たぶん悪役貴族の俺が、天寿をまっとうするためにできること 作:嶋野夕陽
今日は父上が帰ってくる日だ。
セラーズ伯爵領は、王国の南端の海に面した広い領土を持っている。
今でこそ父上は財務大臣をされているけれども、元々は王国の海を守る軍事的な家系なのだ。今は俺のおじい様に当たる先代セラーズ伯爵であるサラダン=セラーズが伯爵家の海軍を仕切っているそうだ。
父上とおじい様で分業制。
ちなみに俺はおじい様の顔は、生まれて暫くの間しか見たことがない。いかにも海の男という日に焼けた筋肉質な男性で、年齢はせいぜい40くらいにしか見えなかった。よく考えてみれば、父上が今30になったところなのだから、ちょっと若く見える人だったらそんなものだ。
引退が早すぎなんじゃないかと思わないでもないが、その辺りは複雑な事情があるのかもしれない。
ちなみに俺がおじい様なんだろうなと思っていた人は、ひいおじい様らしい。白髪をきれいに撫でつけたひいおじいさまは、これまた顔に向こう傷を持った戦人という顔をしていた。
一族において豚さんは父上ただ一人である。……当時はちゃんとかっこよかったんだけどな。
夜になっていつもなら魔法を使い果たして気絶してる時間になると、そっと扉が開いて何者かが部屋を覗く。うっすらと目を開けると、シルエットからしてそれがミーシャであることが分かった。
寝たふりをしているとミーシャはしばらく俺のベッドの横で立ち止まってから動かない。
怖いんだけど。
じっと見つめられている気配に居心地の悪くなった俺が寝返りを打つと、ミーシャがはっと息を吸い込む音が聞こえた。それから来た時よりもやや急ぎの足音が遠ざかっていく。
さて、今晩遅くに帰ってくるはずの父上を待ち伏せする予定の俺は、廊下に出る機会をうかがいつつ、ごろごろとベッドの上を転がった。
眼を閉じているといつの間にか眠ってしまいそうだ。子供の体というのは多分そういう風にできている。
眠気と戦っている俺の部屋の扉がまた開く音がして、うっすらと光が差し込んでくる。今度は足音が二つ。片方は多分ミーシャで、もう片方は……、まさか母上か?
何しに来たの。
二人は先ほどと同じようにしばし俺の横に立ち尽くして、それから今度はそーっとゆっくりと部屋から出て行った。
なに、もしかして俺っていつもこんなに人に寝ている姿を見られていたのだろうか。そりゃあ気絶してるのに気が付くし、毎晩それじゃあ心配もするに決まっている。
どうやら俺は金持ちの貴族、あるいは母親の愛情をなめていたようだ。
外からすすり泣く声が聞こえてくる。
「ルーサーが、ちゃんと寝てるわ……。いつもこの時間は気絶してるのに……」
「アイリス様、良かったですね……」
この声は母上の専属メイド。どうやら扉の外には三人待機しているらしい。
「ミーシャ、教えてくれてありがとう……」
「いえ、喜んでもらえて……うっ……」
「あなたも嬉しいのね。ずっとルーサーを見守ってくれてたものね」
「お二人とも、そんなに泣かないでください……。私まで……」
お三方とも、そんなに泣かないでください。
俺は今罪悪感で胸がいっぱいです。
最近体内に蓄えられる魔力の量が増えづらくなってきてたし、もう寝るときに気絶するまで魔法を使うのはやめよう。母上とミーシャが泣いてる姿を想像したら、めちゃくちゃ辛くなってきた。
やめてよ、俺が悪かったってば……。
でも見られてることに今日初めて気が付いてよかったかもしれない。
もし事情を知らずにどこかで気づいていたら多分、暗殺されるんじゃないかとか疑っていたと思う。危うく疑心暗鬼になって、屋敷内をスパイごっこする羽目になるところだった。
一通り喜びにむせび泣く声を聞かせてくださってから、母上とその一行はようやく俺の部屋の前から立ち去ってくれた。途中で数人が加わって、その人が祝いの言葉を投げたり、一緒に涙を流したりするたび、俺の庶民の心臓がゴメンナサイと鳴き声を上げていた。
正直もうすでに疲れていたけれど、いよいよ作戦決行の時間だ。
俺はそっと布団から抜け出すと、扉まで忍び足で近づいて廊下に顔をのぞかせる。
