぐ私の誕生日なんです。きっとみんなからプレゼントを貰うじゃないですか。だから、そのお返しにこれを用意したら喜んでもらえるかと思って」
「それは――」
「実際ちょっと成功してるじゃないですか。脳死状態の人が回復したんでしょ? だからきっと――」
僕は個性の出力を高めて玻璃さんの思考を停止させた。ちょっと調べるか。
僕は新たに認識阻害をセットした。時間は一分で対象は僕だ。確か長方形の黒いカードと言ったか。僕の名前の一文字である見には長方形が含まれている。そして、僕の来ている服は黒色だ。だから、僕の情報であるそれを僕は認識できない。僕が振り返るのと同時に個性は発動した。
僕は司教の手からスマホを取り上げる。その画面に映っていたのは肢体の折れ曲がった少女の死体だった。司教と七音の会話から推測するに、これがLylaだろう。
僕は玻璃さんのフリーズを解除して、その画像を見せた。玻璃さんは再び石の様に固まった。情報から像を組みたてながら、僕は口を開いた。
「これはただの経験則だが、この市の人口程度だとそこまで影響力は得られない。そもそも脳死とは脳血管障害によって起こる、生命の維持すらままならない状態だ。植物状態とは異なり、どんな治療をしたとしても意識が回復することはないし、生命維持装置を外せば一分も持たない。神がそれを回復出来たとは考えにくい。だとするならば、回復などしていなかったと考えるのが妥当だと思わないか?」
僕は玻璃さんを見た。彼女の瞳は小刻みに震えていた。
「そうすると、当然一つの問題が浮かび上がる。ではなぜ彼女は生きているかのような振る舞いが出来たのか。僕は神降ろしとか神憑りとか呼ばれるものを行ったのだと考えている」
「神降ろし」
彼女は僕の言葉を反芻した。僕は彼女の理解の為に言葉を続けた。
「身近な例だと、ひとりかくれんぼがそれに当たる。人形は脳どころか神経すらないが、ひとりでに動き出す」
僕は彼女と目を合わせた。
「『彼女』にこの方法を使う訳にはいかない。もっと力を付けさせるというのもナシだ。何が起こるか分からない」
僕は口を閉じた。玻璃さんは動かなくなった。
正直なところ、僕はそれほど怒ってはいない。まだ僕だけの力でもギリギリ何とかなる段階だからだ。ネットで情報が拡散しなかったのは、どうやったのか分からないが玻璃さんの仕業だろう。死者も他のメンバーのやらかしに比べれば少ない。何より、初犯だ。僕は助け舟、というか司法取引に出ることにした。
「もし後悔しているなら、手伝ってくれないかな。それで今回の事は忘れよう」
「わ、分かりました! 何でもします!」
玻璃さんは食い気味に言った。ああ、やはりまとも枠。当社比にはなるが、並外れた常識人だ。
話が纏まったので、七音の肩を揺する。
「あ、終わった?」
七音は寝起きみたいな声で言った。案の定聞いてなかったらしい。それは別にいいや。僕はさっき考えたインスタント神殺し作戦の全容を述べた。
「3ステップだ。玻璃が全ての世界を繋げる。七音が神の信者の総数を7人にする。僕が神を認識できなくする」
七音が手を挙げた。
「それ俺要らなくない? 玻璃が世界繋げてゴーストが認識阻害使うだけでいいじゃん」
「念のためだよ」
僕は自分の個性の限界を知らない。神相手に不確実な手段は使いたくないのだ。
「じゃあ、準備を始めよう。玻璃さんは神の写しを取ってくれないかな。中を黒く塗らずに縁取りだけを描く感じで」
僕は机の上を指して言った。玻璃さんは世界を裂くと、そこから紙と定規、ペンを取り出して何かを模写し始めた。僕の予想では長方形の比率が完璧で、かつ内側が完全に黒でなければ効力はないはずだ。多分。
「はい、描けました。これでいいですか?」
玻璃さんは描いた長方形を僕に見せた。僕はそれを見て、脳内で黒色に染めて補完する。なるほど、これは▮様だな。僕は反射的にパチンと指を鳴らした。
