レッドガンの名を受け継いだ。そのこと自体が、レースに影響を及ぼすことはない。
けれども、自分の中のなにかが変わったとエアシャカールは感じている。
そしてそれはイグアスもそうだ。彼もなにかが変わった。
覚悟の示し方だ、と彼は言った。
イグアスは、トレーナーとしてエアシャカールとともに闘うと決意したのだ。
その決意は行動に現れている。
エアシャカールのデータ収集と分析、特に相手のウマ娘の映像分析で彼はよく口を出すようになった。
映像で見られる体癖や走法から推測するウマ娘の状態傾向の把握は、エアシャカールも目を見張るものがある。
逆に、数字で出されたデータの分析はエアシャカールのほうが優秀で、こちらにはあまり首を突っ込まない。
何が必要で、何が不必要なのか、彼はよく弁えている。
皐月賞、必要なデータは揃った。相手の傾向も把握した。Parcaeの計算結果も上々だ。負ける要素はどこにも無い。
レース前の控室のドアを開け、エアシャカールは振り返った。
「準備は整った。あとは走るだけだ」
「おう、勝ってこい。シャカール」
口の端を吊り上げるようにイグアスは笑う。
エアシャカールは堂々と胸を張り、レースに赴いた。
結論から言えば、彼女は見事に一冠を取った。
レース後に拳を高々と掲げ、観客に応えた。その姿に否が応でも期待が高まる。
次の日本ダービーでも、と。
エアシャカールが目指している三冠。まずは計算通りだ。
だが、真に問題なのは次の日本ダービーだった。
Parcaeは相変わらずこのレースで7cm足りないと言い続けている。そしてその原因であろうローダーフォー。やはり彼女も日本ダービーへ参戦する。
つまり、直接対決だ。
彼女を打ち破らない限り三冠は無い。
そして、その道はいまだ閉ざされたままだ。
「何度数値を入力しなおしても、この結果だけが変わらねェ」
エアシャカールがこぼす。イグアスが困ったように頭を掻いた。
「そもそもよ。そんなことありえんのか? 負けるって結果が変わんなかったとしても、普通その差は変わるだろ」
「普通はな。実際、他のウマ娘との差の数値には変化が出てる。一着との差だけが変わらねェ」
クソ、なんなんだ、とエアシャカールが目頭を押さえる。
「7cmねえ。一挙動乱せば簡単に覆る差だ。そういうブレってのはどうなんだ」
「有意なブレは織り込み済みだ。それに本番に限って相手が最悪のパターンを踏んで、こっちが最良のパターンをこなすってか? 奇跡の起こる確率の計算になンの意味がある?」
「極論、俺ら以外のみんながコケりゃこっちの勝ちだ。それがウン万分の一の確率でもな」
イグアスが肩をすくめた。あり得ないと分かってて言っているのだろう。
「イグアス、奇跡にすがっても意味はねェ。オレらの行動と関係なく起こるモンだからな。そンなのに頼ってるヒマがあるンなら少しでも自分の足で前に進むべきだ」
イグアス、とエアシャカールがさらに呼びかける。
「オレは諦める気はねェぞ」
「分かってるよ。俺だってそうだ。だからてめえは最善のパターンを引き寄せろ。あの野良犬に7cmまで詰め寄れ」
「……」
「あとの8cmは、俺が稼いでやる」
俺たちで勝つんだ、と彼は噛みしめた。
時は進み、ついに日本ダービーの日を迎える。
この日まで計算は変わらないままでいる。
エアシャカールは控室でひとりでいた。
イグアスはいない。
てめえはここで集中を高めとけ、と言いおいてターフのそばへ行ってしまった。
彼はギリギリまで状況を分析している。ウマ娘の状況だけでなく、ターフや天候の肌感覚まで目を光らせている。
ターフは生き物だ。他のレースや時刻によってさまざまに顔を変える。あらゆる条件を考慮し、彼は勝ちの目を探している。
対して自分はどうだろうか。エアシャカールは目をつぶり、深呼吸をくり返す。
一度息を吸い、息を吐く。
