嵐の吹き荒れる丘より。   作:■■■■■

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ああ、時間が! 時間がいつの間に経っている!


十一話 "先生"の所属しているシャーレにて当番をする安晶レイとそこでの会話について

 およそ数日前──最近になって気付いた事だが、時間を大まかに表記するようになったようだ──にここへと足を踏み入れた先生とやらは、少なくとも私以外には相当に「ウケ」と呼ばれるものがあったらしい。

 少なくとも警戒の色合いを見せていたのは、ミレニアム・サイエンススクール内部で接触した限りにおいては調月リオただ一人であり、他はその男に対する好感触な話題で校内中がもちきりであった。

 曰くでは「先生という人が良さそう」だとか、「人当たりが良い」だとか、もしくは「話を聞いてくれる」だか「私がいないとダメな人なんだから!」だとか(ユウカはディーンと相当に近しい具合の女房気質であるように伺える、どうこう言いながら世話をするのだから)。

 中には恐れ半分と好奇心半分で私自身に先生はどうなのか、と聞いてくる人もいた。どうとは? とは聞き返しかけたが、……つまるに「顔は良いか」だとか「性格はどう見えた?」だとかの基本的に当たり障りの無いであろう質問であるのを、何度か繰り返されるうちに学習したので、適度な返答をするようにした(百聞は一見にしかずと聞く故、私に聞いたとて仕方ないだろうに)。

 

 一体なぜあのような輩が、……と思いはするが口にはしない。単に言うには気がはばかられる──つまらぬ僻みとして受け取られるだろう──程度には人の好くだろう容姿と表情、柔和な態度が以前の面倒事の処理の一幕からも知る事は出来よう。これについては否定しない。ジョウゼフ様が何についても余程上であるだけだ。

 ……失礼、年齢の若々しさでいえば彼が上である事は修正する。

 だがジョウゼフ様の方が何にかけても対応の動きが早く、また責任感の強さや性格の柔らかさ、そして純粋な気のきき具合も人を助けた数についても遥かに超えた大人である事を承知してもらわねばなるまい。

 

 さて、そんなどちらが優良かという話は明瞭であるのでさておくとして、私はその男に呼び出されるという用事を前日から認識していた。より正確には、《連邦捜査部S.C.H.A.L.E》──以後はアルファベットの読みより『シャーレ』と称する──という組織に呼び出されていた。

 当初聞いた時は「ペトリ皿(Schale)とは、中々おかしな名前だ」とは思うたけれども、聞けば内容はそのガラスの枠を大きく超越した、セム的一神教じみた在り方の組織であった。

 曰く、「所属や学籍を問わず生徒から協力を仰ぐ事が可能、かつ連邦生徒会長の権限の下、あらゆる規則・規制・罰則を無視出来る超法規的機関」だとか。

 

「独り言ですが、独裁のやりようが過ぎるのでは?」

「……独り言ね、ええ、独り言」

 

 どうにも口を閉ざしたままでいるにはあまりにも馬鹿げた内容であり、独り言だと前提を置いた上で言葉を発した。

 夜間作業中──別の言い方をすれば、頻度の更に増えたいつもの──であったというのも関係してユウカもいたが、見逃してもらえたようだ。

 

 事実、私の──もしやすると各学園の上層部が危惧するであろうと考察出来る程度にはシャーレの権限はあまりに強く、強権的で、しかも属人的だ。なるほど、非常に愚かしい。考えたマヌケの気が知れない、……言葉を訂正して、知る気というのが全く起きない。

 その気になれば今までの独裁者もかくやの権限を振るう事さえ可能だというのはどこまで先が見通せていないのやら。「連邦生徒会長が選んだ」とは聞いていたが、その連邦生徒会長は"先生"に皇帝でもやらせたかったのだろうか? そうでなければ「唐突に気が狂れた」などの考えを走らせるも何も無い、脈絡に欠けた結論をおかねばならない。なんと食いでの無い結論だ。

