不遇水魔法使いの禁忌術式 後追いを超えた後追い版 作:ゴリラ
終わった。本当に、終わったんだ。その実感が、じわじわと胸に広がっていく。手から、ようやく力が抜けていった。もう戦わなくていいんだと、体の奥が、鈍く確かな実感とともに理解しはじめる。
そのとき、湿った空気に乗り、別の音が紛れ込む。細かな足音。湿った床を蹴る、軽やかで、それでいて確かな足取り。
「悠太さん!」
聞き慣れた声が、張り詰めていた空気を破る。振り向くより早く、駆け寄ってくるサーシャさんの姿が視界に飛び込んで来た。その顔には、確かな安堵の色が浮かんでいる。
「怪我はありませんか?」
「うん……たぶん、無事……」
そう答えた途端、僕の体から一気に力が抜ける。全身を支えていた何かが、ぷつりと切れたようだった。気づけば、僕はその場に膝をついていた。張り詰めた緊張が一気に崩れ、胸の奥からじわじわと痛みが広がっていく。肩で荒く息をしながら、それでも意識だけはどうにか保っていた。
サーシャさんが、少しだけ目を丸くして僕の方へ駆け寄る。だがその動きには、慌てた様子はない。彼女の目には、僕の消耗も想定内だったのであろう。彼女は、僕を信じていた。あらかじめその結末を見通していたかのように、迷いなくしゃがみ込み、あたたかい手で僕の肩をそっと抱きしめる。
「……よかった。えぇ、本当に……」
その言葉も、どこか落ち着いていた。まるで結果を見届けた後の安堵と、それに続く確認作業のように。
「そっちも大丈夫だった?」
ようやく少し落ち着いた声で、僕は尋ねる。喉がからからで、声が掠れていたけれど、それでも確かに届いていた。サーシャさんは少し微笑みながら、ふっと頷いた。その表情には、やはり――最初から何も疑っていなかったという確信がにじんでいる。
「雑兵は、全て片付けました。もう、抵抗できる者は居ないでしょう」
サーシャさんは短く答え、辺りをぐるりと見渡す。その目は鋭く、抜け目がない。誰かが隠れていないか、罠が残されていないか――細部にまで意識を巡らせながら、最後の確認を怠らない。
やがて彼女は、静かに足を踏み出し、仮面の男の傍へと近づいてゆく。砕け散った仮面の破片をひとつ拾い上げ、そしてしばらく無言のままそれを見つめる。
「……結局、最後まで名前も素性もわからなかったよ」
僕は、静かに呼吸を整えながら立ち上がり、彼女に近づく。
「……それは、仕方がないでしょう。今は、無事であった。ただそれだけで十分です」
彼女は仮面の破片を投げ捨て、柔らかく微笑む。その声は、まるで小さな子供をなだめる母親のように穏やかだ。
僕は静かに、もう一度、地に伏した仮面の男へと視線を向ける。再生を繰り返し、異常なまでにしぶとかったあの身体。それは今はただ、静かに地面に沈んでいる。それを見て、やっと、終わったのだと心から実感得た。
「……こっちの魔法、まだ残ってますね」
サーシャさんがそっと指を伸ばし、男の身体を絡め取っていた黄金の鎖に触れる。その瞬間、蔓も、水の鎖も、まるで役目を終えたかのように、ホロホロとほぐれ、消えてゆく。糸がほどけるように、優しく、静かに。そして、それらは細かな光の粒となり、魔力へ還る。
ふと背後から、誰かの足音が近づく。
「やれやれ、ようやく終わったか……」
この短い期間で随分と聞き慣れた低い声。
振り返れば、オルトランさんがそこに居た。傷ついた体を支えるように、剣を杖代わりに突きながら、それでも背筋をピンと伸ばし、立っている。その顔には、深い疲労の色と、それ以上に濃い安堵の表情を浮かべていた。
続くように、他の団員たちも、徐々に集まり始めていた。それぞれが無言で、倒れた男の姿を見下ろす。疲労に体を引きずりながら、それでも皆、しっかりと立っている。誰一人として、その場に崩れ落ちる者はいなかった。
皆、生き延びたのだ。戦い抜き、互いを信じ、誇り高く――この戦いを、生きて越えた。胸の奥が、じんわりと熱くなる。誇らしさと、救いと、ほんの少しの寂しさが、静かに胸に積もっていく。