よし、誰もいない。
最初の一歩を踏み出してから、俺は一度それをやめて部屋の中へ戻り、厚手の上着に袖を通した。……万が一誰かに見られたとき薄着をしていたら、めちゃくちゃ心配されそうな気がしたからだ。気休めみたいなものである。
屋敷に暮らす多くの人が心優しいと気づいてしまうと、余計に父上への不信感が募ってしまう。
いつも怒った顔をしてあまり帰ってこない、丸々太った父上。
できればそこにも俺の誤解があればいいなと淡い希望を抱きながら、俺は抜き足差し足、父上を待ち伏せするために玄関へ向かうのであった。
当然の話なのだけれど、屋敷の主が帰ってくるとなれば、夜中だろうが何だろうがきっちり出迎えるのが屋敷に仕えるものたちの仕事である。
ダンスパーティができそうな玄関ホールの、ぐにゃりと曲がった階段の上。俺はそのサイドの廊下の隅に静かに伏せて、父上の帰宅を待っていた。
……こんな夜中にまで働きすぎでしょ。
もしかしてちゃんと出迎えしないと父上が怒ったりするのだろうか。
まだ外から何の音も聞こえないというのに、皆はぴしっと背筋を伸ばして父上の帰りを待っている。
やがて馬が歩く音が聞こえてきて、さらにしばらくすると秘書であるデアンが扉を開け、父上が屋敷の中へ入ってきた。やや髪が乱れており、歩くたびに頬肉と腹の肉が揺れている。
顔のパーツは整っているけれど肉でつぶれ、背は高いけどそれがただの威圧感にしかなっていない。父上、しばらく見ない間にまた太ってる……。あれじゃあ悪さをしていようがしていまいが、病で絶命まっしぐらだ。
気にして見てみれば、そこはかとなく顔色が悪いような気もしてくる。
屋敷に入った父上は並んで迎え入れた使用人たちを見ると、何か一言二言言葉を発する。ここからじゃ聞こえないけどね。
そのまま手首から先を振って、追い払うようにして使用人たちを解散させた父上は、ゆっくりと階段を上がってきた。使用人とともにデアンも父上のそばから離れる。なんだか嫌な感じの仕草だなと思いながら、俺は起き上がって廊下を走った。
皆を解散させた今がチャンス! 廊下の角に隠れて父上が執務室に戻るのを待つのだ。
父上には色々と話したいことがある。
……変なことを聞いたからって、まさか実の息子を手打ちにしたりはしないよね?
廊下の角からそっと様子を窺っていると、父上が一人で執務室までやってきた。
扉の前まで来た父上は、ふいに首をひねって俺の隠れている場所を見る。すぐに顔をひっこめたが、ばれてしまっただろうか。
というか、なぜ俺は隠れているんだろうか。
ガツンと話す気ならば、今すぐ飛び出してやーやー我こそはってしたらいいはずだ。
よし行くぞ、今度こそ行くぞ、と自分に気合を入れていると、ドアノブに手をかけたはずの父上がため息をついてから、つかつかとこちらに向かって歩いてきた。
やばいやばい、こっちのタイミングで出たい。ふいに見つかってお説教はされたくない。慌てて足音が出ないように早足で歩き出してから気づく。
この先、行き止まりだ。
なんで行き止まりになってるの? 行き止まりにするくらいなら部屋をもっと大きくしたらいいじゃん、という俺の心の叫びは誰にも届かない。そもそも知っていたのにこんなところに隠れた俺が悪い。
思いのほか軽快な父上の足音があっという間に近づいてくる。
俺はせめてものごまかしとばかりに、突き当りの窓から空を眺めているふりをするが、こんなの本当に子供だましの気休めだ。流石に通用すると思っていない。
「ルーサー」
「え?」
平静を装って振り返ると、縦にも横にも大きな父上が眉をひそめて立っていた。
何が『え?』だ。我ながら大根役者の酷い演技だと思う。
「あ、父上。あの、今日は月がきれいですよ」
決して父上に向けてアイラブユーと囁いたわけではない。何も言うことが思いつかなかっただけだ。
こうなれば、引き続き三文役者の演技をお楽しみくださいだ。かえって子供が悪さを誤魔化しているように見えるに違いない。
……いや、それが事実に極めて近いわけなんだけど。俺は一体何をごまかそうとしているんだ?
