不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版 作:ゴリラ
帝都の真下。その窪地に広がる都市、ステム。上空に浮かぶ帝都が陽光を遮るため、町全体が常に淡い薄闇に包まれている。その薄暗がりの中で、赤や紫、青白い光を放つ提灯がぼんやりと輝き、まるで闇に咲く幻想の花のようだった。この妖艶な光景こそが、ステムが「艶花の都」と呼ばれる由縁なのだろう。
石畳の路地は湿り気を帯び、歩くたびに靴音が鈍く響く。建物の大半は古びた木造や補修を重ねたレンガ造りで、どれも密集して立ち並んでいる。細い路地には絹のような布が垂らされた店が軒を連ね、異国の香辛料や薬草、珍しい宝石や細工物を売る商人たちが声を張り上げていた。甘く妖しい香の煙がゆらめき、どこか夢のような感覚を誘う。
この都市には昼と夜、二つの顔がある。表通りでは商人たちが賑やかに取引を交わし、帝都から流れてきた品々が並ぶ。しかし、ひとたび裏路地へ足を踏み入れれば、そこは退廃と享楽の世界。妖艶な衣装を纏った踊り子たちが微笑みを投げ、酒場や娼館の灯が揺らめく。煙草の煙と甘やかな音楽が溶け合い、闇取引がひそやかに交わされる。さらに奥へ進めば、隠れ家のような博打場や、怪しげな薬屋がひしめいている。
都市の中央広場には、帝都へ向かう飛行船の発着場がある。巨大な船がゆっくりと浮かび上がり、地上の喧騒から離れていく様は、まるで神々の世界へと向かう乗り物のようだった。
この都市は、帝都へ続く唯一の門でありながら、地上に生きる者たちにとっては手の届かぬ都への憧れと、仄暗い享楽の楽園が交差する場所なのだろう。
「……ここが、ステム」
「なんというか、凄い所だね」
僕が思わずそう呟くと、隣を歩くサーシャさんは微かに笑った。
「帝都のすぐ下なのに、まるで別の世界みたいですよね」
確かにそうだ。帝都は整然とした秩序のもとに築かれた栄華の象徴だと聞いた。だが、ここステムは違う。退廃と華やかさが入り混じり、そこに暮らす人々の熱気と欲望が渦巻いていた。
路地を進むたびに、異国の香辛料が混じる甘い匂いが鼻をくすぐる。鮮やかな色合いの絹が棚に並び、腕利きの職人が精巧な細工を施した金細工を誇らしげに並べている。どこからか流れてくる旋律は、異国の楽器で奏でられたものだろうか。高く伸びる歌声が聞こえ、それに重なるように酒場の喧騒が響く。
「この都市は、帝都に仕える者だけでなく、そこに足を踏み入れることが叶わない者たちも集まります。だからこそ、こんな風にさまざまな文化が交じり合っているのです」
サーシャさんの言葉に、僕は改めて周囲を見渡す。確かに、帝都の格式張った貴族たちとは違う、もっと自由で荒々しい活気がこの都市には満ちていた。
「さて、まずは『金の林檎亭』とやらを探しましょうか。例の取引は明日の夜ですし、それまでに色々と情報を集めましょう」
そう言って、サーシャさんが軽やかに歩き出す。僕もそれに続いた。
ステムの夜は活気に満ちていた。細い路地の奥からは酒場の喧騒が響き、街のいたるところで異国の旋律が奏でられている。どこか艶めかしく、どこか退廃的な音色が、まるでこの街そのものの空気を表しているかのようだった。
甘く妖しい香の煙が漂い、店先に吊るされた提灯が揺れるたびに、赤や紫の光が石畳を妖艶に染め上げる。湿り気を帯びた石畳は、昼間の暑さを残してじんわりと温かく、行き交う人々の足音が鈍く響いていた。人影は多く、その一人一人が何かしらの目的を持ってここに集っているのだろう。酒に酔いしれ、夜の娯楽に溺れる者、情報を売り買いする者、密かに商談を交わす者――さまざまな欲望が入り乱れ、熱を帯びた喧騒が街全体を包んでいる。
そんな光景の中を抜けながら、僕たちは『黄金のリンゴ亭』を探して歩く。
