不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版   作:ゴリラ

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地下水路の取引②

 沈黙の中、誰かが短く息を吐いた。戦いが終わったことを、ようやく実感したのだろう。

 霧はまだ水路の上に薄く漂い、視界をぼんやりと曇らせている。水気を帯びた冷たい空気の中に、わずかに鉄の匂いが混じる。倒れた者たちの血が暗い水面へと流れ込み、ゆっくりと赤い筋を広げながら、静かに下流へと流されていった。

 

 オルトランさんは剣を軽く払うと、辺りを見渡しながら冷静な声で命じる。

「生存者を確認しろ。死んだ奴はそのままでいい」

 

 乾いた指示が響くと、『薔薇の剣』の者たちは即座に動き出した。誰も無駄な言葉は発しない。死体をひっくり返し、脈を確かめ、拘束すべき者とそうでない者を素早く選別していく。戦場における手慣れた動きだった。

 

「こっちはまだ息がある!」

 低く発せられた声に続いて、別の場所からも報告が上がる。

「こいつも生きてるが、重傷だな……」

「それは良い。止め刺しておけ」

「抵抗する気配なし。縄くれ縄」

 

 生き残った敵の手首を背後で縛り、足を折り曲げさせて動きを封じる。呻き声や荒い息遣いが、霧の奥から微かに響いてくるが、もはやこちらを脅かすものではない。彼らに再び剣を振るう力はないし、たとえあったとしても、それを行使する気力はとうに削がれている。

 

 オルトランさんは短く頷くと、目を細めて周囲を見渡した。

「……取引の品を探せ」

 

 この襲撃の目的は、単なる敵の掃討ではない。彼らが持っている《月の雫》の確保が最優先事項だった。

  『薔薇の剣』の者たちは指示を受けると、すぐさま探索に移った。 湿った石畳の上を素早く動きながら、荷車を片端から調べ、積まれた木箱を一つずつ手際よく開けていく。蓋をこじ開けるたび、軋むような音が水路の静寂に響いた。

 中に詰められているのは、金属製の食器や布束、干し肉や塩漬けの魚、交易品らしい香辛料の小袋……どれもありふれたものばかりで、目当ての品ではない。一部の木箱には衣類や陶器が詰められていたが、それらも慎重に確認し、問題がなければ放り出されていく。

 辺りに漂う湿気と血の匂いに交じって、木箱の中から香るスパイスの香りが妙に際立っていた。だが、それを気に留める者はいない。ただ、静かに、着実に探索が進められる。

 そんな中、倒れた商人らしき男の懐を探っていた団員の一人が、手を止めた。 指先に硬い小瓶の感触を確かめたのか、小さく息を呑む音がする。

 

 そして、次の瞬間――

 

「……あったぞ!」

 その声が響いた瞬間、全員の視線がそこに集まる。

 

 団員が慎重に取り出したのは、月の光を閉じ込めたように淡く輝く小瓶だった。瓶の中では、銀色の液体が揺らめいている。光の加減によっては、わずかに青みを帯びた光沢が表面を滑るように広がった。

 オルトランさんは瓶を受け取り、低く呟く。

「間違いないな……」

 僕たちの間に、安堵と緊張の入り混じった空気が流れた。だが、これで終わりではない。

 

「よし。もっと探せ! これだけのはずがない」

 オルトランさんの指示で、探索はさらに続く。

 団員たちは敵の荷物を開き、倒れた者たちの懐を探り、荷車の底や壁際の影にまで目を光らせる。木箱を蹴り飛ばして動かし、隠し場所を疑いながら、一つずつ丁寧に調べていく。

 

 そして次々と見つかる小瓶。

 

「こっちにもあったぞ! ……10ダース以上は確実だな」 

「あったぞ! …………15ダースくらいか? 凄まじいな……」

「こっちにも!」

「こっちも見つけたぞ!」

 数え上げる声が重なり、報告のたびに空気が僅かに張り詰めていく。計算すれば、300本を優に超える《月の雫》がここにあることになる。

 

「……随分と大きな取引だったようだな」

 オルトランの口元がわずかに歪む。もしこの取引が無事に終わっていれば、この膨大な量の《月の雫》は一体どこへ流れていたのか――想像するだけで背筋が寒くなる。

 『ステム』の闇へ? 帝都へ? それとも、まだ見ぬ別の場所へ?考えたくもない。

 

 その時、ふと水の流れる音に混じって、かすかな足音が聞こえた。

 石畳を踏みしめる、湿った音。それは、敵のうめき声とも、仲間の足音とも違う、異質なものだった。

 

「………」

 オルトランさんは素早く手を挙げ、全員の動きを止める。

 『薔薇の剣』たちは瞬時に警戒態勢に入り、それぞれ武器を握り直した。身体の向きを変え、周囲へ意識を集中させる。その場の空気が、鋭い刃のように張り詰めた。それに遅れて、僕も警戒態勢に入る。息を整えながら、じわりと手のひらに汗が滲むのを感じた。

 

 霧の向こうから、ゆっくりと近づいてくる気配。敵か、それとも――?

