不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版   作:ゴリラ

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地下水路の取引

 しばらくして、僕たちは目的地にたどり着いた。

 《ハムシュの水門》。

 静まり返る地下水路の中で、そこだけが異様な存在感を放っていた。巨大な石造りの水門がそびえ立ち、年月を感じさせる湿気を帯びた苔が壁面にこびりついている。石の表面には細かな亀裂が走り、水の流れに削られた痕跡が無数に刻まれていた。

 足元の石畳も湿っており、一歩踏み出すごとに靴の裏がじわりと水を吸い込む感覚があった。天井は高く、闇に溶け込むように続いている。ぼんやりとした燭光が壁に取り付けられた燭台から揺れ、地下特有の冷たい空気に細く揺らめく。

 

「……ここですね」

 サーシャさんが低く呟いた。

 

 水門の前には、朽ちかけた木箱や樽が無造作に積み重ねられている。木材は湿気を吸って黒ずみ、一部は腐っているのか、角が崩れ落ちていた。樽の中身は空なのか、それとも何かが詰まっているのかは分からない。

 

 壁際には、何者かが通ったような痕跡がある。泥のついた靴跡がいくつも重なり合い、乾くことのない石畳に薄く滲んでいた。

 

 遠くで、水が滴る音が響く。

 

「……ここまでの道で、特に不審な所はなかったよね」

 僕は慎重に辺りを見回しながら言った。

 

「ふむ……てっきり、何かしらの罠みたいなものは仕掛けられていると踏んでいたのですが……」

 サーシャさんは軽く顎に手を当て、思案するように呟いた。

 

「当てが外れましたかね」

 

 水路沿いの足場は狭く、注意しなければ足を滑らせてしまいそうだった。水面は黒く沈み、奥深くまで続く暗闇が、底の見えない恐怖を煽る。もし落ちれば、この地下のどこへ流されるかも分からない。

 

  ここで《月の雫》の取引が行われるのなら、それなりに人の出入りがあるはずなのに、目立った痕跡は見当たらない。

 

 ひんやりとした湿気が肌にまとわりつき、壁際の苔からは土臭い匂いが漂ってくる。天井からは時折、冷たい水滴がぽたぽたと落ち、静寂の中でわずかな音を響かせていた。水路の流れは緩やかで、時折、小さな波紋を広げながら足元の石畳を濡らしていく。

 

 サーシャさんが微かに眉を寄せた。

 

「何か、変ですね」

 彼女の声はいつもより少し低く、慎重さを滲ませていた。

 

「何がですか?」

 僕は警戒しながら周囲を見回す。

 

「この場所、本当に《月の雫》の取引に使われているのでしょうか?」

 彼女の言葉に、僕は目を瞬かせた。

 

「え?」

 彼女の視線を追う。

 

「確かにここは地下水路の奥まった場所で、人目につきにくい。しかし、取引の場にしては不自然に荒れ果てすぎています。足跡もほとんどないし、物資の運び出しをした形跡もないようです」

 

 言われてみれば、確かにそうだった。

 

 水門の周囲には、荷物を運び込んだり、出入りを繰り返したりしたような痕跡がまるでない。壁には長年放置されたかのような苔がびっしりと張りつき、床の石畳の隙間には水垢と泥がこびりついている。もし頻繁に人が行き来しているなら、もっと足跡が残っていたり、地面が踏み固められていたりしてもいいはずなのに、それがない。

 

「……確かに」

 僕は壁に手を当て、そっと撫でた。湿った石の感触。その隙間にはびっしりと苔が生い茂り、長い間手入れされていないことが一目でわかる。

 

 ここで取引が行われているはずなのに、まるで長い間誰も足を踏み入れていないかのような静けさ。

 

「でも、ここが取引場所だっていうのは確かなんだよね?」

 

「ええ……けれど、それは“本当に”ここなのでしょうか」

 サーシャさんの言葉に、僕は違和感を覚えた。

 

「まさか……あの山賊が、嘘を吐いた?」

 

「……いえ、あの山賊の言葉は確かに真実でした。それに、『薔薇の剣』の者達も同様の情報を掴んでいた様ですし……」

 

 サーシャさんは目を細め、慎重に辺りを見回す。

 

