嵐の吹き荒れる丘より。 作:■■■■■
「……そう、そうか。……わかった。私はしばらく休暇があるから、日付の代わり次第、すぐにそっちに向かおう。……わかってるよ。わかったから、少し落ち着いてくれ。……また明日に会おうか、ディーン」
……もしかして、本当は聞くべきじゃない電話でも聞いちゃったんじゃないかしら?
ふと聞こえたレイの声で、思わず柱の横に隠れてしまった私は、そう考えさせられた。
私こと早瀬ユウカは、あまり人の関係だとか、生まれだとか、あるいはその人の特性だとかにあまり関わらないようにしていた。
理由は、まあ、あまり知りたくない──知っても仕方がないから、というのもあるけど、……一番は、触れてしまったら、それまでのように触れ合う事が出来なくなるかもしれなかったから。
それが怖かった。
例えば、もしもノアが、本当は男の人だったとか──そんなハズ無いってわかってるからよ、仮定でしかない──なんて事があったら、ノアの事を、どう見ればいいのかが分からなくなる。多分、今までのような、気安いというか、身を寄せては雑談をしていられるような関係にはなれないと思う。
それくらい、人は、人の見方っていうものが簡単に変わる。私はそう思っている。
だから、ふと聞こえたこの電話らしい内容は、もしかしたらあまり踏み込んではいけない内容なんじゃないかしらと、そう思わされた。
……でも、聞いてしまった以上、そう簡単に忘れてしまう事も出来なくて、気のとっかかりになって、私が思わずそのまま立ち止まっている要因になってしまっていた。
誰よ、電話している相手。あんな砕けた言い方なんてしちゃって。数日前までスマートフォンの「ス」の字も知らなかったのに、あんなに使えるようになって、……じゃなくって、電話相手──「ディーン」っていうのは誰よ。
普段、ミレニアム自治区で会っている誰にでも──スケバンたちやヘルメット団相手にも、上級生にも同級生にも、それに私とノアに対してでも、ずっと敬語かつ眉間の寄った顔。
そんな態度で「恐らくはそうかと思われます」「貴方がそう言うならそうです、……かね?」みたいに、感情という感情をさほど乗せていそうにも無く、人の言葉に取り合ってた、機械工学どころか現代技術、もしかしたら現代社会まで知らなさそうなレイが、タメ口で、しかも、チラと見えた表情なんて、ほんの少しほころばせていたあの顔!
誰よ電話相手。地元の友達? そういえば電話はあるとは言っていたけど、私たち以外にも友達はいたのかしら。いや、普通に考えたらいそうなものだけれど、……私たちには、そんな事情を知らないものだからさっぱり。
親だったりするかもしれない。それなら、ある程度納得も出来そう。……あんまりレイが親の話をした事なんて無かったけど。……やめた方がいいかもしれない。もしかしたら闇の深い話かもしれない。私は一度シャットダウンする事にした。
……まさか、男の人? …………いや、いやいや、まさか。だって、……うん、有り得る、かも、だけど。それだったら、それだったらで、なんだか悔しい。嫉妬しちゃう。なんだか先に行かれたみたいで。
……違うわよね、そういうの。
「どーうしましたか、ユウカちゃん?」
「ちょっ、ちょっと、ノア! 今は待っててよ……!」
そう考えて、モヤッとした感情に反感を覚えていると、後ろからノアが寄りかかってきた。
ノアは私の友達だ。小さい時からよく関わっていた友達。時々、こうやって距離の近すぎるような仕草をしてくるけれど、それも愛があっての事だと思う。嫌いならわざわざしないだろうし。
「今は訳あって隠れてるから、ちょっと今は……」
「ユウカちゃん、小声ですから大丈夫ですよ。それに、案外かくれんぼはバレやすかったりしまして──」
「──ただ柱の陰に隠れているだけなら、気配でわかるものです」
「だからって抱きついてくるのは、って、うわあっ!?」
と、ふと目の前に現れたレイに驚いて尻もちを付いてしまった。
……うん、もうとっくのとうに慣れたけれど、レイが唐突に現れると、少し驚く。
身長なんて私の頭一つ分はあるし、体格だって大きい部類。顔つきだって、普通の人が見たら「怖い」と思うようなもの。日頃から眉間にシワが寄っているというのも相まって、中々に威圧感がある。
私は、彼女が優しいって事を知っているけれど。