 ……そもそも書き置きごときで重要人物を判断するな、というのもあるが、それでは話が終わらないので打ち切るとする。

 

 シャーレがもたらしかねない邸宅への被害へと話を戻そう。

 その強権性故にシャーレの現状の立ち位置というものが、邸宅にどれだけの損害をもたらしかねないか。ただ、今の私にはそれだけで気を悩ませる要因の一つとなっていた。

 

 これは素晴らしく愚考にてあるけれども、このシャーレとやら、私の判断ではいつか『邸宅』に踏み込んでくるのではないだろうか。そして私達を半ば強制的に表舞台へと引っ張り出し、余計に『邸宅』を混迷させてしまうのではないのだろうか。

 どれが理由かは知りえない。代表する第三者の悪意(具体例:カスのヒンドリー)によってなのかもしれない。あるいは私の知人──つまりはユウカとノア、リオ、そしてナギサ──の親切心によるものなのかもしれない。

 

 いずれにせよ、私たちには大きな障害として経ちうるだろう。

 その理由は簡単だ。「いくら大変そうだろうと私たちには関係ない、そちらの問題はそちらで解決してくれ」と今までは必要最小限の関係性を突き通してきたつもりだが、シャーレが関わってくれば必然的に外界との繋がりを持たなければならないのだ。

 シャーレのエンブレムの一部に「独立」と銘打たれてこそいるものの、現実には学籍に関係なく生徒から協力を仰ぐ事が出来る──悪い言い方をすれば活動を強要させられる機関だ。外界と関わりを持とうとしない邸宅の有り様とは頗る噛み合いが悪い。

 人の性分の一つに連動感を重視する悪癖がある。わかりやすい例が「クラスメイト」だ。同じクラスの人間というだけで親近感を持ち、特定のイベントの時には連動したがる。反対に反対意見を持つ人間に対しては、それだけでうっすらと嫌気を感じるのだ──「空気が読めない」というように。

 無論、それが完全に悪い訳では無い。何かの共通点、例えば宗教や人種、文化などで共通点から仲を取り持つ事で人間は文明を築いて生きてきたし、集団活動を営めてこそ知的生物だ。特定の共通点を至上化させるのが問題なだけでしかない。

 

 さて、キヴォトスにおいて私達は「異端」であり、「正常」はその他であるのは明白だ。「空気を読め」と言われるのは私たちだろう。

 

 こういった異端に対する偏見として生み出されるものは、はぐれ者に対する監視と照査、そして比較だ。それがいかに不快で、いかに負担であるかを私は知っている。

 ジロジロ見られる私でさえ不快であったのだから、他にとってはさもありなん、という所だろう。

 

 Q1.どうして繋がりを持つと面倒になるの?

 A1.比較され、邸宅の価値を手前勝手に決められるから。

 

 こちらの不適切な不干渉の具合で敵対視されたくなかった、というのもある。言うなら「関わるなら規定を決めてから本腰を入れ、関わり合いになりたくないなら完全に無視する」という事をし続けてきた。

 

 私達は私達自身を隔離し続ける事で、ある意味私達を保護していた。

 嵐が過酷ではないだかの戯言をのたまうつもりは無く、命を軽視した故の妄言でも無い。私達は経歴がどうあれ、ほとんどがはぐれ者──無学籍の人間だ。

 金銭が足りない、性格が適合出来ない、学校の都合、単なる不運、生まれの悪さ、……多種多様ではあるが社会から排斥される理由を持ち、どこぞのヘルメット団の一員として生きるのを良しとせず、されど不良生徒の一人として生きる事も認められず、けれども悪玉の大人の下に付くのも気が引ける。

 重要な過程のいくつかで自分では選ぶ事の出来なかった、あるいは選びたくなかった選択を強いられた──それだけで社会から排斥された存在で、しかしジョウゼフ様やかつてのチーフ達に拾われ、元とは異なる社会にようやく復帰してきたのが、『邸宅』に住まうほとんどの子供らだ。