「もしかして、あの山賊は嘘の情報を真実として伝えられていた? でも、それをする意味は一体……」

 

 考えを巡らせるうちに、ふとある考えが浮かんだ。

「……もしかしたら、情報を錯乱させる意図があったのかも」

 

 サーシャさんが僕の言葉に反応して、ちらりとこちらを見た。

 

「例えば、この場所を調べに来た者に“ここには何もない”と思わせるため、とか」

 

「ですが、それならもっと分かりやすく廃墟にするなり、他の用途で使うなりしそうですが……」

 

「……ただ、何かを隠している可能性はある……かも?」

 

 僕たちは顔を見合わせる。

 

「どうする?」

 サーシャさんに問いかける。

 

「……ひとまず、慎重に調べてみましょう。何か見落としているかもしれません」

 サーシャさんは腰から短剣をそっと抜き、足音を殺しながら水門の周囲を歩き始める。暗がりの中で、鋭い眼光がまるで獲物を探す狩人のように動いていた。

 

 僕も彼女の後に続き、慎重に足元を確認しながら進む。石畳の上に散らばる小さな瓦礫を踏まないように気をつけながら、一歩ずつ足を運ぶ。壁には長年の湿気でできた黒ずみが広がり、まるで何かが染みついたように不気味な影を作っていた。

 

 ふと、壁の一部に違和感を覚える。他の部分と比べて、妙に苔が少ない。それどころか、その部分だけ微かに擦れたような跡が残っている。まるで、誰かが何度もそこに触れたかのように。

 長年手入れされていないはずの地下水路の壁に、こんな跡が残っているのは不自然だった。湿気の多いこの場所では、手を触れていない限り苔やカビが広がるのが普通のはずだ。

 

 僕は息を整え、そっと手をかざす。そして、指先で慎重になぞるように撫でた。

 ひんやりとした感触。だが、他の部分と違って妙に乾いている。湿気を含んだ石壁とは違い、そこだけが異質な存在感を放っていた。

 

「……サーシャさん、ここ」

 僕は小声で囁きながら、指差した。

 

 サーシャさんもすぐに目を細め、壁のその部分を注意深く観察する。そして、そっと手を伸ばし、指先で確かめるように押してみた。

 

 カチリ

 鈍い音が響き、壁の一部がわずかに沈み込む。

 

「……隠し扉?」

 思わず、息を呑む。

 

「そうみたいですね」

 

 僕たちは互いに視線を交わし、息をひそめたまま身構えた。

 次の瞬間――

 ギィ……

 

 長年動かされていなかったかのような、鈍く重い軋み音とともに、石壁がゆっくりと横にスライドしていく。

 開いていく隙間から、ひんやりとした空気が流れ込んできた。だが、それに混じっていたのは、生温かく湿った風――まるで地下にこもった瘴気のような、じっとりと肌にまとわりつくような感触だった。そして、鼻を刺す甘い香り。

 僕は思わず顔をしかめ、咄嗟に袖で鼻を覆った。この香り……どこかで嗅いだことがある。だが、すぐには思い出せない。ただ、本能的に嫌悪感を覚えた。

 

 サーシャさんも眉を寄せ、静かに扉の奥を見つめている。

 

 開いた隙間の向こうには、闇が広がっていた。

 壁に取り付けられていたはずの灯りはなく、僅かな光さえも飲み込むほどの深い暗闇が広がっている。その奥へと続く道がどこに繋がっているのか、まるで見当がつかない。ただ、一つだけ確かなのは――この空間は、明らかに何者かが管理している。

 それだけは確かだと確信できた。

 

 僕達は2、3歩ほど足を踏み出し、覗き込むように奥を見る。闇の向こうから吹き出してくる空気は、地下水路のものとは明らかに異なっていた。湿ってはいるが、よどんでいるというよりも、むしろ何かしらの活動があるような……生きているかのような気配を感じる。

 

 この場所は、今もなお使われている。

 

 サーシャさんはしばらく奥を見つめた後、低い声で言った。

「……どうやら、本当の取引場所はこの先のようですね」

 

 彼女は腰の短剣をそっと握り直し、表情を引き締める。

 

