不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版 作:ゴリラ
廃村の外に出ると、空気は一変した。
昼間の熱気をわずかに残しつつも、夜の冷気が肌を刺すように広がっている。風が吹くたびに、乾いた大地の上を落ち葉や砂塵が舞った。だが、廃村を越えた先には、帝国領らしい豊かな大地が広がっているのがわかる。枯れ果てた村とは対照的に、月明かりの下で、遠くにうねるような畑や草地の影が見えた。
ここもかつては、そういった豊穣な地だったのであろうか。そんな感傷が胸をよぎるが、今となってはそれを確かめる術はない。
夜の闇の中、かつての繁栄を思わせる畑の名残は、ただ静かに横たわっていた。風に揺れる草のさざめきが、まるで遠い昔の囁きのように聞こえる。だが、そこに人の気配はない。廃村がそうであったように、ここもまた、帝国の変わり果てた現実を象徴しているかのようだった。
僕は足元に目を落とす。踏みしめた大地はまだほんのりと温もりを残していたが、夜の冷気は着実に忍び寄っていた。この冷たさが、帝国の行く末を示しているような気さえしてしまう。
「行きましょう」
サーシャさんの冷静な声が、感傷を断ち切るように響く。
彼女の背中は迷いなく前を向いている。その姿は、つい先ほどまでの尋問のときと同じように冷たく、そして確固たるものだった。
僕は一度だけ廃村を振り返る。暗闇の中に沈んだ廃屋の奥には、まだ男──アッカンがいる。彼がまだ生きているのか、それともすでに事切れているのかはわからない。だがどちらにせよ、もう僕たちには関係のないことだった。僕は深呼吸をして、サーシャさんの背中を追う。
渓谷の砦へ向かうには、開けた平野を進み、いくつかの丘陵地帯を越える必要があった。道のりは単純ではない。地図には道らしきものが記されていたが、実際には廃道と化しており、踏み跡すらまばらだった。
帝国領は肥沃な地であり、荒廃した村の周囲にも生い茂る草木が広がっている。だが、夜の闇の中ではそれらは影となり、油断すれば足元を取られそうになる。
「半日ほどの距離ですね。途中で休憩を挟む必要があります」
サーシャさんは淡々とした口調で言った。
「夜通し歩くの?」
僕は思わず聞き返す。
「ええ。砦にたどり着く前に、こちらの動きを悟られるわけにはいきません。夜のうちに移動し、夜明けまでに様子を探るのが得策です」
確かに、明るくなってから移動すれば、見張りに気づかれるリスクが高まる。夜の闇を利用し、慎重に進む方が得策だろう。
「なら、行こうか……」
僕は気を引き締め、歩を進める。
夜の闇の中、月と星々の明かりを頼りに、僕たちはひたすら歩き続ける。帝国の肥沃な大地は静寂に包まれていた。草原を抜け、緩やかな丘陵を越え、道なき道を進む。途中、小川を渡り、茂みの中で短い休憩を挟みながら、ひたすら砦を目指した。
時間の感覚は次第に曖昧になっていく。夜の冷気が肌を刺し、足元の草露が靴を湿らせる。疲労がじわじわと溜まるが、サーシャさんは一切の迷いもなく進み続けていた。
やがて、空が仄かに白み始める頃、僕たちは目的地の近くにたどり着いた。渓谷の入口が見える。砦は深い谷間に築かれており、崖に沿うように石造りの建物が並んでいる。外壁の一部には松明の明かりが灯り、見張りらしき人影がちらほらと動いていた。周囲には山賊の気配が濃厚に漂っている。
「ここから先は慎重に行きましょう」
サーシャさんが小声で言う。
僕たちは息を整え、砦の様子を伺う。
渓谷の砦は、自然の地形を利用した要塞だった。切り立った崖に沿うように石造りの建物が並び、狭い入り口には粗末ながらも木製の門が備え付けられている。外壁の一部には松明が灯り、ほの暗い光が砦の輪郭を浮かび上がらせていた。