 じわじわと、緊張が場を支配していく。

 霧の奥から響く足音は、焦ることなく一定の間隔を保っていた。ゆっくりと、しかし確実にこちらへと近づいてくる。

 ただの浮浪者が彷徨っているだけ、そんな可能性もある。だが、この場にいる誰もが、それを甘い考えだと理解していた。

 

 水路の天井から滴る水の音さえ、大きく感じるほどの静寂の中――その影が現れた。

 

 まず見えたのは、深い色の外套だった。闇に溶け込むような黒に近い布地。水路の湿気を吸い、わずかに重たげに揺れている。男の歩みは乱れがなく、霧の中からゆらりと浮かび上がるように姿を見せる。

 次に目に入ったのは、その腰元だ。二振りの細身で軽そうな剣。それぞれ鞘に収められていたが、どちらもすぐに抜けるような位置に括られていた。

 そして外套の奥に隠れた顔の輪郭が、霧の向こうからゆっくりと露わになる。

 男だった。年齢は三十代前後だろうか。ぼさぼさの黒髪が額にかかり、影を作っている。その瞳は虚ろで、まるで夢の中を歩いているように焦点が定まっていない。しかし、その表情には明確な意思が宿っていた。口元には薄く笑みを浮かべており、それがえも言えぬ不気味さを醸し出している。

 

 この場にいる誰一人として、彼をただの通りすがりとは思わなかった。霧の中に立つその姿は、何か得体の知れないものを感じさせる。そして、僕たちは本能的に悟るこの男は、ただ者ではない、と。

 

 オルトランさんが目を細め、低く問いかける。

「……何者だ」

「こいつらの仲間か? もしそうならば、今すぐ腰の剣をこちらに投げ渡し、両手を頭の後ろに組んで膝を付け。……抵抗しないのであれば、悪いようにはしない」

 

 男は立ち止まり、ゆっくりと手を掲げる。それは、敵意がないことを示す仕草だった。だが、それが信用に値するかは別の話だ。

 男はじっとこちらを見つめる。霧が彼の輪郭をぼやかし、表情を読み取るのが難しい。

 

「…………」

 男は何も答えない。霧の中、ただ微動だにせず佇んでいた。その沈黙が、かえって異様な緊張を生む。

 戦場において、言葉を発しない相手ほど不気味なものはない。

 

 オルトランさんはさらに鋭く問いただす。

「もう一度聞く。何者だ」

「もしこいつらの仲間なのであれば、今すぐ腰の剣をこちらに投げ渡して、両手を頭の後ろに組んで、ゆっくり膝を付け」

 

 それでも男は口を開かない。薄い笑みを浮かべたまま、まるでこちらを値踏みするかのように静かに立っている。

 

 ――異様だ。

 

 敵意があるのか、それともただの狂人なのか。この場にいる誰もが、ただならぬものを感じ取っていた。

 

「オルトランさん……こいつ、普通じゃない」

 僕は無意識のうちにそう呟いていた。

 

 オルトランさんは男を睨みつけながら、小さく頷く。

「………あぁ」

 

 男の様子は、この場に馴染んでいなかった。

 戦闘があったばかりのこの場所に、何の警戒もなく近づいてきたこと。それでいて、まるで幽霊のように静かにそこに立っていること。その全てが、違和感の塊だった。

 そして――

 

「…………全ては、ロザエ様の御意志の為に」

 男がそう呟く。

 言葉の響きに、奇妙な冷たさがあった。まるで何かに取り憑かれたかのような、淡々とした口調。

 そして、男はゆっくりと腰に付けられた二本の剣を抜き放つ。

 鋼が霧の中で鈍く光り、殺気が広がる。

 それは、雷鳴が轟く直前のような、空気を裂く感覚だった。

 