「しかし、ちょっとした下見だけのつもりが、想定外の成果ですね……さて、どうしましょうか? 一旦上に戻って、『薔薇の剣』と合流した後にまた来ましょうか?」

 

 僕は開かれた扉の奥を見つめながら、無意識のうちに息を呑んでいた。

 この甘い香りが、何を意味するのか。この先に何があるのか。

 

 答えを知るには、一歩踏み込めばいい。だが、その一歩があまりにも危険に思えた。

 僕たちはたった二人。相手の戦力がどの程度かもわからない。万が一、この先に誰かが潜んでいたら――

 

 不意に、闇の奥から何かが動いたような気がした。

 気のせいかもしれない。だが、背筋を冷たいものが駆け抜ける。

 

「……一度戻るのが賢明、かな」

 僕は小さく息を吐きながら、サーシャさんを見た。

 

「僕たちだけで深入りするのはリスクが大きすぎる」

 

 サーシャさんも、数秒の間思案するように沈黙した後、静かに頷いた。

「……そうですね。今の段階では情報が少なすぎますし、この奥に何があるのかわからない。無闇に動くのは得策ではありません」

 

 その言葉に、僕も小さく頷く。

 

 開かれた隠し扉の奥には、依然として濃密な暗闇が広がっていた。甘く妖しい香りが漂い続け、皮膚の表面にじわりとまとわりつくような不快な湿気が立ち込めている。まるで、この先へ進むことを誘惑するかのような――あるいは、油断した者を捕らえ、二度と外へ出さないかのような気配さえ感じられた。

 やはり、一度引いた方がいい。

 

 サーシャさんが小さく息を吐き、慎重に後退しようとした――その時だった。

 

ギィ……

 何の前触れもなく、隠し扉がゆっくりと閉まり始めた。

 

「……っ、戻ります!」

 サーシャさんが素早く声を上げる。

 

「はい!」

 僕も反射的に応えた。

 

 扉は静かに――しかし確実に、閉じようとしている。

 動きは決して速くはない。だが、確実に閉まるという強い意志を持っているかのように、ゆっくりとした軋み音を響かせながら、隙間を狭めていく。

 

 何かに誘い込まれたかのような寒気が背筋を這い上がる。

 

 このまま扉の中に留まっていたら──閉じ込められる!

 僕たちは躊躇なく飛び出した。

 

バタン!

 

 鈍い音を立て、石壁が元の位置に戻る。ほんの数秒前までそこに存在していた暗闇への入口は、今や完全に消え去っていた。

 まるで、最初から何もなかったかのように。

 

「危なかった……」

 息を整えながら、僕は震える声で言った。

 

「ええ。もしもっと中に踏み込んでいたら、閉じ込められていたかもしれません」

 サーシャさんも表情を引き締め、隠し扉があったはずの壁を見つめる。

 

 慎重に手を伸ばし、石壁の表面を指先でなぞる。しかし、先ほどの開閉の痕跡はどこにも残っていなかった。まるで、最初から扉など存在しなかったかのように。

 

 僕たちは顔を見合わせ、小さく息を吐く。

 やはり、ここは危険だ。

 

「急いで上に戻りましょう」

 サーシャさんの声には、普段の冷静さの中に、わずかに緊張の色が滲んでいた。

 

「はい」

 僕も即答する。

 

 足元の石畳が湿っているせいで滑りやすく、慎重に歩を進めなければならなかったが、それでも僕たちは足早に《ハムシュの水門》を後にした。

 ――これが、ただの幸運だったのか。それとも、誰かがこちらの動きを察知し、意図的に仕掛けたものなのか。

 

 その答えを知るのは、そう遠くはないだろう。背後の石壁を振り返ると、そこにはただの苔むした壁があるだけだった。

 しかし――本当に何もないのか?