「っと、失礼しました。手をお貸ししましょうか」
「ごめんなさい、急に出てきたのに驚いちゃって、……ねぇ、聞きたい事があるんだけど、さっきまで何を電話していたの?」
「……電話、聞きました?」
「えっと、まあ、……はい。ごめんなさいっ、悪気は無くって! 通りがかったら聞こえてきちゃったの!」
「いえ、別に差し支えはありませんから。謝らずとも結構です。秘密は甘いものであると、よく知っていますので」
差し出してきたレイの手を取って立ち上がりつつ、
「レイちゃん、いつもより眉の間が二ミリほど狭まっていますが、……何かあったんですか?」
「………………さ、さて? 気のせいでは?」
「気のせいじゃないでしょ、その間の開き方」
と、ノアが指摘していた事に対して、気のせいだと答えて言うには明らかに間が開きすぎていた。というか、あまりにも身体が「私は嘘を付いています」と言っていた。
目線は天井と壁の間に行き、いつもは左手を胸元に置いている手は後ろに回してあって、露骨なまでに知らんぷりをしようとしている。
レイは、態度の表れ方のせいで、あんまりにも無茶のある嘘を付こうとしていた。
「……空が綺麗ですね」
「目線の先に空なんて無いですよ」
「…………窓越しの空は綺麗ですね」
そう言って目線を変えた先に見える窓越しの空は、遠鳴りが鳴っているような空模様。
まず綺麗とは言えなかった。
「雨、ですね」
「…………ともかく! ノアさん、ユウカさんには関係のしない事、……というより、身内で終わらせておきたい事ですので!」
「ちょっと、待ってよレイ!」
そのまま踵を返して帰ろうとしたのを、ノアがレイの背中に張り付いた。そのまま、耳打ちか何か? を始めた。
……いつの間にか、ノアとレイで仲良くなってたのね。そんな光景を見て、呑気に思う。
「──ねえ、レイちゃん。隠し事は無しにしませんか? そ、れ、に、……きっと時間の問題だと思いますよ?」
「ですがね、ノアさん、私は出来ればこういうのは身内の問題としてですね……」
「……友達、じゃないですか? 私たち、そんなに頼り無い同級生なんですか? 悲しいですねぇ」
「頼り甲斐の無いだかとは違う問題であって、…………はあ。わかりましたよ。言えばいいんでしょう、言えば。尋常では無いほどに気乗りがしませんけどね……」
そうして、コソコソ声で話し終わったのか、頭を掻きながらレイが私の方向を再び向いた。
「さて、端的にまとめましょう。明日の一日か二日程、お時間はありますか?」
「えっ? え、ええ、あるけれど、夏休みで、少し落ち着いてきた時期なのもあって。でも、それがどうしたの?」
「これはユウカさん、……いえ、ユウカさんとノアさんがどうしたいのかに託しますが、……私の邸宅で、一日ほど代理として働いてもらえない、でしょうか?」
「……なっ、なんて?」
──これが、安晶レイという友達が、とてつもない大きさをしているお屋敷の、そこの持ち主だと知った時の、初めての反応だった。
ミレニアム自治区の駅から乗り換えて、トリニティ総合学園自治区の駅に。そこから更に乗り換え、また別の駅に。
これじゃあ、乗り物に弱いレイが酔ってしまうのもわかるという納得と共に、どれだけ遠いところから勉強しに来てるのよと驚愕もしながら、私たちは寝間着と必要そうな物を入れたキャリーケース、そして傘まで持たされながら、長い道のりを歩いていた。
──あの後、二つ返事とまでは行かなかったものの、最終的に承諾した私たち。そこからは簡単な事で、事前の準備と早めの睡眠、そして当日の移動だった。
移動なんて、朝早くから起こされた。休日なのに朝五時から起こされたのだから、もう一度ベッドの上で寝たくなる衝動に駆られた。
場所も冗談では無いくらいに遠かった。それこそ、GPSアプリで確認したら、キヴォトスの端にあたり、地形も相まって孤島のようにも思えるくらいには。道理で聞いた事が無い訳だし、サンクトゥム・タワーもかすかにしか見えない──あの巨塔が、しっかりと意識しなければ見えないほどだった。
それなりに傾斜があり、足が重たくなる感覚がしてきたというのに、対してレイは軽々とした足取りで歩みを進めている。なんなら、私たちの歩幅に合わせて歩いていた。
途中で見えた大きそうなお屋敷に「アレじゃないの?」と聞いたはいいものの、頭を横に振って「あの屋敷は『