「この辺りは酒場が多いね」
目に映る範囲だけでも、すでに十を超える酒場が立ち並んでいた。豪奢な装飾が施された店もあれば、古びた木造の一軒家をそのまま利用しているような場所もある。どの店もそれぞれの雰囲気を醸し出し、そこに集う客層もまちまちだった。
「娼館や賭場もですね。夜の娯楽はステムの名物の一つですから」
サーシャさんの言う通り、通りの至るところで華やかな衣装を纏った踊り子たちが客を誘い、酒場の扉口では給仕の男や女が笑顔で呼び込みをしている。金の刺繍を施した衣装を着た女たちが、腰をくねらせながら男たちに媚びるような笑みを向け、赤いベールを被った給仕が、通りすがる人々に甘くささやく声をかけていた。
その一方で、裏路地に目を向ければ、暗がりにうずくまる影がちらりと見え、低く囁き合う声が聞こえてくる。ぼんやりと灯る小さな提灯の下、何かしらの取引が行われているのが察せられた。目を凝らせば、手のひらに乗るほどの小袋を受け渡す光景が見え、その直後、受け取った男の手が震えているのに気づく。きっと何かの薬物だろう。ステムの闇の部分は、表通りからほんの数歩入っただけで姿を現す。
「……帝都のお膝下の割には、治安はあまりよくなさそうだけど……」
帝都の警備はとても厳重だと聞いていた。その帝都の直下の都市なのだから、ここも秩序だった厳格な雰囲気なのだろうと思っていたが、その予想とは反対に、ここには自由と混沌が渦巻いていた。そこにいる人間たちは皆、己の欲望を隠そうともせず、それを叶えるためにこの場所に身を置いている様に見える。
「確かに帝都の警備は厳重ですが、他はそうでもないのでしょう」
サーシャさんの言葉に、僕は頷く。帝都の貴族たちはこの街の存在を知りながらも、それを黙認しているのだろう。彼らにとって都合の悪い者が帝都に入り込まないよう、ここで留めておくという意味合いもあるのかもしれない。
「まぁここにはここのルールがあるようですし、あまりそこに触れないよう、慎重に立ち回りましょう」
僕たちは互いに注意を促し合いながら、再び歩き出す。ステムの夜は華やかでありながら、同時に危険な香りを漂わせていた。
そしてしばらく歩くと、通りの一角に目立つ建物が現れた。木造の二階建てで、表には古びた看板が掲げられている。そこには、金色の林檎の紋章——おそらく、これが『金の林檎亭』なのだろう。
「ここだね」
「ええ、行きましょう」
僕たちは扉を押し開け、薄暗い酒場の中へと足を踏み入れた。
途端に、強い酒の香りと、ざわめきが押し寄せる。客たちは円卓を囲みながら酒を酌み交わし、奥のステージでは楽団が軽快な音楽を奏でていた。カウンターでは店主らしき男が大きなジョッキを磨いている。
店内を見渡していると、サーシャさんが低く囁いた。
「慎重に行動しましょう。この店には、ただの飲んだくれだけが集まるわけではないようです」
僕たちは人々の間を縫うように進み、カウンターの前で足を止める。近くの席では、粗野な身なりの男たちが酒を片手に賭け事に興じていた。その隣では、目をギラつかせた商人風の男が、隣の客とひそひそ話をしている。ちらりと見えた机の上には、小さな革袋が置かれていた。金か、それとも別の何かか。
そんな中、カウンターに立つ店主らしき男が、僕たちに視線を向けた。浅黒い肌に、ごわついた髭。年の頃は四十代といったところだろうか。無愛想な顔つきだが、目は鋭く、こちらを値踏みするような視線を向けてくる。
「…………注文は?」
低く、落ち着いた声だった。
「そうですね……では、おすすめの酒をください」
サーシャさんがそう告げると、店主は少し目を細めたが、何も言わずに棚の奥から琥珀色の液体が入った瓶を取り出した。グラスに注がれた酒は、かすかにスパイスの香りを含んでいる。
「帝都の連中が好む上等な代物じゃねぇが、ここの定番だ」
