不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版 作:ゴリラ
足を踏み入れた途端、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
地下特有の湿り気に満ちた静寂の中、どこかで水滴が落ちる音が微かに響く。その音は洞窟の奥深くから響いているようで、まるで何かが僕たちの侵入を察知し、警告を発しているかのようだった。鼻をつく湿った土と苔の匂いが漂い、空気そのものが重苦しく感じられる。
僕たちは慎重に進みながら、周囲を観察した。壁にはびっしりと苔がこびりつき、緑色の斑点が不気味に光を反射している。触れればひんやりと冷たく、指先にぬめりが残りそうだった。床は長年の湿気でわずかにぬかるみ、足を踏み出すたびにじゅくり、と嫌な感触が靴の裏を伝う。ここが長年人の手の及ばぬ場所であったことを、その景色が物語っていた。
そして何より、奥へ進むにつれて《月の雫》の甘ったるい香りが次第に濃くなっていった。
最初は微かな匂いだった。けれど、一歩ごとにその香りは濃度を増し、まるで僕たちを導くかのように空気の中へ絡みつく。それは花の蜜にも似た甘さを持ちながら、どこか妖艶な毒々しさを孕んでいた。嗅ぐたびに意識がぼやけるような感覚が襲い、思わず息を浅くする。
サーシャさんが小さく囁く。
「……どうやら、かなり近いですね」
彼女の声には、微かな緊張が滲んでいた。その声音に促されるように、僕は改めて周囲を見回す。天井の岩肌は鋭く尖り、今にも崩れ落ちそうな不安定さを孕んでいる。小さな水滴が先端から零れ落ち、暗闇の中で鈍く光を反射していた。
僕も喉の奥が詰まるのを感じる。心臓がわずかに高鳴る。空間そのものに、異様な気配が満ちていた。
この先に何が待ち受けているのか――それを知るのが怖いわけではない。ただ、この場所で目にするものが、決して気軽に受け止められるものではない気がした。
その予感が、足を進めるたびに重くのしかかってくる。
何かが、僕たちを待ち受けている。そう確信するには、十分すぎるほどの沈黙と、濃厚な甘い香りが充満していた。
◇◆◇◆◇◆◇
さらに進むと、やがて通路の先にぼんやりとした光が見えた。ゆらめく灯火が暗闇を照らし、その向こうに広がる空間の輪郭を浮かび上がらせる。
僕たちは足音をできるだけ抑えながら、慎重にその場へと近づいた。
そこは広大な空間だった。高い天井は重厚な梁で支えられ、壁には無数の燭台が並び、揺れる灯火が空間に幽玄な陰影を落としている。そこには所狭しと棚が並べられ、それらは幾重にも連なって迷路のように広がっていた。どの棚にも整然と木箱やガラス瓶が収められ、側面には識別番号のような符号が刻まれている。
木箱は厳重に封印され、頑丈な鍵が掛けられているものもあれば、特別な紋章が刻まれた封蝋で封じられているものもあった。ガラス瓶のほとんどは透明で、中には淡い輝きを放つ液体が注がれている。その中でもひときわ目を引いたのは、青白い色の液体で満たされた瓶だった。瓶の表面には古めかしい文字が刻まれ、光の加減によってかすかに発光しているように見えた。
静寂が広間を支配している。空気はどこか冷たく、ひやりとした湿気が肌を撫でる。そして脳が痺れるような、甘く妖艶な香りが漂っていた。呼吸するたびに意識がふわりと浮き上がるような感覚がする。それが広間に保管されている品々のものなのか、それともこの場所そのものが放つ瘴気なのかは分からなかった。
広間全体が奇妙な静寂に包まれていた。まるでこの空間だけ時間が止まってしまったかのように、どこからも人の気配を感じない。それなのに、無数に並んだ薬瓶や木箱の存在が、不気味なほどに生々しい現実感を持って目の前に広がっていた。
サーシャさんが低く息を吐く。
「予想よりも随分と……これだけの数、ただの保管施設じゃなく、出荷拠点も兼ねている可能性もありますね」
