夜の帳が霧のように降りていた。風も止まり、世界が呼吸をひそめているかのような静寂が広がっている。灰の空を見上げながら、私は一本の槍を背負い、無言で立っていた。背後にはかすかに焚き火の明かりと、誰かの話し声が聞こえる。アリセアが仲間たちと次の方針を話し合っているのだろう。
私は、焚き火の輪から少し離れた場所に座る彼女を見つけると、迷いなくその隣へ向かった。
「まだ眠ってなかったか。」
アリセアは少しだけ目を上げて、私を見た。彼女の視線は、夜の闇のように静かだったが、その奥に、消えかけた炎のような気配が揺れているのが見えた。
「セラヌス……何かあった?」
私はすぐには答えず、しばらく黙ったまま空を見上げた。言葉を選ぶのに時間がかかったというより、自分が今から何を言おうとしているのか、自分自身に問い直していたのだ。
「なあ、アリセア。お前のやり方で……本当に世界は変わるのか?」
静かな問いだった。
だが、それは自分の胸をえぐるような重みを持っていた。
アリセアは微かに首をかしげた。「……“やり方”? 私、何か間違った?」
「間違った、とは言ってない。でも、甘いんじゃないかと思うことはある。」
私は膝を立て、手を槍の柄に置いた。硬い地面の感触が、夜の冷たさと混じりあって重く沈む。
「俺は知ってる。都市国家の支配層が、表で何を言おうと、裏では“咎霊器”の力をまた使おうとしてる。
“管理”という言葉で装いを変えながら、同じことを繰り返すんだ。」
アリセアの表情が曇る。
「たとえあの鍵を封じても、“便利な力”だと思う奴は、必ずそれを掘り起こす。あの連中は変わっちゃいない。俺たちが力で倒したわけでも、従わせたわけでもない。あいつらが大人しくしてるのは、“まだその時じゃない”と見てるだけだ。」
私は深く息を吐いた。槍の柄が軋む。
「もしまた、“咎”を使った兵器が生まれたら。もし、どこかの都市国家がそれをもとに世界を支配しようとしたら。そのとき、お前はどうする?」
アリセアは、答えを出すまでに長く沈黙した。
彼女の右手がわずかに震えているのに気づいた。咎の刻印が、消えたはずの力が、まだ彼女の中で燻っているように見えた。
「……私は、“それでも止めたい”って思ってる。」
「甘いな」と、私は心の中で呟きかけた。だが彼女は、続けた。
「戦って、壊して、封じることはできる。でもそれじゃ何も残らない。ただ恐れと力の循環だけ。
だから、私は“信じたい”んだ。人が“自分の選択”で、もう一度歩き直せる未来を。」
私は黙って、その言葉を聴いた。
「私たちは、傷を背負って生きてきた。誰かを救うために、何かを犠牲にして。でも、誰かが壊すたび、誰かがまた築こうとしなきゃ……この世界は、咎に飲まれたままだよ。」
夜風が少しだけ吹いた。焚き火の煙がこちらに流れ、目が少しだけ沁みた。
「俺はな、アリセア」
私はぽつりと続けた。
「お前のことを、ただの理想主義者だと思ってた。自分の身体すら守れないくせに、世界を救おうなんて無謀だって。」
アリセアが目を伏せる。
「……でも、それを本気で言い続けてる奴がいて。実際に人を救ってきた奴がいた。それを目の前で見せられたら……俺はもう、“否定する理由”がなくなったんだよ。」
沈黙の中で、彼女は微笑んだ。
それは、悲しみと希望の混じった、壊れかけた灯のような笑みだった。
「ありがとう、セラヌス。……私、たぶん怖いの。
また誰かが、“咎”に呑まれて壊れていくのを、見たくないだけ。」
私は頷いた。
「だから言うんだ。お前が未来を信じるなら……
その未来に備えろ。甘さじゃなく、覚悟を持て。
“もう一度壊れる”ことも、“また戦う”ことも、全部覚悟したうえで立て。
それが、お前のやり方なら——俺は、それに乗る。」
静かな夜の底で、彼女はそっと目を閉じ、そして短く息を吐いた。
「……分かった。私は、そうするよ。」
そのとき、私はようやく確信した。
この世界がまた狂い始めたとき、この小さな灯が、それでも誰かの道を照らすことを。