思わず、文句の一つを垂れてしまう。
「ねえー、レイ? ちょっと遠すぎじゃない?」
「仕方ないでしょう。邸宅までは──「嵐が丘」まではもう少し距離がありますから」
「まあまあ、ユウカちゃん。時々はこうやって歩いていく、なんてのも悪くは無いと思いますよ」
「けれどね、ノア。……遠いと思わない?」
「……それは、……はい」
だからミレニアムに来たんですよ、とでも言いたそうなレイの目線が私を突き刺す。
それはそうなんだけれど、ここまで遠くて、しかも徒歩でとまでは思わなかった。それほどまでに田舎で、それほどまでに技術の普及が進んでいないという証左ではあるけれども。
とまあ、そんな事を考えていると、ノアが興奮した様子で話しかけてきた。
「見てください、ユウカちゃん! 綺麗な海ですよ!」
指さした方向を見ると、そこには青い海が見えた。澄んだ青色が綺麗で、浜辺も白さが目立つ、綺麗な海岸。遠くには蒸気船が見えている。白黒な船が進んでいるその景色は、さながら印象派の色鮮やかな絵画か、映像美の強調された映画かのようだった。
「本当、綺麗な海岸! レイはあそこで海遊びしてたの?」
「いえ。むしろ誰も近づこうともしませんよ、あの見せかけだけの海岸、──『ピークォド海岸』には。問題のある建築を、巷では曰く付き物件だとかと言われますが、それに合わせるなら、あの海岸は曰くしかありません」
「……例えば?」
「『白鯨』、……まあ、端的に言えば天変地異のような存在が暴れ回る海域でして。鯨モドキのソイツを狩ろうとした奴らは全員沈みましたよ。ピークォド海岸とて、挑もうとして、結局海の底に堕ちた捕鯨船の名前から取られたものですので」
……なるほど、少なくとも近づくべきでは無いというのがわかった。口ぶりからするに、多分、科学的な探求目的だろうと触れてはいけないほどの領域なのだろう。
どこかで読んだ本に、「地元民が伝統的な理由で忌むには、必ず科学的な理由がある」というのがあったが、おそらくそれの類のはずだ。
……だとしたら、あの船はその危険な海を進んでいるが、どういう訳なのだろうか。
「……でも、あの蒸気船はどういう訳よ。そのピークォド海岸とやらに浮かんでいるのだけれど?」
「……正直、アレについてはよくわかっていません。ここ数年で姿を見せるようになったものですので。とりあえずは『蒸気船ウィリー』という名前の幽霊船か、納得出来ないなら偶然そう見える蜃気楼とでも思っておけばいいでしょう」
……幽霊船、ねぇ。
信じられないけれど、……『白鯨』ですら信じられないような話だから、そう考えておくべきなのかしらね。
遠くの蒸気船を見ているとなんだかモヤモヤするような気分がしたので、今度は右側に目線を移す事にした。
そこにあるのは、緑が点々とありつつも、大部分は荒野のような黄色が占めている土地。左にあるピークォド海岸とは対照的に、写実主義の画家が描いた油絵の世界観というか、どこか無機質なように感じられた。
「じゃあ、あっちの風車がいっぱいある所は?」
「あちらはラ・マンチャ地区ですね。昔はキハーノ氏が代表として運営していたそうですが、彼の血筋が途絶えた今では邸宅の管理地です。名産は、……この年齢層で手に付けられる物なら、サフランだとか、メロンだとか。それとブドウも有名ですね。かのトリニティでも扱われる代物ですよ」
「トリニティって、あのお嬢様学校として有名なっ……」
「はい。まあ中身はおじょっ、…………失礼」
何か言おうとしていたが、口を止めていた。直前まで言っていた事から察するに、多分トリニティ総合学園に対するネガティブキャンペーンを言いかけたのだと思う。
……まあ、わかる。レイは悪魔にありがちな角も持っているから。それでネチネチと言われたのかもしれないと想像できる。正直、そうするのは中々非効率的なように思えるけれど。
「そういうものですよ、人間ってのは」
「さらっと心読まないんでほしいんだけど」
「失礼しました。──さて、もう少しここの管理区について話しておきたかったのですが、それもそろそろ終いです。邸宅が見えてくるはずでしょう。休むための客間も用意してある手筈です。……それと、雨の香りもしてきたので、そろそろ傘をおさしになられるべきかと」
「ええ? だって、レイ──」
今はこんなにも明るいのに?
