どうやって控室に戻ってきたのか覚えていない。
ただ、ふわふわとした感覚だけがあった。
控室のドアを開けると、イグアスが待っていた。その顔を見ると、また体の奥からぞわぞわとしたものがこみ上げてくる。
「イ、イグアス……」
「おう」
「イグアス……オレ、オレ……」
口にしたい思いが後から後から湧いてきて、口がつっかえる。
イグアスは黙ってエアシャカールの言葉を待った。
溢れてくる思いの勢いのまま、エアシャカールはイグアスの腕をつかんだ。
「オレ、やったンだよな!? なァ! 本当に、本当にやっちまったンだよなァ!?」
「ああ、俺たちはやり遂げたぞ、シャカール」
「う、おお……。本当に、なァ! おい! イグアス!」
「言葉になってねえぞ、シャカール」
「っは! いいンだよ! 言葉なンて必要ねェ! やり遂げたンだからな! オレたちは7cmを覆したンだ! オレとお前でだ!」
なァ、とエアシャカールはイグアスの肩を叩く。
「イグアス、一体どんなロジックを使いやがった!?」
「ん、あぁ、そりゃあ……」
「ロジックでもマジックでもない。とんでもない大博打だよ」
突然、冷ややかな声が背後から降ってきた。
驚きにエアシャカールが振り返る。そこに居たのはローダーフォーだった。
彼女はポツリとつぶやくように語る。
「やられた。イグアスがあんな手を使ってくるなんて思わなかった」
「けっ、気づきやがったか。だが一手遅かったな」
そうだね、とローダーフォーは首肯した。エアシャカールは声を上げる。
「おいイグアス、どういうことだよ。オレは全然追いつけてねェぞ」
イグアスはなにかしたようだが、それはエアシャカールの知らぬところでのことらしい。解を求めるのにはピースが足りない。答え合わせが必要だった。
エアシャカールの問いに答えたのはローダーフォーだった。
「イグアスは周到に罠を仕掛けていた。スタートの前からね。レース前に私に会いに来たんだよ。宣戦布告だ、って。そこで私に言ったんだ。『注意しておけ』ってね」
「それが?」
「不思議に思った。『注意しておけ』? 『覚悟しろ』とかじゃなく? まるで警告みたい。それで、私は思った。イグアスはなにか企んでて、その意図がつい言葉に漏れ出たんだって。なにかしてくる気だって」
言われてみれば、これから闘う相手に注意しろはおかしい、気がする。ほんの僅かな違和感がそこにはあった。
「わざとそういう言葉遣いをしたんだ。私が怪しむようにね。イグアスが何かしてくると思わされた私に取れる戦略は二つ。他のウマ娘のレース戦略なんて関係ない逃げを取るか、逆にあなたの近くでよく観察して、何かが起こったとき機敏に反応できるようにするか。けど……」
「てめえに逃げるって選択肢はねえだろ」
イグアスが口を挟んだ。ローダーフォーは静かにうなずく。
「そう、私にイグアスから逃げるって選択肢は無い。だから私はあなたの近く、差しか追込でのレースを選んだ。そう仕組まれた」
ひとつの疑問が解消する。イグアスが千変万化のローダーフォーの戦型を差しでくると予測した理由。そうなるように仕向けたのだ。
エアシャカールが策を打てるように、ローダーフォーを近くに寄せるための仕掛けだった。
「何か仕掛けてくる、そう仮定しながら走っていたら、実際にその気配を感じた。それが第一コーナー」
イグアスから内へ詰めるそぶりを見せろと言われた場面だ。エアシャカールはまだその意図を聞けていない。エアシャカールはアゴに手を当てる。
「一瞬内に寄せてすぐ引いたあそこか。指示はされたが、結局どういう策だったんだ?」
ローダーフォーがその言葉に目を丸くする。そしていかにも意外だという響きを言葉ににじませた。
「え? 知らずにあの動きを?」
「あァ、イグアスは教えてくれなかった」
「そうか、それで……」