 たとえ根幹には優しさがあるとしても、同時にキヴォトスに対する反感も根差している。『邸宅』へと不法侵入を繰り返す幾多の愚か者共に対する負の感情も重なり、今となっては学園都市の人間達に決して良い反応を見せないだろう(ユウカやナギサをどうにか身内として認めて貰えたとしても)。

 人間は思うよりも理性を優位としていない。過去に受けた虐めや仕打ちを「昔は昔で、今は今だから」とさっぱり切り捨てられる人はそういない。むしろ「自分の気が済むまで土塊食わせてやる……!」と、いつまでも根に持つ側が大多数であろう。

 邸宅に住む彼女たちは、ほぼ百パーセントがそうだ。ある子供は泥水と残飯で命を繋ぎ、またある子供は虐めから逃げる事を選択し、別のある子供は銃社会から成る弱肉強食に耐えられなかった。社会に対して恨みを持っているのだ。

 

 そういった彼女らに対し、無闇に関係性を広げる事で周りへの敵対心を振りまいてもらいたくはない。敵などいつまでも湧いて出てくる亡霊共と不躾な侵入者風情で手一杯だ。

 それなのに他の学園までもを敵に、それもこちら側の無礼・不躾を原因とされてはどう申し開きをすれば良いのだろうか?

 人間は「当然」を破った存在に恨みを持つ。恨みを持った人間はそれが晴れるまで敵を殴り続ける。その恨みの対象に私達がなれば、その先にあるのは終末だ。邸宅の滅び去る終末。

 

 だから関係性を狭めるし、学園同士の助け合いとは可能な限り縁を持たない。どうせどこかしらで「有難い」から「当たり前」になり、手を切った途端に裏切り者扱いされるのだから。

 

 Q2.なぜ関係を少なくしようとするの?

 A2.何かの理由で面倒事が大事になってほしくないから。

 

 ……無論、考え出したそれは極度に悲観的な考え方だ。案外「上からの命令なら従おう」と不承不承でも黙った態度でいるかもしれないし、存外に「それくらい増えたって変わらない」と誰も気にやしないかもしれない。外の治安のいかに悪いかを考えれば、「こんな程度なのかよ」と拍子抜けするやも。

 そも、"先生"とやらはいくらジョウゼフ様より若けれども大人の身分だ。その選択を取るにしても後先考えずの愚慮愚行はしないはずだし、まさか他人の過去の傷口に塩を塗るような真似をするとは思えない。

 つまるに私のこれは、いわば悲観主義者の考え──悪く言ってしまえば「またコイツ、マイナスにしかコトを見ない!」と呆れておけば良いものである。

 故に浅はかな思慮とする。

 以上。

 

「……レイ、また何か考え込んでたでしょ、コーヒー飲んだら?」

 

 と、ユウカから声を掛けられた事で眼前の事柄を意識した。どうやら外から見ても分かるほどに、私は考えにふけり過ぎていたらしい。

 

「ああ、失礼。近頃は考えねばならない事柄が多いのですよ。邸宅であったり監査員としての業務であったり、直近の話題であれば……」

「シャーレ、ね?」

 

 予想していたかのように言葉の空白へと差し込んだユウカに、一息遅れて頷く。

 

「ええ、まあ。色々考えますよ、ああいうのには」

「道理で、最近は止まってばっかりだと。……はぁーあ、レイは考えすぎなのよ、色々と」

「随分と気軽に言いますね?」

 

 私としてはこうも言いたくなるような話だった。

 当たり前じゃないか。私としてはこれでも浅慮なのである。……まあ、というよりはジョウゼフ様のような深慮にたどり着けないだけではあるが。

 頭を夜間に回した反動か、疲れが身体中に回ってきたらしいのを、コーヒーを飲んで誤魔化した。

 