そう言って、店主は次に僕の方を見た。
「お前は?」
「……ミルクを」
「はっ、ここは酒場だ」
店主は鼻で笑いながらグラスを拭く手を止め、僕を値踏みするような目で見つめた。周囲の客たちのざわめきの中、一瞬だけ近くの席の男がこちらを見て、くつくつと笑うのが聞こえる。
「ガキの来る店じゃねぇんだよ」
「……ですが、僕は酒が飲めませんので」
できるだけ冷静に返すと、店主は呆れたように肩をすくめた。
「ちっ、しょうがねぇな」
そう言って棚の奥を探り、古びた陶器の瓶を取り出す。そして、僕の前にどっしりとしたマグを置くと、妙にどろりとしている白濁とした液体を注いだ。
「ヤギのミルクだ。酒が飲めねぇ奴にはこれしかねぇ」
「ありがとうございます」
グラスを口元に運びながら、僕は周囲の様子をそれとなく観察した。店内は決して広くはないが、どこか威圧感のある造りをしていた。壁は長年の煙で燻され、木の梁には無数の傷が刻まれている。客たちは思い思いに酒を酌み交わし、何かの取引をしている者もいれば、ただ酔い潰れている者もいる。酔客の笑い声が響くたびに、燭台の炎がわずかに揺らめいた。
ヤギのミルクは予想以上に濃厚で、口の中に独特の風味が広がる。ほんのりと甘みも感じられたが、後味にはかすかな草の香りが残った。飲み慣れていない僕には、正直なところ少し強すぎる味だったが、無理に顔をしかめることはせずにグラスを置いた。
そんな僕を横目に見ながら、サーシャさんは楽しげに微笑んでいる。
「珍しいですね、酒場でミルクを頼む人なんて」
からかうような声音だったが、どこか和やかな空気が漂っていた。
「仕方ないね」
僕は肩をすくめながら答える。だって僕、未成年だし。まぁ日本の法律なんて、この世界に来てしまった僕には関係ないんだけど、どうしてもね……。
店主は呆れたように鼻を鳴らしながら、再びグラスを磨き始めた。その手つきは熟練のもので、長年この酒場で働いていることを物語っている。
「で、お前らは何者だ?」
サーシャさんが静かにグラスを傾ける。僕もそれにならい、もう一口含む。
「ただの旅人ですよ。少しばかり、情報を探していましてね」
「……」
店主は酒瓶を手にしながら、ちらりと周囲に目をやった。その仕草に、僕はこの酒場が単なる酒の場ではないことを改めて実感する。ここには、帝都では得られない情報が集まるのだ。
「…………話してもいいが、タダじゃねぇぞ」
店主はグラスを拭きながら、薄く笑った。
「そうでしょうね。ですが、こちらもそれなりの対価は用意しています」
サーシャさんがそう言って懐から金貨を一枚取り出し、カウンターに置いた。金貨は鈍い光を放ち、店主はちらりとそれを見る。
「ふん……話す価値のあることを知ってるかは、そっち次第だ」
そう言いながら、店主は少し考え込むように顎をさすった。
「さて、お前らが知りたい情報ってのは――何の話だ?」
僕たちは互いに視線を交わした。そして、サーシャさんが静かに口を開いた。
「『薔薇の剣』について、知っていることを教えてもらえますか?」
その瞬間、店主の手がぴたりと止まる。何時の間にか、周囲もすっかり静まり返っていた。
やがて、店主はゆっくりとグラスを拭きながら、ぽつりと呟くように言う。
「……お前ら、面白ぇことを聞くな」
その声は低く、しかし確かに、興味を含んでいた。
空気が変わったのを肌で感じる。先ほどまでのざわめきが嘘のように薄れ、まるで店全体が僕たちの会話に耳を澄ませているかのようだった。 店主はゆっくりとグラスを拭き続ける。手の動きは変わらないのに、その目は鋭く僕たちを見据えていた。
「……お前らは、何だ?」
低く、探るような声。サーシャさんは表情を崩さず、静かに首を横に振った。
「ただの旅人です。でも、どうやらこの都では『薔薇の剣』という名が囁かれているようですね」
