不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版 作:ゴリラ
僕たちは帝都イグディアを目指し、広大な草原を進み続けていた。夜明けとともに冷たい朝露が草を濡らし、靴の先にひんやりとした感触が残る。吹き抜ける風は心地よくもあり、時折、遠くの森の匂いや花の香りを運んできた。草原の上空では小さな鳥たちがさえずり、朝日に輝く羽をきらめかせながら飛び交っている。雲ひとつない空の下、帝都は遥か遠くに浮かび、まるで手の届かない幻のように見えた。
歩き続けるうちに、空の青が次第に深まり、太陽はじりじりと肌を焼き始めた。時折、そよぐ風が熱を和らげるものの、喉が渇き、額には汗が滲む。地平線の向こうには小さな森が広がり、その緑が蜃気楼のように揺らめいている。草原を渡る風の音に混じって、どこか遠くから馬の嘶きが響いた。小さな丘を越えると、やがて前方に建物が見えてくる。
それは小さな集落のようで、木造の家々が点在し、人々が行き交っているのが分かる。遠くからでも活気のある様子が感じられ、広場には色とりどりの屋根を持つ露店が並んでいた。道端では農夫たちが麦の束を運び、羊飼いが放牧された羊を追っている。荷車を引く馬がゆったりと進み、荷を抱えた旅人や商人たちが足早に道を歩いていた。村の周囲には広い畑が広がり、黄金色の小麦畑が風にそよいで波のように揺れている。畦道には色とりどりの野花が咲き、黄色や紫の花が足元を彩っていた。
サーシャさんが目を細めながら呟く。
「……あれは、おそらく交易の中継地点ですね。帝都ほどではありませんが、人の出入りが多い場所です」
「交易の中継地点?」
「ええ。帝都と周辺の町を結ぶ役割を果たす村ですよ。商人たちが集まり、物資を交換したり、情報を得たりするために寄る場所です」
なるほど。確かに、よく見れば馬車や荷車を引く商人らしき人々が多くいる。それに、道行く人々の服装も多種多様で、この村がさまざまな場所から人を受け入れていることが分かる。露店では果物や乾燥肉、布地や薬草など、様々な品が並べられ、活気に満ちていた。露天商が威勢のいい声で客を呼び込み、香ばしい焼き菓子の匂いや、新鮮なハーブの香りが辺りに漂っている。鍛冶屋の店先では金属を叩く音が響き、どこかから陽気な楽器の音色が流れてくる。
「少し寄っていきましょうか。旅を続けるためにも、食料や水を補給した方がいいでしょうし」
「そうだね」
僕たちは村へと足を踏み入れた。狭い路地には子どもたちが駆け回り、笑い声を響かせている。石畳の隙間には雑草が生い茂り、道端には桶に水を汲む女性の姿があった。小さな広場では、吟遊詩人がリュートを奏でながら旅の歌を歌っている。その周囲には人々が集まり、手拍子を打つ者や踊る子どもたちの姿も見えた。
「これだけ品物があるなら、必要なものは手に入りそうだね」
「ええ。ただし、あまり目立たないようにしましょう。帝国の影響が強い場所ですから、余計な詮索をされると面倒です」
◇◆◇◆◇◆◇
そして無事にあらかたの物資を集め終えた僕たちは、宿をとる事にした。帝都までの道のりは長く、夜を野宿で過ごすのは避けたいからだ。
宿を探すのに、それほど時間がかからなかった。村の中央に位置する石造りの宿は質素だが、旅人向けの作りで、堅牢な外観をしていた。扉を開けると、暖かな灯りが室内を照らし、焼きたてのパンやスープの香ばしい匂いが漂ってくる。壁際の席では商人らしき男たちが賑やかに話し込み、片隅ではフードを目深に被った旅人が静かに酒を飲んでいた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、宿の主人と思われる女性が声をかけてきた。中年の落ち着いた雰囲気の女性で、手際よく帳簿をつけながらこちらを見ている。
「二人分の部屋をお願いできますか?」
サーシャさんが聞くと、宿の主人は少し考えるようにしてから頷いた。
「ええ、大丈夫ですよ。一泊銀貨三枚になります」
「了解です。じゃあ、それでお願いします」
サーシャさんが料金を支払い、僕たちは部屋の鍵を受け取る。その後、簡単な食事を済ませると、翌日の準備を整えた。
夜になり、部屋の窓から外を見下ろすと、村の灯りがぽつぽつと揺れていた。家々の窓からこぼれる明かりが道を照らし、夜の静けさの中で遠くの犬の遠吠えが響く。広場では最後の客を見送る露天商が品物を片付けており、酒場の扉が開くたびに、笑い声や酒の香りが漏れ出してくる。空には満天の星が瞬き、月が青白い光を投げかけていた。草原の向こう、帝都の方向には、まだ小さくではあるが、街の灯りがぼんやりと浮かび上がっている。