 背中に、じっと見つめられているような気配がこびりついて離れなかった。

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 昨日決めた集合場所に向かうと、すでにそこにはオルトランさん達《薔薇の剣》の面々が集まっていた。

 夜の闇の中、灯されたランタンの仄かな光が彼らの影を揺らめかせている。周囲はひっそりと静まり返り、遠くから聞こえる喧騒すら、どこか現実感のないものに思えた。

 この場に集まった者たちは、何かしらの答えを求め、そして危険を察知している。それが、ただの勘ではなく、確信に近いものであることを、僕も肌で感じていた。

 

 「来たか」

 オルトランさんが腕を組みながら待っていた。その厳しい視線が、こちらに向けられる。彼の隣には、他の団員たちも控えていた。それぞれが警戒を怠らず、背後や周囲の動きに神経を張り巡らせているのが伝わってくる。まるで戦場にいるかのような張り詰めた空気に、自然と背筋が伸びた。

 

「……あの後、何もなかったか?」

 オルトランさんの低い声が、夜の静寂に溶け込むように響く。

 

「はい。ですが、今日の昼に少し目ぼしい情報を入手しました。そちらは?」

 僕の言葉に、彼は軽く眉を上げる。

 

「こちらも、あの会合の後は特に問題は起こらなかった。そして、いくつか新しい情報を手に入れた」

 そう言うと、オルトランさんはふっと視線を流し、一呼吸置いた。

 

「そうだな……まずは、そちらの話を聞かせてもらおう」

 促されるまま、僕たちは《ハムシュの水門》での出来事を話した。

 ――取引場所としては不自然なほど荒れ果てていたこと。

 ――隠し扉の奥から甘い香りが漂っていたこと。

 ――そして、何の前触れもなく勝手に閉まった扉のこと。

 一つ一つの出来事を思い返しながら話すうちに、再びあのときの不気味な空気が蘇ってくる。隠し扉の奥の闇、皮膚にまとわりつく湿った空気、扉が閉まる直前に感じた得体の知れない気配。どれもが、ただの偶然とは思えなかった。

 

 話し終えると、オルトランさんはしばし黙考し、それから小さく息をついた。

 

「……やはり、か」

 低く唸るような声とともに、彼は腕を組み直す。

 

「やはり?」

 サーシャさんが問いかけると、彼はわずかに視線を上げ、まるで確かめるように僕たちの顔を見渡した。

 

「取引が行われているはずなのに、実際の現場を目撃した者は居ない……これはまぁ、別に不思議ではないだろう。そもそも、そうそう見つからないように取引を行うだろうし、仮に見られても目撃者を消すはずだ。それに、昨日も話したように、実際に行方不明になった者達も居る事だしな」

 オルトランさんの声には、確信めいたものがあった。

 

「……だが、それだけじゃない」

 彼はさらに腕を組み直し、鋭い視線を僕たちに向ける。

 

 「俺たちもこれまでに何度か、《月の雫》の取引現場を探ろうとしてきた。だが、情報を頼りに現場へ向かっても、お前たちが見たように、そこには何の痕跡もなかったことが何度もある。まるで、最初から何も存在しなかったかのようにな」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の背中に冷たい汗が伝うのを感じた。

 

 まるで、僕たちが体験したことをそのまま語られたような感覚だった。

 確かに、《ハムシュの水門》の隠し扉の奥には、何かがあった。甘い香り、閉ざされた空間――間違いなく、何かが。しかし、僕たちが立ち去った後、あそこに何かの痕跡が残るのだろうか?

 

「……やはり、偽の取引場所を作っている?」

 僕の言葉に、オルトランさんはゆっくりと頷いた。

 

「可能性は高い。実際の取引場所を特定されないよう、意図的に囮の情報を流し、調べに来た者に“ここには何もない”と思わせる……あるいは、下手に近づけば罠にかかるように仕組まれているか」

 

「なら、昼のあの扉も……?」

 思わず言葉を飲み込む。

 

「その可能性はある。扉が勝手に閉じたのが偶然だったとは思えん」

 オルトランさんは少しだけ目を細め、慎重に言葉を選ぶように続けた。

 

「現場を押さえようとした者を閉じ込めて、袋にする……みたいな、な」

 その言葉に、僕はぞっとするような悪寒を覚えた。もし、僕たちがあと少しでも奥に踏み込んでいたら――

 完全に閉じ込められ、逃げ場を失っていたかもしれない。暗い石壁の中で、甘い香りに包まれながら、ただ静かに閉ざされた空間に取り残される。外に助けを求めても、分厚い壁が声を吸い込み、誰の耳にも届かない。そして、誰にも気づかれないまま、消えていただろう。