そのたびに、心の中にエネルギーが送られていくのがはっきりと分かった。
火が燃え上がる。
自分の計算に対する自信。
7cmという絶望。
ローダーフォーへの敵愾心。
そして、イグアスへの信頼。
心の中に浮かぶ全てのものに火を付け、我が身の燃料とする。
だがきっと、それだけじゃ足りない。
燃え残った燃え殻を丁寧にかき集め、山を作り、もう一度そこに火を入れる。
火を付けろ、燃え残った全てに。
そうしてひときわ大きくなった火を見たとき、控室のドアが勢いよく開かれた。
やってきたのはイグアスだ。
「シャカール、プランを変えるぞ」
彼の目には火があった。
レース場の施設の角、薄暗い通路の奥まったところに私は居た。
そばには誰も居ない。ここは人が通るようなところではない。非常灯の小さい光が照らすそこは、ガレージのような懐かしさを感じる。
ぼうと立ち、通路の奥のひときわ暗い一点をぼんやりと見つめる。
私はひとりだ。
そう感じずにはいられない。
ここには誰もいない。
指示を与えてくれるハンドラーの声も、サポートしてくれる友人の声も聞こえてこない。
ここはひどく静かだ。
そう、この世界には誰もいない。
この雑音ばかりの静かな世界で私はひとりぼっちだ。
そう思っていた。けれど、
「よう、野良犬」
背後から声が聞こえる。あちらで何度も聞いた声だ。どこか懐かしさすら感じる声。
ゆっくりと振り返る。あの時とは逆みたいだな、と頭のどこかで思った。
「イグアス」
「あ? なに笑ってんだ、てめえ」
言われて口に手を当てる。私は笑っていたのだろうか。彼が言うのならそうかもしれない。胸の奥からふつふつと湧いてくる震えは、きっと歓喜の震えなのだろう。
イグアスの火の付いた目が私のことを捉える。誰もいないこの世界で、ただ一人、彼だけが私をまっすぐに見据えてくる。
イグアスは何度だって何度だって私に挑戦してくる。
それが、嬉しくて嬉しくてたまらないのだ。
彼が何をしに来たのか、小首をかしげて聞いた。
「それで、イグアス、どうしたの? 私に何か用?」
「宣戦布告しに来た」
短いその言葉に、思わず口の端がゆるむ。
彼の言葉が、彼の目が、彼の闘志が私の存在を射抜く。
私はゆるく両手を広げた。私はここにいる。それを誇示するために。
イグアスが決して私を見失わないようにするために。
「私は高い壁の上でひとり立つ。私は誰にも掴まえられない。私という壁は越えられない。誰にも、何にも」
「へっ、どうかな。よく注意しておけ。その余裕ぶった横っ面をぶん殴ってやる。俺とシャカールでてめえのことをぶっ潰してやる。」
「できるものなら」
言えば、イグアスは長く息を吐きだした。一度目をつぶり、それからこちらを鋭く睨みつける。
「いいか、俺たちレッドガンは壁越えを果たす」
てめえを越える、と彼は告げる。
私は声なく笑って応えた。
ウマ娘たちがターフに立つ。ひとりひとり名前を呼ばれるたびに歓声があがる。エアシャカールももちろんそこにいた。
ちらりと横を見やる。ふたり挟んだ向こう側にローダーフォーがいる。
彼女は常と変わらずぼんやりとした目で前を見ていた。
気に食わない。
なにもかもが気に食わない。
並び立つ自分たちのことをまるで意識していないような目も、そのくせ見るものを惹きつけ、その全てを焼き尽くすような走りも、なにもかもが気に食わない。
今日、ここで、あいつを喰らいつくしてやる。
全てを焼き尽くすのは、このオレだ。
ゲートに入る前に胸の前で拳を握った。
自分が組み上げた7cmまで詰め寄るプラン。そしてイグアスから告げられた8cmを稼ぐわずかな戦略。
イグアスはその戦略の意図を詳しくは言わなかった。ただ、どう走るか指示を与えた。ならば自分はそれを信じるだけだ。あの火の付いた目を信じるだけだ。
全てのウマ娘がゲートに着く。
世界が静寂に包まれる。
火が燃え上がる。
そして、ゲートが開いた。
次回、壁越え