不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版 作:ゴリラ
静寂が満ちる。あれほど激しく交錯していた闘争の気配も、今は嘘のように沈黙している。僕の足元には、仮面の男が倒れ伏していた。
荒い息をつきながら、拳を握りしめる。 何も感じないわけじゃない。ただ、実感が追いつかない。全身の力が抜けていくのを感じながら、僕は呟いた。
「……やった、のか……?」
その声は、自分でも驚くほどかすれていた。喉の奥が焼けるように痛む。筋肉が悲鳴を上げ、張り詰めていた神経が一気に緩む。足が、膝が、今にも崩れ落ちそうだった。
背後で、何かが崩れ落ちる音がする。振り返ると、オルトランさんだった。彼は壁にもたれるように座り込み、折れた腕に治癒魔法を施している。その顔には疲労と安堵の入り混じった表情が浮かんでいた。
声をかけると、彼は僕の方を見て、ゆっくりとうなずいた。他の『薔薇の剣』の団員たちも、それぞれの傷を確かめながら、互いの無事を確認し合っている。誰もが疲弊しきっていた。だが――それでも、全員がまだ、立っている。
「坊主……よくやった……」
その一言に、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。戦いは終わった。そう思いたかった。
でも、本当に? 終わったのか? 僕はもう一度、足元の男を見る。仮面の男は、静かに横たわっている。呼吸はしている。けれど、動かない。気を失っているのだろう。どこか、機械のように正確だった動きも、今は見る影もない。
けれど――
ゾクリ
背筋を、冷たいものが走る。感覚が告げている。まだだ。何かが、まだ終わっていない。このまま油断すれば、取り返しのつかないことが起こる。
嫌な予感が、脳裏をよぎる。
「――ッ!!」
刹那、僕の視界の中で、何かがわずかに揺れた。床に横たわる仮面の男の指が、ほんの僅かに――けれど、確かに動いた。
僕の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。まるで、悪夢が再び現実になろうとしているかのように。皮膚の下を冷たいものが這うような感覚。先ほどまでの安堵が、音を立てて崩れていく。
「痛いな……」
「些か、君たちを舐め腐っていた様だ」
そう言って、仮面の男がゆっくりと立ち上がる。僕は、まるで悪夢を見ているような気分だった。あれほどの一撃を、真正面から受けていたのに。仮面は粉々に砕け、床に倒れ伏したその姿を、僕たちは「勝利」の象徴として見つめていたはずだった。
だが。
「嘘だろ……」
背後で、誰かが震えるような声を漏らす。信じられない、というよりは、信じたくないという想いが滲んでいる。
一方、仮面の男は、まるで朝の伸びでもするかのように、首を軽く回していた。砕けた仮面の破片が床にパラパラと音を立てて落ちる。その動作すら、どこか優雅にさえ見えた。
「まったく……骨が折れたじゃあないか」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが凍りついた。冗談のつもりで言っているのか?それとも、比喩か?でも――
――骨が、折れた?
思わず自分の呼吸を忘れそうになる。いや、違う。忘れていた。ほんの一瞬、息を呑んだまま、僕は動けなかった。
なぜなら、彼の首は、完全に逆方向を向いていたからだ。
「オルトランさん……」
どうにか声を振り絞り、背後の彼を振り返る。けれど、彼もまた、絶句していた。硬直した表情のまま、目を見開き、まるで時が止まったかのように。
「……クソッ!」
オルトランさんが、低く唸るように吐き捨てる。その声音には、焦燥と怒りと――恐れがあった。
仮面の男は、何の迷いもなく、自分の顎に手を伸ばす。その動きには、痛みもためらいもなかった。ただ、事務的に、不具合を修正するかのように。
ゴキリッ