いつの間にやら傘を開いていたレイに対してそう反論しようとして、しかし、鼻先に落ちたものに気を取られた。
たった一滴の雫だった。
──狐雨?
そう考えていたが、しかし、一歩、また一歩と進むごとに、雨の降ってくる量は多くなっていく。終いには、傘を差しても強すぎる豪雨に。
空は今までの太陽が幻想であったかのように黒雲に閉ざされていく。自然の所業であるのに、不自然なまでの天候の移り変わり。
──まるで、嵐に閉ざされている。
ふと、私の頭にその言葉がよぎった。
その嵐の中で見えてきたのは、あまりにも大きい、レンガ造りの建造物。黒ずんだレンガのせいで、いつから立てられているのかもわからないほどに古めかしい姿に見え──きっと、本当に古いのだろう──、その屋敷を取り囲むように雨が舞っている。雷が落ち、防寒具が欲しくなるほどの
今は夏だ。それも初夏。歩いていた時だって、汗が流れるような熱波が身に降り注いでいた。
それが今や、真冬のように凍える寒さ。降り注いでくるのは光では無く雨。
色褪せた雨雲。色褪せた屋敷。色褪せた目の前のレイと、私たち。何もかもが古い映画のように、セピア色に見える世界。
「──さて。ようこそ、御二方。嵐に閉ざされた我が邸宅──『嵐が丘』に」
畏まった態度でお辞儀をしたレイの姿も相まって、別世界へと足を踏み入れたかのような心地だった。
「……そこで立ち止まっていても何もありやしませんよ。凍えるでしょうから、早く中に入りましょう」
ついで「手元にはサインも記入されていますのでね」と、私とノアが共々、名前を書かされていた台帳を見やりながら、レイは言う。あの時に書かされていたのは、これが理由だったのかと、私は納得した。
──そうして、ギイ、ギイイと。金属の門が、錆び付いたような重々しい音を立てて開かれた。
開かれた門を通って、一面に広がっていたのは紫色に淡く咲かせる花だった。全てがセピア色に見えるような世界で、それだけが淡くも、しかし鮮やかに色付いていた。
「……綺麗な花。これって?」
「ヒースの花です。エリカとも呼びます。荒野に咲いて、嵐の中でも耐え忍ぶ。淡い紫色が、この土地では良く映える。そうでしょう?」
親に褒められた子供のように、跳ねているような声でレイは返す。確かに、色褪せたように見えるこの土地だと、淡く、でも鮮やかに紫色を咲かせているその花は綺麗だった。
「写真撮ってもいい?」
「当然ですとも。自慢のものを褒められて、気分の悪くなる奴はそういませんよ」
首肯したレイにありがとうと伝え、スマホの画面に触れる。
黒い画面。
反応していなかったのかしらと、もう一度触れる。
黒い画面。
反応しないわねと、電源を短く押す。
黒い画面。
……電源でも切ってたかしらと、電源を長押しする。
黒い画面。
私のスマートフォンは黒く沈黙し続けたまま、何も変わらなかった。
「……あれ?付かない。おっかしいわね、確かに充電してたはずなんだけど。ねえノア、そっちの携帯も付く?」
「いいですよー。……あれ、私のも使えませんね。一度も使った記憶は無いんですけど……」
そのボヤきに反応したのか、レイは「ああ、すっかり忘れてましたね……」と頭を抱えていた。
「……ここ、スマートフォンのような、現代で使われている電化製品が使えないんですよ」
「…………えっ!?」
「……な、なんでですか?」
「完全にわかっているならとっくに言ってますよ、そんな事……。ジョウゼフ様やその他の研究狂いも時間と資産をふんだんに割いて調べていたそうですが、その上で仮説と推測の段階です。マエス、……ジョウゼフ様の知人から知らされた時は、心の底から怒りが湧き上がりましたよ」
…………どうするのよそれ?