見張りの山賊たちは交代しながら砦の周囲を巡回しているようだった。二人組でゆっくりと歩き回る者、壁の上から周囲を見張る者、何かを話しながら焚き火のそばでくつろいでいる者もいる。その数をざっと数えてみれば、十数人ほどか。
「……今が狙い目ですかね」
サーシャさんが静かに呟く。
その言葉とともに、彼女はそっと手をかざした。すると、空気がひんやりと冷たくなる。まるで熱が吸い取られるかのように、周囲の温度がわずかに下がった気がした。
次の瞬間――。
足元の地面から、染み出すように水が湧き上がる。最初は小さな水たまりのようだったが、それは次第にうねりを帯び、まるで意志を持つかのように渦を巻き始める。そして、まるで彫刻が形作られるように、その水は形を成していった。
輪郭を持たぬ透明な身体。細長い手足。顔は曖昧なままだが、確かにそれは「人」の形をしていた。だが、その両腕は人間のものとは異なっていた。
水でできた刃。
細長く鋭い、それはまるで刀のような形状をしていた。時折、月明かりを反射してわずかに輝き、波紋のようなゆらめきを見せる。しなやかでありながらも、硬度を保ち、まるで鍛え上げられた剣のような鋭さを秘めていた。
サーシャさんの魔力に応じて、それらは次々と生み出される。その数はすぐに十を超え、さらに増えていった。水でできた人型たちは、月明かりに照らされて不気味な光を放ち、静かに揺らめいている。
僕は思わず息を呑んだ。音もなく立ち並ぶ水の人型たち。それはまるで、戦場へと赴く無言の軍勢だった。
「征きなさい」
サーシャさんが冷たく、静かに紡ぐ。
その瞬間、使い魔たちが一斉に動き出した。
音もなく地を駆ける水の兵士たちは、闇に溶け込むように砦へ向かう。誰一人として声を上げることはなく、足音すら聞こえない。ただ、静かに、確実に、標的へと向かっていった。
最初の見張りが異変に気づいたときには、すでに遅かった。
水の刃が閃く。
鋭い斬撃が、まるで紙を裂くように男の喉を切り裂く。血が飛ぶ間もなく、切断された箇所から水が浸透し、傷口を凍らせる。男は声すら上げられぬまま、その場に崩れ落ちた。
次の瞬間、別の人型が背後からもう一人の見張りを襲う。水の刃が弧を描き、胴を一瞬で両断した。血が流れるよりも早く、切断面が凍りつき、静かに倒れる。
警鐘の音が砦に響いた。
焚き火の周囲でくつろいでいた山賊たちが慌てて立ち上がり、武器を手に取る。しかし、闇の中から忍び寄る水の使い魔たちは、すでに彼らを取り囲んでいた。
「な、なんだ……!?」
ひとりが叫ぶが、その声は最後まで続かなかった。
水の刃が振り下ろされ、砦の中が混乱に包まれる。
「首は持ち帰ってきなさい。人数の把握に使います」
サーシャさんは一切表情を変えないまま、次の指示を出す。
水の兵士たちは命令を受けると、機械的に動き始めた。倒れた山賊たちの遺体に冷たい水の腕を伸ばし、鋭い刃で首を落としていく。その動きには、まるで感情というものが存在しなかった。
砦の奥から、まだ生き残った山賊たちが飛び出してくる。警鐘の音に呼び出されたのだろう。彼らは寝巻きのまま武器を手にし、恐怖と混乱に満ちた顔で周囲を見回す。
「魔獣か!?」
一人が震えた声で叫び、手にした斧を振るう。しかし、その刃が届く前に、水の兵士が腕を伸ばし、男の体を捕らえた。瞬く間に冷気が染み込み、肌が青白く凍りついていく。男は息を詰まらせ、凍結した体を砕かれるように倒れ込んだ。
「弓を持て! 遠距離から撃ち殺せ!」
別の山賊が叫ぶ。数人が壁際へと後退し、慌てて矢を番える。しかし、使い魔たちはすでに彼らの間合いに入り込んでいた。
矢を放つ間もなく、一体が滑るように前進し、片腕を大きく振りかぶる。水の刃が弧を描き、狙いを定めていた男の喉を裂いた。息を呑む間もなく、次の矢をつがえようとした仲間も同じ運命を辿る。