 オルトランさんが叫ぶ。

「っ……来るぞ!!」

 しかし、その言葉よりも早く――男が疾走した。

 足音が石畳を打ち、霧を切り裂くように一直線に駆ける。

 その動きには迷いがなかった。それは、刹那の判断を必要とする実戦を幾度も経験してきた者のそれだった。

 二本の剣が、まるで翼のように広がり、閃光のような鋭い軌跡を描いて、『薔薇の剣』の一人に向かって振り下ろされた。そして刃が落ちる、その瞬間――

「止まれ」

 サーシャさんの静かな声が響く。その声が、男の動きを一瞬だけ止めた。

 足が、腕が、わずかに硬直する。まるで時間の流れが引き延ばされたように、一瞬の間が生まれる。しかし、男はすぐに動きを取り戻した。

 二本の剣を振り下ろす。

 

「――ッ!」

 団員は咄嗟に身を引いた。その肩先を鋭い刃がかすめ、血が飛ぶ。男の動きはまだまだ止まらない。剣を振り抜いた勢いのまま、次の動作へと移る。

 それは、研ぎ澄まされた剣技だった。流れる水のように無駄がなく、淀みがない。剣が交差し、鋭い風切り音が響いた。

 

「…………魔法の効きが弱い。ダメですね、これは」

「まぁ血液操作もそうですけど、雑魚狩り専用みたいな所ありますしね……さて、どうしましょうか」

 

「こいつ……速いぞ!」

 別の団員が短く叫ぶ。男の剣さばきは尋常ではなかった。まるで踊るような、無駄のない動き。剣が風を裂き、霧の中を鋭い閃光となって舞う。『薔薇の剣』の精鋭たちは警戒しながら次々と間合いを取るが、男はまるで獲物を追う獣のように、一切の隙を見せない。

 男の動きには迷いがなかった。戦場において、迷いのない剣士ほど恐ろしいものは無いだろう。それは、既に戦う理由を定め、自らの命すら顧みない者の動きだった。

 

「全ては…………ロザエ様の御意志の為に」

 男が再び呟く。その声は淡々としていた。激情も、感情の揺らぎもない。ただ、静かに、まるで祈るように紡がれた言葉。

 

 瞬間、二本の剣が逆方向から同時に振るわれる。一本は上段から鋭く振り下ろされ、もう一本は足元を薙ぐように横へと走る。まるで双頭の蛇が獲物を仕留めるかのような、一瞬の攻撃。

 

「くっ……!」

 一人の団員がとっさに防御の体勢を取るも、受け止めた剣が弾かれる。刃が噛み合った瞬間、衝撃が走った。鋼が鋼を打つ乾いた音が響き、団員の体勢が崩れる。その一瞬を、男は見逃さなかった。次の動きへと無駄なく移行する。すかさず踏み込み止めの一撃を放とうとする。

 だが――

 

「――させない!」

 反射的に駆け出していた。考えるよりも先に、体が動いていた。男の剣が振り下ろされる寸前――僕は自身に強化魔法を施して、間に割って入る。そして、全身の力を込めて拳を突き出した。

 鋭い刃が、小手にぶつかる。刹那、火花が散った。

 金属と金属がぶつかる甲高い音が響き、衝撃が腕に伝わる。だが、僕はひるまない。魔法によって増幅された腕力に身を任せ、そのまま拳を振り抜き相手の剣を押し返す。

 すると思っていたよりもあっさりと、男の体がわずかに後方へと跳ねた。

 

 男はわずかに目を細める。しかしそれは驚きではなかった。まるで新たな獲物を値踏みするかのような、冷ややかな視線。

 次の瞬間、男の唇が僅かに動いた。

貫け(ピルム・アクアエ)

 

 呟くような詠唱。その直後、僕の周囲に水槍が出現した。

 

「――ッ!?」

 青白い槍が、空間を切り裂くように突き出される。

 四方から、逃げ場のないように迫る水槍。それを確認して、僕は即座に身を引く。だが、それだけでは回避しきれない。僕を囲うように配置された槍は、まるで意志を持つかのように動き、僕の進路を塞ぐ。

 

「くそっ……!」

 咄嗟に拳を振るう。

 

 一撃。

 

 二撃。

 

 振り抜いた拳が水槍を打ち砕く。しかし、残る槍がなおも僕を狙い、旋回しながら迫ってくる。

 

「援護しろ!!」

 団員の一人が叫んだ。その声に応じ、『薔薇の剣』の面々が一斉に動き出す。剣を構え、包囲を狭める。

 

 しかし男は、それを見ても動じなかった。まるでこの展開すら予測していたかのように、静かに息を吐く。

 そして、低く呟いた。

 

「……覆え(カリーゴ)

 瞬間、男の体から濃霧が発生し、一気に広がる。

 視界が、白に飲み込まれた。

 