彼女の声には、わずかに警戒の色が滲んでいた。
「あぁ、これは流石に予想外だ……ここにあるだけで、一体どれだけの人間を……」
オルトランさんはそう言って絶句してしまう。彼の表情は険しく、握り締めた拳がわずかに震えている。彼ほどの経験を持つ者ですら、ここに並ぶものの意味を前にして、動揺を隠せないのだ。
他の『薔薇の剣』の団員たちはもはや言葉を失ってしまっていた。彼らの視線は宙を泳ぎ、呼吸さえも浅くなっている。
「でも、ここを抑えられれば……」
僕は思わずそう呟く。
「そうですね。《月の雫》の流通に大打撃を与えられるかもしれません」
サーシャさんが短く頷く。
僕たちは互いに視線を交わし、小さく頷いた。言葉は必要なかった。やるべきことは決まっている。
僕たちは倉庫の奥へと慎重に進んでいく。闇の中に沈んだ広大な空間は、静寂に包まれていた。聞こえるのは、僕たちの呼吸と、時折どこかで滴る水音だけだ。足元の床はわずかに湿っていて、踏みしめるたびに微かに沈む感覚があった。まるでこの場所全体が、長い時を経て忘れ去られた地下墓地のような、そんな不気味さが漂っている。
そして、しばらく進むと、灯りの下に人影が見えた。数人の男たちが黒い外套を深くかぶり、無言で手元の目録らしきものに何かを書き込んでいる。その動作は淡々としており、まるで機械のようだった。彼らの指が紙の上を滑る音、ペン先が擦れる音だけが、静寂の中に微かに響く。その行為には何の迷いもなく、まるでそこにいることが日常であるかのようだった。
僕たちは息を殺しながら、その様子を観察する。しかし、その刹那──気配が変わった。
どこからともなく、黒外套の男たちが背後に現れる。
「っ! 囲まれた……!?」
不意に襲いかかる緊張感。僕たちは反射的に武器を構える。
だが次の瞬間、倉庫の奥から、靴音が響いた。
規則正しく、それでいて悠然とした歩調。まるでこの場を完全に支配しているかのような、威圧感に満ちた足音だった。
「やれやれ……アレは一体、何をしている……まったく、使えん奴だ」
低く、乾いた声が広間に響く。静寂を貫くその声音には、嘲りと苛立ちが滲んでいた。
そして、闇の向こうから一人の男が現れた。
黒い外套をまとい、銀色の仮面をつけた男。彼の足取りは落ち着いており、何の動揺も感じさせない。その奥深い瞳には冷たく研ぎ澄まされた光が宿っている。隙のない動き、余裕に満ちた態度。それはただの雑兵ではないことを、一目見ただけで理解させられるものだった。
彼はゆっくりと口元を歪め、薄く笑う。
「何はともあれ、歓迎しよう。侵入者諸君」
まるで客人を迎え入れるかのような、底知れぬ余裕を漂わせた微笑み。その態度が、かえって底知れぬ不気味さを醸し出していた。
「アレを打倒し、ここまでたどり着いたことは称賛に値する。だが残念ながら、君たちはここで終わりだ」
冷たい響きを帯びた声が、まるで呪いのように地下の静寂へと溶け込んでいく。
サーシャさんが一歩前へ進み、静かに問いかけた。
「あなたは?」
仮面の男は小さく笑い、肩をすくめる。その動作には挑発的な意図すら感じられた。
「侵入者に、わざわざ名乗る理由はないだろう。例え、君たちがここで死にゆく運命だとしてもだ」
そう言い残し、男はゆっくりと背を向けた。
「それでは君たち、後は頼むよ。私はまだ仕事が残っているのでね」
静かに、だが確実に奥へと歩を進めていく。
「まて!」
オルトランさんが男を追おうとする。しかし、その動きを見透かしたかのように、黒外套の男たちが無言のまま立ちはだかった。暗闇に溶け込むかのようなその動きに、僕たちは一瞬息をのむ。
サーシャさんは僅かに目を細める。その瞳には鋭い光が宿り、彼女の決意が揺るぎないものであることを示していた。
「…………雑魚は私が片付けます。悠太さんと『薔薇の剣』の皆さんは、あの仮面を追ってください」
彼女の声には確信があった。冷静で、迷いのない響き。彼女の覚悟が、場の空気を一変させる。