そんな中、自然と口をついて出たのは、うまく形にならない言葉だった。
「オルトランさん……僕……」
声にならない声。伝えたかったのは、感謝だったのか、安堵だったのか。あるいはただ、生きている実感を誰かに確かめたかっただけなのか。自分でもわからない。ただ、どうしても、何かを伝えたかったのだ。
しかしオルトランさんは、すっと片手を上げ、軽く首を横に振る。
「言葉はいらん。お前の拳が、すべてを語っていた」
その静かな一言が、胸の奥に深く沁みる。努力してきた日々、悩みながら選んだ決断、恐れを押し殺して拳を握った瞬間――そのすべてが、あの一撃に宿っていたのだと、ようやく実感できた。
僕は胸の奥で熱く膨れ上がる感情をどうにか抑えながら、目を伏せて、小さく頷く。
そのとき――
「見てください」
誰かの静かな声が、場の空気を揺らす。それまで沈黙を守っていた団員達その一人が、慎重に何かを手にして歩み寄ってくる。彼の手に抱かれていたのは、一冊の小さな手帳であった。革のカバーに包まれたそれは、角が擦り切れ、綴じ目には使用の痕が深く刻まれている。けれど、ただの古びた手帳ではなかった。光を受けてわずかに輝く金の留め具には、奇妙で重厚な意匠が刻まれている――七つの獣の首と、中央に据えられた盃。その紋は、見る者にどこか畏敬の念を抱かされる。そんな代物であった。
「奴が所持していた物です」
団員が低く呟くと、場の空気がわずかに張り詰め始めた。
僕は思わず身を乗り出して、その手帳を見つめる。仮面の男の持ち物……もしかしたら、奴の事や『月の雫』その供給源が分かるかもしれない。僕が、そう声を上げるよりも早く、オルトランさんが手を伸ばし、その手帳を手に取る。
そして、彼の眉間が深く寄る。沈黙のまま目を細めた彼は、やがて低く唸るように口を開く。
「……王族の……ローズディア王家の紋章だな」
静かに告げられたその言葉が、重く落ちるように場に響く。
「王家の……?」
思わず訊ね返すと、オルトランさんは手帳を見つめたまま、厳しい目つきで返す。
「そうだ。この紋章は、ローズディア帝国の王家が掲げる紋章だ。帝国の守護神たる七つ首の獣と、王家の秘宝たる金盃……ローズディア家の者か、それに近しい人物しか、この紋の付いた物品を持つことは許されないが……」
その声は、静かだった。だが、その奥に潜んでいたのは抑えきれないほどの怒り。低く、沈んだ語調の中に、爆ぜる寸前の激情が潜んでいる。オルトランさんの拳は、知らぬ間に固く握られ、手帳の角が手のひらに食い込んでいた。
僕は言葉を失い、ただ彼の手元――いや、その震える拳を見つめる。
「……だが、“それ”が此処にある…………考えたくはないが、それはつまり“そう言う事”だろう」
声がわずかに震えた。手帳を持つ手の甲には浮き出た血管がくっきりと走り、その怒りと緊張を物語っている。恐れさえ感じるほどの静かな怒気。オルトランさんの表情は、普段の沈着なものではなかった。
僕は無意識に息を詰める。隣でサーシャさんも眉をひそめ、目を細めながら手帳を凝視していた。彼女の表情にも、ただの驚きだけではなく、深い思案と、そして一抹の戦慄が宿っている。
「……つまり、その仮面の男は王家の一人……もしくは、王家に近しい人物であった可能性が?」
恐る恐るそう尋ねた僕の声は、掠れていた。答えを聞きたい反面、知ってはいけない何かに踏み込むような不安が胸を締めつける。
オルトランさんは、すぐには答えない。目を閉じ、重い沈黙を一拍置いたあと、ゆっくりと口を開く。
「いや、王家の一人である可能性は無い。今現在、ローズディア王家と呼べる人物はたった二人しか居ないからな。だから、王家より直接、紋章の付いたこの手帳を賜った人物という訳だが……」
言いかけて、オルトランさんは口を閉ざす。まるで、これ以上は言いたくない、言うこと自体が危険だとでもいうように。彼の目は手帳の紋章に吸い寄せられるように注がれ、その瞳には深い葛藤が宿っていた。
