霊峰ルナーモの山道は、容赦なく吹きつける寒風と、薄い空気に包まれていた。
標高が上がるにつれ、霧が濃くなり、視界は徐々に閉ざされていく。
先ほどまで聞こえていた鳥の鳴き声も消え、ただ風が木々を揺らす音だけが響く。
セラヌスは槍を肩に担ぎながら、前を歩くアリセアの背中を睨んでいた。
霧の中で、彼女の姿は淡く揺らいで見える。
右腕——そこから黒い靄が漂い、皮膚は硬質化しているように見えた。
セレスティアでの試練の話が出てから、異形化の進行が加速しているのは明らかだった。
「なあ、アリセア。」
セラヌスは低く呼びかけた。
「お前、自分の体がどうなってるのか分かってるのか?」
アリセアは少しだけ振り返る。しかし、表情には焦燥も驚きもない。
「……分かってる。でも、今は進むしかない。」
「分かってるなら、なおさらだ。」
セラヌスは槍の石突を地面に突き立て、一歩前に出た。
「お前のその異形化……セレスティアの試練と関係あるんじゃねえのか?」
「……かもしれない。でも、それを確かめるには、試練を受けるしかない。」
その冷静すぎる言葉に、セラヌスの中で何かが弾けた。
「ふざけんな!」
彼は槍を振り上げ、アリセアの進路を遮った。
「お前、それで納得してんのか?!」
「納得とかじゃない。」アリセアの声は静かだった。「今は進むしかないの。」
「進むしかない……?」セラヌスは彼女を睨みつける。「お前、それでまた"犠牲になればいい"って思ってんじゃねえだろうな?」
アリセアは答えない。ただ、その紫の瞳を静かに見開き、セラヌスの怒りを受け止めていた。
その沈黙が、逆に彼を苛立たせた。
「お前さ……結局、選ばされたんじゃなくて、自分でそっちを選んでんだろ。」
セラヌスは深く息を吐き、険しい表情のまま言葉を続ける。
「昔の俺はな……力を持ってるからって理由で、"お前がやるしかない" って言われて、全部背負わされた。」
アリセアの目が、わずかに揺れた。
「でもよ……それが普通だと思っちまってたんだよ。『誰かがやらなきゃならねえなら、俺がやる』ってな。」
セラヌスは槍の柄を握りしめる。
「で、どうなったと思う? 俺の仲間たちは、みんなそうやって死んだよ。」
「……。」
「魔女は、"力を持ってるから"って理由だけで、道具みたいに扱われるんだ。」
彼の脳裏には、かつての研究施設の光景が蘇る。
異形化していく仲間たちの叫び、技術派の貴族たちの冷淡な視線。
「犠牲になれ」とは決して言わない。ただ、「お前にしかできないから」と言い続けるだけ。
「お前の右腕も、もう限界なんじゃねえのか?」
アリセアは無言のまま、右手を握る。その指先から、黒い靄がゆらめき、冷たい風に溶けていく。
「それでも進むしかないの?」セラヌスの声は、少し低くなった。「お前、いつまでそんなこと続けるつもりだ?」
アリセアは小さく息を吐いた。
「……私がやめたら、どうなるの?」
「何?」
「誰が、この先に進むの?」
セラヌスは息をのんだ。
「誰も進まなかったら……誰が、この世界の真実を知るの?」
その言葉に、セラヌスは拳を握りしめる。
「……そんなの、知らねえよ。」
彼は槍を肩に担ぎ、背を向けた。
「でもな……お前が死んだら、それこそ何も残らねえぞ。」
「……。」
「お前が進むなら、俺も行く。でも、その前に誓え。」
セラヌスは振り返り、真っ直ぐにアリセアを見据えた。
「"自分を犠牲にしない" って誓え。」
アリセアは戸惑ったようにセラヌスを見つめた。
「それができないなら、お前を止める。」
沈黙が降りた。
風が吹く。霧がゆらめく。
「……誓う。」
静かに、しかし確かな声で、アリセアは言った。
セラヌスはしばらく彼女を見つめた後、ふっと小さく笑った。
「なら、行くか。」
「……うん。」
リリシアが優しく微笑み、二人の間に歩み寄る。「どんな道でも、私たちは一緒よ。」
冷たい山風が吹きすさぶ中、三人は再び歩き出した。