「でもサーシャさん!」
「いいのか、嬢ちゃん」
僕とオルトランさんがそう問いかける。しかし、サーシャさんは静かに頷くだけだった。まるで、最初からこの展開を予測していたかのように、迷いの欠片すら見えない。
僕たちは顔を見合わせ、覚悟を決める。ここでためらっている時間はない。僕は深く息を吸い込み、彼女に向かって頷いた。
「……分かりました! ここはサーシャさんに任せます! ……行きましょう!」
「ああ……そうだな」
オルトランさんも短く答え、武器を握り直す。しかし僕たちが仮面の男を追おうとした瞬間、黒外套の男たちが音もなく動き、間合いを詰めてきた。その動きは迅速で、統制が取れている。まるで意思を持たぬ兵士のように、無駄のない連携で僕たちの進路を塞ぐ。
「させませんよ」
サーシャさんが静かに言い放つ。その言葉と同時に、彼女の足元から魔力が奔流となって広がる。
次の瞬間、水の槍が幾本も生まれ、鋭い音を立てながら男たちの前へと突き出された。鋭利な刃のような水槍が、黒外套の男たちの動きを一瞬鈍らせる。床を濡らす水滴が、冷たい空気の中で静かに弾けた。
燭台の灯火が揺らぎ、濡れた床に映る影が波紋のように歪む。その不気味な光景が、倉庫内に異様な緊張感を生み出した。
男たちは即座に態勢を立て直そうとする。しかし、その隙を逃すサーシャさんではなかった。
「今のうちに!」
彼女の鋭い声が響く。
僕たちはその言葉を合図に、全力で駆け出した。湿った床を踏みしめながら、僕たちは倉庫の奥へと消えていく仮面の男の背を追う。
◇◆◇◆◇◆◇
仮面の男を追う悠太と『薔薇の剣』の背を見送りながら、サーシャは小さく息を吐いた。彼らが向かう先に思いを馳せながら、彼女はゆっくりと視線を周囲の男たちへと向ける。その双眸には冷たい光が宿り、静かに戦いの幕開けを告げた。
「さてと……あなた達のような雑魚を相手にするのに、ちょうどいい魔法がありましてね?」
軽く肩をすくめながら、サーシャは口角をわずかに上げる。その態度が敵を侮るものであることは明白だった。
「まぁ、精々足掻いてくださいな」
嘲るような口調に怒りを覚えたのか、外套を纏った男たちは一斉にサーシャへと駆けだした。彼らの表情には、獲物を追い詰める狩人のような凶暴さが浮かんでいる。しかし、それは一瞬で無意味なものとなった。
――バチュンッ!
鋭い破裂音が響き渡り、先頭にいた男の頭部が無惨に弾け飛んだ。
血飛沫が舞い、床に赤黒い染みを作る。脳漿が飛び散る光景に、後方の男たちは一瞬足を止めた。だが、異常なのはここからだった。
男の首から溢れ出した血液が、まるで意思を持つかのように脈動し、蠢き始める。血の塊がまるで生き物のようにうごめき、次第に触手の形を成していく。その不気味な動きに、男たちの顔からは瞬く間に血の気が引いた。
「なっ……!」
恐怖に駆られ、男たちは後ずさろうとする。しかし、彼らの足よりも、血の触手の動きの方が圧倒的に速かった。
悲鳴が響いた。
一人、また一人と、絡みつかれた男たちがもがき、やがて赤黒い塊に飲み込まれていく。その様子は、まるで飢えた獣が獲物を貪るかのようであった。
サーシャは、そんな地獄絵図の中心に立ちながら、どこか退屈そうに口元を歪める。
「うへぇ……やはり、あまり人様に見せられる魔法じゃありませんね」
彼女の声には、わずかな嫌悪と諦念が滲んでいた。しかし、同時に、それが最も効率的な手段であることを理解している冷徹さもあった。
「かと言って、あなた達みたいなのに手間をかけるのも……ねぇ?」
血の触手はうねり、蠢き、男たちの断末魔を掻き消していった。
ズルッ、ズチャッ――肉が潰れる音が響き、やがて床には赤黒い液体だけが広がる。
かつて人だったものの残骸を見下ろしながら、サーシャは小さく息を吐いた。まるで何の感慨も抱いていないかのように、彼女は平然とそこに立っている。
「……意外とあっさり片付きましたね」
