不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版   作:ゴリラ

18 / 24
薔薇の剣

 闇に包まれた空間は、沈んだ静寂に支配されていた。かび臭さに混じって、わずかに酒精の残り香が漂う。室内は広いが、長い間使われていなかったのだろう。床板は踏むたびに軋み、奥の方には崩れた棚や割れた椅子が無造作に転がっていた。

 

 壁際には数人の影が見えた。こちらが入ってくるのを待っていたかのように、無言で佇んでいる。見張りか、それとも取引の立会人か。いずれにせよ、好意的な連中ではないのは明らかだった。

 

 中央のテーブルには簡素なランプが置かれ、揺れる炎が僅かに光を投げかけている。テーブルの向かいに座るよう促されると、僕とサーシャさんはゆっくりと腰を下ろした。

 

 フードの男が向かいの椅子に座り、肘をついてこちらを見つめる。まるで獲物の値踏みをするかのような視線だ。そしてグラスに酒を注いで、一杯呷る。

 

「それで……」

 低く響く声が沈黙を破る。が、それを遮るようにサーシャさんは言葉を発する。

 

「すこし、待っていただけますか? まずはあなた方の立場を確認させて欲しいですね」

 

 男は目を細める。

「立場だと?」

 

「あなた方が『薔薇の剣』の団員ならば、交渉は成立します。しかし、そうでないなら、無駄話はしたくありません」

 

 張り詰めた沈黙。男は一瞬だけ口元を歪めたが、すぐに元の無表情に戻る。

「……俺たちは、お前たちが求めている組織の一部だ」

 

「その証明は?」

 

サーシャさんの問いに、男はわずかに眉をひそめた。

 

「証明だと?」

 

「ええ。私たちはこの情報を、正しく伝わる相手にのみ渡したいのです」

 サーシャさんは微笑すら見せず、静かに言った。

 

「あなた方が名乗るだけなら誰でもできます。しかし、本当に『薔薇の剣』の一員である証拠がなければ、私たちとしても命を危険に晒してまで交渉する価値があるか判断できません」

 

 男は舌打ちをし、隣の仲間と目を合わせる。彼らの間でわずかな視線のやり取りが交わされた。やがて、男はゆっくりと手を懐に入れ、小さな金属の紋章を取り出した。それは薔薇をかたどった意匠の施されたバッジだった。

 

「これが証拠になるか?」

 

 彼女はその細部を慎重に確認すると、ゆっくりと頷いた。

「…………本当のようですね」

 

 彼女の言葉に、男は鼻を鳴らす。

 

「当たり前だ」

 その言葉には若干の苛立ちが滲んでいた。まるで、自分の信用が疑われたこと自体が気に食わないとでも言いたげだった。

 僕は内心でほっとした。少なくとも、この場で大きな衝突は避けられたようだ。しかし、安心するのはまだ早い。この男が本当に信用できるかどうかは、まだ分からないのだから。

 

「では、話を進めましょう」

 僕の言葉に、男は腕を組み、改めてこちらを見据えた。その瞳は鋭く、ただの取引では済まないものを感じさせる。

 

「いいだろう。条件を聞こうか」

 

 サーシャさんは少し間をおいて、冷静な口調で口を開く。

「私たちが求めるのは、帝都の動き、そしてあなた達『薔薇の剣』が今、何をしようとしているのか」

 

 男は微動だにせず、彼女を見つめている。その表情からは感情を読み取ることができない。サーシャさんは続けた。

「そして、薬……『月の雫』を量産し、ばら撒いている迷惑者の身柄です」

 

 その瞬間、場の空気が張り詰めた。重苦しい沈黙が流れ、僕も思わず息を呑む。

 なぜ、サーシャさんはそんなものを求めるのだろう?『月の雫』の供給源を突き止めることは、この件の核心に迫ることでもある。しかし、彼女の口ぶりはそれ以上の何かを示唆していた。

 

「……なるほどな」

 