「……っ!」

 僕は思わず息をのむ。

 霧の濃さが尋常ではない。まるで夜の闇のような、重く冷たい霧。湿った空気が肌に張りつき、喉の奥までじっとりと覆い尽くしていく。それは水路の湿気と混ざり合い、視界を完全に奪っていく。足元すら霞み、周囲の輪郭がぼやける。男の姿は、すでにどこにも見えない。

 

「落ち着け! 囲め!!」

 オルトランさんの鋭い声が響く。

 『薔薇の剣』の団員たちが即座に陣形を整えようとするも、しかし濃霧のせいで互いの位置すら把握しづらい。影のような存在が揺らぎ、敵か味方かの判別すら困難だった。

 息を潜め、耳を研ぎ澄ます。

 

 次の瞬間――

 

「――!」

 霧の中から、突如として飛び出した剣閃。

 

「ぐっ……!!」

 銀光が一閃。一人の団員が防御する間もなく斬られ、呻きながら膝をつく。切り裂かれた布の音、血の滴る微かな音が、冷たい空間に滲んでいく。

 しかし、男の姿は再び霧の中へと消えていた。

 気配を探る間もなく、別の方向から新たな斬撃が放たれる。剣が風を裂き、かすめる音が聞こえた。

 

「……ちょこまかと!」

 オルトランさんは苛立ちを滲ませる。

 相手は完全に霧を利用し、奇襲を繰り返していた。音もなく忍び寄り、刹那の一撃を放つ。霧が男の存在を曖昧にし、その動きはまるで影そのものだった。

 このままでは、各個撃破されるだけだ。

 

「このままじゃ不利だ! どうする!?」

 僕は焦燥を押さえきれず、思わず叫んだ。

 だが、返答はない。

 霧が絡みつくように広がり、視界を白く染め上げる。湿気を帯びた冷気が肌にまとわりつき、まるでどこか別の世界に迷い込んだような錯覚を覚える。周囲に漂うのは、静寂と、かすかな水音のみ。

 

 ――まずい。

 

 男の狙いは明白だった。この霧の中で混乱を煽り、じわじわと戦力を削いでいくつもりなのだ。視界が遮られた状態では、こちらの動きは鈍る。一方、相手は迷いなく動き回り、まるで水面に落ちた一滴の雨粒のように、波紋を広げるように襲いかかってくる。

 

 何か打開策を見つけなければ、このままでは――。

 

「うーん、魔法も最低限扱えて、剣の技量は一級品。それに、私の魔法の効きも弱いと……面倒ですねぇ」

 突如として、サーシャさんが呑気な口調で呟いた。その場の緊迫感をまるで感じていないかのような言葉に、僕たちは思わず動きを止める。

 

「……皆さん、泳ぎに自信あったりします?」

 何気なく放たれたその言葉に、場が一瞬凍りついた。

 

「……は?」

「何言ってんだ、お前……?」

「いやいや、こんな状況で泳ぎの話かよ!」

 混乱する団員たちの声が次々と飛び交う。水路の中で戦闘を繰り広げているというのに、なぜ突然泳ぎの話を?

 困惑する僕たちをよそに、サーシャさんは軽く肩をすくめると、淡々と言葉を続ける。

 

「この場は、完全に相手の術中に嵌っていますよね?」

 

「……まあ、そうだな」

 オルトランさんが苦虫を嚙み潰したかのような表情で答える。

 まさにその通りだ。敵は霧を利用して、こちらを翻弄している。この状況では、まともな戦いすらままならない。

 

「なら、もういっその事、盤面ごとひっくり返してしまえば良いと思いませんか?」

 サーシャさんは涼しげにそう言うと、手をゆっくりと掲げた。

 その指先が小さく震えるのを合図に、彼女の周囲の空気が変わる。湿気を帯びた冷気が一層濃くなり、まるで水そのものが彼女の言葉を待っているかのようだった。

 

満たせ(ウンダ・リベルタス)

 サーシャさんの口から、流れるような詠唱が紡がれる。瞬間

 ――ゴボゴボゴボッ!!

