ユメニオチル   作:OrengeST

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第三十二話:黒い女の夢

 三宅がこっそりとトイレから廊下に出ると、消灯時間を過ぎた六階の病棟はすっかり静まっていた。

 警備員らしき人間がトイレを見回りに来たときは肝を冷やしたが、掃除用具入れに隠れていたおかげで、誰にも気づかれることなく事なきを得た。

 

 遠くの廊下に、ナースステーションの仄かな明かりが見えた。看護師や、寝ぼけて起床してきた入院患者に見られないうちに、急がなければならない。

 

 三宅は靴を脱いで足音を殺し、目的の病室へ向かった。病室前の患者名のプレートを確かめて扉に手をかけると、音を立てないようにそっと開いた。

 

 病室の中は、ほぼ真っ暗だった。ベッドサイドモニターのおぼろげな光が、僅かに部屋を照らしている。

 三宅は窓際のベッドサイドに近づいて鞄からFREAMを取り出すと、寝ている患者の枕の下に差し入れた。

 意識がないはずなのに、患者が起きてしまうのではないかと慎重に行動する自分に気付いて、静かに笑ってしまう。

 

 準備を終え、もう一つのFREAMを鞄から出した。

 迷った挙句、念のため持参したヨガマットを床に敷いて、その上に持参した枕を置き、枕の下にはFREAMを敷く。

 窓際に寝ていれば、もし誰かが夜間に入ってきても、気付かれる可能性は低いと考えてのことだった。

 

 三宅は手元に二つのリモコンを持って、操作した。部屋に響くバイタルの音より早く、自らの心音が鼓動を刻んでいる。

 リモコン側の操作を終えた三宅は、靴を脱いでヨガマットの上に横になった。幸い、空調が効いているので、寒くない。

 

 覚悟は決めたはずだが、緊張は消えなかった。緊張で寝られないかもしれないと思っていたが、暗闇で目を閉じているうち、次第に眠気は深まっていった。

 バイタルを知らせる定期的な音が、胎動のように耳に心地よい。

 

 三宅の覚悟と緊張は、眠気と共に薄らいでいった。

 次第に、二つの静かな、ゆっくりとした寝息が互いに呼応するように繰り返された。

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 三宅は目を開いた。目を開いたはずなのに、何も見えない暗闇だった。

 

 しばらくしていると、目が慣れてきた。真っ暗ではなく、天空に上限の月が出ていた。おかしな夜空で、星は一つもない。辺りを見回すと、遠くにうすぼんやりと浮かび上がる人影があった。

 

 ふらふらと、人影の方へ向かっていく。恐怖は無かった。なぜか、その人影に会わないといけないという、そんな気がした。

 

 近づくにつれ、人影は細いシルエットを明らかにしていった。その肩幅は、男性の者ではない。若い女性のそれである。

 

「誰だ?」

 

 人影は訊ねた。まだ距離があって、その顔色は窺い知れない。三宅は立ち止った。

 何を、分かりきったことを訊くのだろうと思った。

 

「三宅、雄一」

 

 三宅は、夢見心地で答えた。これが夢の中なのか、現実なのかは、そんなことすら三宅の頭には無かった。

 

「……どこからきた? どうやってきた?」

 

 三宅は、首を傾げた。先ほどの問いには自然に答えられたのに、今度の質問には、さっぱり思い浮かぶものがない。

 

「さあ……。わかりません」

 

 くっくっ、と暗闇から押し殺したような笑いが聞こえた。どこかで聞いたことがあるが、思い出せなかった。なぜか、とても懐かしいもののように思えた。

 

「これは夢だよ、三宅」

 

 その瞬間、人影の顔が白く浮かび上がったように、明瞭に形を成した。無骨な丸い眼鏡。全てを見通すような、茶色がかった瞳。

 

 南美亜子、その人であることを、三宅は認識した。

 

「あ……美亜子先輩……」

「ふむ。君はやはり、前頭葉の活性化が鈍いとみえるな。ほら、目を覚ませ」

 

 美亜子は、佇んでいる三宅に近づくと、背伸びをして三宅の両頬を両手で押さえた。

 

「痛いか? 痛くはないだろうな。夢だし」

 

 頬が押さえつけられる感覚がして、頭を振った。意図せぬ感覚に、今まさに瞼を開いたように、五感が世界を知覚し始めた。

 気が付くと、雨が降っているようだった。霧雨が、身体を濡らしている。寒くはない。

 

 三宅は、周りを見回した。

 

「ここ……は……」

 

 美亜子が、呆れた様子で三宅を見つめる。頬を伝った雫は、涙のように顎に沿って落ちた。

 

「君が来たんだろうが。ここは、私の夢だ。そして他ならぬ、黒い女の夢でもある」

 

 暗闇から、足音が聞こえた。リノリウムの床を叩くような、甲高い音。

 

 三宅の見当識は、一瞬で覚醒した。自己の認識と、ここに至った経緯を思い出す。そして、素早く、音の聞こえた方を見た。

 

 闇が蠢いた。漆黒に溶け込んだ黒いドレスの裾が揺れたのだ。

 

「君がここに来たということは、まだ可能性は残されているわけだな。それも、ただのやけっぱちという訳ではあるまい。

 ただし、一つ忠告しておく。起きたらメモをしておくことだ。カウントダウンはこれから始まる。後は君次第だよ、三宅」

 

 月明りの下に、腰の細いウエストのシルエットが浮かび上がった。黒いドレスの胸元で、長い髪がたなびく様に揺れている。

 

 女の手が、長い髪を掻きあげた。その顔貌が、あらわになった。女の右の目尻には、小さな黒子があった。

 

「あなたは……」

 

 言いかけて、三宅はごくりと、つばを飲み込んだ。その顔を、三宅は知っている。よく、似ているのだ。

 

 三宅が呑み込んだ言葉は、黒い女によって引き取られた。

 

「——あなたは、だあれ?」

 

 凛とした声。それは虚空に響くように、耳に残った。

 直後だった。身体が大きく揺さぶられるような振動音が、耳のそばで聞こえた。

 

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