「わかってるなら最初から言えってんですよ」とレイが愚痴を言っている合間、いわゆる「終わって」いるこの土地に思索を巡らせていた。
現代的な電化製品が使えないということは、つまりは携行できる連絡手段も、電子レンジのような調理器具も、冷蔵庫や冷凍庫のような電動式の保存手段も使えないという事になる。
冷蔵庫が無い料理なんては逐一作ったものを食べきらないといけないだろうし、電子レンジが無いというのは、片手間料理が出来ないという事とも言える。そこにスマホが使えない生活なんて、私には到底考えられない。
振り返れば、最初の頃のレイの部屋にそんなものは無かった。今は電子レンジも冷蔵庫も、スマホも持っているけれど、あの「お前は何を言っているんだ」と訴えかけてくるような視線は覚えている。
……ただ効率を求めるだけなら、一番は見限る事になる。なぜも何も、解決のしようがない原因のある所に固執していても、労力の無駄になるから。どうしようもないものは、諦めた方が幾分も早い。
……だけれど、レイはきっとそういう結論は求めていないはずだ。
腕の見せどころよね、ミレニアムの技術力の。
「──それで、仮説と推測はなんですか?」
「現状はいくつかありますが、その中で最も科学的な仮説は『帯電した空気が電動製品に悪影響を及ぼしている』という物です。まあ、それだけでは説明が付かない点も多々ありますがね。……さて、それよりも、邸宅の玄関に着きましたよ」
「ふふっ、今はその話題の転換に乗せられましょうか」
そう考えている間に、玄関口に辿り着いたらしい。
靴の泥を落としながら、レイが主導して開けた玄関から入ると、外で感じていた肌寒さが薄れていた。代わりに、一帯は温かくなっていた。暖炉の火が見えたので、あそこからの温かさなのだろう。
「ディーン! エレン・ディーン! 伝えていた二人です! 案内を!」
「はいはい、ただいま!」
レイが見た事の無いほど声高に──今まではあまり大声を出していなかったし、声だってかなり低かった──連絡し、一つの返事が飛ぶ。
ほどなくして、顔を見せたその「ディーン」は、私たちを驚かせるような人物だった。
ディーン──エレン・ディーンさんという人は大人だった。
ショートヘアの茶髪で、肌はレイと同じ褐色。若々しいけれど、歳を重ねているような印象があり、……例えて言うなら、彼女の母親のように感じられた。
「へえ〜、キミたちがこの子のお友達さんかい? こんな辺境までよく来たね! 遠いわ、寒いわ、更には上がりっぱなしだわで大変だったろう? ささ、早くお上がりになりなさいな! 暖炉も暖かいうちに、さあ、さあ!」
「へっ? ……え、えぇ、そうです、お邪魔、します……?」
私たちの常識だと、大抵の大人の姿はオートマタか二足歩行の動物──犬、猫の姿がほとんどだ──のどちらか。もちろん、私たちの姿のような大人もいるけれど、そういう大人はあまり姿を見せない立場にいることが多い。それに、銃で撃たれたら大怪我するから、より一層と見かける機会なんて少なくなる。
だから、こんな所で見かけるとは、まさか思いもしなかったのだ。
……「ディーン」さんが男の人だと思っていたからこその拍子抜けもあるかもしれないけれど。
「いやはや、あたしとしてはここが忙しくなる中で来てくれたのも嬉しいけれどねえ、一番はお友達を連れて来た事だよ! あの子ったら、いつも書斎か図書室のどっちかで小難しい本を読んでばかりで、誰とも話をしないものだから──」
「ディーン」
「──それにねえ、この子はうんと頭は良いんだけれどね──それこそ、今までここで働いてた大人も子供も目じゃないくらいにはね──、ただ、どうしても気難しいのがあって、しかも気にしいなのさ。挙句は繊細だしその割には中々不満を言わないしでもう大変。そりゃあもううんと気を使ったとも──」