 その可能性が、決して低くなかったことを思い知る。僕は無意識のうちに拳を握りしめていた。あのとき、サーシャさんが扉の異変に気づいていなければ、僕たちは本当に――

 

「……それなら、本当の取引場所はどこにあるのでしょう?」

 沈黙を破ったのはサーシャさんだった。彼女の声は静かだが、その奥に鋭い警戒心が滲んでいる。彼女もまた、あの異様な状況を肌で感じ取っていたのだろう。

 

 オルトランさんは低く唸った。

「それを突き止めるのが俺たちの仕事だ。だが、少なくともお前たちの情報で、一つ確実に分かったことがある」

 

「分かったこと?」

 僕が尋ねると、オルトランさんは仲間の一人に視線を向ける。その男は無言で頷き、懐から小瓶を取り出した。

 

「こいつは《立枯区》で手に入れたものだ。とある闇商人が隠し持っていた」

 小瓶の中で、青白い液体がわずかに揺れる。男が蓋を取り瓶を軽く振ると、ふわりと甘い香りが広がった。

 

 ――この香り……。

 僕は反射的に息を呑んだ。思い出すまでもない。あの扉の中で、確かにこの香りを嗅いだ。

 

「……この匂い、あの扉の中で嗅いだ……」

 呟くと、オルトランさんが静かに頷いた。

 

「こいつこそが、今俺たちが追っている《月の雫》そのものだ」

 僕は思わず小瓶を見つめる。 光を受けてゆらめくその液体は、まるで冷たい月の光を閉じ込めたようだった。そして、それは確かに、あの扉の奥で感じたものと同じ――いや、さらに遡れば、あのアッカンたち山賊の廃村で見つけた、《月の雫》もそんな香りを発していた。

 

「実際に行ってその香りを嗅いだお前らが言うのなら、まぁ間違いないだろう」

 オルトランさんが低く呟く。

 

「……あの扉の奥は、《月の雫》の取引現場兼、保管場所……もしくは、それに類する場所ということですか」

 サーシャさんの問いに、オルトランさんは短く頷いた。

 

「そうだろうな」

 そして、彼は腕を組みながら続けた。

 

「今まで《月の雫》の取引は、《ステム》の地下水路で行われていると考えられていた。実際に“売買”はそこで行われている。だが、保管がどこで行われているのかは、はっきりとは分かっていなかった」

 その言葉に、僕は息を詰める。

 

「……そして、私たちはその場所の一つを偶然見つけた、ということですか」

 サーシャさんの声は淡々としていたが、内心の緊張は僕と同じはずだ。

 

「その可能性は高い」

 オルトランさんは再び頷いたが、すぐに険しい顔になった。

 

「だが、もしあそこが《月の雫》の保管場所だとしたら、警戒は厳重なはずだ。むしろ、お前たちが無事に出られたことのほうが不思議なくらいだな」

 確かに――。僕たちが中に入ったとき、誰もいなかった。でも、それが逆に不自然だった。

 

「もしかして、あそこは既に使われていないとか?」

 僕の推測に、オルトランさんはきっぱりと首を振った。

 

「それは考えにくい」

 

「……それは何故?」

 

「お前たちが感じた甘い香り、それに扉が勝手に閉じたこと……あれは、まさに“誰かが来た”もしくは“居た”証拠だろう。それに《月の雫》は香りは強いが、そんなに長くは残らない。という事は、まだそこに《月の雫》の現物がある可能性がある。つまり、お前たちが踏み込んだのは“現役の拠点”である可能性が高い」

 オルトランさんの言葉に、僕は思わず息を呑んだ。

 “現役の拠点”である可能性が高い――。つまり、あの場所にはまだ《月の雫》が保管されていて、そこを管理している誰かが、確かにいたということだ。

 

「……そんなに長くは残らない、ってどういうことですか?」

 僕は気になって尋ねた。甘い香りなら、一度広がればしばらくは残りそうな気がする。

 

「《月の雫》は香りは強いが、時間が経つと薄れる。特に、あの地下水路のような湿度の高い場所では、揮発しやすいんだ」

 オルトランさんはそう説明すると、手の甲で鼻をこすった。

 

