夜明け前の霊峰ルナーモは、静寂の中に深く息づいていた。
冷気は鋭く、吐く息はすぐに白く凍り、空にはまだ星が残っていた。
私は頂から遠くを見下ろしていた。
都市国家が眠る方向に、微かに灯る光。
それは希望にも、あるいはまた新たな争いの火種にもなりうる——そんな、不確かな輝きだった。
隣に立つリリシアは、静かに空を見上げている。
彼女の白金の髪が、風に揺れて月光を跳ね返していた。
「……動き出してるわね、世界が」
そう呟いた彼女の声には、静かな確信があった。
「セプタ・アエテルナの議会は解散されたそうだ」
セラヌスが、岩に腰を下ろしながらぼやくように言う。
「魔女たちが“兵器”ではなく“市民”として扱われるよう、少なくとも話し合いの場は設けられたらしい」
「すぐに変わるとは思ってないけど……でも、それでも一歩目にはなったわね」
フローリアがそう付け加える。彼女の手には、あの神殿で拾い上げた古い記録書がある。
私は、彼女たちの声を聞きながら、胸の奥に残っていた重さが少しずつ解けていくのを感じていた。
アルカディアの咎を止めたあの夜——
私たちは世界を“救った”のではなく、“繋ぎ止めた”のだと思う。
崩れかけていた構造。
押しつぶされかけていた願い。
そのすべてが、ようやく語ることを許されるようになった。
「それにしても、今のあんた……あの鍵の光、まるで伝承に出てくる“解放者”みたいだったぜ」
セラヌスが私に向かって言った。
その口調は、いつも通りの皮肉混じりだったけれど、目の奥には柔らかい光があった。
私はかすかに微笑む。
「そんな大層な存在じゃないよ。私はただ……選んだだけ」
「選んだ?」
「誰かを否定する代わりに、信じてみたいと思った。それが正しいかどうかなんて、きっとすぐにはわからない。でも、私は——」
言いかけて、ふと言葉が止まった。
風が、山の斜面を滑るように吹き抜けていった。
誰もがその音に、黙って耳を澄ませていた。
夜が、明けようとしていた。
東の空が、ほんのわずかに、ほんの一筋だけ朱に染まり始めている。
「……未来は、まだ決まっていない」
私は、その言葉を口にした。
それは、自分自身に言い聞かせるように。
そして、聞いてくれている誰かがいると信じて——
「でも、それでいいと思うの」
私はその場にいる皆に視線を巡らせた。
リリシアは、頷いてくれる。
フローリアは、口元に静かな微笑を浮かべて。
セラヌスは、立ち上がって肩を竦めながら背を向ける。
「……さて。じゃあ、お前さんはこれからどうするんだ?」
誰が訊いたのかわからなかったけど、それは私自身に向けられた問いでもあった。
私はしばらく考えた後、まっすぐに前を見つめた。
「私は旅を続けるよ。咎霊器が、まだ残っている限り。
そして、その力に希望があるのか、それともただの呪いなのか——自分の目で見て、確かめたい」
「真面目だな、お前は」
セラヌスが小さく笑った。
「でも、そういう奴じゃないと、この世界は変わらないのかもな」
私は笑い返す。
「みんなも、一緒に来てくれる?」
問いかけると、返事はすぐにあった。
「当たり前じゃない」
「私たちは、もう仲間でしょう?」
「……誰かが止めねえと、お前はすぐ全部背負いこむからな」
ああ、やっぱり私はひとりじゃない。
この空の下で、共に歩んでくれる人たちがいる。
足元の雪を踏みしめて、一歩踏み出す。
夜は明ける。
未来は、まだ白紙のまま、広がっている。
私たちはその空白に、これからの物語を描いていく。
その第一歩が、今始まる。