「明日からが本番ですね」
サーシャさんが、ぽつりと呟く。
僕はその言葉に頷きながら、遠くに見える帝都の方向を見つめた。そこには、どんな運命が待ち受けているのだろうか。
◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、僕たちは宿を出ると、村の市場へ向かった。朝日がまだ低い位置にあり、長く伸びた影が石畳を覆っている。村の広場に近づくにつれ、ざわめきが耳に届き、活気に満ちた市場の光景が目に飛び込んできた。
市場には新鮮な果物や焼きたてのパン、乾燥肉などが並べられ、商人たちの威勢のいい呼び声が飛び交っている。小さな露店が軒を連ね、色とりどりの布がはためき、香ばしいパンの香りやスパイスの刺激的な匂いが入り混じって漂ってくる。行商人や旅人が行き交い、荷車を引く農民が土のついた野菜を並べ、籠を抱えた女性が品定めをしていた。陽射しを避けるために布の屋根を張った店の下では、子どもたちがじゃれ合い、どこかの吟遊詩人が笛を吹いている。
僕たちは露店を巡りながら、さりげなく帝都の様子について尋ねることにした。旅人や商人の話を聞けば、有益な情報が手に入るかもしれない。
「最近、帝都の治安はどうですか?」
サーシャさんが果物を選びながら、店主に何気なく尋ねる。店主は一瞬だけ周囲を見回し、それから声を潜めて答えた。
「…………帝都か……昔からあまり良い噂は聞かねぇが、最近はもっとひでぇって話だ。薬物が蔓延しててな、あちこちでおかしくなった奴を見かけるって話だ」
「薬物……?」
「おうよ、『月の雫』って呼ばれてるやつだ。吸ったり飲んだりすると、月までぶっ飛べるって触れ込みだが……中毒になると、もう戻れねぇ。身体がボロボロになって、最後は狂っちまうそうだ」
月の雫……名前だけなら幻想的な響きだが、その事態はかなり恐ろしい物らしい。ともあれ、薬物の影響で狂気に陥る人々が増えているというのは、単なる噂ではなさそうだ。
「誰が流してるのか、ご存じですか?」
僕が慎重に尋ねると、店主は苦い顔をした。
「そんなもん、俺が知るわけねぇだろ。ただ、帝都の貴族連中の間でも流行ってるって話だ。上の奴らが楽しんでるもんを、取り締まる奴はいねぇよ。それに、衛兵や官吏の中にも手を出してるのがいるらしい。だから、取り締まりは緩いどころか、裏で見逃してるって話だぜ」
帝国の上層部が関与している可能性がある。もしそれが事実なら、薬物問題は想像以上に根深い。
「でもな……最近、『薔薇の剣』なんて名乗って、騎士団や宮廷魔法師団の一部が動き始めたって噂がある。数十年くらい前にクーデターを起こして捕まった、カマホルっつう奴の信奉者連中が、帝都の腐敗をどうにかしようとしてるとかなんとか……まぁ、どこまで本当かは分からねぇがな」
まさかこんなところで彼の、カマホルさんの過去を知ることになるとは思わなかった。市場の喧騒が遠のいたように感じ、昨日の出来事がどこか遠い昔のように思える。
「……カマホルさんって、どんな人だったんですか?」
思わずそう尋ねると、店主は少し驚いたような顔をしたが、やがて懐かしそうに目を細めた。
「昔は帝国の高名な魔法使いだったらしいぜ。なんでも、宮廷魔法師団の団長だったとか、頭も切れるし、腕も立つ。それが何を思ったか、帝都の貴族どもを敵に回してクーデターなんぞ起こしちまった。結果は知っての通り、大失敗……本人とその右腕達は例の砂漠に送られて、奴の仲間もほとんどが粛清されたって話だ」
「……でも、その信奉者がまだいるんですよね?」
「そうらしいな。『薔薇の剣』ってのは、その頃の生き残りや、あいつの理想に惹かれた奴らの集まりだって聞く。まあ、あくまで噂だが……最近、帝都で妙な動きが増えてるのは事実だ」
「妙な動き?」
サーシャさんが食い下がると、店主は小さく肩をすくめた。
「詳しくは知らねぇよ。ただ、『金の林檎亭』って酒場を訪ねりゃ、もう少しマシな情報が手に入るかもしれねぇな」
「金の林檎亭……?」
「ああ、『ステム』っつう帝都の近くにある酒場だ。あそこには妙な連中が出入りしてるって話がある……もしそこに行くなら、気をつけるこったな」
金の林檎亭。僕はその名を頭に刻んだ。カマホルさんに関わる人たちが、今でも帝都の腐敗と戦っているのなら、僕たちがそこに行けば何か掴めるかもしれない。市場の喧騒の中にあって、僕の心には静かな決意が生まれていた。