「……それはつまり、この男は“王家に忠誠を誓った、あるいは何らかの特別な命を帯びた者”である可能性があるということだ。少なくとも、王家と極めて密接な関係にあった人物なのは間違いない」
その瞬間、場の空気が変わる。誰もが息を詰め、言葉を失う。それは、風が止み、嵐の訪れを予感させる、あの不吉な静けさに似ていた。
サーシャさんは腕を組み、静かに視線を落とす。その眼差しは、深い迷いと疑念を宿していた。彼女の頭の中で、あらゆる可能性がせわしなく交差しているのが、見て取れるようだ。
「私は最初、この国の貴族が裏に居ると思っていました。ですがそれにしては、『月の雫』の流通規模は少しおかしかった……ですので、黒幕がそのレベルであるのなら色々と納得がいきますが……ですが本当に? この様に大規模に事を起こせるのは、現状だと叔父の方だけでしょうが……」
彼女は言い淀むように目を伏せ、ひと呼吸置いてから続ける。その声音には、困惑と嫌悪、そして一抹の恐れが混ざっていた。
「ですが……国中に薬をばら撒き、国力を低下させる事をするようには思えません……明らかに、彼の政治方針とは真逆でしょうに……」
それは、単なる憶測ではない。彼女はアフィドの政策を理解していた。軍事力の強化、帝国の威信の回復、国力の集中……帝国をかつての栄華を誇った姿へと回帰させる。
薬物による民衆の堕落など、彼の掲げる理想とは最も遠い行動であろう。
その言葉に、オルトランさんは静かに頷く。だが、その頷きには安堵よりも、むしろ苦々しい諦めが混ざっていた。
「しかし、陛下は未だ九つの子供だ。侮っている訳ではないが、このような事を考えられるとは思えない……まぁ全て憶測だ。仮面の男。奴が紋章の付いた物品を持つことを許された人物であるという事に変わりはない。が、もしかしたら王家はこの件に関わっておらず、この仮面の男とその仲間たちだけの企てという可能性もある。もしくは……普通はありえないが、盗み取られた物という線も、無いわけではない……結局の所、証拠が乏しい今は、王家が関わっているなどと軽々しく口にすることは許されない」
彼の声音は低く、そして重い。慎重に選ばれたその言葉たちは、事の重大さを告げながらも、軽はずみな判断を拒んでいた。王家の名が絡むということ、それは単なる謀略では済まされない――国家そのものの根幹を揺るがす話だ。
「……まぁいずれにせよ、ここでの戦いは氷山の一角に過ぎない。お前たちには――いや、俺たち全員に、これから覚悟が求められるだろう」
その言葉が、静かに胸に刺さる。この場での戦いは終わった。だが、それはただの“始まり”に過ぎないのだった。それでも、不思議と拳は震えていない。握りしめた手の中には、迷いも怯えもなかった。
「大丈夫です。もう、覚悟はできてます」
その言葉は、ただの強がりではない。この戦いを越え、信じてくれた仲間たちの姿を見て、自分の中に確かに芽生えたもの――それが、揺るがぬ決意となっていた。心に灯った火は、もう誰にも消せない。たとえこれから先、どんな困難が待ち受けていようとも。
だが――その決意を、無遠慮な声が切り裂いた。
「水を掛ける様で悪いが、少し待ってもらおうか」
低く、抑えた声。感情をほとんど感じさせない、乾いた音が夜の空気を裂いて響く。
咄嗟に僕たちは振り返った。足音ひとつ立てずに、背後から迫っていた気配に気づかなかった。
そこには、暗がりの中からゆっくりと姿を現す一団がいた。ランプによって照らされたその面々は、黒いローブを身にまとい、顔の下半分を布で隠している。無駄のない動き。統率された気配。まるで一つの意志で動く影の群れ。
先頭に立つ男は、見覚えのない顔だ。だがその眼差しには、一切の迷いも情けもない。ただ命令を遂行するための無機質な光が宿っていた。
