不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版 作:ゴリラ
廃屋の中に漂うのは、尋問が終わった後の静寂だった。
魔法で作られたのであろう光源の淡い光が、崩れた壁や床に長く歪んだ影を落としている。空気は乾燥しており、埃っぽく、どこかひんやりとしていた。風が壁の割れ目をすり抜けるたび、古びた木材が微かに軋む音を立てる。
僕が中に足を踏み入れると、足元の瓦礫が小さく鳴った。その音にすら、妙に神経が研ぎ澄まされる。
サーシャさんは、朽ちかけた椅子に静かに座っていた。まるでこの場所の一部のように、何の違和感もなくそこにいる。彼女の姿は、まるで彫像のように動きがなく、ただ冷静に何かを思案しているようだった。
対する男は、もはや反抗する力を完全に奪われていた。縄で縛られた身体はぐったりと前屈みになり、顔を伏せたまま、微動だにしない。彼の肌には汗が滲み、蒼白になった頬がその疲労と恐怖を物語っている。
「お疲れ様、サーシャさん」
僕は静かに声をかけながら、手に持っていた巻物を彼女の前に差し出した。
サーシャさんは、ふと瞳を上げた。魔法の光を反射する彼女の瞳は、淡々とした光を宿している。何かを考えながらも、常に冷静さを失わない――そんな彼女の姿に、改めて底知れないものを感じる。
「これは?」
ゆっくりと手を伸ばし、巻物を受け取った彼女の視線が、それへと移る。巻物を広げた瞬間、彼女の目の奥が一瞬だけ鋭く光った。
ただの紙ではない。そこに書かれている内容が、何か決定的な意味を持っていることを、彼女は一瞬で理解したのだろう。
「アッカンさん」
サーシャさんが低い声で男の名を呼ぶ。
男──アッカンの身体がびくりと震えた。だが、彼は顔を伏せたまま、返事をすることも、抵抗を見せることもなかった。まるで、すべてを諦めたかのような沈黙。
「これはあなたたちのものですよね?」
彼女の静かな問いに、男は答えない。
その態度がすべてを語っていた。
「……それだけじゃないよ」
僕はさらに言葉を継ぎながら、懐から小さな瓶を取り出した。 光を反射し、青白く淡い輝きを放つ液体が封じられている――どこか不穏な色合いをした、小瓶。
サーシャさんは、その瓶を手に取るなり、わずかに息を呑んだ。
「これは……」面倒な事を……誰の仕業でしょうか……
彼女の声音が、ほんのわずかに鋭さを帯びる。
僕にはわからないが、彼女にはこの液体が何なのか、ある程度見当がついたのかもしれない。
瓶を軽く傾けると、粘性のある液体がゆっくりと揺れる。それを確かめるように、サーシャさんは慎重に蓋を開け、手であおぐようにして臭いを嗅ぐ。僅かに、甘い匂いが漂ってきた。
その瞬間、彼女の表情がさらに引き締まった。
「なるほど…………これは、どういうことですか?」
鋭い問いかけが、沈黙の室内に響く。
対するアッカンは、顔をさらに強張らせ、かたく唇を噛み締める。何も言わない――いや、言えないのだ。
だが、沈黙は時に雄弁だ。
彼の反応がすべてを物語っていた。
サーシャさんは小さく息を吐く。
「……これ、私の考えが確かなら、今帝都で出回っている薬物……《月の雫》ですよね?」
低く囁くような声が、空気を震わせる。
アッカンの喉が、かすかに鳴った。反射的な生理現象か、それとも恐怖の表れか。彼の顔はすでに青ざめ、額には玉のような汗が浮かんでいる。
サーシャさんは、その反応を見逃さなかった。
「……沈黙ですか。でも、その反応だけで十分ですね」
彼女は微笑しながら、小瓶を指先で軽く回す。瓶の中の液体がゆっくりと揺れ、光を反射する。まるで宝石のような輝きを見せながら、それは静かに波を打っていた。しかし、それが持つ意味を知っている者にとっては、その美しさなど何の価値もない。ただ恐怖と死を想起させる毒そのものだ。
「ねぇ、アッカンさん」
サーシャさんが椅子から立ち上がる。廃屋の床がわずかに軋んだ。
ゆっくりと歩み寄る彼女の足音が、静寂の中に小さく響く。アッカンの目は、不安げにその動きを追う。