「だからこそ、お前たちがあそこで香りを感じたのは、比較的最近まで誰かが《月の雫》を扱っていた証拠になる。そして、あの扉が勝手に閉まったということは――」

 彼は意味ありげに言葉を切った。

 

「誰かが、そこにいたか、あるいは……お前たちが来たことに気づいて、逃げた可能性もある」

 

「……っ!」

 その可能性を考えた瞬間、背中に冷たい汗が流れた。 確かに、あの時は不自然なほど静かだった。でも、それは単に誰もいなかったのではなく、僕たちの接近を察知して、気配を消していたのかもしれない――。

 もし、僕たちがもう少し奥へと踏み込んでいたら? もし、逃げたのではなく、逆に待ち伏せされていたら?

 喉がひどく渇く。知らないうちに、僕たちはとんでもなく危険な場所に足を踏み入れていたのかもしれない。

 

「……それなら」

 声が震えないように、気を引き締める。オルトランさんを始め、仲間たちの視線が僕に向いた。

 

「なら、今度はしっかり準備して、確実に証拠を掴むべきですね」

 

 オルトランさんは薄く笑った。だが、その笑みにはどこか鋭さがある。 まるで、獲物を狙う猛禽のように。

 

「その通りだ」

 彼の言葉が響いた瞬間、場の空気が変わった。張り詰めた緊張感が広がり、まるで戦場に立つ直前の兵士のように、誰もが無言で気を引き締める。

 

 ――もう、後戻りはできない。

 

 僕は深く息を吸い込んだ。 心臓の鼓動が速くなる。指先がかすかに冷たくなり、緊張が肌を刺すようだった。 でも、それでも僕は立ち止まらない。

 この闇の核心に迫るために。

 

「やっぱり、《ハムシュの水門》での取引を狙うんですか?」

 自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。

 

「そうだ。他の日程は掴めていない以上、ここで仕掛ける他にない」

 オルトランさんは鋭い眼光を走らせながら、低く言った。

 

「だが、お前たちが昼間に嗅いだ香り……つまり、《月の雫》が保管されている場所を突き止めた以上、連中は警戒を強めているだろう」

 そう言いながら、小瓶の中で揺れる青白い液体を一瞥する。 瓶の中の光は淡く、それでいてどこか冷たい輝きを放っていた。

 

「連中が取引場所を変更する可能性は?」

 

「それは無いだろうな」

 オルトランさんは断言した。

 

「拠点が割れたのは昼。そして、取引は深夜。どう考えても場所を変更する時間も余裕もない。しかし、その分警備は厳重になってるだろうが……逆に言えば、奴らの頭数を大きくそぎ落とすチャンスでもある」

 確かに、取引の場を今さら変えるのは難しいはずだ。でも、相手も馬鹿ではない。何らかの対策を取ることは十分に考えられる。

 僕は拳をぎゅっと握った。

 

「……つまり、今夜が勝負ってことですね」

 オルトランさんは満足げに頷く。

 

「その通りだ」

 彼の声は冷静で、迷いがなかった。 それがかえって、これから起こる事態の深刻さを際立たせる。

 

「作戦は?」

 

「基本は奇襲だが、敵の警備次第では臨機応変に動く。お前たちにも、当然働いてもらう」

 オルトランさんの視線が鋭くなる。

 

「そして、特にお前」

 その言葉と共に、彼の目がサーシャさんを捉えた。

 

「……私ですか?」

 サーシャさんは少し眉をひそめる。

 

「ああ。俺はこれでも人を見る目は有ってな。お前、かなり強いだろう。少なくとも、魔法の腕前は俺よりも遥かに上だ」

 

 サーシャさんはわずかに目を伏せた。そして、静かに息を吐き、短く頷く。

「……えぇ、分かりました」

 

 その瞳には迷いがなかった。

 

「よし、それじゃあ準備を整えろ。すぐに動くぞ」

 オルトランさんの号令と共に、場の空気が一層引き締まる。それぞれが武器や装備を確かめ、静かに戦いの準備を整えていく。

 僕は緊張と共に、息を整えた。 これまで流されるままだった。 自分が何をすべきかも分からず、ただ状況に巻き込まれるだけだった。

 

 でも、今度こそ違う。

 この世界で何が起きているのか。そして、自分が何をするべきなのか。それを、しっかり見極めるために――。

 