戦いの後の静寂の中、彼女は冷ややかな目で周囲を見回す。
「何かしら隠し玉でもあるかと思いましたが……拍子抜けです。さっきの双剣使いのほうが、よほど……」
淡々とした言葉とは裏腹に、彼女の眼差しには一片の情もない。まるで壊れた人形のように、冷たく、感情の欠片すら感じさせなかった。
そして、彼女はしばらく虚空を見つめる。
「…………向こうへの加勢は、もう少し様子を見ましょうか。あの程度の相手なら、悠太も対処できるでしょう」
そう言って、サーシャの唇が微かに弧を描く。
「何より、私がすべて片付けてしまっては、悠太の成長になりませんからね」
そう呟くと、彼女は再び虚空を見やった。まるで、悠太の戦いの行方を見守るように。
◇◆◇◆◇◆◇
僕たちは仮面の男と向かい合っていた。数はこちらが優勢。しかし、それでも気が抜けない。
広間の空気が重く沈む。揺れる燭火が壁に影を映し、まるで無数の亡霊が蠢いているかのようだった。薬瓶の中の青白い液体が淡く光を放ち、異様な雰囲気をさらに際立たせる。冷たい湿気が肌を撫で、嫌な汗が背を伝う。
仮面の男は動じることなく立っていた。静かで、まるでこの状況すら想定の範囲内だと言わんばかりの余裕。その銀色の仮面が、こちらを見下ろしているように感じられた。
彼の呼吸は一定で、微動だにしない。まるで死神が獲物を選ぶような、冷徹な気配が漂っていた。こちらが何人いようと、それは問題ではないという確信めいたものが感じられる。
オルトランさんが低く息を吐く。
「……妙だな」
「え?」
「こちらの数が多いのに、奴はまるで恐れを抱いていない……それどころか、余裕たっぷりといった様子だ……」
確かに、相手はまるで勝負の結果が決まっているかのように、わずかに肩をすくめる。
それが傲慢さからくる態度ではないことは、直感的に理解できた。彼は確実に勝てると信じているのだ。
仮面の男は溜息を一つ溢す。
「私には、まだ仕事が残っているというのに……仕方がない、手早く終わらせよう……残業は嫌だからね」
その声は奇妙なほど淡々としていた。まるでこれから行う戦いを、単なる作業の延長線上としか思っていないかのような響きがある。
「
次の瞬間、空気が爆ぜた。
まるで目の前の世界が歪んだかのような感覚に襲われる。耳鳴りのような圧力が頭を締め付け、視界がぐにゃりと揺らぐ。
視界の端にあった仮面の男の姿が、かき消えるように消失した。
「――!」
直感だけで僕は飛び退る。その刹那、鋭い風切り音が耳を裂いた。仮面の男の腕が音もなく僕の目の前を横切る。視界の隅で、空気が裂けたような揺らぎが生じるのを見た。もし反応が一瞬でも遅れていたら――いや、考えるだけでも恐ろしい。
足元がぐらつき、背中を冷たい汗が伝う。震える息を整える間もなく、オルトランさんが素早く剣を振るった。しかし、その鋭い一閃は虚しく空を切る。
「速い……!」
オルトランさんの低い呻きが広間に響いた。だが、それすらも仮面の男にとっては取るに足らないものだったのかもしれない。
仮面の男の姿が揺らぎ、次の瞬間、別の団員の背後へと回り込んでいた。
「まずは、一人」
静かに紡がれた言葉と同時に、鋭い蹴りが団員の横腹を抉る。肉を打つ鈍い音と、骨の軋む音が嫌な響きを残した。団員の体が宙を舞い、壁へと叩きつけられる。衝撃で燭台が揺れ、ぼんやりとした光が乱れた。
壁に赤黒いシミが滲む。動かない団員の姿が目に焼き付いた。
「くそっ……!」
焦燥に駆られた残りの団員たちが、一斉に剣を振るい、魔法の詠唱をする。しかし、仮面の男はわずかな身のこなしだけでそれを躱す。剣が空を切るたびに、広間の冷たい空気が揺れる。
まるで舞うような動きだった。無駄のない回避、流れるような反撃。仮面の男が繰り出す拳や蹴りは、雷光のごとく鋭く、重い。受けた者は、ただ吹き飛ばされるしかなかった。
金属が擦れ合う甲高い音が響き渡る。火花が散り、影が踊る。
「ちっ……!」