 男は腕を組んだまま、じっとサーシャさんを見つめる。その視線は先ほどよりもさらに鋭さを増している。警戒心がにじみ出ていた。

「帝都の動きと俺たちの目的……そして、『月の雫』の供給源、か」

 一拍置き、彼は低く続ける。

「前者はまぁいい……だが、なぜ『月の雫』の供給源を求める? 理由によっては、今ここで……」

 

 彼の言葉が終わる前に、サーシャさんはごく自然な笑みを浮かべた。

「あぁ、それは簡単ですよ」

 

 彼女は微笑を浮かべながら、静かにとんでもない爆弾を投下する。

「あなた達が『月の雫』と呼んでいる物……アレの開発者、私ですから」

 

 その一言が響いた瞬間、時間が止まったような気がした。

 男は一瞬、何を言われたのか理解できていないような表情を見せた。しかし、それが事実であると察すると、その顔つきがわずかに険しくなる。

 

「……どういうことだ?」

 

「そのままの意味ですよ」

 サーシャさんは、表情一つ変えずに続ける。

 

「私も迷惑に思っているんです。どこから漏れたのかは知りませんが、人の作った物を勝手に盗用して金儲けとは……虫唾が走りますね」

 その言葉には、冷ややかな怒りが込められていた。

 

「確か作成素材に、幻覚作用や多幸感をもたらす成分を持つものは含まれていますがね? 元々、アレは体内に入れることなんて想定して開発していません。そりゃ、色々と弊害が出るってもんですよ。それに、なにか改変もされているようですし」

 サーシャさんの声は淡々としていたが、その背後には強い意志が感じられた。

 

 僕は驚きを隠せなかった。『月の雫』の開発者が、まさかサーシャさん本人だったなんて……。

 

 それまで余裕を見せていたフードの男たちの表情が、一瞬にして険しく変わる。まるで張り詰めた糸が切れそうな瞬間のような、微かな緊張が空気を支配した。背後に控えていた仲間の一人が、思わず短く息を呑む音が静寂の中に響く。その音が、場に漂う圧迫感をより鮮明にした。

 

「……今、何て言った?」

 男の声が低く響く。静かでありながら、確かな殺気が混じっていた。まるで刃を突きつけられたような感覚が走り、空気がひやりと冷たくなる。

 

「ですから、開発者は私だと言いました」

 しかし、その張り詰めた空気の中でも、サーシャさんは微塵も動じず、淡々とした口調で繰り返した。それどころか、薄く笑みを浮かべすらいる。その余裕すら感じさせる態度に、男の表情がさらに険しくなった。まるで疑念と警戒心がないまぜになったような視線が、鋭く彼女に向けられる。

 

「……冗談にしては、笑えないな」

 男の声が低く唸る。背後の仲間たちも微かに身じろぎし、武器を手に取るべきか迷っているのがわかる。目の前にいる少女の言葉が本当ならば、それはとんでもない事態を意味する。彼らにとって『月の雫』は、単なる流通品ではなく、影の世界を動かす要の一つなのだから。

 

「ええ、冗談なんかじゃありませんよ。私はただ、自分が作ったものが間違った用途で使われているのが許せないだけです」

 サーシャさんはそう言って、椅子の背もたれに軽く身を預けた。悠然とした仕草は、まるでこの場を支配しているのは自分だとでも言うかのようだった。

 

「それに、『月の雫』という名前も気に入りません。私が作ったものと、似て非なる代物になってしまっている」

 サーシャさんの声には、冷ややかな怒りが滲んでいた。まるで、自分の意志を無視し、作品を勝手に歪められたことに対する職人の憤りのようだった。

 

「……本当か?」

 男の問いには、疑念と警戒、そしてほんのわずかな期待が混じっていた。その微かな揺らぎを感じ取ったのか、サーシャさんはゆっくりと目を細める。

 

「あなたたちにとって、真実を知ることに意味がありますか?」

 問い返すサーシャさんの声は、どこか挑発的ですらあった。男は短く息を吐き、苛立たしげに指をコツコツと机に打ち付ける。その音が場の沈黙をかき乱すが、それ以外に誰も口を開こうとはしない。

 