「エレン・ディーン」
「──あたしが考えるにゃ、ちいとばっかし人間不信な節もあったろうから、今じゃあ二人もお友達が出来ちゃって、しかもこんな辺境、取り上げられるものだって何も無いへんぴな所に連れて来てもらっただなんてね、もう、あたしゃあ感動で涙が出そうだよ、なんてねえ〜──」
「クソアマ……」
ガンと、レイの頭にゲンコツが振ってくるまでは随分早かった。というよりも、私が認識していた時には、既にゲンコツが落とされていた。
「こら、そういう言葉遣いはやるもんじゃないでしょ!」
「…………ったい……!」
「レイちゃん、随分と良い大人に育てられたんですね」
「ええ、とても良い人間ですよ、……技術者の説明したがりが比にならないくらいに饒舌なのがよろしくないですけどね……。ディーンめ、本気でゲンコツを入れたな……!」
頭をさすりながら言っていたけれども、その声には何かしらの敵意は感じられなかった。どちらかと言えば、雑でありながらも信頼を寄せているような声。お仕置をされるのを承知の上で、わざと悪口を言ったような具合。なるほど、私に対して時折「叱り癖」と呼ぶのは、多少なりとも信頼してくれている意味のように思った。
……正直、クソアマとまで言うとは思わなかった。一体どこで学んだのやら。
さて、ディーンさんが話しかけてくる──大体は、ミレニアムではどんな様子かを聞いてきたり、レイがここにいた時の様子をマシンガントークで言っていたり──のを聞いたり、私たちで答えているうち、どうやら今日使わせていただく部屋の前に着いたらしい。
レイは別の用があるからと扉の前で別れ、私たちも部屋の中で荷物を解いてこようとしたその時、ディーンさんから声を掛けられた。
「それとね、ああ、ユウカとノアで合ってるんだっけ?」
「はい、そうですね」
「ええ、合ってます」
「うんうん、わかった。それじゃあこれを使ってもらえるかな?」
そう言われて手渡されたのは、一つの拳銃だった。単発で、発射したら後ろから装填する必要のある、レイが持っている銃と似たエングレーブが入ったもの。
銃を置いてきた訳でも無い今、なぜこれを手渡されたのかが分からなかった。
「でも私たち、銃はもう持ってますよ?」
「いんや、そういうのじゃなくってね、……ふうむ、それなら、これを一つの礼装として見てはくれないかな? それなら納得してもらえるかい、ささ、持っておくれ!」
「そういう事なら、まあ……」
と、やや押し切られるよう形で手に取り、今手元に持っている方──『ロジック&リーズン』については、部屋に置いておく事にした。
……悪い人では無いかもしれないけれど、なんと言うか、所々で圧が強いのが少し怖い。
仕事の内容は、端的に言えば掃除をより広範囲にしたようなものだった。
曰く、今日は定期的な掃除をする日だったのが、二人の欠員が出たのもあって、本来なら休日だった人が仕事を入れるかもしれなかったらしい。そこに、私とノアが入ったという事だった。
そういう理由もあって、何人かから感謝をされたり、「手際が良いじゃないか」とも褒められた。一部からは冗談めかして「ここに身を移すつもりは無いか?」とまで。
ここまで褒められるとは思わなかったというのもあって、照れてしまいつつも、どうにか午前中の仕事は終わらせる事が出来た。
そうして、知らない人と顔を合わせながらというのは流石に気まずかろうと考慮されたのか、割り当てられた部屋の中で、ノアと一緒にお昼を食べていた。