「こんなところで何をしている」
「空を、見ようかと……」
「ルーサー」
名前を呼ばれただけで背筋が伸びてしまう。
緩み切った体から発せられたとは思えないほどに力強い声だ。
「……父上と、お話がしたくて待っていました」
父上がゆっくりとうなずき、顎肉がタプンと揺れる。
「話なら部屋で聞こう。こちらへ来なさい」
父上、顔も怖いけど、なんだかやたらとプレッシャーがあるんだ。
元の世界の俺の親父は、髪が薄くなったのをうまく隠せているか俺にチェックさせるようなとても威厳のある親父だった。ちなみに高校生の頃にめんどくさくなって『もう無理だって』って言ったとき『そうか……』と一言だけ言って涙目になったのをよく覚えている。
ごめんね、親父。俺も大人になって抜け毛が気になり始めたころ、初めてその残酷さに気づいたんだ。
でもね親父、今世は身内に禿げが一人もいないんだ。多分俺の髪の毛は安泰だよ。
思わず現実逃避してしまうくらいには、同じ父親とは思えぬほどギャップがえぐい。
父上は俺が横に並ぶのを待ってゆっくりと廊下を歩き始めた。
部屋の前では扉を引いて、俺が中に入るのを待ってからそっと閉める。
「座りなさい」
ソファに腰を下ろすと、父上はそのまま一度執務机の前まで移動してから、はたと立ち止まり俺の向いのソファに戻ってきて腰を下ろす。
ソファがぎしりと鳴いて、父上の体が深く沈んだ。
「いつもは……、眠っている時間だが、大丈夫なのか?」
言い淀んだのは『気絶している』と言いそうになったからだろうか。母上どころかメイドたちもみんな知っているのだから、この屋敷の主である父上が知らないはずはない。
「大丈夫です」
「そうか。しかし無理をするな。少しでも体に異変を感じたなら、ソファに横になって休むように」
「はい、わかりました」
父上はじっと俺のことを見つめる。
何かを間違えたのかという緊張感に耐えながら黙っていると、父上の、脂肪で圧迫されただでさえ細くなっている目が閉じられた。
……寝たの? いや、そんなわけないか。
「ルーサー。いつも座っている姿か眠っている姿しか見ていなかったが、ずいぶんと大きくなったな」
父上も随分と大きくなりましたね、なんて冗談を言えるような状況じゃない。
というか、そんなに感慨深く言われると、俺の中にあった敵愾心のようなものがしおしおと萎れていってしまう。もうちょっと芯のある人間になりたい。
父上、ちゃんと俺のこと見てるんだなぁ。
「それで、今日はどうしたんだ」
「あ、その……。父上は、その、母上とは仲違いされているんでしょうか?」
固まる父上。
背中に冷や汗が垂れる俺。
長い沈黙。
「それは、どうしてそう思うのだ」
「……その、母上と仲良くお話している姿を見ないので」
「…………そうか」
「母上のことが、お嫌いですか?」
よし、頑張った俺。よく聞いたぞ、偉い。
でも嫌いだとか言われたらどうしよう。何も考えてないぞ俺。
「そんなわけなかろう。なんだ、アイリスが何か言って……、あ、いや、やはり教えるな、聞きたくない」
「父上?」
見たことのないような情けない表情で大きなため息をついた父上は、額を押さえて首を振る。
「話はそれだけか?」
なんだかちょっと弱っているみたいだし、俺には思ったより優しそうだ。
もう少し踏み込んでみてもいい気がする。
「父上は家を空けることが多いですが、ずっとお仕事をされているのでしょうか?」
「…………ルーサー、こんなことを聞いてわかるとも思えないのだが、わからないならそれで構わない。もしや私は、アイリスに浮気を疑われているのだろうか……? いや、何を言ってるんだ私は……。ルーサーはまだ4歳児だぞ……」
勝手に百面相をしながら大きな体を揺すったり震わせたりする父上。
これ、なんか思ってたのと違うぞ。母上の時と同じで、俺、もしかするとものすごい勘違いをしているのではないだろうか。
「あの、父上?」
ついには立ち上がって部屋の中を行ったり来たりし始めたので、仕方なく声をかける。大きさも相まって餌を探す熊さながらだ。
「ああ、仕事の話……だったな」