「噂好きの連中が騒いでるだけだ。どこまで本当かは知らねぇよ」
店主は肩をすくめてみせたが、その態度にはわずかな警戒が滲んでいた。僕はグラスの中のミルクをそっと揺らしながら、慎重に言葉を選ぶ。
「でも、最近帝都の騎士団や宮廷魔法師団の一部……所謂、旧カマホル派が動き始めたと聞きました。それと関係があるんじゃあないですか?」
店主の目がわずかに細まる。背後で誰かが小さく身じろぎしたのが聞こえた。緊張が張り詰める。
「……お前ら、妙なことに首を突っ込むんじゃねぇぞ」
「妙なこと、ですか?」
「『薔薇の剣』なんざ、ただの亡霊の集団さ」
店主はグラスをカウンターに置くと、低く続けた。
「……そいつらが何を企んでるかは知らねぇが、でかいことを起こそうとしてる連中がいるのは確かだ。帝都の腐敗に反発する奴らは昔からいるが、最近はやけに動きが活発になってる。帝国の上の連中もそれを嗅ぎつけて、警戒を強めてるってわけさ」
「その動きを率いてるのが、旧カマホル派率いる、『薔薇の剣』……と」
サーシャさんが探るように言うと、店主は短く息をついた。
「さあな。ただの噂だ。だが、もし本当に奴らが動いてるんなら」
そこで言葉を切り、店主はぐっと目を細めた。
「……この都で会えるかもしれねぇぜ」
店主の言葉が、静かに空気を揺らす。僕たちは互いに視線を交わした。サーシャさんの表情は変わらないが、その瞳の奥には確かな興味が宿っているのが分かる。
「……この都で、ですか」
僕がそう呟くと、店主は鼻を鳴らした。それには微かな警戒と、それ以上のことを話すつもりがないという意思が込められていた。
酒場の空気が、じわりと重たくなる。僕はグラスの中のミルクを静かに揺らしながら、視線を落とす。表面にできた小さな波紋が、ゆっくりと広がっていくのを眺めながら、考える。――この店主は、何かを知っているだろう。
「この都で会えるかもしれねぇぜ」
先ほどの言葉が頭の中で反響する。つまり、『薔薇の剣』はステムに潜んでいる可能性が高い。それだけではなく、帝国の腐敗に抗う勢力が、この都の中で確実に動き始めているということだ。
だが、だからといって、このまま深追いすれば、僕たち自身が危険に晒されるのも確実だった。
カウンターの奥の店主は、無言でグラスを拭き続けている。その手の動きは変わらないが、どこか無理やり話を終わらせようとしているのが伝わってきた。
「この話は、ここで終いだ」
それは、明らかな警告だった。
背後では、他の客たちが無関心を装いながらも、どこか会話の一部を気にしている気配がある。酔ったように見せかけているが、耳だけはしっかりこちらへと向けられている。
僕たちがこれ以上深入りすれば、好奇の視線だけでなく、別の勢力の監視対象になりかねない。
「もう帰んな」
短く告げると、店主はカウンターの向こうに背を向け、樽の整理を始めた。
サーシャさんは静かに息をつくと、ゆっくりと立ち上がる。
「……分かりました。ご忠告、感謝します」
そう言って、彼女はフードを少し深く被り直した。
僕もグラスをそっと置き、店の奥を一瞥する。そこにいる客たちは、こちらを意識していないふりをしながら、静かに酒を飲んでいる。だが、その中の何人かは、先ほどの会話に強い関心を持っていたことを隠しきれていない。……ここに長居は無用だな。
僕たちは互いに頷き合い、『黄金のリンゴ亭』を後にした。扉を開けた瞬間、夜のステムの熱気がむわりと押し寄せる。まだ喧騒は衰えておらず、街のあちこちで音楽や笑い声が響いていた。提灯の明かりが揺れ、石畳を赤や紫に染め上げる。路地の奥からは、甘ったるい香の煙が漂い、どこか妖しげな空気を生み出していた。夜の闇の中で、艶めかしい影が行き交い、酔客たちが絡み合いながら通りを埋め尽くしている。