ローブの胸元には、銀糸で刺繍された紋章――七つの獣の首と盃。それが、彼らの正体を示している。
冷たい空気が、彼らの衣の裾を揺らす。だがその動きさえも、まるで演出されたかのように整っている。
「……誰だ」
オルトランさんが低く、鋭く問うた。既に剣を抜き、構えている。その目は敵を見据える将のものだ。
『薔薇の剣』の団員たちもすでに身構え、それぞれが得物を手にして男たちを取り囲む形を取る。緊張の糸が、ぴんと張り詰めていた。
サーシャさんは無言のまま、静かに僕の前に出る。まるで自然な動作だった。
「我々は、王室直下親衛隊である」
その言葉に、空気が一段と冷たくなった気がした。
王室直下親衛隊……言葉通りに捉えるなら、皇帝の命に直接従う選抜部隊と言った所だろうか?少なくとも、碌な目に会わないであろう事は予測できた。
「貴様らには、『月の雫』流通の容疑が掛けられている。よって、貴様らを捕縛させてもらおう」
静かに、しかし確実に、男はそう告げた。紛れもない命令。まるで法の代行者として、疑いの余地など一切ないという態度だった。
一瞬、時間が凍りついた。誰も、すぐには言葉を返せなかった。
だが次の瞬間、その沈黙を破ったのはオルトランさんだった。
「……冗談じゃない……!」
低く、怒りを押し殺したような唸り声。
その剣先はわずかに震えていたが、それは恐怖ではなかった。明らかに怒り――理不尽な力に対する、魂の奥底から湧き上がる、烈火のような怒りだった。
僕は息を飲みながら、その場に立ち尽くす。
理不尽が、理性の仮面をかぶってこちらに歩み寄ってくる――そんな悪夢のような現実が、目の前にあった。
「待ってください!」
気づけば、僕は声を張り上げていた。恐怖も、疑念も、怒りも、すべてが入り混じった叫びであった。
「僕たちは『月の雫』の流通を止めるために戦った! こんな、こんな理不尽な――!」
だが、その言葉を遮るように、ローブの男が冷笑を浮かべた。その目には、一片の感情も宿っていなかった。まるで、こちらの言葉など最初から無意味だと決めつけているような、冷たい視線だ。
「理不尽だと?」
言葉に籠もる冷淡さは、まるで氷をなぞるようだった。
「皇帝陛下は、この場に居る者一切を捕縛せよと命じられた。これは勅命だ。それ以上でも、それ以下でもない」
男は一歩、こちらに歩み寄った。その足取りは静かでありながら、妙に重たく感じられた。まるで、逃げ場のない鉄格子がこちらに近づいてくるような錯覚すら覚える。その動きには、一片の迷いがない。まるで最初から、誰かの命を奪うと決まっていた処刑人のような、無駄のない静謐さと冷徹さに満ちていた。命令とはかくも人間の意志を平坦に削るものなのか、とすら思える。
「何より、こんな所に居る者の言の葉の何を信用しろと?」
男は、静かに続けた。その声はさほど大きくはなかったが、その分だけ鋭く、周囲の空気を切り裂いていく。言葉は冷ややかだったが、それがかえって剣よりも鋭く感じられた。一つひとつの語が、断罪の槍のように、僕たちの心の奥を正確に射抜いてくる。
「ここは『月の雫』の流通拠点の一つであり、保管施設だ。それも、大規模な。そして、貴様らはそのような場所に居た。例え貴様らが言うように、薬の売人共と戦っていたのだとしても、だ――」
男の瞳がこちらを真っ直ぐに射抜いた。氷のように冷たく、そして確信に満ちた光。そこには、「理解」も「同情」もなかった。まるで最初から結論だけを携えて現れた者の目だ。こちらが何を言おうと、それは結果を変えるための材料にはならないと、初めから決めつけているかのようだった。
「このような場所に居た以上、貴様らを捕縛しない理由は存在しない」
静かに、だが紛れもない断言。その一言は、斬りつけられるよりも残酷に、僕たちの正義を切り裂く。こちらがどんな覚悟で戦い、どれほどの代償を払ってきたとしても、帝国の法はそれを顧みようとはしない――そんな現実を、突きつけられる。