その瞬間、鈍い音が空間を支配した。骨が噛み合う音。動物のそれにも似た、異質で嫌な響き。ぞわりと背筋を冷たいものが走った。
そして――
「第二ラウンドだ」
仮面の男は、微笑んでいた。まるで、これからの戦いを心から楽しみにしているかのように。
言葉が出ない。頭が真っ白になった。これが、一流の魔法使い……。サーシャさんから話は聞いていた。一流の魔法使いは、致命傷を負っても死なない。命に関わる傷すら、自分の治癒魔法で即座に修復してしまうと……まさか、こんな所でそんな相手と相対する事になるなんて。
「クソ……これだから高位の魔法使いは……」
誰かが、恐怖に震える声で呟く。呪詛のように、絶望を押し殺すように。
「同感だな……」
オルトランさんが、歯を強く食いしばる。彼の表情には、普段の余裕はなかった。代わりにあったのは、冷静さと、そして確かな焦り。――それが、何よりも僕を震えさせた。
「どうします……?」
僕は息を殺し、小さな声で問う。もはや囁きのような声しか出なかった。返ってくるはずの言葉はなかった。けれど、沈黙の中で、隣に立つオルトランさんの剣を握る手に、ぐっと力がこもるのが視界の端に映った。その白くなるほど強張った指先が、何よりも彼の覚悟を物語っていた。
「さて」
仮面の男が、音もなく一歩を踏み出す。
その瞬間だった。
ズンッ……
世界が、揺れたような気がした。音のない衝撃が、地面の奥深くから湧き上がってくる。
重い。とにかく、重い。
空気の密度が異常なほどに高まったように感じた。まるで、自分の体が鉄板の中に閉じ込められたかのような圧迫感。息を吸おうとしても、肺が拒絶する。喉の奥が熱くなり、手足の感覚がじわじわと遠のいていく。
まるで、空間そのものが、仮面の男の一歩で圧し潰されたかのようだった。
「ここからは、私も全力で行かせてもらう」
その言葉が、静かに、しかし確実に死を予告する。冗談でも虚勢でもない。その響きには、絶対的な力への自信と、戦いを「楽しむ」者だけが持つ、底知れない悪意が滲んでいた。
そして――
ドッ!!
空間が、爆ぜた。
音より先に、鼓膜を叩くような衝撃が体に突き刺さる。瞬きの間に、仮面の男の姿が、消えた。いや――
ドンッ!!
――“現実”が追いついてきたのだ。
空気が裂ける音。風圧が壁を叩き、周囲の埃が舞い上がる。全身を包むような圧力。心臓が跳ね上がり、指先が震える。
仮面の男の姿は、もうそこにはいなかった。
「左だ!!」
オルトランさんの鋭い叫びが、空気を裂く。その声に反応する前に、僕の視界が激しく揺れた。
ギンッ!!
鋭く、甲高い金属音。瞬間的な閃光が視界を白く染める。オルトランさんの剣が、仮面の男の拳を受け止めていた。火花が弾け、力と力の激突が空間を裂く。
だが――
「ぬっ……!」
オルトランさんの足が、無理やり押し戻されるようにずるりと滑る。硬い床に靴がこすれる音が、異様に大きく感じられた。剣を通じて伝わってくる力が、さっきまでとは比べものにならない。まるで山が突進してきたかのような、質量を伴う圧。
「速く、なってる……!? いや、それだけじゃない。力も……」
喉がかすれて、声がうまく出なかった。言葉にしたことで、余計に現実味が増してしまう。
仮面の男は、にやりと笑った。口元だけがゆっくりと持ち上がる。それは、狂気の中にある純粋な“楽しみ”の笑みだった。
「さすがだ。君は最初から、警戒してたみたいだ」
その声は、ひどく穏やかだった。落ち着いていて、どこか優しくさえある。まるで、殺し合いではなく、気の合う友人と手合わせでもしているような口調だった。
でも、その余裕こそが恐ろしかった。 本気を出してなお、この男には“遊び”の感覚が残っているのだ。
「けれど……それも、もう終わりにしよう」
仮面の男が、無造作に腕を振る。軽く、あまりにも自然な動作だった。
ゴッ!!
その瞬間、空気が爆ぜ、衝撃波が奔る。風が――吠えた。壁に張り付いた埃が一斉に舞い上がり、空間そのものが揺らぐ。
オルトランさんの体が、音もなく宙を舞った。そして――
ドシャッ!!
