不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版 作:ゴリラ
新天地
「……ここは」
僕は立ち尽くしながら周囲を見回す。目の前には果てしなく広がる草原があり、風に揺れる萌黄色の草が、まるで波のようにさざめいていた。遠くの地平線には青く霞んだ山々が連なり、その頂は薄くたなびく雲に覆われている。太陽は高く昇り、空はどこまでも澄み渡っている。風は柔らかく、肌を撫でるように流れていく。
あまりにも静かで、穏やかで、美しい光景だった。ついさっきまで戦場にいたという事実が、まるで遠い夢のように思えてしまうほどに。
だがそんな景色を目にしても、心の中ではまだニルヴァさんの、カマホルさんの、ゲイドスさんの、レズビアさんの、町の皆の、顔が浮かんでは消えてを繰り返していた。彼らはあの場所に残り、戦い抜く覚悟を決めていた。僕は決して、その瞬間を、彼らの決意を忘れることはできない。
「……大丈夫ですよ、彼らは強かったですから……」
そんな僕の心情を察してか、サーシャさんは静かに言葉をかける。彼女の瞳には優しさと、少しの悲しみが滲んでいた。ぎこちなく微笑みながらも、その声には確かに気遣いが感じられる。
「……そうだね」
僕はゆっくりと頷いた。彼女の言葉が、ほんの少しだけ心の重みを和らげてくれる。だが、心の奥底では不安が燻り続けていた。ニルヴァさんたちは今、どうなっているのだろう。彼らは、あの巨大な竜にどう立ち向かうつもりなのか。答えを知らぬまま、僕たちは今ここにいる。
「それにしても、ここは…………」
「あぁ……帝国領ですか……」
サーシャさんの呟きが、冷たい風の中に消えていく。その言葉に疑問を持って、サーシャさんの目線の先を見ると、信じられない光景が広がっていた。
島が空に浮いていた。そしてその浮遊島を繋ぎとめるためか、巨大な鎖が地上から伸びている。その鎖は、まるで天と地を繋ぐ架け橋のように、無数に絡み合って島を支えていた。空には薄雲がたなびき、朝の淡い光が鎖の表面に反射して鈍く輝いている。吹きつける風がその鎖を揺らし、軋むような低い音が遠くまで響き渡っていた。その音はまるで、帝国の過去と現在を繋ぐ鎖の呻きのようにも聞こえる。
浮遊島の表面には、豪華で壮麗な建物が立ち並んでいる。その中には、白く光る石で作られた壮大な宮殿や、塔が空に向かって高くそびえている。塔は、まるで空を切り裂くように鋭く突き刺さる形をしており、その先端が雲を突き抜けるほどの高さを誇る。夜の名残をわずかに残した空の下で、塔の窓からは淡い灯りが漏れ、まるで天空の星々が地上に降りたような幻想的な輝きを放っていた。光は静かに瞬き、冷たい風とともにどこかの鐘の音がかすかに聞こえてくる。
周囲には城壁が連なり、堅固な防御が施されている。その壁は、重厚で冷徹な印象を与え、見ただけでその強大さが伝わってくる。壁の表面には精緻な装飾が施されているものの、どこか無機質で冷たい雰囲気を漂わせている。長い年月を経た石壁には、雨風に削られた痕が刻まれており、それがこの都市の歴史の長さを物語っていた。
その冷徹な雰囲気は、どこか不気味さを帯びており、こうして遠目に眺めているだけでも警戒心を強めさせる。あそこにあるものは、富と力の象徴であり、決して安易に近づいてはいけない場所のように思えた。空気は重く張り詰め、かすかに鉄と油の匂いが風に乗って流れてくる。それは、剣と戦争の歴史が刻まれた帝都の証なのかもしれない。
「あれは……」
僕の思わず漏れ出た言葉に、サーシャさんが答える。
「あれは、かつて栄華を誇ったローズディア帝国。その真髄」
「帝都、イグディアです」
彼女の言葉に続いて、僕は思わず呟く。
「ローズディア帝国…」
「かつて、全ての国を圧倒する力を誇っていた、大帝国……今では堕落し、腐敗しきっていますがね」
「確か……十数年前に、帝国を変えるべくクーデターが起こったみたいなんですが……」
「それは失敗して、首謀者は捕まったとの事です」
「クーデター……」
令和の日本で暮らしていた僕には、全く現実味のない話だった。いやまぁ今の今まで、全く現実味のない状況に巻き込まれ続けてはいたのだが。
「どうしましょうか。とりあえず、帝都に向かうのは……あまりオススメは出来ませんが」
「それはどうして?」
「……危険だからです」
僕の疑問に、サーシャさんは少し言葉を選ぶように間を置いてから答えた。
「帝都イグディアは、今でも帝国の中枢です。腐敗しているとはいえ……いえ、だからこそでしょうか。権力を持つ者たちは健在ですし、治安も厳しく管理されています。外部の者が不用意に入り込めば、すぐに目をつけられるでしょうし、そもそも入る事さえ叶わないかもしれません」
「そんなに厳しいんだ……」
「まぁ何せよ、悠太さん。貴方が何をしたしたいか……それによりますね」
「貴方は以前、新しい自分と出会いたいと言いました」
「それならばわざわざ、危険が予測される帝都に向かわずとも良いのではないですか?」
「……それは、そうだけど…………」
サーシャさんの言うことはもっともだった。確かに、帝都に向かうのは危険かもしれない。わざわざ飛び込む必要はないかもしれない。
でも――
「でも、何も知らないままでいるのは嫌なんだ」
自分の言葉に、自分でも驚く。今まで流されるままだった僕が、こんなふうに言うなんて。
サーシャさんが、静かに僕を見つめる。
「ここに来てから、ずっとそうだった。知らないことだらけで、何もできなくて、ただ状況に流されるばかりで……」
「だからせめて、この世界のことを知りたい。この世界がどんな所で、何が起こっているのか。僕を生かしてくれたニルヴァさんたちのためにも、僕にできることを探したいんだ」
サーシャさんはしばらく僕を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうですか。では、私もお付き合いしましょう」
「え?」
「悠太さん一人では、どう考えても危なっかしいですからね」
サーシャさんは肩をすくめながら言った。その表情には、どこか呆れたような、それでいて仕方がないといった雰囲気がある。
何故、そんなにあっさりと一緒に行くと言えるのだろうか。自分で言っていたではないか。危険だと。そんな事を考えていると、思わず疑問を漏らしてしまった。
「……良いの?」
サーシャさんは僕を見て、薄く微笑みながら言う。
「良いんですよ。それに、あなたが行くというのなら、放っておくわけにもいきませんから」
「それに、悠太さんがどうしても帝都に行くというのなら、無策で向かうよりも、私がいた方が少しは助けになるでしょう?」
確かに、その通りだ。サーシャさんの知識や経験、魔法があれば、無謀な突入よりもずっと安全に帝都へ入れる可能性が高まる。というか、僕だけで行けば門前払いどころか、行き倒れるかもしれないし。
「ありがとう、サーシャさん」
「お礼を言うのはまだ早いですよ。そうですね……とりあえずは……」
「情報を集めましょうか。今の帝都の状況の」
彼女はそう言いながら、遠くにそびえる帝都をじっと見つめた。
その言葉に僕はこくりと頷いた。
帝都イグディア。かつて栄華を誇り、今は腐敗しきったこの帝国の中心地。そこには一体何が待ち受けているのか。胸の奥に小さな不安を抱えながらも、僕たちは帝都へ向かうため、歩みを進める。