砦の中にはもはや逃げ場がなかった。四方から忍び寄る使い魔たちに追い詰められ、山賊たちは次々と倒れていく。
サーシャさんは砦の入口付近に立ち、静かに戦況を見守っていた。その横顔には、何の感情も浮かんでいない。ただ、冷徹に敵の殲滅を進めるだけだった。
「残り……数人といった所でしょうか」
「一人は生かしておくように」
サーシャさんが淡々と言う。使い魔たちはすでに標的を定め、最後の山賊たちへと迫っていた。
最後の山賊たちは壁際に追い詰められ、逃げ場を失っていた。焚き火の明かりが恐怖に歪んだ彼らの顔を照らし、手にした武器は無意味に震えている。
「くそっ……なんなんだこいつら……!」
一人が呻くように呟き、血のついた剣を握り直す。しかし、目の前に立つ使い魔たちは表情もなく、ただ静かにその場を包囲していた。
逃げるか、戦うか。その選択をする間もなく、使い魔たちが一斉に動いた。水の刃が閃き、二人が倒れる。血が地面に散るよりも早く、凍った傷口が夜の闇に沈んでいく。残ったのは、ただ一人。
夜の帳が静かに後退し、東の空には薄紅色の光が滲み始めていた。砦の影が少しずつ淡くなり、焚き火の炎も次第に色を失っていく。だが、辺りに満ちる血の匂いだけは、夜の闇よりもなお濃く漂い続けていた。
冷たい朝の風が吹き抜ける。荒れた石畳を舐めるように流れる風が、倒れた死体の血を乾かし始めていた。
「ひっ……」
最後の山賊は、恐怖に目を見開きながら後ずさる。肩で荒い息をつき、背後の壁に背を押し付けるようにして逃げ場を探す。しかし、砦の石壁は無情に彼の行く手を塞いでいた。
「殺しちゃ駄目ですよー」
サーシャさんの声が響く。冷たい空気の中、その声音は澄んでいる。しかし、どこか人間味の欠けた、感情の薄い響きであった。
次の瞬間、使い魔の一体が腕を振るう。
淡い朝の光を受けて、水の刃がきらりと輝く。空気を裂く鋭い音が響き、男の腕が肘のあたりから切り落とされる。悲鳴が砦にこだました。
男は崩れ落ちるように地面に膝をつき、切断された腕の断面を押さえながらのたうち回る。地面には鮮血が広がり、冷えた石畳を赤く赤く染め上げた。使い魔たちはそれ以上の攻撃を加えることなく、ただ静かに佇んでいる。朝の淡い光が、彼らの無機質な体をぼんやりと照らす。
「さて……落とした首を持ってきてください」
サーシャさんが静かに指示を出すと、使い魔たちは淡々と動き出した。彼らは転がる首を一つ一つ拾い上げ、整然と並べていく。その動作には一切の躊躇も、感情も感じられなかった。
血の滴る生首を前にしても、サーシャさんの表情は微動だにしない。彼女はゆっくりと指を折りながら数を数えていく。
「いーち、にーい、さーん、よーん……」
彼女の声が砦の静寂の中に響く。朝の訪れを告げる鳥のさえずりさえも、その異様な光景の中では遠くに感じられた。
男は痛みに震えながら、その光景を呆然と見つめるしかなかった。
「きゅーう、じゅぅ……」
淡々と数を重ねるサーシャさんの声が、不気味に場を支配する。
「……じゅーさん、じゅーよん……」
十四。サーシャさんはそこで数を止め、わずかに首を傾げた。そして、ひとつ頷くと、血に濡れた地面を見渡す。
「十四人……ここにいたのは、貴方を含めて十四人で全員ですか?」
朝焼けの光が、彼女の金の髪に淡く映える。だが、その瞳には冷たく計算された光が宿っていた。
男は息を荒げながら、なんとか言葉を絞り出す。
「あぁ……全員だ……これで」
それを聞いて、サーシャさんは小さく首を傾げる。
「可笑しいですね?」
彼女の瞳が男を射抜く。
「情報では、あなた方は二十人いると聞いていましたが……」
「残りは?」
静かだが確固たる圧力が、じわじわと男を締め付ける。
「…………」
男は何も答えない。
サーシャさんは小さく息を吐き、うっすらと微笑む。