重く鈍い音を立てて、彼の体が地面に叩きつけられる。舞い上がる粉塵。返事はない。
「オルトランさん!!」
叫びが喉を突いて飛び出した。反射的に、前へ駆け出そうとする――けれど。
足が、動かない。頭ではわかっていた。助けに行かないといけない。彼を見捨てるなんて、絶対に許されない。でも――身体が、恐怖に縛られていた。足が床に縫い付けられたように動かない。胸の奥が締め付けられるように痛く、息がうまくできなかった。
……怖い。死ぬ。今、ここで。
それでも。
それでも、僕は拳を握る。強く、強く。
逃げるな。ここで逃げたら、もう二度と――自分を許せなくなる。
その時だった。仮面の男がこちらを振り向いた。顔に浮かぶのは、穏やかな表情。それでも、そこには冷たい光が宿っていた。
「さて、君の番だ」
静かなその声が、真綿のように首を締めつけてくる。その目が、獣のようにぎらりと光った気がした。視線だけで、肌が粟立つ。心臓が凍ったように冷たくなり、次の瞬間、熱が駆け上がる。
――怖い。でも。
「っ……来いよ」
声が震えているのが、自分でもわかった。歯が噛み合っていない。それでも、僕は逃げなかった。脚に力を込めて、一歩、前へと踏み出す。たったそれだけの動作が、全力の意思表示だった。
仮面の男が歩みを進める。ゆっくりとした、落ち着いた足取り。まるで獲物をじっくり追い詰める肉食獣のように。自分が優位にあることを確信している者の歩き方だった。
その一歩一歩が床を踏みしめるたび、心臓が鳴る。いや、違う。音が鳴るのと同時に、自分の鼓動も跳ね上がっていくのだ。
逃げろと本能が叫ぶ。だが、それに抗うように、僕は詠唱を紡ぐ。
「
僕の体が熱を帯びる。筋肉が脈打ち、視界が冴える。心の中にあった迷いを、熱が焼き尽くしていく。
仮面の男が、ふっと口元を歪めた。
「やれるものなら、やってみな」
僕のその一言が合図だった。
ドンッ!!
風が裂ける音とともに、仮面の男の姿がまた消える。
――来る!!
殺気が、背筋を駆け上がる。直感が叫ぶより先に、僕の体が動いた。反射的に身を屈める。
ゴアッ!!
仮面の男の拳が、僕のすぐ頭上を掠める。風圧が肌を切り裂くように鋭く、続いて轟音。背後の柱が、音を立てて粉々に砕け散る。石片が弾け飛び、肩をかすめる。
ギリギリだった。ほんの数センチ、いや、もしかしたら数ミリでも動きが遅れていれば――僕の頭は粉々になっていた。
命が、刹那ごとに削られていく。それでも、僕は、踏みとどまっていた。
「ッ……!」
その勢いを利用して、僕は咄嗟に右拳を握りしめ、腰をひねる。頭で考えるよりも早く、身体が反応していた。狙いは――仮面の男の側頭部。拳に宿る力は、魔法で強化された自分の全力。もし当たれば、いくら彼でも無傷では済まない――そう確信できる一撃だった。
だが。
拳は空を切った。何も手応えがない。風だけが、虚しく指の間を抜けていった。
「……かわされた……!?」
信じられなかった。あの至近距離で。あのタイミングで。けれど、視界の端に揺れる影。風の流れが不自然に乱れた。仮面の男は、体をほんの僅かに沈めていた。まるで、僕の動きを最初から知っていたかのように。
異常だ。反応速度じゃない――これは。
「今のは悪くないね」
冷たく、感情の読めない声が耳元で囁かれる。次の瞬間、激痛が身体を貫いた。
ドゴッ!!
肘が、脇腹に食い込む。肉が潰れ、肋骨がきしむような音が頭の中に響く。肺が瞬間的に収縮し、息ができない。口からは空気ではなく、苦悶の呻きが洩れた。
「ぐ……ッ!」
体が跳ね飛ばされ、床を転がる。視界が回転し、天地の感覚が曖昧になる。だが、僕の中のどこかが叫んでいた――まだ、終わってない。
《ロブル・ギガンティス》。その魔法が、今の僕を支えている。足に力を。腕に重みを。心に――闘志を。
ぐらつく視界の中、僕は膝を突き、荒く息を吐きながらも立ち上がる。痛い。全身が軋んでいる。でも、まだいける。少し前の自分なら、あの一撃で立ち上がることすらできなかっただろう。今の自分は、確かに前よりも強くなっている。そう信じたかった。
だが。
あの動き。あの避け方。ただ速いだけじゃない。彼は“見て”から反応してるわけじゃない。“読んで”いるんだ。僕の動きの癖、重心の傾き、筋肉の動き。すべてを――理解している。
これは、技術の差。経験の差。僕たちが命懸けで掴もうとしている“戦い”という感覚を、この男は何千、何万と積み重ねてきた。圧倒的な“場数”が、差として現れている。
心が、折れそうになる。無理なんじゃないか――そんな声が、心の奥底から囁いてくる。
「坊主、左だッ!!」
オルトランさんの怒鳴り声が、迷いを断ち切った。その声がなければ、次の一撃を受け止めることすらできなかっただろう。
ドグシャッ!!