 地下水路全体が震えた。

 低く、鈍い振動が足元から響く。

 

 それはまるで、大地の奥深くに閉じ込められていた何かが、目を覚ましたかのような異様な感覚だった。

 そして突如として、サーシャさんの足元から水が噴き出した。

 

 それはまるで、長年封じられていた泉が解放されたかのような勢いだった。轟音とともに水流が湧き上がり、地下水路の床を蹴るようにして四方八方へと広がっていく。

 

「っ!?」

「な、なんだ!?」

 『薔薇の剣』の団員たちは驚愕し、慌てて身を引く。しかし、それよりも速く水は広がり、瞬く間に彼らの足元を覆い尽くした。

 冷たい水が膝を超え、腰に達し、それでもなお勢いを増していく。水路の隙間や排水口からも水が逆流し、辺りはまるで巨大な水槽に変わっていった。

 

「ちょっちょいちょいちょい!? サーシャさん!?」

「ちょ、ちょっと待て!?」

「おい、これマジで溺れるやつじゃ……!」

 混乱する声が次々と響く。水位は一瞬で胸元まで達し、誰もが必死にバランスを取ろうとする。

 しかし

 ドオォォォォン!!

 圧倒的な水圧が空間を支配し、一瞬にして全員が浮き上がった。

 激流が渦を巻き、流れに逆らうことができない。

 

「ぐっ……!」

「くそっ、流され――」

「……! いくら何でもやりすぎ!!!」

 僕たちの悲鳴が水音にかき消される。水の勢いは凄まじく、どんなに抗おうとも流れに翻弄されるばかりだ。視界は水と霧が入り混じり、どこが上でどこが下なのかすら曖昧になっていく。

 

 しかし、そんな混乱の中でただ一人、サーシャさんだけが余裕を持っていた。

 ふわりと水中で身を翻し、静かに目を細める。霧の中に潜んでいた男――敵を確実に捉えたのだ。

 彼もまた、バランスを崩し、水の勢いに呑まれていた。足場を失い、思うように身動きが取れない男に向けて、サーシャさんは静かに微笑んだ。

 

「やっぱり、面倒な相手はこの手に限りますね」

 水の中で揺らめく彼女の声が、淡々と響いた。

 

「……ッ!」

 男は必死に体勢を立て直そうと足掻いている。だが、水の中では思うように動けない。足場は完全に失われおり、手足を動かせば動かすほどに、水流に流されるばかりといった様子であった。

 

 そんな中――

 

「……終わりです」

 静かに、けれども決定的な響きを持つ言葉が紡がれる。

 サーシャさんが、すっと手をかざした。彼女の指先が水中を滑るように動き、まるでその場の空気を支配するかのように、静かながらも確固たる魔力の流れが生まれる。

 

固まれ(アクア・クリスタッリザーレ)

 その詠唱とともに――

 男の周囲の水が急速に凝固していく。まるで時間が止まったかのように、男の体の周りにあった水が一瞬で結晶状に変わる。琥珀に閉じ込められた昆虫のように、彼は透明な牢獄の中で硬直した。

 

「……ッ!?」

 男は驚愕の表情を浮かべ、もがこうとする。だが、その動きは次第に鈍くなっていった。

 結晶状に変化した水は彼の体を押し固め、四肢の自由を容赦なく奪っていく。

 男の目が見開かれ、血走る。呼吸もできないのか、激しく身をよじるが、もがけばもがくほど動きは緩慢になり、やがて完全に静止した。

 

「これで、大人しくなってくれますか?」

 サーシャさんが、まるで捕らえた獲物を確認するように呟く。水流の勢いも次第に収まり、ようやく僕たちも体勢を立て直すことができた。

 溺れかけていた者たちは荒く息を吐き出し、全身ずぶ濡れのまま、ようやく安堵の表情を浮かべる。

 

「は、はぁ……すげぇ……」

「まさか、水ごと捕えるとは……」

 驚きと興奮が入り混じった声が、そこかしこから漏れる。

 

 オルトランさんは、鋭い視線で男を見据えた。

 

「……これで動けまい。あとは捕えるだけだ」

 そう言うと、慎重に一歩、また一歩と近づいていく。

 

 その瞬間だった。男の口がかすかに動いた。

 何かを……呟いている?嫌な予感が脳裏をかすめる。

 僕が制止を掛けようとした、その直後――

 

パキンッ……!!

 鋭い音が響いた。それは氷が砕ける音にも似ていた。空気が一瞬、重く沈む。

 

「……何?」

 誰かが、困惑した声を漏らす。

 

 男の体を覆っていた結晶化した水に、細かなヒビが入っている。

 

 ピシッ、ピシッ――と、まるでガラスが割れるかのように、ヒビが次々と広がっていく。サーシャさんの表情が僅かに曇った。

 

「……なるほど」

 彼女は何かを察したように呟く。

 

 そして――

 バキィンッ!!