喉の奥が乾く。息を吸うのも苦しいほどの緊張が、場を支配している。
「それに、『オルトラン・スミチオン』」
男の目が、次はオルトランさんに向けられる。刃が今度は別の標的に定まったようだ。
「貴様は帝国第七師団の隊長でありながら、『薔薇の剣』などという私設組織を編成し、好き勝手に動いているようだが……これは、立派な軍法違反ではないかね?」
その言葉に、周囲の空気がさらに冷たく、重く沈んでいくのを感じる。背後の団員たちの顔にも、怒りと戸惑い、そしてほんのわずかな恐れが浮かぶ。だがそれでも、誰一人として武器を下ろさない。それが、彼らの矜持なのだろう。
「しかもこの『薔薇の剣』と呼ばれる組織は、国家転覆の罪によって流刑に処された、『カマホル・サンディーズ』を信奉していると言うではないか」
その名が口にされた瞬間、場の空気が一段と張り詰める。それはまるで、禁句であるかのように重たく響く。カマホルさん――あの砂漠に……あの流刑地に送られた、革命家。今も人々の間で「罪人」と「英雄」の間を揺れる、僕らの恩人。だが、彼を信奉するという言葉が、いかに帝国にとって危険な響きを持つかは、明らかだ。
「それでも尚、理不尽だと? 捕縛する理由は、これ以上なく存在しているだろう」
そう言い切った男の声には、勝利の色は無い。ただ、職務を遂行する者としての無感情な確信があるだけだ。それが、かえって痛ましいほどに冷たく、残酷に響く。
オルトランさんは、深く息を吐く。その呼気は重く、長く、そして苦々しい。怒りに燃える瞳の奥に、それ以上に、どうしようもない現実を前にした悔しさがにじんでいるのが見て取れた。これまで何度も絶望に直面して来たのであろう彼の顔に、それでもなお折れずにここまで歩んできた男の、深い疲労と痛みが浮かんでいる。
「…………お前達が、どんな理屈でもって、俺たちを押さえつけるつもりなのかは、知らん。理解する気も、無い。だがな……」
低く、凍りつくような声。その一語一語が、空気の温度を凍らせていく。
「正義は、我らにあった」
剣の切っ先がわずかに持ち上がる。震えることなく、まっすぐに前を向いたその動きには、揺るがぬ信念が宿っていた。
「お前達が、今の今まで動かなかった分、どれだけ無辜の民が苦しんだ?」
その声は怒りに震えていた。けれど、それは激情に任せたものではなかった。積み重ねられた悲しみと、喪失の末に残った叫び――魂の慟哭だった。
「薬に蝕まれ、現に帰ってこなくなった者を見た」
「錯乱し、己の家族を手に掛け、最後に自ら命を絶った者を見た」
「薬欲しさに、己が子供を売り払った者を見た」
「全身をボロボロにし、死を懇願する者を見た」
「薬の奪い合いに巻き込まれ死んだ子供を見た」
「薬を求め、まるで生ける屍のように徘徊する者達を見た」
言葉の一つひとつが、生々しい現場を描き出す。オルトランさんの目に焼き付いたその光景は、絵空事ではない現実――地を這うような苦しみと絶望の連鎖なのだろう。
「お前達が、陛下が、もっと早くに動き出していれば、救えた者も居ただろう。なのに、なぜ今更出てくる?」
吐き捨てるような声に、抑えきれぬ怒りと失望が滲んでいる。その問いには、答えなど求めてはいないのだろう。ただ、あまりにも遅すぎた介入に対する怒りを刻むための言葉であった。
「まぁなんだ……端的に言うと、お前達は、信用ならない」
その断言とともに、剣をゆっくりと構え直す。迷いは無い。むしろ、今この瞬間こそが、その覚悟を試される時であるかのように、彼の姿勢は静かに正されていった。
その動きに、背後の『薔薇の剣』の団員たちも黙って続く。彼らの顔には先の戦いでの深い疲労と無数の傷跡が刻まれていた。それでも、その目は誇りに満ちている。彼らは決して英雄などではない。ただ、あまりにも理不尽な現実の中で、自分にできることを選び続けてきた者たちである。そして今、その選択の先にある最も厳しい道を、迷わず歩もうとしていた。