「どう思います?」
歩きながら、サーシャさんが低く尋ねた。
「……『薔薇の剣』が、この都で何かを企んでるのは確かみたいだね」
店主の言葉を反芻する。帝国の腐敗に抗う者たちが、確実に動き出している。もしそれが事実なら、僕たちの目的にも大きく関わってくるだろう。僕たちは今、まさにその渦中に足を踏み入れようとしているのかもしれない。
サーシャさんは少し顎を上げ、慎重に周囲を見回していた。ステムの夜は美しいが、その裏には必ず危険が潜んでいる。表向きは華やかでも、路地裏に一歩踏み込めば、そこは帝国の支配の及ばぬ無法地帯だ。闇に紛れるように、取引が交わされ、密約が結ばれ、そして人が消える。
考えながら、ゆっくりと路地を進んでいた、そのときだった。
「おい」あぁ……接触してきましたね
背後から、低く鋭い声が飛んできた。咄嗟に足を止める。サーシャさんもわずかに肩をすくめながら、静かに振り向いた。
そこにいたのは、フードを目深にかぶった男と、その背後に控える数人の影。彼らの姿は、まるで夜の闇と同化しているようだった。粗末な布で身を包みながらも、動きやすさを重視した服装は、明らかに何かしらの実戦経験を持つ者たちのものだ。ひとりひとりの佇まいには無駄がなく、そのわずかな仕草からも、彼らが単なる酔客ではないことは明白だった。
フードの奥に隠れた目が鋭く光る。彼らの視線が、獲物を捕らえる狩人のように、僕たちへと注がれていた。
「さっき酒場で色々嗅ぎまわっていたな」
フードの男が言った。その声には、明確な敵意が滲んでいる。
僕たちは無言のまま、相手を観察する。男の背後に立つ者たちも、一様にこちらを警戒するような態度を見せていた。表情こそ読めないが、身体に宿る緊張感は明らかに普通ではない。
そして、彼らの立ち位置──包囲するような距離感――から察するに、これはただの偶然ではない。僕たちが出てくるのを待ち構えていたのか、それとも誰かの指示で動いているのか。
じり、と靴音が石畳の上で響いた。敵か、味方か。
いや、それを判断するにはまだ早い。
「……何か勘違いしているようですね」
サーシャさんが静かに口を開いた。その声音は落ち着いていたが、警戒を完全に解いたわけではない。むしろ、わずかに張り詰めたような抑揚が含まれている。
相手の出方を探るように、じっと男の目を見据える。
「私たちはただの旅人。酒場で情報を集めるのは珍しいことではないでしょう?」
サーシャさんは落ち着いた声でそう言った。だが、その声音には微かに探るような響きがある。彼女の視線は揺らぐことなく、目の前のフードの男を真っ直ぐに見据えていた。
フードの男は短く鼻を鳴らす。
「旅人が『薔薇の剣』なんて名を軽々しく口にするか?」
その言葉が発せられた瞬間、周囲の空気が変わった。背後に控えていた男たちが、ごくわずかに身構える。夜の喧騒の中でも、彼らの放つ鋭い気配が、静かにこちらへと押し寄せてくるのが分かった。
サーシャさんがわずかに目を細める。
……やっぱり、彼らは……。疑うまでもなく、この男たちは『薔薇の剣』の関係者。いや、それどころか、実際にその団員なのかもしれない。
この都で動きが活発になっているという話が事実なら、当然、組織の人間がこうして警戒を強めているのも頷ける。僕たちが酒場で名を口にしたことで、彼らの警戒網に引っかかってしまったのだろう。
「お前たち、何者だ?」
男の低い声が、夜の空気に沈み込むように響く。
静寂が降りた。街の喧騒はすぐそばにあるはずなのに、この一角だけが切り離されたように、張り詰めた空気が支配している。
相手の視線は鋭い。わずかな動きすら見逃さぬように、こちらの態度を見極めようとしているのが分かる。
僕はゆっくりと両手を上げ、できるだけ穏やかな声で言った。