「残りの六人は……洞窟の方ですかね?」
その瞬間、男の表情が凍りつく。
目を大きく見開き、口を開きかけるが、何かを飲み込むように喉が震えた。
「……知るかよ」
男は震える声で吐き捨てるように言う。しかし、その言葉とは裏腹に、彼の目はわずかに泳いだ。
サーシャさんは何も言わず、ただ微かに笑う。
「ふむ……まぁ、いいですか……」
そして、彼の瞳をまっすぐに見据え、静かに問いかける。
「月の雫と呼ばれている薬物と、ロザエ・アウラカスピスという人物について、何か知っていることは?」
彼女の声は冷たく澄んでいた。夜明けの冷気のように。
男の肩が震える。
「……知らねえ……」
彼はそう答えたが、その声はあまりにも弱々しかった。
サーシャさんはしばし男を見つめた後、ゆっくりと足元に視線を落とす。
「そうですか。では……」
指を軽く動かす。それだけで、使い魔の一体が無音のまま前へと進み出た。
男は息を呑む。片腕を失った身体では、満足に動くことすらできない。ただ、壁に背を押し付け、逃げるように身をよじるしかなかった。
「待て、待て! 本当に知らねえんだよ!」
必死の叫びも、サーシャさんの瞳を揺るがすことはない。
「知らない、ですか……」
冷たい呟きと共に、水の刃が閃いた。
鋭い音が響く。刃は男の頬をかすめ、背後の地面を浅く抉る。切っ先が皮膚を裂き、一筋の血が頬を伝って落ちた。
白み始めた空の下、その鮮やかな赤がやけに際立って見えた。
「命が惜しいのなら、もう少し誠実に答えるべきですよ?」
サーシャさんの声音は優しい。だが、朝日を浴びた彼女の微笑みが、男にとっては何よりも恐ろしいものに映っているだろう。かくいう僕も、彼女のその横顔に戦慄を覚えていた。
男の荒い息遣いが静寂の中に響く。彼の額には汗が滲み、拳は震えていた。サーシャさんはじっと彼を見据え、冷え冷えとした沈黙がその場を支配する。
風が砂を巻き上げ、焚き火の炎がゆらりと揺れた。乾いた岩の匂いに混じって、焦げた薪の香りが漂う。その中で、男の言葉は重く響いた。
「くそっ……」
彼は唇を噛みしめ、拳を固く握る。その指先はわずかに白くなり、小刻みに震えていた。だが、今更何をしても逃れられないと悟ったのか、彼は諦めたように息を吐き、低い声で続けた。
「月の雫は……帝都で最近よく流れてる薬だが……どこで作られてるかも、どうやって作られてるのかも、誰が作ってるのかも、何故帝都に流してるのかも知らねぇ……ロザエって奴については……帝国の貴族らしいって事しか分からねぇ」
言葉を切り、男は大きく息を吸った。そしてしばらく瞑目する。しぼり出すようなその仕草には、一抹の後悔がにじんでいるようだった。やがて、吹っ切れたかのように肩の力を抜き、静かに語り始めた。
「帝都からの使いが、何度かここに来た……そいつが月の雫を運んでいく……だが、俺たちはあくまで薬の受け渡しの仲介をしてただけだ……それに、俺ら以外の一党も仲介をしてるって話だ」「だからつまり、俺らは所詮使い捨ての道具……その一つだ。重要な事は何も知らねぇよ」
サーシャさんは無言で男を見つめた。焚き火の炎が彼女の横顔を照らし、鋭い眼差しの影を作る。わずかに目を細めると、そのまま淡々と口を開いた。
「なるほど、あなたたちはただの運び屋……そして、他にも同じような者達がいる、と」
彼女の声には冷静さがあったが、その奥には何かを思案するような色が混じっていた。男はわずかに喉を鳴らし、唇を噛む。
「帝都からの使い……その人物の特徴は?」
サーシャさんの問いに、男は目を伏せるように俯いた。しばらく躊躇うような沈黙があったが、やがて観念したように口を開く。
「……名前は知らねぇ……それに、いつも黒い外套を頭からすっぽり被ってやがったから、容姿もわからねぇ。年は……恐らく、三十か四十代くらいだと思う……左手の甲に、妙な刻印みてぇなものがあったな……」