「……行きましょう」

 サーシャさんも静かに呟く。 その声には、どこか覚悟の色が滲んでいた。

 

 夜の闇が、静かにステムを覆い始める。紫紺の空には雲が流れ、月明かりが時折陰るたびに、街の影が揺らめいた。

 街は静かだった。昼間の喧騒は遠く、細い路地を吹き抜ける風だけが、時折寂しげな音を奏でている。だが、この静寂の裏で、確かに何かが動いているのを感じた。

 この夜が終わる頃、何が変わっているのだろうか。そんなことを考えながら、僕は深く息を吸い込んだ。

 今度こそ、この闇の核心に迫るために。

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 深夜の地下水路は、昼間とはまるで違う顔を見せていた。

 湿った石畳の上に微かに霧が立ちこめ、薄暗い空間の中で水路は静寂に包まれている。聞こえるのは、水が壁を伝いながら流れるかすかな音と、遠くに残る街の喧騒の名残だけだった。人の気配はまるでなく、空気そのものが沈み込んでいるような静けさが広がっている。

 石造りのアーチが連なる水路は、長年の湿気に晒されて苔むしており、ほのかにカビ臭さが混じっている。天井にぶら下がる朽ちたランプは、すでにその役目を果たしておらず、唯一の光源は、壁の隙間から僅かに差し込む帝都の灯りだけだった。それも、地下に届く頃にはほとんど力を失い、ぼんやりとした薄明かりとなって水面に揺らめいている。

 

「奇襲をするとのことですし、簡単な隠密向けの魔法をかけておきましょうか」

 サーシャの静かな声が、ひんやりとした空間に響く。彼女は軽く息を整えると、しなやかに手を前に翳し、低く詠唱を始めた。

 

包み隠せ(オブスクラーティオ・ウェルム)

 その言葉が紡がれると同時に、空気が微かに揺らめく。次の瞬間、周囲に淡い銀の光が走り、それが霧となってゆっくりと広がり始めた。霧はまるで意思を持っているかのように、僕たちの足元を這いながら、すぐにあたりを包み込む。

 霧の中に入ると、外の音が不思議なほど遠く感じられた。水の流れる音も、足音も、衣擦れの微かな気配すらも、霧の外には一切漏れていない。視界は相変わらずはっきりとしているが、きっと外から見れば、ここには誰もいないようにしか見えないはずだ。

 

「これは、月系統の幻惑魔法の一種です」

 サーシャが、いつもより少し落ち着いた声で説明する。その瞳は魔法の効果を確かめるように、霧の広がりをじっと見つめていた。

 

「霧の外からは、姿も音も、臭いすらも感じ取ることができなくなります。もっとも、感知系の魔法を使われれば気付かれる可能性はありますが……」

 

「十分すぎるほどだ。これで奇襲の成功率がぐっと上がるだろう」

 オルトランが腕を組みながら、霧の向こうに視線を送る。その表情には満足げな色が浮かんでいた。だが、それと同時に油断なく周囲を警戒している。彼は戦いの場を幾度となく潜り抜けてきた男だ。その経験が、こうした些細な状況にも反映されているのだろう。

 

「ただし、霧の中に敵が入ってきたら、こちらも隠れることはできません。接近された場合は、すぐに対応できるようにしてください」

 サーシャが念押しするように言う。その言葉には、奇襲の成否は紙一重だという慎重さが滲んでいた。

 

「ああ、了解した」

 オルトランは短く応じると、霧の外へと意識を向ける。そして、手首に巻きつけていた簡素な革の腕時計をちらりと確認した。

 

「……そろそろ時間だな」

 彼の低い声が響いた瞬間、場の空気がぴんと張り詰めた。まるで戦場に立つ前の兵士たちのように、僕たちは静かに身構える。

 

 地下水路の奥から、僅かに足音が響いてきた。

 規則正しく、迷いのない歩調。誰かがためらうことなく、この暗がりの中へ踏み込んでくる。反響する音の具合からして、足音はひとつではない。複数人の気配があった。闇に溶け込む霧の中で、息を潜める。

 ひんやりとした湿気が肌にまとわりつき、緊張に支配された時間がじわじわと流れる。水の流れる音が、どこか遠くの出来事のように感じられた。

 