 一瞬のうちに、男を閉じ込めていた結晶の檻が粉々に砕け散り、鋭い破片が周囲に散乱した。砕けた結晶が光を反射しながら宙を舞い、まるで雨のように降り注ぐ。

 

「……ふっ」

 男が低く息を吐く。その全身から、じわりと波紋のように魔力が広がる。

 それはまるで水面に投げ込まれた石が生む波紋のように、淡く、しかし確実に空気を震わせた。

 

「……これは、少しばかり侮りすぎました」

 サーシャさんの瞳が、わずかに鋭く光る。

 まるで狩人が獲物を見据えるような視線だった。

 

「もう少しだけ本気で遊んであげます」

 その言葉とともに、サーシャさんの周囲で水の残滓が渦を巻き始める。

 水流は彼女の意志に応じるかのように滑らかに動き、まるで生き物のように彼女の周囲を漂う。

 

「………………」

 男の指がわずかに動く。その一動作だけで、地に落ちていた剣がまるで意思を持つかのように宙を舞い、吸い込まれるように男の手に戻る。鉄の塊が風を切る音が響き、男の指が柄をしっかりと握る。

 オルトランさんが鋭い眼差しを向け、警戒を強める。

 サーシャさんもまた、水の流れを巧みに操りながら、次の手を模索するように指を動かす。

 男の周囲には、砕けた結晶の檻の残骸が漂い、その破片がわずかに揺らめいている。

 

「…………ロザエ様の御意志の為に」

 男が静かに呟く。その言葉は、呪いのように冷たく、ひどく感情のこもらない響きを持っていた。

 

「同じ言葉しか話せないんですか?」

 サーシャさんが淡々と返した瞬間、彼女の周囲の水が微かに震える。

 

 張り詰めた空気が一瞬だけ揺れた。

 

刻め(アクア・グラディウス)

 彼女がそう唱えた瞬間――

 サーシャさんの背後から、無数の水の刃が生み出される。それらは水滴のように揺らめきながら形を成し、やがて鋭利な刃となると、一斉に男へと放たれた。

 

 空を切る音が鳴り響く。

 

「……」

 男は微かに目を細めるが、動じた様子はない。その手に持った双剣が滑るように動き、水の刃を次々と受け流していく。

 刃と刃がぶつかるたび、水飛沫が弾け、空間が歪むような音が響く。だが、男の動きは一切ぶれない。むしろ、サーシャさんとの距離を確実に詰めようとしていた。

 

「面倒ですね」

 サーシャさんは冷静に呟くと、手を翻した。

 

砕け(ウンダ・フラクトゥス)

 詠唱とともに、足元の水が爆発的に弾ける。激しい水飛沫と衝撃が、一気に男を襲った。

 

「――ッ!」

 男は咄嗟に剣を横に薙ぎ、迫る水流を断ち切ろうとする。

 

 しかし

 ザバン!!

 水飛沫の奥から、別の水刃が飛来する。

 

「……っ!」

 男は辛うじて身を捻り、直撃は避ける。しかし、その頬を掠めた一閃が微細な切り傷を刻んだ。赤い血が、わずかに滲む。

 僕たちは、その攻防を見ていることしかできない。まるで自分たちが別世界にいるかのように、この場の空気は二人だけのものになっていた。

 

「おー……今のを避けられますか。ちょっと、舐めていましたね」

 サーシャさんが、愉快そうに目を細める。

 

「なら、これはどうでしょう?」

 彼女の指先が、水流を僅かに揺らした。

 

地に満ちよ(プーパ・アクァエ)

  詠唱が響くと、水面が波紋を広げるように揺らぎ、そこから次々と人型の使い魔が姿を現した。透明な水の体に薄く青白い光が揺れ、輪郭は不定形ながらも確かに「人の形」を模している。しかし、それらの腕は肉のない剣のごとく鋭利に変形し、その刃の表面は波立つ水のように不安定ながら、殺意を持って研ぎ澄まされていた。

 水路の薄暗い明かりが、その刃に鈍く反射する。光が水の表面で乱反射し、揺らめく影が壁を這い、不気味な模様を刻む。男を囲んだ異形の群れは、静寂の中で獲物を見据えながら、一斉に動き出した。

 

 その様子を前にして、男はほんのわずかに口元を歪めた。嘲るような、あるいは、淡々と状況を分析しているような――表情の奥にある真意は読み取れない。

「……………」

 

 そして、彼は再び詠唱を紡ぐ。

「……覆え(カリーゴ)

 

 再び白い霧が奔流のように溢れ出し、戦場を覆い尽くす。霧は瞬く間に視界を奪い、ただでさえ暗い水路をさらなる闇へと沈めていく。湿った空気が肌にまとわりつき、冷たい霧が骨の奥まで沁み込むような感覚をもたらす。