彼女は彼の前で足を止め、膝を折ると、視線を同じ高さに合わせた。
「この薬が、どこから流れてきたのか、誰が作っているのか……ご存知ないですか?」
囁くような声音。優しげな口調とは裏腹に、その目は決して逃がさない冷たさを宿していた。深淵のように暗く、相手の心の奥底まで見通すような、そんな目だった。
アッカンは、まるでその視線に縛り付けられたかのように身じろぎもできない。ただ、苦しげに目を閉じ、歯を食いしばる。
そして――
「…………知らねぇ……」
絞り出すように、声が漏れた。
サーシャさんは、その答えに少しも動じることなく、静かに首を傾げた。そして、ふっと微笑を浮かべると、ゆっくりと彼の手首を掴む。
指先が、皮膚の上を這うように動く。
その瞬間――
「――っ!」
アッカンの顔が、苦痛に歪んだ。
何かが体内を駆け巡るような感覚に、彼は肩を震わせる。魔法か、それとも単に神経を圧迫されたのか――それはわからない。だが、確かなのは、彼の呼吸が荒く乱れ、顔色がみるみるうちに悪くなっていくということだった。
「……っく……あぁ……」
かすれた声が、廃屋の静寂を破る。
しかし、サーシャさんは一切表情を変えず、ただ冷静に彼の反応を見つめ続けていた。そして、十分な間を置いた後、指先を離す。
アッカンの体が、がくりと崩れるように力を失った。
「……言えませんか?」
サーシャさんは指先を離すと、ゆっくりと立ち上がった。彼女の表情は微塵も崩れていない。しかし、その背後に渦巻く気配が、容赦のなさを物語っていた。しかし、その気配は突然霧散し、能面の様な無表情を浮かべる。
「……では、もういいです」
サーシャさんの声は、先ほどまでの冷ややかな響きを保っていた。しかし、その言葉にはもはや期待も興味も感じられない。ただ淡々とした、事務的な諦観のようなものが滲んでいた。
アッカンは、息を荒げながら肩を震わせている。汗に濡れた顔は、もはや先ほどまでの虚勢すら保てていない。
サーシャさんは手に持っていた小瓶を再び光にかざし、指先で軽く弾いた。透き通る音が、静寂の中に響く。
「もう十分でしょう」
その言葉とともに、彼女は小瓶をゆっくりと革の袋にしまった。
僕は、そんな彼女の横顔を盗み見る。無感情に見える表情。しかし、その目の奥には、まだ何かを探るような鋭さが宿っていた。
「では、次に行きましょう」
サーシャさんは、アッカンから目を逸らし、僕の方へと向き直る。
「次……?」
思わず問い返すと、彼女はわずかに口元を歪めた。
「この男が喋らないのなら、直接確かめるしかないでしょう?」
そう言いながら、彼女は巻物の地図を広げ、指で細くなぞる。
「岩に囲まれた渓谷の砦、そして洞窟の拠点……どちらを先に探りますか?」
僕はごくりと唾を飲み込む。
すでに、次の一手は決まっているらしい。
その会話を聞いていたアッカンが、はっと顔を上げた。
「ま、待て……! おまえら、まさか――」
「うるさい」
サーシャさんの静かな声が響く。
その瞬間、アッカンの体がぴたりと動かなくなる。まるで何かに拘束されたかのように、顔を引きつらせたまま、彼はただ沈黙するしかなかった。
「さて、どうしましょうか」
廃屋の隙間から、冷たい夜風が吹き込む。
僕は、サーシャさんの言葉を反芻しながら、目の前の地図をじっと見つめた。岩に囲まれた渓谷の砦、そして洞窟の拠点――
どちらも、山賊が活動するには適した場所だ。渓谷の砦は単純に攻められにくく、洞窟は外部からの追跡を逃れるのにうってつけだ。しかし、問題はどちらを優先するべきか、ということだった。
今この場で決めなければならない。
「どちらを優先すべきかな……?」
僕が迷いながら尋ねると、サーシャさんは小さく息をつきながら、再び地図に視線を落とした。
「可能ならば両方調べたいところですが……効率を考えるなら、渓谷の砦からですね」
彼女の指が、地図上の渓谷の砦を示す。
「地形的に防御が固そうですが、その分、人や物資の出入りも頻繁なはず。何より、これほど詳しい位置情報が記されているということは、比較的重要な拠点である可能性が高いでしょう」