 やがて、霧の向こうにぼんやりと影が浮かび上がった。最初に見えたのは二つの人影。続いて、さらに三つ、四つ……いや、それ以上か。ゆっくりと水路沿いを進む彼らの動きには警戒の色があった。ただの通行人ではない。彼らは、ここに来る目的を持っている。

 取引の品を抱えた者、その護衛、そして周囲を監視する役目の者――。それぞれの動きが、場慣れした者たちのものだと告げている。

 

 オルトランさんが低く囁いた。

「十人ほどか……想定より少し多いな」

 

 霧の中でも、彼の声音には微かな緊張が滲む。

 

「問題は?」

 簡潔な問い。

 

「奇襲の成否を分ける要素が増えた。それだけのことだ」

 短い会話の後、オルトランさんは微かに手を上げ、他の仲間へと合図を送る。影の中で微かな動きが生まれ、剣を抜く音が静かに響いた。その刃は、湿気に濡れた空気を切り裂くような冷たい音を立てる。辺りの気配が、次第に鋭く研ぎ澄まされていく。

 

 標的は、まだ霧の中の存在に気付いていない。

 彼らは取引の場へ向かっている。今、この瞬間も、警戒を怠っているわけではないのだろう。それでも、まさか霧の帳の向こうに、己の命を狙う者たちが潜んでいるとは思ってもいまい。

 

 あと数歩。一歩、また一歩と、彼らは罠の中へと足を踏み入れていく。

 

「……いいか。合図と同時に仕掛けるぞ」

 囁く声に、僕達は静かに頷く。霧の中からは相手の姿がはっきりと見えているが、向こうにはこちらの気配すら届かない。狩る側と狩られる側――。その立場は、すでに決まっていた。

 

 そして――

 

「今だ――!」

 オルトランさんの鋭い声が、静寂を切り裂いた。

 

飛び立ち、穿て(ヤクラーティオ・グラディイ)

 低く響く詠唱。次の瞬間、霧の中から鋭い剣が生み出された。銀の輝きが刹那、空中を舞い、風を裂きながら一直線に標的へと向かう。

 

「……っ、な、何……」

 短い悲鳴が上がる。

 剣は容赦なく標的を穿ち、最前列にいた者たちの首を跳ね飛ばした。血が霧に散る。膝から崩れ落ちる音が、重く響いた。

 

「魔法か!? くそ、伏せろ!」

 残った者たちが混乱の中で叫び、反射的に武器を抜く。しかし、すでに形勢は決していた。

 

束縛せよ(リガティオ・アクアティカ)

 今度は、水の魔法が放たれた。水路の流れが、一瞬だけ不自然に渦を巻き、水面に波紋が広がる。そして次の瞬間――そこから無数の水の鎖が生み出された。

 

「なっ……!」

 鋭く伸びた水の鎖は、意志を持つかのように敵の足を絡め取る。抵抗する間もなく、それは容赦なく彼らの体を締め上げ、水路へと引きずり込んでいった。

 

「ちっ……! 逃げ――」

 逃げようとした者が叫ぶ。

 

打ち付けよ(ラーピス・ミッシリス)

 詠唱が終わると同時に、霧の帳を突き破るように無数の石礫が飛翔した。

 

「ぐっ……!!」

 鋭い石の破片が、防具の隙間を狙うように食い込む。鋭い衝撃が全身を打ち、逃げようとしていた者たちが膝をついた。血の匂いが、湿った空気に混じる。

 

 戦いの流れは、完全にこちらのものだった。

 

「制圧しろ! 無力化優先だ!」

 オルトランさんが即座に指示を飛ばす。その声には、一切の迷いもなかった。『薔薇の剣』の団員たちは次々と動き出す。僕も、自身に強化魔法を掛けて共に動く。倒れた者の動きを封じ、まだ抵抗しようとする者には追撃を加える。金属がぶつかり合う音、短い呻き声――しかし、すべてが短時間のうちに収束していった。

 霧の中には、すでにこちらを脅かす者はいない。静寂が戻ったこの場には、倒れた影がいくつも横たわっている。

 水路の流れは何事もなかったかのように、ただ静かに続いていた。

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