その言葉に、ローブの男はわずかに眉をひそめたが、すぐに嘲るように笑う。その笑みには、軽蔑すら混じっている。まるで、理想を口にする者すべてを滑稽だと断じるような、冷笑だ。
「戯言だな。――では、最後の警告だ。抵抗するならば、その場で殺害する許可が降りている……今すぐ武器を捨て、投降せよ」
その言葉は、命の価値を一片たりとも感じさせないほど、機械的に響く。戦うか、屈するか――その二択しか存在しない世界が、目の前に広がっている。
「……選べ」
男の声が静かに落ちた瞬間、空気がぴたりと止まる。張りつめた静寂。誰もが、次の瞬間を予感している。だが誰も、それを言葉にすることはできない。
剣を握る手に、力がこもるのが見て取れる。全てを賭ける覚悟が、その白く変わった指先に現れているのが分かった。
だがその沈黙を破ったのは、血気ではなく――冷ややかで理知的な声であった。
「…………捕縛しない、出来ない理由があれば、良いんですよね?」
この場の誰もが一瞬、聞き間違いを疑う。しかし、それは間違いなどではない。その声の主であるサーシャさんは、一歩も引かずに立っていた。表情は無表情のまま、瞳だけが、冷たく鋭く、まっすぐにローブの男を見据えている。まるで、自らがこの場の空気を握っているとでも言わんばかりの、確かな強さをたたえた眼差しである。
ローブの男は、ぴくりと眉を動かし、サーシャさんに視線を移す。その目には、明確な警戒と、言いようのない不安が混じっている。まるで、目の前の少女の言葉の真意を読み損ねれば、すべてが崩れることを本能で察しているようであった。
「ふん、何を言って……」
冷笑のような言葉を吐きかけたその時――サーシャさんの声が重なる。
その声には、これまでとはまったく違う、絶対的な威厳と響きが宿っている。
「我が名は、アルプサス。水魔の頂に座す者。水魔天、アルプサスである」
「……水魔天として、ローズディア帝国に正式に要請しましょう。皇帝サクリ・ローズディアに面会させなさい」
彼女は、尊大に、そう告げた。
瞬間――場の空気が一変する。
何かが決定的に変わった。否応なく、誰もがその変化を肌で感じ取っている。
空気が重くなる。だが、それは先ほどまでの剣呑な緊張とは別種のものだ。
張り詰めた刃のような空気が、今はまるで深海の水圧のように押し寄せる。
場にいる全員が、一歩も動けず、ただサーシャさんを凝視している。
ローブの男の目が見開かれて、彼は思わず後ずさる。
その背後に控えていた親衛隊たちも、一様に顔色を変え、誰もが息を飲んでいた。
オルトランさんもまた、目を見開き、わずかに震える手で剣を下ろしかけている。
「魔天だと……?」
男の声がかすかに震えている。先ほどまでの冷静さと嘲笑は跡形もなく消え失せていた。
誰もが知っている。それは、軽んじることも、無視することも許されない――帝国という巨大な国家においても絶対に避けられない、最上級の”介入”であった。
サーシャさんは一歩も退かず、静かに、しかし絶対的な口調で続ける。
「水魔天として、帝国に皇帝サクリ・ローズディアへの、正式な面会要請を今この場で要請します」
その一言一言が、静かな水面に落ちる石のように場を揺らす。語気は強くない。むしろ、淡々と事実を読み上げるかのようだ。だがその言葉の奥にあるもの――それは、受け入れられて当然と言う、"傲慢"さであった。
「跳ね除けると言うのであれば、別に構いません」
声の温度は変わらない。けれど、続く言葉には氷刃のような鋭さがある。
「ですが、その時は相応の覚悟をするように」
彼女の目が、真っ直ぐにローブの男を見据える。その眼差しは、どこか人間離れした透明さと、冷たさを湛えていた。
「
「
「その様な恥辱は断じて許されません。
静寂が、場を覆う。空気が重くなる。いや、それ以上に――圧があった。見えない巨大な何かが、上空からこの場を押し潰しているような、そんな圧力だ。誰もが理解していた。それは決して虚勢ではない。脅しでもない。