「あー……降参、降参です。そんなに殺気をまき散らさないでください」
だが、男たちの警戒は解けなかった。むしろ、より鋭い視線がこちらを射抜いてくる。周囲の空気がさらに張り詰め、夜の冷気とは違う種類の寒気が背筋を這い上がる。
「……ふざけてるのか?」
フードの男が、低く呟いた。その声音は、微塵の冗談も許さない冷たさを帯びていた。
「いえ、本気です」
僕は慎重に言葉を選びながら続ける。
「僕たちはただ情報を集めていただけで、別にあなたたちと敵対するつもりはありません」
僕の言葉を聞いても、男たちの態度は変わらない。むしろ、疑念の色を濃くしたようにすら見えた。
「ならば、なぜ『薔薇の剣』のことを嗅ぎ回っていた」
男の問いに、一瞬、答えを考える。
ここで適当に誤魔化しても、彼らが納得するとは思えない。むしろ、不自然な言い訳をすれば、かえって疑われるだろう。
サーシャさんが、ふっと小さく息をついた。その動作は、まるで何かを決意したようにも見えた。
「……正直に言いましょう」
彼女は男を真正面から見つめ、静かに言葉を紡ぐ。
「私たちは帝国の動向を探っています。そして、『薔薇の剣』もその一部だと考えた。それだけのことです」
サーシャさんの声は落ち着いていたが、芯の強さを感じさせた。彼女のまっすぐな眼差しは、決して怯むことなく、相手の視線を真っ向から受け止めている。フードの男はわずかに眉をひそめたようだった。沈黙が流れる。誰もが息をひそめ、相手の出方を窺っている。
夜の闇が、ますます深く感じられた。
「それで?」
フードの男は腕を組み、微かに顎を上げた。その態度には余裕と警戒が入り混じっている。
「そもそも、我々がそうぺらぺらと話すと思っているのか?」
彼の背後にいる仲間たちも、静かにこちらの言葉を待っている。まるで暗闇の中に潜む獣のように、一瞬たりとも油断を見せていない。
だが、サーシャさんは動じることなく、ゆっくりとした口調で応じた。
「えぇ、思っていますよ……取引と行きましょう」
彼女は一歩、男へと近づく。敵意のない仕草で、しかし確信を持った足取りだった。
「私たちは、あなた方に提供できる『情報』があります……」
彼女の声は夜の空気に溶け込みながらも、鋭く響いた。
「聞きたいでしょう?……『月の雫』がどこから帝都に運び込まれているのか……誰が手を引いているのか……次の取引はいつなのか……」
その言葉が落ちた瞬間、男の目がわずかに細められた。
「はっ、生憎だがな」
彼は鼻を鳴らし、腕をほどく。
「俺らもその程度のことは調べがついてる。そんなの、なんの取引材料にも……」
「では、『月の雫』の作成方法はどうでしょう?」
その瞬間だった。男の表情が一瞬、変わった。
ほんの僅かではあるが、確かに動揺が走ったのが分かった。鋭い目つきが揺らぎ、口元がわずかに引き締まる。背後にいた仲間たちも、微かに反応を見せた。
「……作成方法だと?」
フードの奥で、男の瞳が鋭く光る。
『月の雫』。帝都を蝕む薬物。流通経路に関してはすでにある程度の調査が進んでいるのだろう。しかし、製造方法についてはどうだろうか?黒幕が厳重に隠しているであろうその秘密を、彼らは本当に掴んでいるのだろうか?――だが、それ以上に気になったのは別のことだった。
……サーシャさんは、いつその情報を手に入れたのだろう?
僕は思わず彼女の横顔を見た。しかし、彼女の表情には何の迷いもなかった。淡々と、静かに、まるで当然のことを告げるかのように口を開く。
「ええ。それについての確かな情報を持っています」
闇の中で、彼女の声が冷ややかに響く。夜の風が吹き抜ける。街の喧騒は遠く、ここだけが異様な緊張感に包まれている。
フードの男は、じっとサーシャさんを見つめた。目を逸らさず、まるで彼女の言葉の真偽を見極めようとしているようだった。
……さて、どう出る?