 その直後、水の人形たちが一斉に動いた。音もなく、刃が空を裂く。

 視界を失った戦場において、どこから襲いかかるかわからない無音の刃は、まさに死そのものだった。水の刃はしなやかに、そして鋭く振るわれ、迷いなく男の身体を切り裂こうと迫る。

 

「いま、その魔法を使ったのは愚策じゃないですかね?」

 霧の中に、サーシャさんの嘲りを多分に含んだ声が響く。

 霧の中で戦うということは、敵味方双方の視界を奪うことを意味する。だが今この状況においては、一方にとってのみ不利に働く状況だった。確かに使い魔同士で攻撃しあっている個体は居た。だがしかし、それはまるで意味のない行為だった。攻撃を受けた使い魔の体は瞬時に水へと戻り、刹那の間に再び形を成す。斬られようが砕かれようが、彼らにとっては些細なことに過ぎないようだ。むしろ、その不滅ともいえる特性を活かし、同士討ちを恐れることなく攻撃を繰り返している。

 水の刃が次々と男へと振り下ろされる。その動きは途切れることがない。ひとつを斬っても、また次が来る。無尽蔵に湧き出す攻撃が、まるで終わりのない波のように男を包囲していた。

 

 それでも、男の動きには迷いがなかった。

 霧の中でも彼は無駄な動きをせず、的確に使い魔たちの攻撃を捌いていく。刃を振るい、水の身体を断ち斬り、足を止めることなく動き続ける。その動きには鍛え抜かれた技術が宿っていた。

 

 だが確実に包囲網は狭まっていた。

 

 水の使い魔たちは少しずつ、確実に男を追い詰めるように動いていた。霧の中では、男がどこまで正確に戦況を把握できているのかはわからない。だが、少なくともこの場において、彼が圧倒的に不利であることだけは確かだった。

 

 サーシャは、そんな戦場を冷静に観察しながら、淡々と口を開く。

「さて、アレがお人形遊びに夢中なうちに、私たちはやるべき事……倒れてる運び屋を何人か回収して、さっさと隠し扉の中を確認してしまいましょう。霧のおかげで、こちらの動向も掴みにくいでしょうし」

 彼女の声は至って平然としていた。戦いそのものには興味がない、と言わんばかりの態度だった。

 

「アレに構うのは時間の無駄です。それに、万が一閉じ込められても──もう扉をぶち壊してしまえばいいのです。どうせ、バレてるんですから」

 そう言いながら、サーシャはニヤリと笑う。

 その笑みには、余裕の色が滲んでいた。

 

「ですが、ダメ押しは必要ですかね」

 サーシャはそう言って肩をすくめると、軽く指を鳴らした。

 パチン――

 乾いた音が水路内に響いた瞬間、足元の水たまりが細かく泡立ち始める。まるで沸騰したかのように水面が波打ち、そこから新たな使い魔たちがゆっくりと姿を現した。

 それらは先ほどの人型の使い魔とはまるで異なっていた。

 

 ――背に槍を背負った、水で形作られた鳥のようなもの。長いくちばしをカチカチと鳴らしながら、薄暗い霧の中で羽を広げる。

 ――牙が異様に長く発達した、犬のようなもの。水でできたとは思えないほど生々しく、獣のように四肢を踏み鳴らしている。濁流のようなうなり声をあげ、霧の中で獲物を見据えていた。

 ――体をくねらせ、全身を泡立たせながら湯気を発している、蛇のようなもの。その表面が絶えず気泡を弾けさせ、微かに熱を帯びた霧を散らしている。まるで、今にも煮え立ちそうなほどの熱量をその体に宿しているかのようだった。

 

 等々、人の形とはかけ離れた異形の使い魔たちが、静かに佇んでいた。それらは命令を待つかのように沈黙しながら、霧の向こうの標的を見据えている。

 

 サーシャは余裕の笑みを浮かべながら、軽く指を振った。

「さすがに、これ以上は面倒ですよね?」

 

 その言葉を合図に、槍を背負った鳥のような使い魔が、一斉に飛び立った。

 鋭い音と共に、空を裂くような速さで槍が射出される。霧の中を貫き、一直線に男へと迫る。男は直前でその気配を察知し、瞬時に身を翻した。槍はほんの僅かの差で彼の体をかすめ、背後の石壁に突き刺さる。

 しかし、その回避を読んでいたかのように、床に広がる水たまりが波打った。そこから、牙を剥いた犬のような使い魔たちが飛びかかる。長く発達した牙が、霧を切り裂きながら男の腕へと喰らいつかんと迫る。男は咄嗟に剣を振るい、狙い澄ましてその首元を断ち切った。だが、切られた犬の体は一瞬にして水へと還り、刹那の間にまた新たな形を成していく。