「ッ……が、はっ……!」
体の左側に炸裂する蹴り。骨がきしみ、肉が潰れる。肺の中の空気が強制的に押し出され、喉の奥から悲鳴にも似た息が漏れる。
視界がぐにゃりと揺れ、時間の流れが歪んだような感覚に陥る。何が起きたのか理解するよりも早く、僕の体は宙を舞っていた。
次の瞬間、床に叩きつけられる。背中に走る衝撃。肺が潰れたかと思うほどの痛みが全身に波及し、内臓が軋むような吐き気に襲われた。
……動けない。頭が真っ白になる。でも――それでも、僕は。
目を開けた。
「坊主!」
「……やはり、硬い。中位の強化魔法にしては、異常な硬さだ……これで身体が魔法に追いついていたらと思うと、ゾッとするな」
誰かの声が聞こえる。けれど、それが誰の声なのかは、すぐにはわからなかった。頭がズキズキと痛む。全身の筋肉が痙攣するように震え、痛覚と疲労と混乱が脳を支配していた。音も、まるで水の中にいるようにぼやけている。世界が、靄に包まれているようだった。
それでも――
「
ほとんど無意識だった。口の中に広がる鉄の味。唇の端から流れた血が、首筋に冷たく張り付いているのを感じる。霞む意識の中、自分の手を震えながら胸元に当て、呟くように術式を紡ぐ。
淡い温もりが、じんわりと全身に広がっていく。まるでぬるま湯に全身が包まれるような、穏やかで心地の良い温もり。それが、傷ついた肉体を優しく撫でた。
潰れかけていた肺が、少しずつ息を取り戻していく。息を吸うたびに走っていた胸の激痛が、和らいでいくのがわかった。耳の奥がピリッと熱を帯び――そして、ぼやけていた音が、急激にクリアになった。
「――坊主! 生きてるかッ!」
オルトランさんの声が、今度ははっきりと耳に届いた。その怒鳴るような声が、頭の中で鋭く反響し、現実に意識を引き戻してくれる。
僕はかろうじて頷いた。まだ――終わっていない。まだ、戦える。
「っ……なんとか」
痛みはまだ残っている。特に肋骨の辺りは、深く呼吸をするたびに鈍い痛みが走る。けれど、呼吸はできる。足に力も入る。膝を地につけたまま、僕はゆっくりと顔を上げる。
視線の先――仮面の男が、まるで何かを測るように、じっとこちらを見下ろしていた。
「その歳で、回復魔法まで収めているのか……術式の自動化はまだ出来ていないようだが、大したものだ」
感情のこもらない声。その瞳には、冷静さがあった。でも、それだけじゃなかった。ほんの一瞬――彼の目の奥に揺れた何かを、僕は見逃さなかった。
「それだけに、ここでその才を摘み取らねばならない事を残念に思うよ」
その言葉は、まるで死刑を言い渡す審判のようだった。冷酷で、揺るがない。仮面の下にある本心は見えない。けれど――
違う。何かが、引っかかる。
彼は、まだ動かない。先程までのように、すぐに拳を叩き込んでこようとはしていない。距離も詰めてこない。静かにこちらを見ているだけだ。まるで、何かを待つかのように。
……おかしい。今までの仮面の男の行動と一致しない。何かを警戒している?それとも、疲弊している……?僕の治癒魔法の速度や、回復の様子を見て、何かを推し量っているのか?それとも――魔力?まさか、奴も限界が近い……?