オルトランさんが舌打ちしながら鋭い一撃を放つも、仮面の男は体を微かに傾けただけで剣は簡単にかわされ、空を切る。そのまま重心を崩すこともなく、男は優雅な足運びで間合いを詰め、指で剣の側面に触れた。それはほんの軽い仕草であった。まるで風が頬を撫でるような動き。だが、次の瞬間、鋭い金属音が鳴り響く。オルトランさんの手がビクリと震え、一瞬だけ剣を握る力が緩んだ。
「なっ……!」
そのわずかな隙を仮面の男は見逃さない。弾けるように踏み込み、オルトランさんに追撃を仕掛けようとする。しかし――
「やらせるかよ!」
別の団員が怒声とともに剣を振りかぶる。仮面の男の背後からの不意打ち。だが、男は振り返ることすらしなかった。
ただ、足を払っただけ。ただそれだけなのに──それがもたらしたのは、圧倒的な暴力だった。重力に引かれ、石畳に叩きつけられる。鈍い音が広間に響き、吐き出された血が闇色の染みを作った。
呻く暇すら与えられない。仮面の男は、まるで何事もなかったかのように倒れ伏した団員の頭を踏みつける。
乾いた音が響く。それは、踏み砕かれた頭蓋の音だった。
足元に広がる赤黒い液体を気にも留めず、仮面の男は冷たく言い放つ。
「……これなら、あまり時間をかけずに済みそうだ」
その声には、戦いの興奮すら感じられなかった。まるで、ただの雑務を片付けるかのような、淡々とした口調だった。
息が詰まる。 このままでは、全員が殺されてしまう!!
戦意を挫かれるような冷たい絶望が、胸の奥に染み込んでいく。足が震え、汗がじっとりと手のひらを濡らす。それでも、僕は歯を食いしばった。 逃げるわけにはいかない。
僕は震える指先を握り締め、喉の奥から声を絞り出す。
「
呪文を唱えた瞬間、全身を熱が駆け巡る。筋肉が膨張し、骨が軋む。血管が熱を帯び、心臓が高鳴る。鼓動が耳の奥で爆ぜるように響き、視界が冴えていく。空気の流れすら鮮明に感じられた。
これなら――そう思った矢先だった。
ドゴッ!!
突如、腹を抉るような衝撃。
理解が追いつく前に、内臓がぐちゃりと潰れるような痛みが襲いかかる。体が揺さぶられ、視界が反転。天井がぐるりと回る。
気づけば、僕の体は宙に放り出されていた。
時間が引き延ばされるような錯覚。
――やられた。
その認識が脳をよぎる。
ドシャァンッ!!
背中が石床に叩きつけられる。衝撃が背骨を突き抜け、肺の空気が押し出された。喉が痙攣し、呼吸ができない。
「――ぐっ……!」
視界が歪む。痛みが全身を蝕み、散らばった思考をかき集めることすらできない。何が、起きた?理解が追いつかない。 速すぎた。確かに魔法の力が漲っていたはずなのに――それでも奴の動きは、見えなかった。
鈍い音が響く。視界の端で、仮面の男の姿が揺らぐ。
彼の足元が沈む。
次の瞬間――
「……クソがっ!」
オルトランさんの怒号が轟く。渾身の力を込め、剣を振るう。その銀の刃が空気を裂き、鋭い閃光となる。
しかし。
その一撃が届くよりも早く、
バキィッ!!
鈍い衝撃音が響いた。剣を握る腕が、不自然な角度にねじ曲がる。仮面の男の拳が、オルトランさんの腕を叩き折っていた。
「が、は……っ!」
苦悶の声が漏れ、剣が手を離れて、乾いた音を立てて床に転がった。オルトランさんの腕は――ありえない方向へ折れ曲がっていた。
血の気が引く。やばい。やばすぎる。さっきの一撃が、まるで「軽い」ものだったかのように。仮面の男は、微動だにせず、冷たい視線をこちらに向けていた。
「まだだ……!」
自分に言い聞かせるように呟く。鼓動がうるさい。痛みで鈍くなった四肢に、なんとか力を込めようとする。
動け。
立ち上がれ。
終わりじゃない。
だが、その時――視界の端に、仮面の男の足が映る。
鋭い感覚が、脳を貫いた。
――まずい!
来る。
本能が叫ぶ。全身が危険を訴えている。だが――体が、追いつかない。
次の瞬間――
ドゴォン!!
轟音。仮面の男の蹴りが床を砕いた。
バキバキバキッ!!
