益州巴群に住む男勝りの少女魏延はある日、不思議な男と出会った。
彼女が暇潰しに街道沿いの川辺を散歩していた時に、その男は川岸に釣竿を持って腰を下ろして垂らした糸に魚が食らい付くのを待っていた。何処にでもある光景にも見えたが、魏延はその男が、何故だが気になってしまった。
その男が真赤な羽織に、背に黒々とした八咫烏を描いている奇天烈な衣装を身に纏っていた為か、その場所とはなんとも不似合いな印象を覚える。自分の格好も派手だとは思うが、今の御時勢に八咫烏の絵を服に用いるのは少々恐れ知らずだと、魏延は思う。
気が付くと、魏延はもう彼の背に近づいていた。魏延は自分でも不思議に思う、何かその男が魏延の気を引くような、目に見えぬ魅力を携えているからかもしれない。
「おい」
魏延はその八咫烏の絵に向かって声をかけていた。
その男からの返答は無い。川のせせらぎだけが妙に懐かしく魏延の耳に入って来る。
そういえば自分は幼い頃この川で遊んでいたな、と魏延はもう随分昔の事のように思える出来事を不意に思い出していた。
やはり妙であった。魏延は頻繁にこの川の傍を通るが、昔のことなど思い出し事は一度もなかった。今の今まで、昔のことなど思い出そうとしたことなどない。
(変なやつだ・・・)
そう思わざるを得なかった。
次に気が付くと、魏延はその男の隣に腰を下ろしていた。魏延は男を好かないが、何故かこの男だけは先入観だけで嫌いとは思えず、自分でも何をしたいのか分からないまま、その男に釣られるかのように座り込んでしまう。
「お前、何処から来たんだ?」
今になって、誰とも知らない男の隣に自分から座ったことを否定するかのように、魏延は強い口調で彼にそう訊いた。すると男は街道の方を指差した。魏延が歩いていこうとしていた方角である。
確か、あっちは北だ。
「あっちじゃ」
と、男は魏延に興味が無いかのようにボソリと言う。
「ああそう・・・。で、何処に行くんだ?」
少しだけ重い空気を感じながら魏延は間を埋めるように続けて訊いた。男は町の方へと続く道を指差した。
「こっちじゃ」
初対面だが、この男の応対はあまりにも素っ気ない。
(なんだこいつ?)
ただの二言だけで、この男の変わった性格が知れる。
その会話を最後に二人の間で言葉が交わされることは無くなったが、魏延はその場を動こうとはしない。動けば逃げたとこの男に思われてしまう、魏延の自尊心が変な方向に働き、この男の傍を離れようとはしなかった。
しかし、この場に居ても向こうから変な女だな、と思われるのも癪に障る。粗暴の悪い魏延は、いっそのこと男を気絶するほど強く殴ってやろうか、と考えていた。
魏延はこの辺りでは有名な喧嘩屋であるが、そのまことの姿は武人であり、その武は一騎当千と称されていた。
その魏延が、自分から妙な男の隣に座ったからには、自分からは立ちたくはない。出来れば男の方から立ち去って欲しい。
(やるか)
と、魏延がそう思った時である。二人の背後から、小さな馬を連れた男三人組が二人の姿を見ながら、魏延に僅かに聴こえる声量で囁き合っていたのだ。
「見てくださいよ、旦那がまた女を誘ってら」
「旦那は見境ねえな~」
「そうだな」
(・・・な!?)
魏延は、この男が女をよくたぶらかす男だと知ると、座った姿勢のまま跳ね上がる。
自分は今たぶらかされていたのか、そう思うと顔が赤く染まっていくのを感じた。
魚を釣りながら女も釣るなんて器用な男である、怒るより先に恥ずかしさが魏延を襲った。この男の本来の目的が自分をたぶらかすことだと知ると、彼女は三人組には目もくれずその場をそそくさと去って行った。
「あーあー。せっかく良いおなごに出会えたと思うたのに、お主らは空気を読まぬのう」
赤羽織の男が、くるり、と振り返って三人組の男たちを責める眼で睨んだ。
何も本気で怒っている訳ではなく、彼も遊びの一環で魏延をたぶらかそうとしていたのだが魏延の姿を一目見てその容姿が気になったのだ。つまり魏延もこの男も、初見した時から相手のことを気に留めていたことになる。
「最近はろくろく良いおなごにも会えぬ。こんな遠い土地まで逃げねばよかったわ」
この女をたぶらかす事が得意なこの男、先の黄巾の乱で一躍有名となった八咫烏、雑賀孫市である。先の件で現在逃亡生活の身であるが、ここ益州では黄巾党の被害は少なく、主だった戦場からも遠く離れている事もあり、孫市を知る者は少ない。
故にここ益州で孫市と凸凹三人組は、のほほんと隠遁生活にも似た日々を送っていた。今日は巴群の街に行く予定となっており、今は小休憩といったところだ。
「だが旦那。しばらくは身を隠しとく方が良いぜ、俺たちは逆賊なんだからよ」
「ノッポよ。だからと行ってこんな所まで来る必要があるか? 日ノ本を横断するほど歩いた気がするわ」
「まあ旦那はあまり派手な行動は控えて下さいね。俺たちは先に街で宿でも探してきますから、動かずにここで居て下さいよ」
ノッポの言葉尻だけ口調が強かった。どうやら孫市は、ここに来る前にも自分勝手な行動をしたようである。
