不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版 作:ゴリラ
オルトランさん達『薔薇の剣』との協力関係が成立した後、僕たちは宿へと戻ることにした。夜の《飛花区》は静まり返り、路地裏には酔い潰れた男たちや、薄暗い灯りの下で囁き合う商人たちの姿がちらほらと見える。遠くでは、帝都へと向かう飛行船のエンジン音が微かに響いていた。
僕たちが泊まっている宿は《飛花区》の外れにある、小さな三階建ての建物だった。外観はそこまで綺麗とは言えないが、最低限の清潔さは保たれており、人目につきにくいのが利点だった。
宿に入ると、受付の老主人が目を細めながら僕たちを見上げた。
「おかえりなさい。どうですか、この街は?」
老主人の低く掠れた声に、僕は少し肩をすくめた。
「まぁ……相変わらずですね」
曖昧な返事をすると、老主人は鼻を鳴らし「でしょうなぁ」とだけ言った。彼は余計な詮索をしない。ここが《飛花区》の宿である以上、客の事情に深入りしないのが暗黙の了解なのだろう。
「たしか……208室でしたかね」
「はい」
サーシャさんが穏やかに微笑みながら答えると、老主人は鍵を手渡してきた。カウンターの上に置かれた鍵を拾い上げながら、僕たちはそのまま階段へ向かう。
宿の中はしんと静まり返り、廊下に置かれた蝋燭の灯りがかすかに揺れていた。他の客の気配はほとんどなく、軋む木の床だけが僅かに音を立てる。
三階にある僕たちの部屋に入ると、少し湿った空気が鼻をかすめた。二つの木製ベッドと、小さな机、壁際の棚。それだけの簡素な部屋だったが、最低限の安心は得られる場所だった。
サーシャさんは窓際へ歩み寄り、慎重にカーテンの隙間から外を覗いた。
「やはり、《飛花》に宿をとって正解でしたね」
「静かですし、治安も…………まぁステムの中では比較的マシと言っても良い部類ですし」
僕はベッドの縁に腰掛けながら、少し肩をすくめる。ステム全体の治安が悪いことを考えれば、《飛花区》はまだ穏やかな方だ。商人や職人が多く暮らしているため、最低限の秩序は保たれているし、帝都との交易拠点でもある以上、あまりに無法地帯にはならない。とはいえ、裏では違法な取引や密輸が横行しているのも事実だった。
「油断はできないけどね」
僕の言葉に、サーシャさんは頷く。
「そうですね。ここはまだ安全ですが、問題は明日の深夜……『ハムシュ』の門で何が起こるかです」
そう言いながら、彼女は机の上に地図を広げた。古びた羊皮紙に、ステムの地下水路の構造が描かれている。僕たちはこれまでに集めた情報を元に、水門周辺の出入り口や隠れられそうな場所を確認した。
「ここが『ハムシュ』の水門……そして、このルートが水路を経由して抜けられる通路ですね」
サーシャさんが細い指で示したのは、水門のすぐ近くにある脇道だった。
「問題は、この通路がどれほど安全か、か」
僕は地図を覗き込みながら呟く。公式の地図には載っていないルートだが、労働者たちの間では知られている抜け道らしい。しかし、最近の失踪事件を考えれば、そこも本当に安全かどうかは分からない。
「……やっぱり、一度昼のうちに下見をしておいた方がいいんじゃないかな」
「ええ。昼なら人目も多いですし、不審者と思われにくいでしょう」
サーシャさんは頷きながら、さらに何かを書き込んでいく。
僕は小手を取り出し、具合を確かめる。いざというときのために、装備は万全にしておくべきだろう。
「じゃあ、明日は昼に下見をして、深夜が本番ってことでいいかな」
「それで良いかと。では……今日はもう休みましょうか」
サーシャさんはそう言うと、窓のカーテンをしっかり閉め、机の上の灯りを少し落とした。
「明日は長い一日になりそうですから」
その言葉に、僕は小さく息をつきながらベッドに横たわる。
外では、遠くの飛行船の音が微かに響いていた。
明日は、重要な一日になる――そんな予感がしていた。
◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、僕たちは早めに宿を出た。
外に出ると、昨夜とは違い、《飛花区》の通りには活気が戻っていた。店先で品物を並べる商人、道端で立ち話をする職人たち。帝都行きの飛行船が停泊する港の方からは、荷物を運ぶ男たちの掛け声が響いている。