僕は地図を覗き込みながら考える。
確かに、砦の周辺には複数の道が伸びており、いくつかの地点には物資の集積所のような記載もある。物資の補給が定期的に行われているなら、そこを押さえれば敵の動きを制限することができるだろう。一方、洞窟の拠点はより隠密性が高い印象だ。隠れ家としては最適だろうが、それゆえに情報が少なすぎる。
どちらを優先すべきか――
答えは出ていた。
「……渓谷の砦、か……」
「ええ。まずはそこを押さえて、得られた情報次第で次の行動を決めましょう」
サーシャさんはそう言い切ると、ためらいなく立ち上がった。革の袋を肩にかけ、淡々と準備を整えていく。彼女の動きには、迷いの欠片もなかった。まるで、次に起こることをすでに見据えているかのようだった。
僕はアッカンの方を一瞥する。
男は、先ほどからピクリとも動かない。呼吸の気配すら感じられないほど、まるで命を失ったかのように。薄暗い光の下で、汗に濡れた顔が青白く浮かび上がっている。
「この男はどうする?」
「このまま放っておいて良いですよ。もう死体も同然ですし」
彼女の冷淡な言葉が、廃屋の空気に沈んでいく。男は動かない。石のように、ただ虚ろな瞳を落としたまま、沈黙を保っていた。
「……死体?」
僕は思わずサーシャさんの言葉を反芻した。
「ええ」
彼女は何の感慨もないように頷き、淡々と言葉を続ける。
「彼の身体の動きを全て掌握しているので。いま、彼は呼吸も出来ていませんし、心臓も動かせていません。血液すらも停滞しています」
その言葉を聞いた瞬間、僕の全身に寒気が走った。何かの冗談かと思ったが、サーシャさんの顔には微塵の戯れも感じられない。彼女はただ事実を述べているだけだった。
アッカンの身体を見下ろすと、その皮膚は不自然なほどに青白く、まるで時間が止まったかのように微動だにしない。生きているのか、それとも本当に死んでいるのか――見ただけでは判断がつかない。
「……っ!」
僕は無意識に息を呑んだ。この状況に、ぞわりとした不気味さを覚える。確かに、彼は悪人だ。無辜の人々を襲い、好き放題に生きてきたのだろう。そして帝都の薬物に関わっている可能性もある男だった。彼が罪を犯していたのは間違いない。その報いが来たのかもしれない。けれど、だからといって、ここでただ静かに息絶えるのを見過ごすのは、どうなのだろうか。
「……………」
「亡くなっていませんよ、まだ」
彼女は淡々と答えた。
「ただ、魔法で彼の生理機能を停止させているだけです。今は仮死状態といったところですね」
仮死状態――それがどんな仕組みなのか、僕には理解できない。ただ、サーシャさんの魔法ならそれも可能なのだろう。 彼女は、生きている人間の機能すら自在に操ることができたのか。
僕は、再びアッカンの顔を見つめた。彼の瞼は閉じられたまま、まるで眠っているかのように静かだ。だが、その実態は眠りではなく、死へと限りなく近づいた状態――。何かを言うべきなのか、それとも黙って見ているべきなのか。僕は判断に迷った。
「まぁ、このまま放っておけば、数分後には本当に亡くなるでしょう」
サーシャさんは無感情にそう言いながら、小瓶の入った革袋を手早く締めた。
それは、まるで「どうでもいい」と言わんばかりの無造作な動作だった。彼女にとって、アッカンの生死は取るに足らない事柄なのだろう。
「じゃあ、行きましょうか」
サーシャさんは何の未練もなく、廃屋の出口へと向かう。
僕は、ほんの少しの躊躇いを覚えながらも、彼女の後を追った。
外に出ると、冷たい夜風が頬を打つ。昼間の暖かさが嘘のように、廃村は冷え切っていた。ひび割れた石畳を月光が照らし、崩れた建物の影が夜の闇に沈む。
振り返れば、廃屋の中にはまだアッカンがいる。彼はあのまま、何も知らずに死ぬのだろうか。あるいは、何らかの形で生還するのか――それはもう、僕たちには関係のないことだった。
サーシャさんは一切の迷いを見せず、夜の闇の中を歩き出す。その背中は細くしなやかで、どこか冷たく、そして強い。
僕たちは静寂の中を歩き出す。
渓谷の砦へと。