「貴方も見たでしょ、先生の態度を。アレが悪さしそうな態度に見える?」

「いいえ? むしろ人が良すぎますね。人の良さが故に自ら苦境に立つ手合いかと思われましょう。……無論、表面上はそう見えているだけですけども」

「『本質はそうではないかも』って?」

「然り。私は貴女方みたく、清廉潔白で人の好い人間達に囲まれて育った訳でも無いので。ユウカさんとて見たでしょうに、名前も言いたくない見たくもない、心も身もネズミのように薄汚い、ドブの役立たずの恥晒し野郎。まあアレは見りゃわかりますけどね」

「言い過ぎじゃないのよ、いくらなんでも?!」

 

 むしろ日頃の行いを見るにまだ余りにも軽すぎる呼ばわりであったように感じられたが、ユウカが焦りを伴った感情で私を止めた。

 実際アレは心も身もどころか、ありとあらゆる要素で薄汚いを通り越した、血が青いだけの汚濁した*キヴォトススラング**ミレニアムスラング*な上に*トリニティスラング**ゲヘナスラング*の*邸宅スラング**スラムスラング*野郎なのは間違いない。

 間違いないが、……私にはミレニアム、というよりキヴォトス内での許される暴言の程度、および常識の度合いというのを正しく知らないし、これまでに適合出来るように生きてきた覚えも勿論無い。然るにユウカの止めたあたりが限度なのだろうと推察出来よう。よって黙った。

 

「……ったくね、あんな、……気分で酒瓶使って人を殴るようなのが大人の平均だったら、今頃キヴォトスはより苦難しているわよ。なんて言ってたっけ、……『じぷしー』って言葉も、少し聞こえていたけど良い意味合いで使われていそうにも無かったし」

「事実、差別用語ですからね。……気分を悪くされたら申し訳ありませんけれど、ゲヘナ生徒に『ネオナショ』、トリニティ生徒に『アオグロ』呼ばわりするのと同じ程度には」

「……そんな事を言う大人が普通なら、今頃は子供だけで回そうとしているでしょうね」

 

 深い深いため息を吐きながら、彼女はそう言う。

 

「ともかくね、先生はそう悪い人じゃないわよ──私の第一印象を多分に含めてではあるけど──ほら、わかったなら早く寝にいきなさい。残りはノアと私で進めるから」

「しかし、多いでしょう? 明日までに終わるかどうか、と言っても過言じゃない──」

「『最大効率に仕事を進めるためには、まずに健康を望み、叶えるための一歩目は七時間ほど寝る事です』──誰かしらね、こんな事を言ったのは?」

 

 他でもない私がそう言っていた。不眠を拗らせている最中の自分自身が、である。

 とはいえ、これに対して反論出来る要素が一体どこにあるのだろう?

 私は「それなら、任せておきます」と口先重く言い、静かに自室へと戻る事とした。

 

 

 

 

 

 さて、私は普段よりも早く床に就いたであろうに、悪い意味で重さの変わらない身体を動かしてシャーレへと赴いていた。念の為スーツで来てこそいるが、いわゆる杞憂の過ぎる背格好ではありやしないか、などと道中に考えながら。

 

 今回は誰一人として連れてきてはいない。寒襟(さむえり)ミツルは事務作業よりも戦闘職が気に合うそうだし、黄宮(おうみや)リアはまだ人間への怯えを忘れられていない。こういう時に頼りになりそうな伊澄真(いすま)エリは純粋に忙しい。他の見込みのある人員も同文だ。

 というより、そもそもにおいて人手が足りない。邸宅の運営自体が崩れるかどうかの瀬戸際であろうに、悪く言ってしまえば他所の庶務一つ程度に人員を割いてはいられないのだ。

 本来私がシャーレへと当番をするために来るのであるが、むしろ邸宅側に人間が来てもらいたいものだ。無論、簡単に不和をもたらさず、最低限モノとマナーを覚えていられる人間である事を望むが。選り好みをしていられる訳ではないが、品位の維持と事故の回避のために最低限の基準は設けなければならない。