「……お前が開発者だとして、それなら何故ここにいる? 何のために俺たちに接触した?」

 男はサーシャさんを睨みつけながら問いかける。その目には、ただの脅しではない、本気の探求心が垣間見えた。

 

「言ったでしょう? 『月の雫』の供給源を探していると。私の知識が勝手に流用された挙げ句、不要な改変まで加えられている。そんなの、喧嘩を売られている様なものでしょう?」

 サーシャさんの声には冷たい怒りが滲んでいた。椅子に寄りかかったままの姿勢だったが、その目には鋭い光が宿っている。まるで全てを見透かしているかのような視線に、男は思わず喉を鳴らした。

 

 室内の空気が、一段と冷たくなった気がした。

 

「それに、元のレシピを知っている私なら、今流通しているものとの違いも分かる。ともすれば、中毒症状から脱せられる薬の開発も可能かもしれない……あなた方にとっても、悪い話ではないでしょう?」

 サーシャさんの言葉が静かに空間に染み渡る。しかし、それに対する反応は一瞬の沈黙だった。

 

 男は腕を組み直し、低く唸るように息を吐く。顎を軽く上げ、こちらを見据える視線には疑念が混じっていた。彼の背後では、仲間たちが目を見交わし、小さくささやき合っている。その場に漂う緊張は、静寂の中でじわじわと膨らんでいくようだった。

 

「……なるほどな」

 ようやく男が口を開いた。その声音には、単なる納得ではなく、慎重な探りの色が滲んでいる。まだ完全には信用していないが、それでも何かしらの興味は持ったようだった。

 

「いいだろう。お前の言葉が真実なら……協力する価値はあるかもしれない」

 そう言いながら、男はふっと笑う。しかしその笑みは決して和やかなものではなく、鋭く、そして冷たい警戒を孕んでいた。

 

「……だが、その前に一つ、確かめさせてもらう」

 彼が低く言い放つと、背後に控えていた仲間の一人がわずかに身じろいだ。その視線がサーシャさんへと向けられる。まるで獲物の真偽を見極める猛禽のように、男の目が鋭く光っていた。

 

「確かめる?」

 サーシャさんは眉一つ動かさず、静かに問い返した。まるで当然のことを聞かれたかのように、彼女の声音には余裕があった。

 

「本当にお前が『月の雫』の開発者なら、今ここで証明してみせろ」

 その言葉が放たれた瞬間、場の空気が一層張り詰めた。

 奥の席に座っていた別の男がわずかに身を乗り出す。彼の指が、無意識に机の縁を叩いている。まるでその言葉の真意を測るかのように、周囲の者たちの視線が一斉にサーシャさんへと注がれた。

 

「証明ですか…………今ここで作るというのは無理ですし、材料と作り方の手順でも示せばいいですかね?」

 サーシャさんは、椅子の背にもたれながら輜く首を傾げた。その表情は相変わらず淡々としており、彼女の余裕を崩すものは何もないようだった。

 

 男は腕を組み、しばらくの間じっとサーシャさんを見つめる。

 

「……手順を示すだけでいいかどうかは、こっちが決める」

 その低い声が、場に静かに響く。

 それでもサーシャさんは勘じなかった。むしろ、楽しむようにわずかに微笑みさえ浮かべる。

 

「なるほど、ならば簡単な質問をどうぞ。私が本物なら、正しい答えを返せるはずでしょう」

 

 彼女の言葉に、男の目がわずかに細められる。彼の指が再び付近の木製の机の端を輜いた。コツコツと不気味な音を繰り返した後、ゆっくりと口を開く。

 

「『月の雫』は、どうやって作られている」

 

「『月栄華』の樹液を基に作っています」

「その樹液に、『月糖』、『冥銀』の溶解液、『ロータスの実』の果汁、『ヒトの血液』……この場合は使用者の物、つまりは私のですね。を混ぜ込んで、魔力濃度の高い場所に十月十日程安置します。そして魔力をたっぷりと吸わせてやることで、『月の雫』の大本、『エーテル』が完成します」

「恐らくですが、『月の雫』は血液を入れずに最後の工程を省いた上で、追加で何か別の素材を投入していますね。『エーテル』ではありえない程に、魔力が含まれていなかったですし」