僕は、震える足に力を込めて立ち上がる。膝が軋み、全身から汗が噴き出す。それでも、倒れない。意地でも立ち続ける。視界ははっきりしていた。鼓動が徐々に落ち着き、意識も、頭も冴えていく。
そして、ひとつの疑念が形を成した。
「……なんで、避けるんだ?」
ぽつりと、独り言のように口にしたその言葉は、しかし、確実に仮面の男に届いた。わずかに、眉が動く。驚き、あるいは警戒。感情が、表面ににじんだ。
僕は言葉を続ける。
「治癒魔法を極めた魔法使いなら、攻撃なんて受けても構わないはずだ。どれだけ攻撃されても、その回復力で強引に打ち砕けばいいだけだから」
語る声が、自然と力を帯びていく。視線を逸らさず、彼の仮面越しの瞳をまっすぐに捉えた。
「少なくとも、お前くらいの実力なら、僕たち相手にそれが出来た。だけどお前は……それをしなかった。避けられる攻撃は、全部避けている。まるで、“傷を受けたくない”みたいだ」
その瞬間、空気がピンと張り詰めた。まるで部屋の温度が数度下がったかのように、背筋に冷たいものが走る。
「……限界があるんだろ? お前の治癒魔法には」
沈黙が返ってくる。それを肯定とも否定とも取れない、けれど確実に“図星”を突かれた時の沈黙だった。
「魔力が足りなくなるってところか? お前は、治癒魔法の自動化は出来ているが、魔力運用の効率化は出来ていないんだ」
僕の声は静かだった。むしろ、静かすぎるほどだった。だが、その静けさの裏にある確信が、言葉に重みを与えていた。
「運用の効率化が出来ていないから、最小限……自然に回復する魔力の範疇で、治癒魔法を扱えない。だから、やたらめったらに傷を負うと、最終的に魔力が足りなくなるんだ。術式の自動化はそんなに融通の利くものじゃない。一度オンになったら、オフにするのは酷く難しいから」
言いながら、自分の中で点と点が線になっていくのがわかった。さっきまでぼやけていた疑念が、確信に変わる感覚。だから、止まらない。止めたくなかった。
「その上、高位の強化魔法も維持している。もう、心許ないんじゃないか? 魔力」
その瞬間だった。仮面の男の顔――いや、顔の見えないはずのその“存在”が、わずかに揺らいだ。 ほんの一瞬。だが確かに、感情の波が走ったのを僕は見た。歪んだ――否、それは“歪んだように見えた”だけかもしれない。けれど、その沈着冷静を絵に描いたようだった男の仮面に、初めて生じた一筋の揺らぎ。僕は、それを見逃さなかった。
彼は――動揺している。
「……観察眼は悪くない」
仮面の男の声は、あくまで淡々としていた。だが、その一言には、わずかな苛立ちがにじんでいた。それは誤魔化せない揺らぎ。今までのような余裕は、そこにはなかった。
「だが、それを見抜いたからと言って――どうなる?」
次の瞬間、地を蹴る音が響いた。仮面の男が一直線に、鋭く間合いを詰めてくる。その動きは速い。けれど、鋭さの中に一瞬の“遅れ”がある――ほんのわずか。けれど、確かに存在する。僕の瞳が、その鈍りを見逃すはずがなかった。
……やっぱり、魔力の消耗が来てる!
さっきのような切れ味がない。地面を蹴る際の魔力の噴出量が、目に見えて小さい。それだけで、彼の言葉が虚勢にすぎないことを確信できた。
「お前ごときの攻撃で、私の魔力を枯らせると思っているのか?」
「思ってないよ」
短く言い返しながら、僕も地を蹴る。まだ体は重い。内臓の痛みは完全には引いていない。でも、動ける。動いてみせる。限界なんて、まだずっと先だ。
「僕ひとりじゃ無理だ。どうあっても抜け出されるだろうからね。でも、僕は――ひとりじゃない!」
その言葉と同時に、鋭い風切り音が背後から迫る。別方向――仮面の男の死角から、轟音と共に魔力の奔流が迫る。
「どけ坊主ッ!」
オルトランさんの声に、即座に反応して身を伏せる。刹那、背後を凄まじい勢いで風が通り抜け、空気が爆ぜるような音が耳を打った。
鋭利に削られた蔓の杭。それは、大地の力を濃縮して生まれた、自然の殺意。仮面の男の脚を狙って、一直線に飛来する。狙いは正確だった。
だが――仮面の男もさすがだった。わずかに体を傾けて、最小限の動きでそれを回避する。杭は彼の脇をかすめて通り抜け、地面をえぐって炸裂した。爆風が巻き起こり、砂煙が舞う。
その爆風の中で、僕は声を張り上げた。
「ここからは、我慢比べだ!」
怒鳴る声に、仮面の男がわずかに表情を硬くする。その顔には怒りがある。だが、同時に“余裕の消失”もあった。
「お前の魔力が尽きるのが先か、僕たちが力尽きるのが先かの」
砂煙の中、僕は仮面の男をにらみつけたまま、口元をわずかに吊り上げる。
「言ってみろよ、”どうする”って?」
返答はなかった。仮面の男は言葉を返さず、ただ静かに構え直す。その動きに、一見して隙はない。 だが、その沈黙の奥にあるのは、言葉で説明できないほどの“静かな怒気”だった。冷静に見えて、その実、確実に追い詰められている。
間違いない……!