「刻印?」
「あぁ……文字みてぇだったが、読めなかった……ただ、そいつは何度も『ロザエ様の御意志だ』って口にしてた……それだけは確かだ……!」
男の語気がわずかに強まる。彼の目は怯えとも焦燥とも取れる色を帯びていた。サーシャさんは静かにその様子を見つめ、少しだけ目を細める。そして、短く頷いた。
「それで?」
その一言に、男は一瞬息を呑む。だが、すぐに視線を落とし、声を潜めて続けた。
「……俺たちは仲介役だ……荷を受け取って、次の場所に運ぶだけ。荷の受け渡しは、決まって夜に行われる。渡す相手は、たいてい別の仲介人か、さっき言った黒外套の男だ……」
「そして……荷物は、帝都直下の都市『ステム』……その地下水路に運んでる……!」
男は息を荒くしながら、決定的な情報を吐き出す。その目はどこか怯えた色を帯びていたが、ここまで話した以上、もう引き返せないと悟っていた。
「地下水路にゃ、『イシュ』『イナ』『シャラシュ』『アルバウ』『ハムシュ』『セシュ』そして、『セブウ』と呼ばれてる七つの水門がある。……毎回、その中のどれかの門前が、荷の運び場所になってる……」
「次は確か……『ハムシュ』の水門だったはずだ」
サーシャさんは男の言葉を噛み締めるように、一瞬黙った。そして、焚き火の炎を見つめながら、静かに問いを重ねる。
「ハムシュの水門……次の取引はいつですか?」
男は一瞬ためらうように口をつぐむ。だが、数秒の沈黙の後、絞り出すように言葉を吐き出した。
「…………四日後の深夜だ」
「なるほど……」
サーシャさんは短く頷き、ふと考え込むように視線を落とす。その静けさに、男は息を呑んだ。まるで自身の運命が、目の前の女の一言で決まる。そんな表情をしていた。焚き火の炎が弾け、細かな火の粉が宙を舞う。その光が、まるで命の儚さを映し出しているようだった。
サーシャさんはゆっくりと顔を上げ、淡々とした口調で尋ねる。
「他に知っていることは?」
男はすでに観念していたのか、深いため息をつき、肩を落として俯きながらぼそりと呟く。「……あとは、ロザエって名前を直接口にする奴はほとんどいねぇってことくらいか……」
その言葉に、サーシャさんの目がわずかに細まる。焚き火の明かりが彼女の横顔を照らし、冷たい眼差しを浮かび上がらせた。
「それはどういう?」
男は喉を鳴らしながら、ゆっくりと顔を上げる。まるで話すことを躊躇っているようにも見えた。だが、ここまで来て隠すこともないのだろう。観念したように肩をすくめ、淡々と語り始める。
「この仕事に関わってる奴らの間じゃ、ロザエってのは『名前を出しちゃいけねぇ存在』らしい……あの帝都の使いですら、めったに口にしなかった。せいぜい『ロザエ様の御意志だ』とか、それくらいだ……」
サーシャさんは少しだけ瞳を細める。その仕草は思案しているようにも見えた。
「つまり、実際に顔を知っている者は少ない、と?」
「たぶんな……それに、ロザエってのが本当に一人の人間なのかも怪しい。もしかしたら、帝都のどっかにいる貴族たちがまとめて使ってる暗号のようなもんかもしれねぇ……」
男の声にはわずかに疑念が混じっていたが、彼自身も確信があるわけではないのだろう。サーシャさんは静かに彼の言葉を聞いていた。微かな沈黙が生まれる。焚き火の燃える音が小さく響き、砂漠の夜の冷たさを強調するようだった。
やがて彼女は目を伏せ、考え込むように指先で顎をなぞる。静かに息を吐き、淡々とした声で言った。
「……ふむ、まぁだいたいの状況は分かりました」
サーシャさんの表情は読めなかった。だが、その言葉には確かな手応えが感じられた。少なくとも、彼女の中で何かしらの仮説が立ったのだろう。