朝の冷えた空気の中を歩きながら、僕たちは『ハムシュ』の門へと向かうための下見を行う為、地下水路へと向かう。
「この地図の抜け道を使えば、取引現場の近くまでたどり着けるはずですが……」
サーシャさんが手にした地図を指でなぞる。オルトランさんから聞いた情報では、地下水路には公式の通路とは別に、労働者たちが利用する隠し通路があるらしい。それを使えば、人目を避けながら接近できるというわけだ。
「でも、最近の失踪事件を考えると、僕たちがその抜け道を使うのも危険かもしれない」
「ええ。だからこそ、まずは昼のうちに確認しましょう」
僕たちは慎重に、地下水路へと続く入口を探した。
いくつかの路地を抜け、《飛花区》の外れにある小さな広場へとたどり着く。そこには古びた石造りの井戸があり、その脇に、地面へと続く鉄の扉が埋め込まれていた。
「ここですね」
サーシャさんが扉の取っ手に手をかける。鍵はかかっておらず、錆びついた音を立てながら、ゆっくりと開いた。
中から、ひんやりとした湿った空気が流れてくる。
僕たちは互いに頷き合い、慎重に足を踏み入れた。
石造りの階段を下りると、そこには薄暗い通路が広がっていた。天井にはところどころ小さな採光窓があり、かろうじて昼間の光が差し込んでいる。だが、奥へ進むにつれ、その光も次第に薄れ、闇が深まっていった。
「……足元に気をつけてください」
サーシャさんが小さな魔法の光を灯す。その蒼白い輝きが壁を照らし、古びたレンガや苔むした床が浮かび上がった。
僕たちは静かに進みながら、周囲の様子を観察する。暗がりの中、壁に滲む水の跡や苔むした石畳がぼんやりと見える。時折、水面にぽちゃん、と雫が落ちる音が響くたびに、静寂がわずかに揺らぐ。それでも、特に問題はなさそうだった。
「そういえばサーシャさん」
僕はふと疑問を口にする。
「なんですか?」
サーシャさんがこちらを振り返りながら問い返す。水路の薄暗い明かりに照らされた彼女の横顔は、どこか考え込むような表情をしていた。
「皇帝は、なんで帝都の……国の現状を放置しているのかな」
「首都である帝都に薬物が蔓延しているなんて、一大事でしょ? 普通なら、国を挙げて対処に乗り出るべき事案だ」
自分で言っていても、おかしな話だと感じる。帝国の中枢にいる者たちは、この事態に本当に気づいていないのか、それとも見て見ぬふりをしているのか。
サーシャさんは歩みを止めた。僕もつられるように立ち止まる。微かな風が水路の奥から吹き抜け、冷たさを肌に残していく。
地下水路に響くのは、遠くで滴る水音と、僕たちの静かな呼吸だけだった。
「そういえば、帝国王家の話をしたことはありませんでしたね」
サーシャさんの声はいつもより静かだった。
「現皇帝、サクリ・ローズディアは、まだ十にも成っていない子供です」
「……え?」
一瞬、理解が追いつかなかった。
思わず、足を止める。硬い石畳の上で靴底がわずかに滑る感触がした。
十歳にも?まさか、この巨大な帝国を統べる皇帝がそんな幼い子供だなんて。
「そんなの……どう考えても、実権を握ってるのは別の誰かじゃないか」
驚きと戸惑いを隠せず、そう呟く。
「ええ、その通りです」
サーシャさんは静かに頷いた。その表情には、淡々とした落ち着きがあったが、どこか哀れむような色も混じっているように見えた。
「皇帝に即位するのは十五を過ぎた者のみ。明確に決まっているわけではありませんが、そう言った暗黙の了解と言う物はあります。ですが、先帝グラハム・ローズディアとその皇后であるメリナ・ローズディアが急死し、確か……当時まだ5歳くらいでしたかね? のサクリ陛下が繰り上げで帝位を継承しました」
サーシャさんの言葉は、ゆっくりと地下の冷えた空気に溶けていく。
「急死……?」
その言葉が、やけに重く響いた。
この帝国を導いていた先帝と皇后が、揃って急死。それも、幼い子供が帝位を継がなければならないほどの突然の出来事。
「まぁ表向きは病死ということになっていますがね、真相は不明です」
サーシャさんの声は冷静だったが、その目の奥には鋭い光が宿っていた。