 サーシャさんはさらりと答えた。その瞬間、男の目がわずかに細まる。背後に立っていた仲間が、小さく恨んだのが聞こえた。

 

「……ほう」

 

「次の質問をどうぞ」

 サーシャさんは余裕の表情で促す。男はしばらく彼女を見つめ、それから再び口を開いた。

 

「……なら、ひとつ聞くが」

 男は腕を組み直し、慎重に言葉を選ぶように言った。その目は鋭く、まるでサーシャの内面を見透かそうとするかのようだった。

 

「『月の雫』……いや、『エーテル』の本来の用途はなんだ」面倒な質問ですね……まぁ良いでしょう不味くなったら改変すれば良いだけですし

 短く、しかし重い問いかけだった。周囲の男たちも息をひそめ、サーシャの口から出る答えを待っている。

 

 サーシャさんはわずかに目を細め、机の上に軽く指を滑らせる。わざと間を作るような仕草だったが、その表情は相変わらず揺るがない。

「もともとは、とある魔法の補助剤として作ったものです」

 

「というと?」

 男の眉がわずかに動いた。

 

「そのままの意味です。とある魔法を成功させるためだけに開発したんですよ」

 静かな言葉だったが、その響きには妙な確信があった。男は無意識に喉を鳴らし、わずかに身を乗り出す。

 

「…………いや、魔法は自身のイメージを基に、魔力を使って世界を改変する法だ」

「確かに、物……武具などを使って、イメージの補強を行うことはある。しかし、専用の溶液なんて作ったところで、イメージの補強になるとは思えない」

「なるべく単純な方がイメージは容易いからな」

 男の言葉には理論的な裏付けがあった。やはり、『薔薇の剣』は騎士団や宮廷魔法師団の一部なんていう話は本当だったのだろう。少なくとも魔法の基本は理解しているらしい。

 

 サーシャさんはふっと小さく笑う。まるで「そう思うのも無理はない」と言いたげな表情だった。

「いえ、『エーテル』はその為に作ったのではありません。そうですね……所謂、貯蔵庫の役割でしょうか」

 

「貯蔵庫……?」

 男が聞き返したその瞬間、サーシャさんの目がほんの僅かに鋭くなった。

 

「そう、貯蔵庫」

「…………その魔法の行使のためには、少なくとも10万人を干からびさせてもなお足りないくらいの魔力が必要だったんですよね」

 その言葉が放たれた瞬間、場の空気が一変した。背後に控えていた男の一人が、思わず息を呑む音が響く。別の男は僅かに身を引いた。椅子に腰掛けていた男も、指先で机を叩く動きを止めた。

 

「……10万人を干からびさせても足りない、だと?」

 男の声が低くなる。先ほどまでの慎重な探りの色に、今度は純粋な警戒と困惑が混じっていた。

 

「ええ、それくらいの魔力が必要な魔法だったんです」

 サーシャさんは相変わらず落ち着いている。むしろ、この反応を楽しんでいるようにさえ見えた。

 

「でも、そんな膨大な魔力を一個人が賄うなんて不可能ですよね? 魔法にイメージは重要です。ですが、いくら精巧なイメージを出来ていても、燃料となる魔力が無ければ世界の改変……すなわち、魔法を使う事は出来ない」

「だからこそ、『エーテル』が必要だったんです」

 

沈黙。

男たちは互いに視線を交わすが、誰一人として言葉を発しない。場には緊迫した静寂が広がる。

 

「……おい、それはどういう意味だ」

 男の口調には、焦りと不信が滲んでいた。サーシャさんは微笑を崩さない。

 

「単純な話ですよ」

 彼女は椅子の背にもたれ、ゆったりと足を組み直す。その姿は、完全にこの場を支配している者のそれだった。

 

「『エーテル』は、膨大な魔力を蓄え、必要な時に一気に解放できるよう設計された、ただそれだけの物なんです」

 

 再び沈黙。

 男は腕を組み、視線を落として考え込む。指先が再び机の縁をゆっくりと叩き始めたが、そのリズムは先ほどよりも微妙に乱れていた。

 