「じゃあ、準備を始めよう。玻璃さんは写しを、取ってるね。僕が指を鳴らす前に僕は何をしていた?」
「これを見せたら急に指を鳴らして……」
なるほど。脳内で補完したんだろうな。僕は長方形に対する短めの認識阻害を自分に掛けた。予定変更だ。
「もう始めようか。玻璃さん、世界繋いで」
「は、はい」
玻璃さんが背中を丸めると、その像がブレ始めた。僕は一歩下がった。
「あ「あ、出来ま「あ、「あああああああああ、出来まし「あ、出出来ました「し、た来まあ出」」た」ました」ました」、出来ました」
出来たらしい。僕は若干の不安に駆られつつも、七音に指示を出した。
「全ての平行世界を範囲に信者数を改変して」
「今終わった」
ということで、僕の番だ。玻璃さんの描いた長方形を見て目を閉じ、脳内で比率の曖昧な長方形に黒を補完する。僕はこれが▮に似ていると勘づくが異常はない。特定されなければセーフらしい。
つまりどういうことか。定義の広い僕の勝ちだ。
「▮は僕を指す記号だ。僕の名前は
そう宣言した僕は机の上を見た。そこに在ったのは、間違いなく
僕はそれを認識した瞬間、▮から全ての意味を消し去るべく異能の手を伸ばした。果たして、その手は届く。一息に全てを消し飛ばそうと更に出力を高めた時、ふと別の思考が僕の脳裏をよぎった。
これ、残しておいた方が面白そうだな。
どうせ「彼女」が復活したら秒で消せるし、この状態なら十分おもちゃに出来る。色々アイデアが出て来た。第二の▮を見る会とか楽しそうだ。うん、やっぱ消滅はなしで、データ消して地球の人間に認識阻害を掛けるだけにしよう。この世界に来たらまた消せばいいや。
そう言う訳で、僕は消す振りだけして、かいていない汗を拭った。
「終わったよ。いやー疲れた」
「なんか、あっさりでしたね。さっきゴーストさんが言っていたのは何だったんですか?」
玻璃さんは机の上の何かを手に取って、世界の裂け目に放り込んだ。
「あれは僕が意味上で上になる為の詠唱だよ。神を認識しているのが七人だったからこそ出来た荒業だよ」
僕は腕時計を確認した。帰りたくなってきた。
「玻璃さん、家までのゲート開いて」
「はい」
「あ、ちょっと待ってくれ」
制止を掛けたのは七音。どうせ碌な事じゃないんだろうなと思いつつ、僕は玻璃さんの手をそっと下げさせた。七音は真剣な面持ちで口を開く。
「ラスベガスに寄って行かないか?」
もうやろうとしてる事分かったわ。
「スロット?」
「まあ、そうなるな」
こいつ、7しか出ないのをいいことに。
「お前が入れば追い出されることもないし、ボロ勝ち出来るぜ」
「勝手にやってろ。ほら、玻璃さんゲート開いて。さっさと帰ろう」
「俺は?」
「自分で帰れ。ああ、そうだ」
僕はゲートを潜る前に振り返って言った。
「空港からElbro総合病院。Elbro総合病院からLyla宅。Lyla宅から教会。全て徒歩七分だ。僕に現実改変は通用しない。日本とアメリカの距離弄ったら殺すから」
僕と玻璃さんは謎空間を経由して303号室に帰った。そのまま解散の流れになったので、僕は玻璃さんにも一言言っておいた。
「一週間、個性の使用は禁止だ」
「え」
「罰がないとは言ってない。けどまあ、強制執行もしない」
強制執行。個性の使い方に認識阻害を掛ける事だ。今回は平和に終わったのでやらない。
「分かり、ました」
玻璃さんは徒歩で帰った。僕もまた、歩いてホテルまで帰った。
今日の収穫。平行世界の可能性を見た。洗脳の遮断やインターネットの操作など玻璃さんの個性を完全に理解できていないことが分かった。「彼女」を回復させる手段が一つ増えた。
悪くはないかもな。
詠唱の効果出てるかな。
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