我に返ったのか先ほどのうろたえようは鳴りを潜めて、いつもの威厳たっぷりな父上に戻る。今更その怖い顔をされても、前ほど素直に怖がれない俺がいた。
「まぁ、端的に言うと忙しい。王国の重鎮の多くは私の倍以上生きているものばかりだ。悪知恵が働く輩も……いや、止めておこう。しかし今日ようやく一つ大きな問題が解決したからな。これからは二日に一度は帰ってこられるようになるはずだ。仕事がなくなるわけではないから、部屋にこもりがちなのは変わらないが……」
父上の年齢は聞いたことがないけれど、生まれたころの見た目が、元の俺と同じくらいの年に見えた。つまり今だってせいぜい30前後ぐらいということになる。
週に1度くらいしか家に帰れず、その上家にいる日もずっと仕事をしている。父上の言葉に嘘偽りがないとするならば、王国というのはとてつもないブラック企業だ。
「父上が食事をするのが早いのは、お仕事が忙しいからですか?」
「それ以外に理由はないだろう。本当は食事の間も仕事にあてるべきなのだろうが、わずかな時間でもいいから妻と子の顔ぐらい見たい。そうでなければ仕事などやっていられない」
これ、単純に過剰労働のストレスや劣悪な生活サイクルで酷い肥満になっている気がしてきた。
食事量とか気にする暇もないくらいにメンタルやられてる可能性がある。いわゆるセルフネグレクト。人の心配はできるが、自分のことはどうでも良くなるっていうやつ。
使用人たちはきっと父上のこの暴走気味の仕事状況を止めることはできないだろう。気遣うことくらいはできても、きっと父上はそれを受け入れられない。
母上も同様だ。父上がめちゃくちゃ頑張ってることを知っているからこそ止めることができない。
この状態の父上を放置したらどうなるだろうか。
いずれ夫婦のすれ違いが加速し、精神を病んで本当の悪役のようになってしまう?
それとも病気になって早逝し、家が没落していく?
心が弱ったすきに、相手勢力に陥れられて葬られてしまう?
もし俺の精神が大人でなかったら、怖い顔ばかりしている父上には近づくことはなかっただろう。
そしてその辺の不和から、俺はやっぱり悪役貴族としてのエリート街道をひた走る可能性があったわけだ。
なら今俺にできることは……、子供として父上の心配をして、我がままを言ってやることじゃないだろうか。
もし父上がめちゃくちゃ怖い悪役っぽい性格だったりしたら、俺は逃げ出していたかもしれない。
でもこの部屋に来てから見た父上の顔は、生まれたときに喜んでいた父上と変わりない。いや、表情はよくわからないけど、雰囲気的なものがって話で。
だったらきっと、父上は俺のことも母上のことも大事にしてくれる。俺は息子としてそれを信じてあげなければいけないはずだ。
「……父上は、どうしてそんなに大きくなってしまったんですか?」
「ぐ……。私はもともと、体を動かすのが好きなんだが……、執務が忙しくて机にかじりついてばかりでな……。それでいて頭を使うから甘い物ばかり食べる。食事を早く食べるのも、間食をし続けるのも良くないとわかっているのだが……」
「僕は前の父上の方が好きです……」
試しにキラキラした目で見上げてみると、父上は自分の腹を撫でてため息をつき、はっきりと宣言した。
「……間食を控えることにする」
上目遣い、きいたんじゃないのかこれ。
まぁ、今の俺って相当な美少年だものな。母上によく似た金色の髪なんかまるで物語の王子様だ。元の俺がやれば気持ちが悪いだけのぶりっこも、立派な武器になり得る。
そんなことよりも、実の息子からのお願いって比重がデカそうだけど。
「食事もここで父上の仕事を見ながら食べたいです。それなら父上もゆっくりお食事ができるんでしょう?」
「いや、うーん、しかしそれは行儀が悪い……」
「父上、お願いです。僕、父上がお仕事されてる姿が見てみたいんです。きっと母上だってその方が嬉しいと思います」
「アイリスがか……。アイリスと相談してみなさい。ダメと言われたらダメだ」
「ありがとうございます父上! それから……」
「な、なんだ、まだあるのか」
いくらだってある。