しかし、ふと廊下の側がにわかに騒々しくなった。バタバタと、部屋の外で足音だったり声だったりが聞こえ、気になった私は通っていく一人を呼び止めた。
背負っていた金槌が妙に特徴的だったけれども、気にする暇は無かった。
「何、何があるの!?」
「なんだいあんた、見ない顔だが新人か?」
「ええそうよ、新人よ! それで、何が起きてるの!?」
「それなら端的にまとめるが、ある嫌な野郎の襲来だよ。面倒事ばかりを持ち込んでくるクソッタレだ、関わったって気ィ悪くなるだけだぞ。今はご当主が対応しているだろうが──」
と、なにかが割れる音が響いた。ガラスが割れたような、それも勢いよくぶつけて割れたような音。
「……まさか──」
「っ、行かなきゃ! ノア、ちょっと残ってて! すぐに戻ってくるから」
「わかりました、……怪我はしないでくださいね」
言葉としては形容出来ない、けれどもなにか酷い悪寒を感じて、「おい、待て!」と止める声もよそに、音の鳴った方へと走っていく。
「──てめぇみてぇな野良犬野郎がいなけりゃ、この邸宅は、オレの手にあったんだ! オレが引き継いでいた! それを、てめぇだとかのジプシーが、叔父に取り入りやがったんだ!」
「ええ、ええ、そうですか、あなたのような、葬式にも出やしないクズ風情に邸宅が引き継がれるとでも? 笑わせるつもりですか? 申し訳ないですが『私』の邸宅では、ピエロは雇うつもりなどありませんのでね、さっさと踵を返して出て行かれては? ああ、失礼! あなたの帰る場所などありませんでしたね!」
怒号と、物の飛び交う音。
「この、クソッタレのサタンの手先め! オレから、ヴァイオリンも、金も、名誉も……! オレの何もかもを奪った、淫売の乞食めが! くたばれ! 死ね!」
「ええ、金にしか興味の無い虫ケラですとも! 簒奪者だとも! どこの生まれだかも知りやしない、嘲弄も蔑視もされて当然の、どこまでも卑賤なゴミ袋! だがなクソ野郎! キサマは散々、虐げてきた! 鞭打ちも、飯も、自分の女性らしさも、その全てを嘲笑ってきた! そのツケが回ってきただけに過ぎねぇんだろうが!」
なにかを打ち付ける音。弾力のあるものを、手で殴っている音。
「死ね! 死ね! オレの全てを奪いやがって、クソガキが!」
そうして、辿り着いた景色は、凄惨だった。
散らばって乱反射を引き起こしているもの──瓶の破片。アルコール臭の漂う液体が巻き散らかされている。
殴っているような音は、まさしく人を殴る音だった。
胸倉を掴み、顔を殴り続ける男の姿。
その胸倉を捕まれ、何も抵抗をしていないのは安晶レイで──。
「──アンタ、何してるのよっ! 私の友達に、暴力を振るってっ!」
気がつけば銃を抜いて、照準をその男に向けていた。
ディーンさんと同じで、……目の前の人は、私と同じ姿の、大人。
ヘイローの無い大人は、弾丸一発が致命傷になる。私たちとは違って。……弾丸一つで、死んでしまう。
引き金を引けない。……死んでしまうのが、怖い。撃ったら、死ぬかもしれない。
──そのせいで、私の銃を握る手が緩み、はたかれた。その男に手首を強く掴まれた。
アルコール臭と煙草の入り交じった悪臭がする。怒りに刻まれた皺が見える。
「きゃっ! やめてよ、離してっ!」
「……っざけんなよ……! オレの気も知らねぇで、知りもしないガキがノコノコと手を出しやがって……! テメェも殴り殺しや──」
吹き飛ばされた。私の手を無理やり離させ、吹き飛んでいった。
正面へと目を向けると、そこには立ち上がっていたレイがいた。頭から血を流して、顔に殴られた痕を残しながらも、憤怒に顔を歪めた、レイの姿が。
「ヒンドリーッ! 腐れた性根の糞袋野郎が! 指の一つでも彼女に触れてみろ、ドタマぶち割ってぶち殺すぞ!」