ローダーフォーが納得したようにうなずく。それから説明を続けた。
「あのコーナーで、私はかすかに外から寄せられる気配を感じた。けれど、実際にはそれほど寄せられず、あなたはすぐに後ろに戻った」
「あァ」
「ついそうしてしまったみたいな自然な動き、すぐにその意図を見いだせなかった。単純に斜行しかけて修正しただけ? それとも何か意図があって内ラチに寄せようとした? そこで私はイグアスの言葉が脳裏をよぎった」
「注意しておけって?」
「そう、その時イグアスは言ってきた『横っ面をぶん殴ってやる』『俺とシャカールでてめえのことをぶっ潰してやる』ってね」
ローダーフォーは目をつぶり細く息を吐く。
「私は、私のことを横から弾き飛ばして内ラチと挟み込む気なんだと思った」
「はァ!?」
エアシャカールが悲鳴のような声を上げる。
「するわけねェだろ!? そんなクソみてェな……!」
「そう。するわけない。イグアスは口ぶりは乱暴だけど、その戦い方はすごく真面目で堅実。臆病と言ってもいい」
その評価にイグアスがピクリと眉を動かした。彼も言いたいことはあったろうが舌を打つだけに留めた。
ローダーフォーは続ける。
「そんな策取るわけない。取るわけないだろうけど、疑念は生まれた。それは、あなたから意図を読み取れなかったから。いかにも内ラチに寄せてプレッシャーをかけてやるぞっていう意思が見えれば、私はそれをブラフだと思えた」
けど違った、とローダーフォーは首を振る。
「あなたが内に寄せる動作は感じられたけど、その意図は分からなかった。だから、今やるわけじゃないけど後でやるつもりの本気の動作が、つい漏れ出てしまったのかもしれないと思った。意図が感じられなかったんじゃなくて、最初から意図なんて知らなかったんだね」
ローダーフォーは小首をかしげた。
「ねえ、あなたはどうして意図も知らずに作戦を受け入れられたの?」
「そりゃあ……」
エアシャカールはちらりとイグアスのほうを見る。彼はなんだよ、とでも言うように眉をひそめた。
「そりゃあ、イグアスがやれって言ったからな。勝つにはそれが必要だろうって思えるくらいは信頼してる」
ローダーフォーが口をポカンと開けた。それからしばらくして優しげに目を緩める。その目はどこか遠くを見て、懐かしんでいるように思えた。
「そうだね。やれって言われればやるし、できるって言われればできるよね」
話を戻そう、とローダーフォーが手を打った。
「まあ、とにかく。内ラチにぶつけるは言い過ぎだけど、内に寄せて走りづらくする程度はしてくると思った。だから私はそれに備えた。ロングスパートがかけられてレースが動いた局面、あなたも仕掛けてきた時、私は内側に余裕を持たせたコース取りを意識して走った」
そういえば、と思い出す。ローダーフォーは確かに最終コーナーにかけてやや内を空けた場所を走っていたはずだ。
「私が最終コーナーで内にプレッシャーをかけられても対応できるように、最内よりやや外側を走ること。それがイグアスの作戦の終着点。全てはそこへ誘導するための策だった」
ローダーフォーはイグアスに目を向ける。続きは本人の口から話せということなのだろう。つられてエアシャカールも彼のほうを見た。
これから彼が話すことが、全てを解き明かす鍵になる。そう思った。
「シャカールの計算じゃ、俺たちはてめえに追いつけねえ。だがその差はほんの少しだ。大きなトラブルが無くてもいい。一瞬、一歩、どこかの大事な局面でなにかミスがあればひっくり返る差だ。その一歩を俺は探していた」
イグアスが腕を組み直す。
「俺がコースを確認していた時、最終コーナー出口が他の箇所より荒れていることが分かった。最内より少し外側の部分だ。そこがターフで一番状態が悪かった。そこを踏めば、最高の踏み込みはできないだろうと思えた。求めていたミスの生まれる一歩がそこにはあった」