「…………お前の話が本当なら、『月の雫』はもともと薬物ですらなかったと」

 絞り出すような声だった。その事実を飲み込むのに時間がかかっているのが明白だった。

 

「ええ、まったく別物ですね」

 サーシャさんは軽くため息をつく。その表情には、どこか呆れたような色さえ浮かんでいた。

 

「先ほども言いましたが、手順を省いて適当な成分を加えれば、魔力を蓄えるどころか、体に悪影響を及ぼすのは当然です」

 サーシャさんは淡々とした口調で言いながら、テーブルを指先で円を書くようになぞる。その仕草には余裕があり、どこか皮肉めいた雰囲気すら漂っている。

 

「そもそも、材料自体がお世辞にも人体に良い物であるとは言えません」

 男たちは黙って聞いていたが、その表情には微かな緊張が滲んでいた。サーシャさんはそれを意に介さず、指を折るようにして一つずつ材料を挙げていく。

 

「『月糖』は強力な幻覚作用を持つ上、脳機能を麻痺させる危険性があります。『冥銀』は摂取すれば酩酊作用を受けられますが、有毒」

 彼女の言葉に、テーブルの向こうで短く息を呑む音がした。

 

「そして、『ロータスの実』は多幸感をもたらしますが、中毒性は随一。……自分で言うのもなんですが、よくこの材料を使おうと思いましたね、私」

 そう言ってサーシャさんは、まるで他人事のように肩をすくめた。その軽い調子とは裏腹に、場の空気は一段と重くなる。

 

「恐らくですが作り手……いや、改造した人間は、完全に金儲け目的でやったのでしょう」

 サーシャさんは目を細め、わずかに唇の端を持ち上げる。

 

「このラインナップだけ見たら、最強の麻薬そのものですもん」

 

 何度目かの沈黙が落ちる。

 

 男は無言のまま、僅かに顎を引く。背後の仲間と視線を交わし、短く頷いた。その仕草だけで、彼らの間で何らかの意思疎通があったことがわかる。

 

「……」

静かな時間が流れる。

やがて、男はゆっくりと口を開いた。

 

「いいだろう」

 その声は低く、慎重だった。

 

「お前の話がどこまで真実かは、まだわからない……が、確かめる価値はありそうだ」

 彼はテーブルに肘をつき、重く続ける。

 

「俺たち『薔薇の剣』は、最近になって『月の雫』の流通に不審な点が多いと感じていた。関わる組織が増えすぎていて、どこが供給元なのかも曖昧になってる」

 

「つまり?」

 サーシャさんが静かに問い返す。

 

 男は指で机を軽く叩きながら、思案するように視線を落とす。

「お前がその“元凶”を探しているなら、俺たちの目的である帝都の健全化とも一致する。情報を交換するとしよう」

 

 それを聞いたサーシャさんは、ゆっくりと微笑んだ。

 

「話が早くて助かります」

 穏やかな声色だったが、その瞳には鋭い光が宿っていた。

 

「それでは、そちらが掴んでいる情報を聞かせていただけますか?」

 

 男は短く息を吐き、僅かに眉を寄せる。

 

「……最近になって、『月の雫』は異様な広がりを見せている」

 彼は低い声で続けた。

 

「流通経路が増えすぎていて、誰が本当の供給元なのか見えなくなってるんだ。だが、ある一点だけ共通していることがある」

 

「一点?」

 サーシャさんが問い返すと、男は鋭い視線を向け、確信を持った口調で言い放った。

 

「どのルートも必ずここ、《ステム》を経由してる」

 言葉が落ちた瞬間、室内の空気が微かに揺らいだ。

 

「まぁ、当たり前だがな」

 男は皮肉めいた笑みを浮かべながら、肩をすくめる。

 

「帝都は陸の……いや、空の孤島だ。文字通り」

 

 サーシャさんは静かに聞いている。その沈黙に男はわずかに目を細めた。

 