地下水路の薄暗がりが、さらに陰を濃くしたように感じる。湿った空気が肌にまとわりつき、どこか遠くで水滴が落ちる音が響いていた。まるでこの場所そのものが、帝国の暗部を象徴しているかのようだった。
サーシャさんの声は淡々としていたが、その瞳はどこか冷たく光っていた。
「現在、帝国の実権を握っているのは、先帝の弟……つまりは現皇帝の叔父である、アフィド・ローズディアです」
「皇帝の叔父?」
「ええ。アフィド・ローズディアは、グラハム先帝の弟にあたる人物です。彼は元々、宮廷内でさほど影響力を持つ立場ではありませんでした。しかし、先帝と皇后が相次いで亡くなったことで状況が一変しました」
サーシャさんの声には、冷えた緊張感が滲んでいた。
「サクリ陛下が即位した当初は、しばらくの間、宰相であるギルバート・パラチオンが摂政を務めていました。ですが、大体四年前くらいでしょうか。アフィド公が突如として新たな摂政の座に就いたのです」
「……なんか、きな臭いね」
「当然です」
サーシャさんは水路の闇を一瞥し、低く囁いた。水の流れる音がわずかに変わる。壁の隙間から滴り落ちる雫が、細い水流を作っているのが見えた。地下にいるせいか、気温もわずかに下がったように感じる。
「私は諸事情でここ数年の帝国の情勢……というより世界情勢はあまり詳しくありません。ですがそんな私でも知っているくらい、帝国の政策は大きく変わりました」
「アフィド公は……なんと言いましょうか、帝国第一主義者として有名な人物でした」
「帝国第一主義……?」
僕はサーシャさんの言葉を反芻しながら、眉をひそめた。
「帝国の繁栄こそが至上であり、そのためには他国を圧迫するのも厭わない。そういった考え方です」
サーシャさんは冷静に説明を続ける。水路の壁に影が揺れ、まるで誰かがそこに潜んでいるかのようだった。僕は思わず背筋を伸ばす。
「先帝の時代、帝国は比較的穏健な政策を取っていました。対外的にも融和を重視し、国内では貴族と平民の格差を少しずつ是正しようとしていた。しかし、アフィド公が実権を握ると、それらの方針は一変しました」
「どう変わったの?」
「貴族派の権限が強化され、軍事力の増強が進められました」
サーシャさんの言葉に、僕は唾を飲み込んだ。地下水路の静寂が、妙に重く感じる。
「これでは、先々帝と同じ……いえ、それよりも酷いと言わざる負えません」
サーシャさんは静かにため息をつく。その表情は、いつになく硬かった。
「先々帝の時と同じ……」
僕はその言葉を反花するように噛みしめる。水路の潮膨で生まれた清水が、迷うように天井に射されている。そのゆらめきに覚える気持ち悪さは、今ここで取り上げられている帝国の現状と一緒だった。
「サーシャさん、先々帝って?」
「今の皇帝降下の祖父、カルディナル・ローズディアのことです。彼の時代、帝国はまさに膨張の一途を跡っていました。」
サーシャさんの声は静かに、しかし磨き上げた鋼のような冷たさを含んでいた。
「軍事力による他国の圧迫と支配を繰り返し、帝国領土は無理矢理に拡大していきました。ただし、その強引な政策はやがて帝国の内外に大きな軸重を生み出し、朝後には各地で反乱が頻発しました。」
近くに溜まっていた水泥がドロリと音をたてて、黒い汚水の流れに流れていく。まるで、帝国が象徴するような悲悪な光景だった。
「そんな状況を立て直したのが、先帝…サクリ降下の父親ってこと?」
「ええ、グラハム・ローズディアは、父の代で生まれた混乱を収め、対話による安定を目指しました。しかし、彼と皇后が突然亡くなったことで、その方針は途終えてしまった。」
「その結果が、今の帝国の混乱ってわけか…」
僕は脫力感とも、いらだちとも付かない感情で唇をかみしめた。
「軍拠と貴族の権力強化……結局、帝国はまた同じ道を跡ってると…」
「ですが、今回はさらに悪い状況かもしれませんね。」
サーシャさんの声には、わずかな苦悩と怒りが含まれていた。
「表向きは『帝国のさらなる繁栄』を掲げていますが、実際には帝国の権力者たちが利益を独占し、民衆の生活はどんどん悪化しています。かつての栄華を取り戻すどころか、腐敗と混乱が広がるばかりです」
