水の音が、祈りのように静かに響いていた。
アクア・スペリウスの地下聖堂。
この神殿の最奥、誰も立ち入らぬ禁域に、私は今ひとり膝をついていた。
私の指先には、咎霊器の“鍵”がある。
アリセアが手にしてきた、あまりにも強大で、あまりにも悲しい力。
浄化という名を与えられたそれは、確かに咎狂を鎮めることができる。
けれど同時に、その力は世界の構造さえ歪めてしまう。
「あなたが、すべての源なのね」
私は鍵を見つめた。
紫の光が、私の手のひらの蔦に絡みつくように明滅している。
左腕の蔦は、かつて私が禁忌の儀式で負った異形。
その代償として得た知識が、今ようやく意味を持とうとしていた。
アクア・スペリウスの古文書に記されていた、「水封の儀式」。
それは、“咎”そのものを水の循環に還元する、特異な封印法だった。
だが、それを発動するには、咎の媒体として機能する存在が必要だった。
——つまり、“咎を内に宿した者”が、自らを代償として鍵を封じる。
私は笑うしかなかった。
「やっぱり、こうなるのね。滑稽なくらい、予想通り」
リリシアは反対した。
フローリアは泣きそうな顔で肩を掴んできた。
アリセアは、何も言わなかった。ただ、目をそらした。
私は、みんなに守られてきた。
でも、だからこそ、私はその手のひらに咎を残したままではいられなかった。
「鍵よ」
私は語りかけた。
蔦が揺れる。水脈が震える。
この神殿の聖水は、異界との境界を繋ぎ、封印と儀式の導管となる。
ここでなら、可能なのだ。
「私の咎をくれてやる。
だから、もう眠りなさい。
もう誰かを代償にしないために。
——あの子を、アリセアを、これ以上壊さないために」
光が、噴き上がるように鍵から解き放たれる。
水面が歪み、聖堂全体が震える。
咎霊器が共鳴し、私の左腕の蔦が黒く変色し、軋む。
痛みは……不思議なほど、なかった。
いや、痛みすら感じないほど、私はここに来るまでに——
たくさんのことを諦めていたのかもしれない。
「……コンヴァリア!」
名前を呼ばれた。
リリシアだ。
後ろから、水をかき分ける音とともに、彼女が飛び込んできた。
「どうして、一人で背負うのよ!」
私は振り返らない。
振り返ったら、迷ってしまいそうだったから。
「ごめん。これだけは、私の咎だから」
「バカ……! そんな言葉、もう聞きたくないのに……!」
リリシアの叫びが、震えていた。
私は、ただ鍵を水面に沈める。
光が、波紋の中で溶けていく。
咎の力が、私の左腕から剥がれていく。
痛みのない感覚が、むしろ喪失を際立たせていた。
「あの子には、未来がある。私は、もう……背中を押すくらいしかできないもの」
小さく、笑った。
水が腕を包み、蔦が消えていく。
これで、咎の力は私の中から去る。
完全に“魔女”としての力を失う代わりに、鍵もまた、その力を封じられる。
これが、たぶん、私にできる“選択”だった。
全身が軽くなる。
代償として手放すものは多かったけれど——
「ありがとう。私を魔女として、見てくれて」
私は、最後に鍵の光を見つめた。
それは、まるで小さな炎のようだった。
希望のようにも、絶望の残り火のようにも見える。
水がすべてを飲み込むとき、私は確かに思った。
——これで、終わってもいい。
でも、あの子たちが歩く道は、まだ続いていく。
そう思えたから、私は目を閉じた。