生まれてしばらくからずっと交流を持ってこなかった親子なのだ。意外と俺に甘いとわかったら、そりゃあ引く必要なんかない。
俺は元の世界では家族仲のいい家で育った。
だからこそこの世界に来てから、家族関係の希薄さに不安を覚えていたんだと思う。
「父上と一緒に外で遊びたいです」
「……そうだな、体が元気になったら遊ぼう」
若干の沈黙は、きっと俺の体が丈夫でないことへの憂いだろうか。きっとすぐには叶えられないと考えたのか、簡単に約束をしてくれた。
引っ掛かったね、父上。
俺、今日から魔法の鍛錬は程々にするから、すぐに外で一緒に遊ぶ羽目になるよ。
そうしたら父上のダイエットも兼ねて、今度は体作りでも始めよう。
父上だってもともとは武闘派セラーズ家の嫡男だ。きっと剣術とかもある程度修めているに違いない。
何が起こるかわからないから、早いうちから戦う術を教わって強くなっておいた方がいい。
問題がいくつか解決しそうとはいえ、俺が物語上の悪役貴族である可能性までがなくなったわけではないのだ。
今度こそ俺が寿命まで人生を全うするためには、清く正しく、そして因果律をぶち破るくらいの努力はしなければならない。
でないとまた、不意に妙なことに巻き込まれて命を落としかねない。
「約束ですよ、父上」
「ああ、約束だ」
父上のぷにぷにの小指と、俺の短い小指を絡めて男の約束をしたところで、遠くから声が聞こえてくる。
「ルーサー様! いらっしゃいませんか、ルーサー様!?」
ミーシャが俺を探す声がする。
やばい、なんでこんなに早く探しに来るんだ? 俺、ちゃんと睡眠の確認をかいくぐってから出てきたよな? まさか数十分に一度の頻度で確認しに来てるのか……?
「……ルーサー、許可を取って私を待っていたのではないのか?」
「……ごめんなさい」
「早く出て行って安心させてあげなさい。悪いことをしたらちゃんと謝るんだ、いいな」
「はい……、謝ってきます……」
「よし、頑張れ」
父上の柔らかな手のひらに背中を押されて俺は廊下に出る。
「ここですか、ルーサー様!?」
廊下の途中に設けられた掃除用具入れの中に顔を突っ込んで、ミーシャが叫んでいる。いるわけないじゃない、そんなところに。
「ミーシャ、ごめん、父上のところにいた」
声をかけると、ミーシャはグリンと首をひねって俺の姿を確認し、本気の早歩きでこちらへ近寄ってきた。
「お怪我はありませんね! 体調は悪くありませんか!?」
「だ、大丈夫」
ミーシャはぺたぺたと俺の体を上から触って無事を確認すると、へたりとのその場に座り込んだ。光石のランタンに照らされたミーシャの目元は少し赤く、腫れぼったくなっている。
……これ、さっき泣いてたせいじゃないよね。今俺が勝手にいなくなったせいで、また新たに泣いたよね?
「……ミーシャ、ごめん、心配かけたんだ」
「心配しました……。何かするときは、ミーシャに相談してくださいと常々お願いしていますでしょう?」
「夜だから声をかけたら悪いと思ったんだ」
ミーシャは俺の肩に手を置いて顔を近づける。
可愛いのに怖い。
「夜でも、朝でも、私が食事をしている時でも体を拭いている時でも、絶対に遠慮なんかしないでください。いいですか?」
「い、いいです」
「はい。それでは他の皆さんにも無事な姿を見せてあげましょう」
「……他の皆さんって?」
「今屋敷にいる人ほとんど全員です。アイリス様もですね」
「……こっそり部屋に戻ったらダメ?」
「駄目です」
「母上、怒ってないよね?」
「心配されてます。姿を見たら怒るかもしれませんが、それもアイリス様の愛情です」
「……はい」
母上は怒らなかった。
抱きしめられて、それからたくさん泣かれた。
沢山謝ったけれど、結局母上は俺の部屋までついてきて、ベッドに入ってからも横に座ってずーっと俺のことを監視している。
しばらく眠ったフリをして、そろそろいなくなったかなと薄く目を開けると、身じろぎもせずに俺の顔を見てる母上がいて、めちゃくちゃ怖かった。
もう二度と皆に黙って屋敷の中をこっそり出歩くようなまねはすまい。
激しく脈打っている自分の心臓に誓いつつ、俺は寝返りをして今度こそ眠りにつくことにしたのだった。