サーシャさんの声は淡々としていたが、その言葉が落とす影は重かった。地下水路の空気は湿っていて冷たい。壁面に染みついた苔の匂いが鼻をつき、遠くから滴る水音が単調なリズムを刻んでいる。そんな静寂の中、サーシャさんの低い声だけが響いた。
「……なら、この薬物流通も、そのアフィド公の仕業だったり……?」
僕は足元の水たまりを避けながら、慎重に言葉を選んだ。
「可能性は十分にあります。少なくとも、放置されているのは確かですね」
サーシャさんは立ち止まり、ゆっくりと周囲を見回す。その目は鋭く光り、まるで闇の奥に潜む何かを探るようだった。
「……帝国の中枢が、薬物の流通を黙認どころか、意図的に広めている?」
僕は思わず呆れた声を漏らした。こんな馬鹿げた話があるだろうか。だが、サーシャさんの真剣な表情を見れば、それが単なる陰謀論ではないことが分かる。
「そんなことをして、何の得があるの?」
「それを突き止めるのも、私たちの目的の一つでしょう?」
サーシャさんは静かに言いながら、水路の先を見据えた。狭い通路は続いているが、その先に何があるのかは分からない。ただ、暗闇の向こうに待ち受けるものがあるのは確かだった。
「あの薬物は人を堕落させ、支配しやすくする道具になり得ます。そして、帝国の混乱が深まれば深まるほど、真に権力を握る者は、より自由に動けるようになるでしょう」
彼女の言葉が水面に落ちる石のように、静かに僕の胸に沈んでいく。
「……つまり、帝国そのものを弱らせて、一部の権力者だけが生き残るように仕組んでる?」
そう考えると、全てが繋がってくる気がした。腐敗した貴族たちは、自分たちの富と権力を守るために、意図的に民衆を苦しめているのではないか。そう思うと、胃の奥が重くなった。
「ええ。そのために裏社会と結託し、ステムのような場所を利用している……という可能性もありますね。まぁ今の所、本当の目的は分かりませんし、そもそも、『アフィド・ローズディア』と薬を広めている『ロザエ・アウラカスピス』とやらが=である確証もありませんから」
サーシャさんはそう言って肩をすくめる。だが、彼女の目は少しも油断していなかった。
「まあ何はともあれ、それらを解き明かすには黒幕を追うのが最も早いでしょう」
サーシャさんは静かに息をつきながら、歩みを再開する。その背中からは、どこか冷たい決意のようなものが滲み出ていた。
「そして、そうする為に私たちは《ハムシュの門》での取引を見届ける必要があります」
「……そうだね」
遠くで、水滴が落ちる音が響く。静寂に包まれた地下水路は、ますます闇を濃くしていく。その暗がりの中、僕たちは慎重に足を進めた。
カルディナル・ローズディア…ローズディア帝国 第六百六十四代目 皇帝。
軍事力による圧迫と侵略を繰り返し、強引な領土拡大を推し進めたが、その苛烈な政策は帝国の内外に深刻な軋轢を生み、各地で反乱を招いた。やがて、当時の宮廷魔法師団の団長によるクーデターが勃発。これを鎮圧することには成功したものの、それが決定打となり、息子グラハム・ローズディアに見限られ、ついには幽閉される。そして孤独のうちにその生涯を閉じる事となった。
即位時 25歳、晩年 68歳。
グラハム・ローズディア…ローズディア帝国 第六百六十五代目 皇帝。
対外的には融和を重視し、国内では貴族と平民の格差を是正すべく改革を進め、父カルディナル・ローズディアが生み出した混乱の収束に尽力した。その統治は帝国民や諸外国から高く評価され、賢帝と称えられた。しかし、在位わずか十年にも満たずして病により急死することとなる。
即位時 19歳、晩年 28歳。
サクリ・ローズディア…ローズディア帝国 第六百六十六代目 皇帝。父グラハム・ローズディアと母メリナ・ローズディアの急死に伴い、わずか5歳で帝位を継承。帝国史上最年少の皇帝となるが、幼さゆえに政務を執ることはできず、実権は叔父であるアフィド・ローズディアが摂政として掌握している。
即位時 5歳、現在 9歳。
アフィド・ローズディア…ローズディア帝国 摂政。
元は宮廷内でさほど影響力を持たない立場であったが、幼帝サクリ・ローズディアの即位に伴い、実権を掌握する。帝国第一主義者として知られており、実権を掌握したのち、貴族派の権限を強化するとともに、軍事力の増強を推し進め、先帝とは真逆と言っても良い政策を推し進めている。