憤怒に叫ぶ彼女の瞳は、──鮮やかすぎるほどの、エメラルドグリーン。
色合いの平坦な紫の瞳とは、全く違う、緑色。
「……二度とっ、……二度とだっ! この邸宅に、……いいや違う、この管理地に脚を踏み入れるな! もし半歩でも跨いでみろ! その首真っ二つに圧し斬って、門の前で晒し首にしてやる! 出ていけ! 存在を許容しているうちに、さっさと出ていけっ!」
「……はっ、戻ってくるかよ……! 次に戻ってくるとしたら、……テメェが確実に、元の淫売の乞食に戻る時だ……。覚えてやがれ、……お前を、必ず、殺してやるぞ……」
そんな捨て台詞を吐きながら、ヒンドリーと呼ばれたその男は、よろめきながら扉を開き、出ていった。
「……ね、ねえ、レイ、……大丈夫……?」
ようやく騒乱が終わって、へたれこんでいた。けれども、より傷が重い人──レイがいる事を意識し、座り込んでいた声を掛けた。
「ヒンドリーめ、必ず殺してやる……! 神罰がなんだ、神がなんだ、それが何の役に立つ、神なぞ依怙贔屓のクソ野郎だ、信頼出来るものか、自らの手で報復してやらないと気が済まない、決して気を済ませるものか、許すものか、泣き叫ぼうが許しはしないとも、……神罰が生温く思えるような傷を、憎しみを、憎悪を、怒りを、後悔を刻みつけてやる、必ず、必ず、俺がその身に受けた仕打ちの全てを必ずその身に刻み付けてやる……! その上で最大限まで苦しめながらぶち殺してやる、天国にも、地獄にも行けないよう、その薄汚れた死体を燃やしてやる……! 許さない、許さない、許さない、……今まで迫害してきたクソ野郎を、今まで惨めにさせてきたあのクソ野郎共を、今まで俺を嘲り続けてきた全てを、何もかもぶち壊してやる……!」
「──ひっ」
──怖かった。
強すぎる負の感情にひどく顔を歪ませた顔が、無表情気味なレイには見えなかった。口から吐いているその言動が、冷静に見えるレイのものに思えなかった。
左の顔半分を掻きむしる姿が、暴力性の滲んだ感情が、何かに取り憑かれたような友達が、……緑色の目に潜んでいた毒気が、あまりにも恐ろしくって、逃げたかった。
──でも、そんなのは、友達じゃないから。
息を飲み、逃げたいと思う感情を押し殺して、両肩を掴んで、
「──レイっ! 私を見てよ!」
そう叫んだ。目を合わせながら、恐怖を押さえつつ出せる最大限の声で。
──多分、その言葉は届いていた。
目の色が緑色から紫に戻っていく。目に潜んでいた毒気が薄まっていく。怒りに歪んだ顔が、呆気に取られた顔へと移ろいでいく。
気付けば、呆けた顔と傷まみれの姿以外は、元の安晶レイの姿になっていた。
「…………ユウカ、……さん?」
「そうよ、ユウカ、……早瀬ユウカ。……大丈夫、よね?」
「……は、大丈夫ですよ。……見かけは傷まみれですし、汚れも付いていますが、……まあ、……洗うなり清掃するなりで現状復帰はできるので、ある程度はマシでしょうね」
「……よかった、本当に、よかった……!」
思わず、体重をレイに預ける。何かを言っているレイに構わず。
「血が付くんですよ! 洗うのが大変なんですよ血液の痕は! 第一汚いじゃないですか、ねえ!?」
「……ノンデリぃ〜! 友達がノンデリぃ〜!」
「『のんでり』って、それ明らかに罵倒ですよね!? というより、早く医務室に行きましょうよ! 床も汚れるし、何よりユウカさんの手首に痕が付いたら大変でしょうに!」
後日、仕事終わりで手渡された封筒は笑って返せないくらいに重かった。具体的には、金属の入っている重さだった。
迷惑料とも言っていたが、それにしたって重すぎる。
……今度は別の意味で、かなり怖くて手をつけられていない。