これまで届かなかった一撃を、いよいよ叩き込める局面が来ている。問題は、どうやって“そこ”に持ち込むか――だ。
だったら、かき乱すしかない!
僕は呼吸を整える。胸に残る痛みを、強く吸い込んだ空気で押し流す。汗が滴り、視界に差し込む光が揺れる。けれど、焦点はぶれない。仮面の男を中心に、世界が回っていた。
視界の端で、オルトランさんが次の詠唱に入っているのが見える。他の団員たちも、魔法の構築に集中している者、牽制の矢を準備する者、それぞれが役割を果たそうとしていた。一人ひとりの意志が、今、ひとつに重なっていく。
距離、角度、タイミング……全部合わせて、隙を作る!
僕は再び地を蹴る。全身の筋肉に鞭を打ち、痛みすら力に変えて踏み込む。当然、仮面の男は反応する。彼の目が、僕の動きを読む。見られている。読まれている。でも、それでいい。むしろ――読ませた上で、叩き潰す!
「オルトランさん!!」
叫んだ瞬間、大地が脈動する。僕の声に応じるように、地面がうねり、無数の蔓が突き上げるように噴き出した。それは生きているかのように、仮面の男の足元を狙い、絡みつく。まるで獲物を仕留めようとする蛇のように、蠢きながらその脚を縛り上げようとする。
仮面の男は即座に跳び上がろうとする。だが、その瞬間こそが、僕の狙い――!
全身に渾身の力を込めて、さらに加速する。風を裂く音が耳を打ち、視界が仮面の男の影で満たされる。
「避けてみろ……!!」
振るった拳が、仮面の男の脇腹をかすめる。だが、僕は止まらない。すかさず体をひねり、拳の流れを利用してもう一撃を放つ。さらに、そこから回し蹴りを叩き込むように追撃――!
男は反射的に身をひねり、ギリギリで躱す。だが、その動きには明らかな遅れがあった。さっきまでのような切れ味がない。動作にキレがない。魔力の消耗だ。あれだけの強化魔法を維持しているんだ――限界も近いはずだ。
これなら――!
「……まだだ! !」
声を張り上げると同時に、また地を蹴った。膝が悲鳴を上げる。それでも、前へ。突き出した拳を、仮面の男が腕で受け止める。金属音のような衝撃が鳴り、皮膚越しに骨と骨がぶつかる感触が伝わってきた。そのとき――仮面の男の腕が、ほんのわずかに震えた。見逃さない。いや、見逃すはずがない。確実にダメージは蓄積している!
すかさず足払いを狙い、低く腰を落とす。しかし、仮面の男は地面を蹴って跳び退き、距離を取ろうとした。その逃げの動き――それこそが、今の彼の“余裕のなさ”を物語っている。
「させるかっ!」
背後から再び飛来する木の杭。オルトランさんの魔法だ。唸りを上げて突き進むそれを避けるために、仮面の男は横にずれる――その回避行動が、致命的な隙を生んだ。
――今しかない!
僕はその動きを先読みして、全身の力を拳に込める。重力すらねじ伏せるように踏み込み、渾身の拳を叩き上げた。
ゴッ!
手応えがあった。拳が顎をとらえた感触が、じわりと手の甲に残る。仮面の男の体がぐらつく。あの鉄壁の構えが、わずかに崩れる。
――今だ!今しかない!
