人間、誰でも一つは秘密を抱えているだろう。
例えば、少しスケベな本を持っている。例えば、あの人への淡い恋慕。例えば、人を殺した。そんな曖昧で軽い感じのものだ。かくいう私も、人に言えないような秘密をいくつも抱えている。しかし、誰にも言えない秘密というのは、自分一人で抱え込みたくないものだ。いずれはばれてしまうのだ。誰かに分けて自分の負担を減らしたくなるのは、人の性だと言えよう。
そんな時には、暗号を使うのが有用だ。暗号というのは、他人に見られては困るような内容を伝えたい相手以外には分からないように伝える技術だと私は思っている。しかし暗号というのは、当然強度が増すに比例して作る方も考えることが多くなり、あれこれと考えていく内に脳みそが破裂してしまうだろう。
しかし私は人生のなかで、暗号に取り憑かれたとしか言い表し様のない人間を何度か見たことがある。その内の一人に、誰にも解けないようでいて実際は誰にでも解けるような、そんな暗号を作るのだと豪語した者がいる。その者は、私の暗号の師であった。
私が暗号と出会ったのは、大学のサークル勧誘の時であった。私が入った大学は、関西鬼才天才大学という頭の悪さ全開極まりない名前の大学だ。馬鹿丸出しの名前の割にはかなりの天才が名を連ねているので、そこそこの知名度がある。
華の大学生になったばかりの私は、薔薇色のキャンパスライフに思いを馳せていた。まるで夢見る乙女のように心踊らせていた私は、輝かしい青春を求めて華々しい人たちのいるサークルへ入ろうか、と色々サークルを見て回っていた。テニスサークルや演劇サークルなど、かっこよくてかわいい人の集まりを見て、いいなぁと思いつつも、何か違う。
やがて私は、周囲に人の気配がないことに気付いた。どうやらいつの間にか妙なところに迷い混んでしまっていたようだ。いつもならそのまま踵を返して帰宅していたところだったのだが、その日は違っていた。私はどんどん奥の方に進んでいった。
うず高く積まれた段ボールを乗り越え、ガラクタを掻き分け、人一人通れる位の壁の穴をくぐり抜けると、謎の部屋にたどり着いた。
その部屋には、謎の文字列がびっしり並んだ紙が部屋を埋め尽くさんばかりに散らばっていた。試しに一つ、床に落ちていた紙を拾ってみた。そこに書かれていたのは、アルファベットの羅列であった。
「なんて書いてあるんだろう」
私はそれを穴が空くまで凝視したが、しかしそのアルファベットの並びが何を意味するのかは分からなかった。うんうんと頭を捻り、頭と肩が水平になる程に首を傾げていた私は、その奥に倒れ付している人影には気付いていなかった。
「隅の方に小さい文字で書いてあるのが、それの答えだ」
「ほぁっ!?」
私は、急に声をかけられたことに驚いて心臓が口から飛び出そうになった。危ないところだった、心臓が飛び出すと戻すのに中々苦労するのだ。中途半端に喉で詰まった心臓を、何とか飲み込んで、呼吸を整える。
そして、声のした方を見る。するとそこには、先程まではいなかった女性が、革の剥がれに剥がれたソファに寝そべっていた。ソファには一応ビニール的な何かが張られていて、見た目ほどは汚れていないようだったが、しかしむしろ貧乏臭さが増していた。
「大丈夫かい?心臓が顔から顔を出していたけれど」
「ええ、大丈夫です。ところでこれ、なんですか?」
「それは暗号ではないけれど、暗号とセットで扱われる技術だ。そもそもとして、暗号ってのは秘密通信の為の技術だからね」
「そっちではなくて、この文章の方です」
「あぁそっち。それは隅の方に書いてあるって言っただろう。それの答えは『let the cat out of the bag』だ」
「つまりは人に言えないようなことをしているんですか。さては詐欺師ですね、あなた」
だとしたら、こんな人の来ない奥まったところに住んでいるのにも納得が行く。何かやましいことがあるのだろう。私はにたりと得心顔だったが、彼女は怪訝な表情を浮かべていた。その目は、「何を言ってるんだこいつは」とでも言いたそうな、そんな冷やかな目だった。