石床が弾け、四散した破片が弾丸のように周囲に飛び散る。
反射的に腕を顔の前に掲げる。だが、遅い。
チリッ――
肌が裂ける。
鋭い破片が頬を掠め、焼けるような痛みが走った。顔に伝う感触。赤い液体が流れているのが分かる。
強すぎる。こいつは――化け物だ。
だが、あの竜程ではない。
「……動きが鈍いな」
仮面の男が呟く。冷たい。感情のこもらない、退屈そうな声。まるで、僕という存在がどうでもいいかのような響き。
「魔法に、身体が追いついていない……」
コツ、コツ。と足音が響く。ゆっくりと、しかし確実に、こちらへと歩み寄ってくる。
「宝の持ち腐れだな」
まるで結論を下すように、仮面の男は淡々と告げる。その視線が、真っ直ぐに僕を貫く。
体が震える。
殺される。本能がそう告げていた。
コツ、コツ、コツ。
足音が、ゆっくりと近づいてくる。 息が詰まる。空気が冷たい。肺がうまく働かない。焦りが、恐怖が、全身を縛り付ける。冷や汗が、背中を伝った。
「……怖いのかい?」
仮面の男がふと問いかけた。低く、冷たい声だった。まるで、こちらの心の内を覗き込むかのような声音。
怖い。
否定できない。
今までにないほど、全身がこわばっていた。指先は冷たく、足は震えて地面に根が張ったように動かない。喉がひりつく。言葉を発しようとしても、声が出なかった。
僕はただ、歯を食いしばることしかできなかった。
仮面の男は、つまらなそうに肩をすくめ、深い溜息をつく。
「……まあ、当然か」
その瞬間、視界が揺れた。
速い!!
次の瞬間には、彼の姿が消えていた。
――どこだ!?
周囲を探す間もなく、突風のような圧が襲いかかる。
目の前!!
もう目の前にいる!!
速すぎる。 見えても、体が反応できない。腕が動かない。逃げる暇もない。
「終わりだ」
無機質な声が耳を打ち、僕の全身が凍りつく。
その瞬間、空間が揺れるような衝撃が走った。
ドンッ!!
まるで大地が唸ったような音が響き、目の前が一瞬にして揺れ動く。耳鳴りが耳を塞ぎ、全身の感覚が引きずられていく感覚。
何かが砕ける音が響く――だが、それは僕の骨ではなかった。
助かったのか?
いや、それよりも、何が起きた!?
土煙が荒れ狂い、視界を完全に奪い取っていく。空気が重く、呼吸が乱れる。視界が白く煙り、床が揺れた痕跡で満ちている。目を開けてみても、周囲の景色は霞み、何も見えない。
その中で、かろうじて見えたのは、床に広がる大きな亀裂。まるで 地面が切り裂かれ、何かが内部から力強く押し上げられたかのような 状況。
そこから、何かが――伸びている。
絡みつくそれは、まるで生きているかのようにうねり、空間を這う。それは蔓であった。無数の蔓が集まり、絡まり、束ねられ、数本の太い蔓となっていた。そしてその蔓の先に目をやる。そこには、先程まで眼前に居た仮面の男が居た。彼は蔓に囚われ、身動きが取れない様子であった
「……捕らえた?」
僕の声が、驚きと戸惑いに震える。 彼の四肢は、無数の蔓に絡め取られ、がっちりと固定されていた。 身動きが取れないのか、わずかに体をよじるものの、しなやかでありながらも強靭なその束縛を振りほどくことはできないようだった。
「今だ!」
オルトランさんの叫びが、戦場に響く。視線を横に向ける。彼は傷だらけの体を支えながら、それでもなお立ち上がり、剣を手にしていた。血が滴り、荒い息遣いが聞こえる。それでも、彼の目にはまだ炎が宿っていた。
「やれ!! 坊主!!! それはそんなに長く持たん!」
彼の怒声が、背中を押す。今が唯一のチャンスなのは明白だった。もしこのままためらえば、次はない。
僕は奥歯を噛み締め、全身の力を込める。《
ゴッ!!
拳が仮面の男の顎を捉えた。硬い手応え。骨が軋む感触が、拳を通じて伝わる。
衝撃の余波が広間に轟き、仮面の男の首が不自然な角度で跳ね上がる。蔓がきしみ、彼の体が一瞬宙に浮いた。そして――
バギッ!!
鈍い音が響く。仮面に、亀裂が走った。