「そして、そこへの経路はここにしかない。……恐らく、飛花(ひか)区の衛兵連中と結託して帝都に運んでいるのだろう」

「帝都に運ばれる荷物は厳重に検査されるからな。とてもじゃないが、衛兵連中の助けなしで持ち込めるとは思えん」

 

「聞いていた通り、治安を維持する者達まで、『月の雫』に手を染めているようですね」

 サーシャさんが静かに言うと、男は僅かに眉を上げた。

 

「……そこまで掴んでいたか」

 

「ええ、色々と調べる手段はありますので」

 サーシャさんは淡々とした口調のまま、指先でグラスの縁をなぞる。その仕草には焦りも戸惑いもない。ただ、男たちの反応を観察しているようだった。

 

 男は静かに息を吐くと、視線をわずかに動かす。

「……まぁいい、続きを話そう」

 

 彼は再びテーブルに肘をつき、低く言葉を紡ぐ。

「ここを通る経路なら、必ず俺たちの監視網に引っかかる。その経路で帝都に来るやつらを片っ端から調べてるが……最近になって妙なことがわかった」

 

サーシャさんは微かに目を細める。

 

「妙?」

 彼女は首を傾げた。

 

 男は短く息を吐くと、慎重に言葉を選ぶようにして続ける。

「……『月の雫』を売り捌いている連中の中に、あろうことか衛兵までもが混じっている」

 

 その言葉に、サーシャさんは小さく目を見開いた。

「へぇ……衛兵も、ですか」

 

「そうだ。まぁ憲兵の汚職など今に始まった事ではないが、これは流石に行き過ぎている。連中は線引きを見極められる程度の知能はあった……だから、現状はどう考えてもおかしいと言わざる負えない」

 男の声には、わずかに苦々しさが滲んでいる。

 

「しかも、その衛兵たちは『月の雫』を帝都に運び込んだ後、必ず姿を消している」

 

 サーシャさんの指が、一瞬だけ止まる。

「……なるほど」

 

 彼女の目がすっと細まり、思考を巡らせているのが見て取れた。

 

 男はテーブルに指を置き、低く続ける。

「そして、最近になって、『月の雫』の流通量が増えている……以前までは帝都の貴族連中か、一部の衛兵や官吏だけだったのが、最近では市民にまで広まっている」

 

 彼は言葉を切り、一度深く息を吸い込むと、視線を鋭くした。

 サーシャさんは考え込むように目を伏せる。

 

「……市民にまで、ですか」

 その呟きには、わずかながら驚きと警戒の色が滲んでいた。

 

「そうだ」

 男は短く頷き、低く続ける。

 

「最近では露天商の間でも噂になっている。粗悪な模造品も出回っているようだが、それでも広まりすぎている」

 

「模造品……ねぇ」

 サーシャさんは机を指先でなぞりながら、小さく息を吐く。

 

「何者かが供給量を増やすために、本来の製法とは違う形で……まぁ『月の雫』自体、本来の製法から外れた粗悪品ではあるのですが……作っている可能性がある、ということですね」

 彼女の推測に、男は小さく頷いた。

 

「あぁ」

 だが、その顔にはまだ何か言いたげな表情が残っている。

 

 サーシャさんはすかさず察し、問いかけた。

「まだ何か?」

 

 男は少し声を低くして言った。

「ここ最近、地下水路の労働者達が次々と行方をくらましている」

 

 その言葉に、場の空気が僅かに沈む。

 

「衛兵連中は必死に隠蔽してるみたいだがな、人の口に戸は立てられない。労働者の間は、その噂でもちきりだ」

 

 サーシャさんの眉がわずかに動く。

「……失踪」

 

 彼女の静かな声が、沈黙の空間に落ちる。

 男はゆっくりとグラスを傾け、酒を一口飲んだ。氷がカランと小さく音を立てる。

 

「ああ。まるで、なにか不味いものを見たみたいにな」

 その言葉の意味を考え、僕は無意識に喉を鳴らした。――目撃者。何者かが、地下水路の労働者たちを"消して"いる。理由はわからないが、彼らが何かを見てしまった可能性は高い。

 

その場の空気が、僅かに冷えた。

 