「何を言ってるんだこいつは」
普通に言葉にしたではないか。なんと無礼な。
「全く失礼ですね。人に対する気遣いというものがないのですか。私が言えたことではないですが」
私は、はぁとため息をつき、机に手を着こうとしたところで、「それに触るな!」と彼女は激しい声を出した。私が咄嗟にそちらを見やれば、彼女は顔を真っ赤にして口を押さえていた。いつの間にか激辛料理を食べていたらしい。
「すまない、自分が思ったよりも大きい声が出てしまった。全く恥ずかしい限りだ」
なんだ、恥ずかしかっただけか。まあそれはともかく。私は自分が手を着こうとした場所を見た。そこには、随分と年季の入った謎の機械が置いてあった。大きさはパソコンと同じ位だろうか。
「これは一体何ですか?」
私は不思議に思い彼女に質問した。そういえば名前を聞いていないことに今さら気付いた。
「それは暗号機だ。私がバイトをしてコツコツと金を貯めて、やっとの思いで手に入れた現物だよ。それを手にするために一体どれほどの苦労があったか。どれだけの眠れない夜があったか」
目をグルグルとさせて語り始めた彼女は、すっかり自分の世界に凱旋していた。きっと凱旋パレードをしているに違いない。手を振ったりして英雄気分を味わって、そして民衆に演説をしているのだろう。「我々は正当なる権利を勝ち取ったのだ。悪逆非道なる国王を打ち倒し、新たな道を歩むのだ」と。その姿のなんと滑稽たることか。私は目の前で語り散らす彼女を心の内で嘲笑した。
「そうだそうだ、すっかり忘れていた。君、名前はなんだい?」
突然正気に戻らないでほしい、私も正気に戻らなくてはならないではないか。私は数秒のラグの後に、「猫山根子です」と答えた。彼女は「ふむ、とても良い名だ」と言ったが、私はどうもそうは思えない。名字と音が重なっているのは構わないのだが、名前がどうにも気に食わないのだ。なんだ根子って、ねっこではないか。私に名を付けてくれたのは父らしいが、酔った勢いで名を付けたに決まっている。きんぴらごぼうを食べながら、「我が子の名は根子にしよう。ゴボウが美味いし」と考え付いたのだろう。
私が、私の中の父に対して文句を垂れていたら、彼女は名乗った。
「私は暮見アンリという。よろしく、ネコちゃん」
「ネコちゃんて呼ばないでください。それにしてもアンリとは、カッコいい名前ですね。私のねっこよりはるかにカッコいい」
「ネコだって可愛いいじゃないか。あの愛らしさを知らない君ではあるまい」
「猫は可愛いけど、根っこに可愛さは見出だせないなぁ。土臭くて、手が汚れる」
私がそう言うと、またしても暮見アンリさんは「何を言ってるんだこいつ」と怪訝な顔をした。しかしこの顔は癖になりそうだ。端正な顔立ちの大人の女性が眉をひそめて首を傾げて、まるで子供のような仕草を取るというこのアンバランスさは、きっとこれまで数多の人間を虜にしてきた魔性なのだろう。あぁ恐ろしき暮見アンリ。そのスラッと細く長い手足で獲物を絡めとり、徹底的に搾り取るのだろう。その暗い瞳に映るのを望んだ者は数え切れないに違いない。ええいなんだ私は、溜まっているというやつなのか。訳が分からん。この女の色香に惑わされているのか。
閑話休題。
「ここはなんの部屋なんですか?」
初めに見た時は、床に散らばったレポート用紙に目が行って他に気が付かなかったが、モダンな雰囲気の大きな机には何に使うか分からない器具がたくさんあるではないか。円盤のよく分からない装置、定規みたいで全く違うよく分からないやつのように多分使えるのであろう物から、あからさまに壊れている算盤のようなガラクタまで選り取り見取りだ。マニアは垂涎してこれらを大枚はたいて買い集めるのだろうか。私にはやはり理解出来ない。
私の問いに、暮見アンリはこう答えた。
「ここは私達飲みサークルの部室のひとつだよ」
飲みサークル?なんだそれは。