 ……刹那に「もう先生でも引き込めば楽になるんじゃないか?」という愚案が浮かんだが、即座に棄てた。

 間違いなく外交の問題になるのは目に見えているし、桐藤ナギサから「エデン条約」というものを聞いていて、それで優位に経つためにどちらかが確保しに来るだろう──予想ではゲヘナがやらかすと見ているが、それはさておき。

 つまるに、三大校の二つに目を付けられてはたまらない。トリニティとは不干渉の体制を取っているとはいえ、解釈の次第では内政干渉したとも取りようがあるし、ゲヘナからはトリニティの属校と見なされているそうだ。

 そんな状況下でわざわざ不破の種になる問題を持ち込むまい、という事だ。

 

 とはいえ人手がまるで足りていないのも事実であるし、しかしユウカに迷惑をまた掛ける訳にもいかないだろうに、……と考えていた所で、

 

「……雨」

 

 一雫が鼻先に落ちた。予報に合わぬ雨で、しかも勢いは急激に強まっていった──暗雲が空を占めていた。

 雨は嫌いではない、というのは事実である。雨は傷ついた身体にしみても、返り血なりにじみ出た血なりを落としてくれる。匂いも不愉快ではない。薄汚れた匂いや血の代わりにしてはすこぶる上等だ。音も、外と内の仕切りがある間は好みである。

 しかし、それはそれとして、自分に降りしきる雨は気に食わない。肌に雨を浴びた感覚、肌にボロ布や髪の張り付く触感などはやはり不愉快であるし、地にころげて寝るしか無かったスラム時代を思い出させてくる。

 屋根有り・飯有り・家族有りの三拍子揃った現代人──とりわけキャンプなるものが好きな人には伝わりにくいかも知れないが、屋根も無ければ飯も無い、当然のように家族もいないような路上暮しを恋しく思うハズがどこにもないのだ。

 

 無論、今はちゃんと仕立てた服を着ているからこそ──邸宅では撥水加工をなされた服が一般的だ──肌に張り付くような感覚ともほとんど無縁ではあるが、しかし不快は不快だ。マイナス百とマイナス五十、それに絶対的な数字の差はあれど客観的な感覚の差では変わらない。

 瞬く間にモノクルについた数多の滴、水が首や袖の隙間から入っては白シャツに染みてくる、嫌な感覚を覚えながら、トッ、トッ、トッ──と。歩幅を大きく開けて走る。

 雨は嫌いではない──私の身に降りかからないのなら。

 雨に濡れて、過去の記憶を呼び起こされるのに吐き気を催すほど憎らしくなるから。ただただ単にそれだけだ。

 

 そう考えながら走っているうち、ビニール傘を差しながらも、もう片手には黒色の傘を携えて駆け寄る一人の大人が見えた。息を切らしながらも優しげな顔を変形させることの無い姿形を見るに、"先生"である事は明白だった。

 

"……良かった、結構近かったんだね!"

「……わざわざ、息を切らして走ってこずとも良かったでしょうに。肩と袖、ズボンの裾を確認されてはいかがです?」

"まさか、子供が雨に濡れてたって、おかしくないのに、それは私の、感覚が許せなくって、……ちょっとまってて、結構、体力が無いみたいで……"

「……まあ、幾らでも待ちましょうか。幸いにして日は登りきっていませんから」

 

 そう言いながら、私は先生から傘を貰い受け、傘を差すのに一瞬手間取ったものの差す事が出来(傘は手で閉じ開きするのが私には普通だったからだ)、シャーレのあるビルへと歩みを進めた。

 

 

 

 かくしてシャーレ内へと入っては一度シャワーを浴びる事になった──私は拒否したが、風邪を引いては行けないからと入れさせられた。ゴミを食もうが薄汚れた衣を着ようが、ある程度は病気にも耐えていた頑健さには自信があるのだが。

 ……自慢出来たものでも無いといえば、その通りにはなる。というか、自慢できるものでも無い。先天性の不調でも無い限りは、普通の暮らしをすれば普通の免疫は得られる。

 一番は、そもそも身体の頑健さに頼らない事だろう。君子危うきに近寄らず、というものだ。

 