その言葉にだんだんとエアシャカールの口が開いていく。
「後の仕込みは野良犬の言った通りだ。会いに行って、言葉のトラップを残し、てめえにコーナーで仕掛けるそぶりを見させて疑念を生じさせ、最内を警戒させる。最内より大回りなコース取りをさせて、最終コーナーの荒れた地点に誘導した。そして、一歩。野良犬は直線への加速の重要な一歩を踏みそこねた」
見事にかかってくれたな、とイグアスは口の端を上げた。一方で、ちょっとの間言葉が出てこなかったのはエアシャカールだ。
確かに事前の計算と違ったのはその一歩だ。最終直線への爆発的な一歩でローダーフォーは脚をわずかに滑らせていた。
お前、と呟きが漏れる。
「お前、ここまで丁寧に積み上げて最後の最後はミス狙いだァ!? ただ一歩踏み外させるために!? そんな不確かな作戦とも呼べねェもんをあんな自信満々に言ってきたのか!?」
「だから言ったでしょ。大博打だって」
ローダーフォーが呆れたように言った。
「私の持ってるイグアスの印象はすごく堅実。大物喰らいを名乗るくせに、決して大きな一発に頼らない。じわじわと削り勝つ訓練された戦い方。だからこんな賭けをするなんて思わなかった。全てが終わった後にイグアスの意図に気付けた」
けれど、とローダーフォーは続ける。
「けれど、今でも分からないのはその理由。私がたった一歩しくじるため、そのためにオールインできた理由」
どうしてその一歩で勝てると思ったの、と彼女は不思議がった。イグアスが答える。
「おい、野良犬。俺はお前の100倍は頭がいい。そんでシャカールは俺の20倍は頭がいい。お前の何倍か分かるか?」
急に言われた算数の意図をくみかねたのか、ローダーフォーは小首を傾げた。
「そのシャカールが7cm足りねえって言ってんだ。その計算結果は絶対なんだよ。だから、俺が稼ぐべきは1mでも1cmでもない。8cmだ。それには一歩で十分だ。その一歩を生み出せる確率が一番高いと思えたのがこの策だ。言うほど分の悪い勝負だとは思わなかったな」
なるほど、信頼してるんだね、と彼女はうなずいた。
「それで、どう?」
「は? 何が」
「私に勝った気分」
イグアスはその言葉に少し目を見開いた。言葉を探すように、何かをかみしめるようにもごもごと口を動かす。そして鼻を鳴らした。
「悪くねえ。ああ、悪くねえ気分だ」
「そっか」
そこで、ローダーフォーがエアシャカールのほうを向き直った。彼女の瞳がエアシャカールを捉える。出会ってから初めてローダーフォーと目があった気がした。
「エアシャカール。私はあなたを小さく見積もっていた。修正しよう。あなたは敵。私が倒すべき敵だ。ラッキーパンチは一度だけ。二度目はないよ」
胸の前で小さく指をさす。まっすぐに突き刺さる視線に、エアシャカールの胸の内が熱くなった。
イグアスと顔を見合わせる。にたり、と彼は笑みを浮かべた。その自信にあふれた表情に、彼の火の灯った目に、自分の中の火も溢れ出てくる。
ローダーフォーに向き直る。
「へっ、上等だ。オレの計算が正しいってことを証明してやる。すべての頂点に立つのはオレたちだ」
思いを込めてこぶしを握る。
「相手がお前だろうと関係ねェ。オレとイグアスは三冠を果たす」
勝つのはオレたちだ。言って、エアシャカールは不敵に笑った。
了
『イグアスとエアシャカールは壁を越える』最後までお読みいただきありがとうございました
言葉を綴るのが下手くそなんでいい感じの謝辞が出てこないのですが、読んでくださったみなさんのおかげでここまでこれたと心の底から思ってます
本当に感謝してるんだからね!
ACウマ娘の輪がもっともっと広がっていけばいいなと思います
ACウマ娘の火を継ぐのはキミたちだからな! なんか思いついたら書いてくれよな!
では