 サーシャさんが軽く目を伏せ、思案するように呟く。

「確か、七つある水門。その前で取引が行われているのですよね。でしたら、不幸にもその現場を見てしまったのでしょうね」

 

 彼女の声には憐れみもなければ、動揺もない。ただ、静かに事実を分析する冷静な響きがあっる。

 男は静かに頷き言う。

「そう考えるのが自然だろう……」

 

 ふと、男の目が僕たちを見つめる。

「そういえば、お前たちはもうそこまで掴んでいたのだったな。なら、次の取引は……」

 

 彼が言いかけた瞬間、僕たち三人の声が重なった。

「「「明日の深夜、『ハムシュ』の水門」」」

 

 彼は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにニヤリと笑い、グラスの中の酒を揺らした。氷が再び小さく鳴る。

 

「話が早くて助かる」

 彼の低い笑い声が、静寂の中に響いた。先ほどまでの探るような視線は和らぎ、どこか興味を惹かれたような雰囲気に変わっていた。

 

「……さて、お前たちはどう動く?」

 

 迷いはなかった。僕は即座に口を開く。

「もちろん、直接確かめます。『ハムシュ』の水門で何が行われているのか。そして、流通の核心を掴むためにも」

 

 真実を知るには、現場に踏み込むしかない。それがどれほど危険だとしても。

 

「えぇ……その通りです」

 サーシャさんは微笑みながらも、その瞳は鋭く光を宿していた。冗談や軽い気持ちで挑むつもりは毛頭ない。彼女もまた、覚悟を決めていた。

 

 男は、そんな僕たちの様子を観察するように見つめたあと、面白そうに肩をすくめた。

「いいだろう。我々『薔薇の剣』も手を貸そう。……ここに、協力関係は成された」

 

 彼はグラスを片手に持ちながら、ゆっくりと名乗る。

「俺の名はオルトラン。オルトラン・スミチオンという」

「よろしく頼むよ、協力者殿」

 

 サーシャさんが穏やかに応じ、僕も軽く頷く。こうして、『ハムシュ』の水門の取引に潜入する計画が動き出した。




月栄華…九月~十月の深夜にのみ花を咲かせる植物。月光を浴びることでゆっくりと開花し、夜明けとともに閉じる。花弁は淡い銀色または青白い輝きを持ち、幻想的な美しさを誇る事で有名。開花すると甘美な香りを放ち、近くにいる者の意識を微かに揺らす作用がある。
その茎をすり潰すことで得られる樹液は、魔力を溜め込む性質があり適切な時期に採取すると高い薬効を持つが、過ぎると効果は失われる。

月糖…月光が溶け込んだ海水を吸い上げたサトウキビから精製され、月光を受けると青白く光り輝く性質がある。また、魔力を溜め込みやすい。強力な幻覚作用を持ち、使用者に強烈な幻想を見せると同時に、脳機能を麻痺させる危険性がある。一部の国では禁制品に指定される。

冥銀…一部地域からのみ産出される黒紫色の稀少鉱石。魔力を溜め込む性質があり、主に粉末状にして使用される。少量の摂取で陶酔感を得られ、意識が浮遊するような感覚を味わう事が出来る。だが、過剰摂取や長期使用により、中毒症状や身体機能の低下、内臓へのダメージを引き起こす。最終的には神経が侵され、幻覚・精神錯乱・死に至ることもある。一部の国では禁制品に指定される。

ロータスの実…とある島にのみ自生する、ロタースと呼ばれる樹木が土壌から魔力を取り込む事で実をつける。ロータスの実は淡い金色や白銀色を帯びた小さな蓮の実に似た形状で、乾燥させると甘い香りを放つ。
摂取すると即座に幸福感に包まれ、あらゆる苦痛や不安を忘れられる。しかし、常用すると現実世界への関心を失い、最終的には何もかも放棄する状態に陥る。そして中毒者は、摂取し続けないと激しい禁断症状(錯乱、幻覚、衰弱)に苦しむ事となる。そして依存度が極めて高いため、使用者のほとんどは廃人化する。全ての国において禁制品に指定されている。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。