「今だッ!!」
僕の叫びが合図となった。背後から、次々に魔法が放たれる。地を這うように伸びる蔓。水の粒が鎖の形を取り、空中を走る。黄金の鎖が、黄金の軌跡を描きながら仮面の男へと収束していく。
『薔薇の剣』の団員たち全員が、この瞬間に力を合わせていた。誰一人、諦めていない。
仮面の男は、動こうとする。だが、その一歩が遅れる。僕の拳が顎をとらえたあの一撃――あれが確かに、彼の動きを止めていた。
「……っ、ぐ……!」
呻きと共に身を翻すが、それも遅い。蔓が足首を絡め、地面に縫い止める。水の鎖が回転しながら腰に巻きつき、動きを制限する。そして黄金の鎖が、まるで天罰のように降り注ぎ、肩を打ち抜き、腕を封じる。
もがこうとする男の動きが、止まる。もはや、彼に逃げ場はない。
「お前の生け捕りは、無理だろう。少しでも魔力回復の猶予を与えれば、きっと拘束を振りほどき逃げるだろうから」
僕は、静かに、けれどはっきりと告げた。その声は、もはや敵に向けたものではなく、自分自身への確認でもあった。
「だから、お前はここで終わらせる」
拳を握り締める。骨が鳴る。仮面の男の目が、ほんのわずかに揺れた。
「覚悟は、出来てるな?」
一歩、踏み出す。仮面の男の顔が視界に入る。無表情の下に、確かな疲労と焦り、そして怒りが滲んでいた。
頭蓋を殴り砕く。ぐしゃ、と嫌な音が鳴る。すぐに再生する。
顎を殴り砕く。骨が砕け、肉が裂ける。それでも再生する。
あばらを蹴り砕く。脇腹が陥没し、内臓が潰れる。それも再生する。
首を殴り折る。ぼきりと音がして、体がぶらりと傾く。それも――再生する。
それでも、僕はやめない。止まらない。今止めれば、この男はまた立ち上がるだろう。
「……なら、限界まで付きあってよ」
僕はただ、拳を振るい続けた。皮膚が裂け、血が飛び散る。骨が砕け、また再生する。けれど、その回復速度が、ほんの少しずつ鈍ってきているのが分かる。魔力がじわじわと減っているのが分理解できる。
仮面の男の治癒魔法は確かに自動で発動している。だが、それは“魔力がある限り”の話だ。再生に、わずかな“間”がある。その一瞬の間――それが、終わりの兆し。
僕の拳は止まらない。回復を上回る破壊と痛みを、絶え間なく叩き込む 仮面の男の表情が、初めて苦痛に歪んだ。眉が寄り、唇が震え、歯がきしむ。どんな生き物でも――痛みは感じる。限界はある。
再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。再生する。
再生……しない。
その瞬間、全ての感覚が研ぎ澄まされた。僕は、確かに見た。仮面の男の右腕――一度折ったそれが、再び元に戻ることはなかった。皮膚が裂けたまま、肉がえぐれたまま、動かない。回復が、止まった。
「終わりだ……!」
僕は、最後の一撃に全身の力を集中させる。今まで溜め込んできたもの、諦めなかった気持ち、仲間への想い――全部をこの拳に込めて、振り下ろす。
拳が風を裂く。大気が、僕の動きに反応するようにうねった。仮面の男は、もう動かない。いや、動けない。再生が止まった今、その体はただの人間と同じだ。それでも、最後まで彼は僕を見ていた。目を逸らさず、睨むように。
「……っ!」
拳が仮面を砕いた。
ガシャッ!
重く、濁った音が響く。仮面の破片が飛び散り、彼の素顔が露わになる。見慣れぬ顔だった。見覚えも、感情もない――けれど、その目だけが、やけに印象に残った。怒りとも、憎しみとも、絶望ともつかない、混じり合った何か。それが、ほんの刹那、僕の心をかすめる。
けれど――
「これで……終わりにするんだ!」
僕の拳は止まらない。砕けた仮面の奥、男の顔面をそのまま打ち抜く。骨の軋む音がして、男の体がぐらりと揺れる。それでもとどめを刺すように、もう一撃、そしてさらにもう一撃。
全ての力を振り絞って、僕は最後の拳を叩き込んだ。
その瞬間――仮面の男の体が、崩れるように膝をついた。そして、前のめりに倒れる。重力に抗えず、地に沈むように。
誰も、声を出さなかった。僕も、声が出なかった。ただ、拳を構えたまま、肩で息をする。
風が吹いた。戦いの熱気を払い、夜の冷気が肌をなでる。ようやく、自分の手が震えていることに気づいた。腕が重い。足も、鉛のように動かない。それでも――僕は、立っている。
目の前には、動かなくなった仮面の男。その身体には無数の拘束魔法がまだきらめいていた。 地を這う蔓も、水の鎖も、黄金の鎖も――もう動く必要はないのに、今はまだその役目を終えきれずにいた。
やがて――オルトランさんの声が、静かに響いた。
「……やったな」
その言葉に、ようやく現実感が戻ってくる。僕は、ほんのわずかにうなずいた。けれど、口元はうまく動かせない。心が、追いつかない。
終わった。本当に――終わったんだ。