 これはまあさておきとして、シャワーより上がった私は早々にスーツへと着替え(こればかりは私にも譲れないものだった)、書類と向き合った。

 ……しかし、多い。それは明らかに多すぎた。少なくとも邸宅で全体の管理業務をしている際の二倍か三倍、……いや、それ以上やもしれない。

 無論、全てが厄介な仕事というものでもなく、中には判子を押すだけの単調なものもある。そこを気の休まり所だと思えばそうかもしれない。しかして量というのは、やる気というものを大いに削ぐ(やる気は出すものではないと言えばそれまでだが)。

 いくら終えても終えても、先の見えない暗闇ばかり──報われるようには思えない、あるいは見合わない程の長い過程というのは気を相応に削るものだ。

 ……故に、……まあ、これをいわゆる「サボり」と言えば反論は出来ないけれども、私は雨天の空を窓越しに眺めていた。

 サア、サアと、雨は降っている。仄かに香る雨粒の匂いと音が協和して、不愉快さに揺らいでいた感情を宥めてくれる。

 

"……外は雨だけれど、眺めるのが好きなんだね?"

 

 と、先生が話しかけた。私は景色から目を離す事無く、

 

「中から見るのは好きです」

 

 一言だけ言って、一拍を置く。

 

「……雨音は、荒れる私の心を窘めてくれる。無論、不快にさせてくる事もありますが、大抵は私に寄り添ってくれる──中身の無い陳腐な慰め以上に、私を慰める」

 

 中身の無い慰め──「苦労したんだ」、「大変だったね」、「同情するよ」──だからなんだと言いたくもなるような人間の言葉達は、余計に不愉快にさせてくる。

 それと比べれば、何も見ず、何も聞かず、何も言わない。そんな雨の方が余程有難かった。

 コツ、コツと、先生が私に近づく音が鳴った。私の話をより丁寧に聞こうとしているのかは知らないし、大抵の人があまり好かない雨の事だ。異端の自覚をしている私には想像も付かなかった。

 

「私の不愉快を感じさせたものをも洗い流してくれる──日に増えていく暴力の痕跡、受けた傷から滲む赤、私をあざけ笑う時の罵詈雑言、あるいは……」

 

 そこまで言い、……間違いなく言う必要の無い事だと考えた。多くを語る──それはどんなものであれ、価値を貶める。

 

「ああ、失礼。これは一つばかり語りすぎましたね。不必要な言葉と知りながら口が軽くなるのもまた、私の悪癖というものでしょうか?」

"それはどうだろうね。私はその『不必要な言葉』もまた、これからを生きるなら必要だと思うけれど。"

「それは何故?」

"辿る道はいくつもあるべきだからね。関わらないでいた誰かと向き合い話し合って、そこで別の視点があるのだと気付く。月日が経って人生の節目へと立った時、見知った誰かと相談し合う。その時に無意味だと思っていた言葉が意味を持つんだ──言い換えるなら、友情や絆を取り持つための言葉として。"

"言葉は確かに、重みを持っているべき時もある。相談をする時に答える言葉が正しくそれだ。けれどもそれは、全ての発言に重みを伴わなければならない理由とはならない。……どうかな?"

 

 それを聞いて、やはり彼は心が善良過ぎるのだと知った。

 話をして、理解し合えたからこそ、別れなければならない時に苦痛を得る──かつての彼女。

 話をして、やはり理解し合えたものでないと解り、そして憎み合って苦痛を得る──ヒンドリー。

 そもそも話など出来ず、こんな奴と会話しようだなんて土台無理なものだったと苦痛を得る──スラムのクズ共。

 やはり苦痛は、苦痛なのだ。苦痛はやはり、得たいと思うには難しかった。

 私はフランシス・ジャムの歌ったようには出来ず、ただ苦痛を苦痛としか認識しない。苦痛を尊敬する事など無く、また理解する事も出来ず、美しいものとも思えない。ただ恨む対象としか認識出来ない。

 