 

「それらの体は流体。形を持ちえぬ水の身体。いくら切り刻んでも無駄ですよ」

 サーシャは愉快そうに笑いながら、その様子を見つめていた。

 

 男が犬の猛攻を潜り抜けた次の瞬間、音もなく這い寄っていた蛇のような使い魔が、その足元へと巻きついた。そして、ジュゥゥ…!という焼けつくような音と共に立ち上る、焦げ臭い蒸気。

 熱湯が直接肌に触れたのか、男の動きが僅かに止まる。その一瞬の隙を、狙っていたかのように人型の使い魔たちが音もなく忍び寄る。刃のような腕を振りかぶり、容赦なく振り下ろす。男は寸前で身を捻り、それらを回避するも、しかし足元に絡みついた蛇の締め付けはじわじわと強まっていく。

 男は剣を振るい、足元の蛇を一刀両断にする。しかし切り裂かれた蛇は、またもや水へと戻り、再びうねりながら形を成していく。

 

 その一連の攻防を、サーシャは冷ややかに眺めながら、軽く肩をすくめた。

「うん。大丈夫そうですね」

 

 戦況はすでに決していた。

 サーシャが生み出した使い魔たちは、執拗に獲物を追い詰める。水の体は斬られても形を変え、踏みつけられたら流動し、焼かれても湯気となって再び形を成す。もはや、男に逃げ場はなかった。

 その様子を一瞥すると、彼女は霧の奥へと視線を向けながら、さらりと告げる。

 

「それじゃ、私たちはお先に失礼しますか」

 冷徹な言葉とは裏腹に、その声音はどこか軽やかで、まるで退屈な余興を終えた後のようだった。

 僕たちは戦場を後にし、静かに水路を進んでいく。

 

◇◆◇◆◇◆◇

 

 そうして、僕たちは《ハムシュの水門》へとたどり着いた。

 水門の前に立つと、昼間に見たときと変わらぬ異様な存在感がそこにあった。周囲の石壁と比べて、わずかに黒ずんだ色合い。湿気を帯びた表面には無数の苔が張り付き、じっとりとした水滴が滴っている。まるで、この先へ踏み入る者を拒むかのように、冷たい空気が周囲にまとわりついていた。

 

「確か、ここら辺だった筈ですが……」

 サーシャさんはそう言いながら、壁を指先でなぞるように確認して回る。その仕草は慎重でありながらも迷いがなく、まるで確信を持って隠し扉の位置を探っているようだった。彼女の手が滑らかに石壁を這い、時折小さく指を弾く。微かな音が響くたびに、僕たちは息を殺してその動きを見守った。

 

 水門の先には、長い長い水路が続いている。そこから漂うのは、地下特有の湿気を帯びた空気。天井から染み出した水滴がぽたり、ぽたりと落ちる音が、静寂の中に響いていた。壁にはかつての利用者が残したのか、うっすらと削れた跡がある。ここが単なる廃れた通路ではなく、今もなお誰かに使われている場所であることを示していた。

 

 僕たちもそれぞれ手分けして壁を調べ始める。

 石の継ぎ目を辿りながら、微かな凹凸や隠し機構を探る。手で押したり、軽く叩いて音の違いを確かめたりしながら、一つひとつの違和感を拾い上げていく。

 

 しばらく探っていると――

「……あっ、見つけた」

 

 思わず声が漏れた僕の言葉に、サーシャさんやオルトランさん、そして『薔薇の剣』の人たちがぞくぞくと集まってくる。

 

「ふふっ、ありましたね」

 サーシャさんが満足げに微笑むと、壁のある一点に手を添えた。

 

 そして指先に力を込めると

 カチリ

 鈍い音が響き、石の一部がわずかに沈み込む。

 

 直後

 ギィ……

 重く湿った軋み音とともに、石壁がゆっくりと横にスライドしていく。

 

 その瞬間、内部から漂ってきたのは、ひんやりとした冷気と、鼻を刺すような甘い香り。

《月の雫》その独特な香りが空気に溶け込んで広がり、地下の湿気と混ざり合う。ほんの一嗅ぎしただけでも、その異質な甘さが脳の奥を痺れさせるようだった。

 

 サーシャさんが軽く息をつきながら言う。

「とりあえず、中に入ってしまいましょう」

 

 暗闇の奥へと続く通路――その先に、何が待っているのか。

 僕たちは、慎重に足を踏み入れた。

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