彼女は再び男に視線を向ける。鋭く、それでいてどこか冷ややかな眼差しだった。
「あなたの役目はもう終わりましたが……何かありますか?」
男は唇を噛み、しばらく黙り込んだ。焚き火の光が彼の顔をちらつかせ、険しい表情を浮かび上がらせる。まるで己の運命を悟ったかのようだった。やがて彼は自嘲するように笑い、肩をすくめる。
「……はん、なにかだと? どうせ、俺はここで終わりなんだぜ?」
その声には諦念と、どこか虚しさが滲んでいた。
「さあ、それはどうでしょうかね?」
サーシャさんの言葉は淡々としていたが、どこか冷たい響きを帯びていた。 焚き火が弾け、小さな火の粉が宙を舞う。その光が、まるで命の儚さを映し出しているようだった。
「聞きたいことは大体聞けました」
「それでは、どうしましょうか? 悠太さん」
そう言って、サーシャさんは僕へと視線を向けた。
僕は腕を組み、目の前の男を見下ろす。男はうつむいたまま、肩を落としている。すべてを話し終え、もはや逃げ道はない。 周囲は静まり返っていた。乾いた風が吹き抜け、どこかで砂利がこすれる微かな音がする。男の荒い息遣いだけが、かすかに夜の空気を震わせていた。
「どうするか………」
この男が悪党なのは間違いない。薬の取引に関わり、人を苦しめてきた。それを見逃す理由はない。だが、こいつはただの仲介役。黒幕ではなく、末端にすぎない。ここで処分したところで、本当の問題は何も解決しない。
だが、ふとあの廃屋に置いて行ったあの男の事が脳裏をよぎった。あの時も僕は似たような選択をした。見逃したところで、また悪事を働くかもしれない――そう思わなかったわけじゃない。でも、だからといって僕が裁く権利なんてあるのか。
「…………」
少しの沈黙の後、僕は息を吐き、静かに言った。
「ここに放置しておこう……怪我は治療して」
サーシャさんは少し目を細め、僕の言葉を吟味するようにじっと見つめてきた。その視線は批判的でもなく、ただ僕の判断を測るような、そんな色を帯びていた。
「そうですか……」
彼女は淡々とした口調で言いながらも、その声にはどこか納得したような響きがあった。
男は驚いたように顔を上げる。瞳には混乱と疑念が入り混じっていた。
「……なんだと?」
「治療はしてあげる。だけど、それ以上の手助けはしない。ここからどうするかはお前次第だよ」
僕の言葉に、男はしばらく呆然としていたが、やがて苦笑した。
「……助けてもらえるとは思ってなかったが、まさかそんな形とはな」
「これまでやってきたことを考えれば、上出来だと思うけど?」
僕は肩をすくめながら、そう言う。それを聞いた男は短く息を吐いた後、静かにうなずいた。
それを確認すると、サーシャさんは無言のまま男に歩み寄り、冷静な手つきで応急処置を施し始めた。男の表情にわずかな驚きが走ったが、サーシャさんは気にする様子もない。傷口を確認し、治癒魔法を施す。その動きには無駄がなく、淡々としていた。
「……お前ら、何者なんだ?」
ふと男が呟いた。傷の痛みとは別の、得体の知れない不安が滲んでいる声だった。 だが、僕はその問いに答えず、ただ立ち上がる。
「じゃあね。せいぜい、今後の人生を考えなよ」
そう言い残して、僕たちはその場を後にした。 夜風が吹き抜け、遠くで獣の遠吠えが響く。振り返ることなく、僕たちは歩き続けた。
「まったく……悠太は甘いですねぇ……」
「遺恨を遺すかもしれない事は、極力避けるべきでしょうに……」
「まぁ、彼の意思を尊重して、目の前で処理するのはやめておきましょう」
「……それじゃあ、後は頼みましたよ」
その言葉とともに、男の背後で静かに何かが動く気配がした。そして風がそっと撫でるような音がしたかと思うと、それ以降、何者の気配もしなくなった……何者の気配も……それこそ、男の気配さえもしなくなった。