 彼が純情の過ぎるだけなのか、それとも苦痛を愛せるものと出来ているのかはわからない。私は以前の彼を知らないからだ。

 ……しかし、それでも彼はよくもそう認識出来るものだ。人間らしい理知的な感性をもって、そう言うのだろうと感じられた。

 

 だから、どうにも眩しい、……恐ろしい。

 本能的嫌悪感が無く、好意を感じるのもまた合っている。けれども、どことなく気を騒がせてくる。生塩ノアと似た感覚で、……わからないが、その根幹が違う。

 先生を嫌う理由が無い、……いや、ある。理念に共感出来ないという一点で。それを上回る以上に好む理由がある。

 ……わからない。私がどうして目を合わせたくないのか、また気味の悪さを感じるのかも。

 しかし、それしか感じられなかった。

 

 雨に気を取られているのではなく、先生と目を合わせたくない──すこぶるに利己的な感情から、私は目線の先を変えないままに答えた。

 

「……理想的には、そうあればよろしいでしょうね。私にはあまり共感の出来た話じゃないというだけで、……そう、言語として、まあ、……簡単に出力が出来ないだけで」

 

 後頭部に気配を感じ、しかし消えた。それを考えられる動きとして表すなら、手を伸ばそうとして、引っ込めた動きに近かった。

 きっと"先生"の事だから、私に好感を持たせるような動きをしたかったのだろうし、意図して私を敵に回す理由もまず考えられない。けれども出来ることなら、今はそれを控えて貰いたかった。

 その思いでも汲み取ったのか、先生は私にしばらく何もしなかった。

 聞こえてきたのは、雨のサアと落ちていく音、トン、トン、雨が窓を小突く音、他には二つの息遣いだけだった。

 

 そうして感情の揺らめきが少しずつ静まっていき、ついには平常を取り戻した所で、先生が話しかけてきた。

 

"ねえ、レイ。"

「なんでしょう? 仕事の前に話でも?」

"それに近いかな、……私からのお願いとして、だけど。"

 

 そう言って、彼ははにかんだらしい声色で話す。

 

"何か気持ちの優れない事があったら、何もかも溜め込まずに、私へ色々と話して欲しいんだ。力にはなれないかもしれない。レイにとっては軽い言葉に感じるかもしれない。けれども、どうか私の事を信用して欲しい。"

"だから、手始めには、……そう、……うーん……"

 

 そうして言葉に詰まっている最中で、私は目線をようやく部屋の中へと向けた。

 やはり"先生"は険しい顔も疲れた顔もしていなかった。強いていえば、悩んでいる。

 

"そう、アニメを見ようか! 私のオススメはこの作品なんだけど、35話の内容が本当に良くってね、……どうかな?"

 

 ……アニメ、アニメ?

 どうしてそこでアニメが出る?

 悩みでも解決したような面構えで私を見る彼に対して私は、……そう、「お前は何を言っているんだ」と言いたくなった。きっと表情にも現れていた。

 

"……もしかして、こういうのはあまり好きじゃない、とか?"

 

 私を不安げに伺う顔が見えていたからだ。

 いや、これは考え無しでは無い。これは慎重に考えた上でこれなのだ。

 私に感情の揺らぎを共有してほしい。そのためのきっかけになるものが欲しい。だからアニメという手段で取り持ちたい。本当にそれだけだろう。

 いつぶりだろうか、憤怒に達しすぎていっそ笑えてくるのではなく、もう笑うしかないというようなヤケや諦めの意味も無く、面白おかしいから笑みが込み上げるというのは。

 

「……そうですか、そうですか。……フ、……良いでしょうとも。見ましょうか、一緒に」

 

 彼はやはり、完全な脅威とは言えない。

 私の目が節穴であるかもしれないし、見込み違いなだけかもしれない。彼が邸宅に対して余計なお節介をするかもしれない、どこまでも憂慮の材料はあるものの、……まあ、ひとまずは、保留が一番か。

 喜ばしいとみえる態度である先生に、今は悪感情を感じなかった。




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