僕は息を潜め、彼らの反応を待った。
「……証拠は?」
フードの男の声は低く、冷たい響きを帯びていた。周囲の空気がさらに張り詰める。背後の男たちは、まるで獲物を待つ獣のようにじっとこちらを見据えていた。
「証拠を見せる前に、まずは条件を聞かせていただけますか?」
サーシャさんはわずかも怯むことなく、堂々とした態度で応じる。彼女の落ち着き払った声が、夜の闇に染み込んでいく。
男は一瞬、目を細めた。その仕草からは、彼女の言葉の裏を慎重に読もうとしていることが見て取れる。
しばらくの沈黙が流れた後――
「……面白い」
男は低く笑った。
その笑みには警戒心が残っていたが、同時にわずかな興味も滲んでいた。
「いいだろう。だが、場所を変えさせてもらう」
そう言うと、彼は軽く顎をしゃくった。その合図を受けた背後の仲間たちが、無言で動き出す。彼らは音を立てずに身を翻し、暗い路地の奥へと向かった。
「ついてこい」
短く告げられた言葉は、拒否の余地を与えないものだった。僕たちは互いに視線を交わす。これは賭けだ。だが、乗らなければ得られない情報もある。サーシャさんは静かに頷き、僕もそれに倣う。
闇の奥へと消えていく男たちの後を追い、僕たちは足を踏み出した。ステムの夜は、相変わらず熱気と喧騒に満ちていた。だが、僕たちが進む道は次第に暗く、静かになっていく。華やかな提灯の光が遠ざかり、代わりに青白い月光が細い路地を照らし始めた。
路地の両側には、崩れかけた建物や壁に張り付くようにして建てられた屋台の残骸が並んでいる。どこからか汚水の匂いが漂い、地面には乾いた血痕のような黒ずんだ染みがいくつもこびりついていた。
人気のない通りを進むにつれ、背筋に冷たいものが走る。誘い込まれている。それは分かっていた。だが、後戻りはできない。やがて、男たちはある建物の前で立ち止まった。
それは、かつて酒場だったのかもしれない。外壁はひび割れ、窓は板で打ち付けられている。扉の上には看板が残っていたが、風化して文字は読めなくなっていた。
男が扉を押し開けると、かび臭い空気が漏れ出す。
「入れ」
男が言った。サーシャさんがちらりと僕を見る。僕たちは、一歩足を踏み入れた。扉が、ゆっくりと閉じられる。外の月光が遮断され、そこには闇だけが広がっていた。
ステム…帝都の真下にの窪地に広がる都市。艶花の都とも呼ばれている。
常に帝都の影に覆われており、日中でも薄暗い。空を見上げれば、遥か頭上には帝都の巨大な浮遊島が広がり、太陽の光を遮っている。そのため、ステムの住人は人工灯や魔法の明かりに頼らざるを得ず、街には常に提灯やランプのぼんやりとした光が灯っている。
この都市は大きく分けて五つの主要区画から成る。
1
酒場、賭博場、娼館が立ち並び、旅人や犯罪者が入り乱れる混沌とした街区。狭い路地が迷路のように張り巡らされており、ひとたび足を踏み入れれば簡単には抜け出せない。
「艶花の都」の象徴的な地区であり、最も活気に満ちているが、治安は最悪。
2
盗品、密輸品、偽造文書、禁制薬などが売買される場所。情報屋やスパイが集まり、裏社会の人間にとってはなくてはならない拠点。
3
ステムの中では比較的まともな地区で、商人や職人が暮らしている。帝都とステムを結ぶ飛行船の発着場があり、合法・非合法問わず物資が行き交う。しかし、帝都の監視が厳しく、密輸業者は常に警戒を強いられる。
4
過去に大火事が起こった地区で、今も半壊した建物が放置されている。主に浮浪者や身寄りのない孤児たちが暮らしている。『薔薇の剣』や他の反帝国組織の隠れ家が存在するという噂もある。
5
ステムの中では唯一、比較的安全で落ち着いた地域。闇商人や落ちぶれた貴族たちが住んでおり、帝都の貴族と密接な関係を持つ者もいる。ただし、表向きは静かだが、裏では帝都の陰謀や裏取引が頻繁に行われている。