ローブの男の喉が、ごくりと鳴る。だが、それでも彼は膝を折らない。顔を引きつらせながら、かろうじて声を振り絞る。
「…………いや……いや、まずは貴殿が魔天だと言う証拠を見せて欲しい。話は、そこからだ」
その言葉に、サーシャさんはわずかに眉を動かした。が、すぐに無表情に戻る。
「
その声音には怒りも苛立ちもない。ただ冷ややかで、硬質な氷のような静けさのみがあった。
男は答えず、額に滲む汗を拭うこともできずに、立ち尽くしている。視線の端に親衛隊の者たちの動揺が見えているだろうに。だが、それでも彼は引き下がれない。
この場で怯んでしまえば、自らが守るべき帝国の威信が、魔天という存在に膝を屈したと知られることになるからだ。
魔天は確かに強大だ。だがそれでも、帝国の名の下に立つ者として、安易に屈するわけにはいかないという信念が見えた。
「……ああ。例え魔天であろうと、我々は帝国の盾。証拠もなしに膝を屈する訳にはいかん」
男の声はかすれていたが、その中には、一縷の矜持が確かに残っていた。揺らいではいる。だが、折れてはいない。帝国に忠を誓った者として、彼は最後まで、その筋を通そうとしていた。
その言葉に、サーシャさんはわずかに瞼を伏せ、ひとつ静かに息を吐く。まるで、その抵抗すらも予見していたかのように、穏やかに。
「……まぁ、良いでしょう」
彼女の声は淡々としていた。だが、その音は何故か、冷たい水が背筋を這うような感触を残している。
言い終えると、サーシャさんは迷いなく衣の前を解き、くるりと背を向ける。
露わになったその背には、
どんな装飾とも違う。どんな魔法の刻印とも違う。それは、この世界において唯一、魔天と呼ばれる者たちだけに与えられる、絶対の象徴。
「魔天を名乗る上で、これ以上の証明は無いでしょう」
振り返りもせず、サーシャさんは言う。
「どうです? これでもまだ、疑いますか? これ以上となると…………帝国の無事は、保証しかねますが」
その言葉には、脅しとも、嘲りとも取れない、ただ冷酷な"事実"だけが込められていた。口にしている内容は、帝国を滅ぼすという宣言に等しい。それなのに、彼女の声は驚くほど静かで、澄んでいる。だからこそ、恐ろしい。その静けさは、嵐の前の海のようだ。すべてを呑み込む静寂――破壊の予兆。
親衛隊たちは皆、言葉を失い、その場に釘付けになっている。剣を構えたまま硬直し、誰もが息をすることすら忘れていた。
ローブの男もまた、膝を突くようにして崩れ落ちる。その双眼は見開かれ、額には冷や汗が滲む。それでも、かろうじて敬意の形を保ちながら、掠れた声を絞り出す。
「……失礼を、致しました、アルプサス様……」
その瞬間、場の緊張が一気にほどける。凍てつくようだった空気が解け、静かな解放が訪れた。 他の親衛隊たちも一斉に膝をつき、頭を垂れる。それは服従の意ではない。ただただ、恐れと、理解と、畏敬による自然な帰結であった。
その光景を見届けて、オルトランさんもゆっくりと剣を鞘に納める。今なお表情は険しいが、その肩に漂う空気が微かに和らいでいた。
サーシャさんは何事もなかったかのように衣服を整え、背をこちらに向けたまま、冷静に告げる。
「えぇ。それでは、謁見の準備を整えてもらいましょうか」
その口調に、もはや拒絶を許す余地は無い。
ローブの男は肩を震わせながら「はっ」と応じ、即座に部下へと命令を飛ばし始める。彼の声には動揺と、そして深い畏怖が滲んでいた。
こうして――僕たちは、帝国の中枢へと歩を進めることになる。待ち受けるものが、光か、闇かも知らぬままに。だがその一歩は、確かに新たな運命の扉を叩く音であった。
ローズティアラ王家の紋章…七つの獣の首が円形になっており、その中央に盃が描かれている。
紋章に描かれている動物の首は、獅子、狼、蛇、熊、狐、豚、山羊の七匹。そしてそれぞれが角を有しており、角は七匹合わせて10本丁度であるのが特徴的。