孫市は、空返事で応じ、手で宙を払うような仕草をした。早く行け、と言っているのだろう。三人組はもう彼の調子には慣れており、赤兎馬を連れて町の方まで向かって行った。
凸凹三人組と赤兎馬は町に着いた。
土で出来た城壁を潜り、警備の兵に軽い質問を受ける。何処から来たとか、そういう簡単な質問だ。当然こういう事に対する対処はしており、彼らは今や別人に成りすまして逃亡を続けている。黄巾の乱が終わってまだ幾ばくも経っておらず、残党が未だに捕らえられていないのだ。ここ益州でも軽い警戒態勢は取られていた。
「警備ご苦労さん」
ノッポが軽口を叩きながら、兵士たちの横を過ぎ去っていく。チビもデクも何ら怪しまれることも無く、入ることに成功した。
「まずは宿を探しましょうぜ」
「そうだな。何処か安い場所がいい、くすねてきた金も無限って訳じゃねえんだ。デク、赤兎見とけ、俺たちは宿を探して来るからよ。ここ動くなよ」
「はい」
デクと赤兎馬だけが残された。三人組の中でもデクは根がもっとも優しい男である。巨体に似合わず動物は境なく好きであり、赤兎馬と二人っきりになるといつも彼の方から赤兎馬と仲を深めようとするが、
「赤兎、飯食べるか?」
痩せた野菜を差し出すが赤兎馬は、ツーンとした態度でデクの手から物を食べようとはしなかった。赤兎馬は何故か孫市以外の男に懐こうとはしないのだ。
「俺のこと嫌いなのか?」
と、赤兎馬に尋ねるが彼が答える訳がない。
「馬が喋るわけないんだな・・・暇だよアニキ・・・」
人語の話せない赤兎馬とでは暇を潰せないデク。二人が戻ってくるまでどうしてようかと思い辺りを見渡してみた。近くに飯屋がいくつかある、あまり無駄使いするなとノッポに言われているが朝から水と痩せた野菜しか食べていないデクには我慢の限界であった。
デクは、手綱を引いてそちらに行こうとしたが手綱に繋がれている赤兎馬がその場を動こうとしなかった。
「どうした?」
赤兎馬はどんなに引っ張られてもこの場を一歩も動こうとしない、ノッポの言付でも守っているのかと思ったデクであったが、その赤兎馬の視線がこちらを見ていなかった。デクの後方、少し先の方を見ているようだ。デクはそこに何があるのだろうと思い、後ろを振り返った。
見るとその向こうから少女が走って来ていた。髪の一部分が白い女である、デクはその姿に見覚えがあった。先ほど川で孫市の隣に座っていた少女である。何か慌てている様子で、まるで何かから逃げている風に見えた。
その少女は風を巻き上げながら、デクと赤兎馬の横を通り抜けていった。
「さっきの子、旦那と一緒にいた子だな。どうしたんだろう?」
赤兎馬は、その少女の服の隙間から見える腿をジッと追いかけ、首が尻と並びそうになるまで眺めていた。
「なあ、お前」
「ん?」
デクの背に誰かが話しかけてきた。
振り返るとそこにはゴロツキ姿の男たちが数人いる。肩で息をしている者もおり、今まで走っていたのだろう、という印象を受けた。
「髪のこの辺が白い女を見なかったか? 名前は魏延って言うんだが」
デクは何かに感付き、ハッとしそうになった顔を耐えた。赤兎馬は隣で訊ねてきた男の顔を仇でも見つけたかのように睨んでいる。
「し、知らないんだな・・・」
デクは悪い予感が過り、嘘をついてしまった。
彼は孫市と過ごしている内に女に対する作法を習った。その内の一つである庇うを実践することになるとは、彼自身思いもしなかったであろう。
「こっちに来たはずなんだがな。本当に何も知らないんだな?」
「黒い服の女なんて知らないよ・・・」
「ん? 黒い服なんて言ってねえぞ。テメェまさか・・・」
「あっ!? ちが」
「野郎嘘つきやがったな!!」
ボロを出してしまったデクの話を聞く耳など持たなかった。男たちはデクをあっという間に取り囲み、すでに拳を握っている者すらいる。
デクは、あわわわ、と悲鳴を漏らしているが、その声が届く者は何処にもいない。赤兎馬はすでにデクの手から手綱をするりと抜け取り、もう見当たらい所に消えていた。
「あの女はどこに行っただ? 言わねえと酷い目に遭わせるぜ」
「い、言わない! 自分の身が危ないからって女の子を売ることは絶対にしない」
脅されてもデクは口を割ろうとはしなかった。
孫市と過ごした日々で彼の男伊達も目に見える形となって成長していたのだろう。デクは、孫市を尊敬している、自分の目指す男の道が孫市というのなら、孫市と同じようにデクは振る舞おうとしていた。
「てめぇ~~」
「か、かかって来い!」
「こいつを畳んじまえ!!」
男たちが、デクの八方から襲い掛かろうとしたその時、デクに助け舟が現れた。デクに飛びかかろうとしていた男を脇から蹴り倒し、彼はデクの前に立ちふさがる。
「うちの可愛い弟分を殴るろうなんて俺が許さねえぜぇ!」
「あ、アニキ!」
「俺もいるぜ!」
「チビ!」
宿を探しに行っていた二人がデクの危機に颯爽と現れた。まるで見計らったように思えるほど、ここ一番に登場したことにつっこむのは野暮であろう。二人は今、最高に輝いているのだから。
「お前らこいつの仲間か? 二人増えたところで・・・」
「おうおう、やるってならとことんやってやるぜ! 俺たちゃこれでも修羅場潜ってんだ。テメェらみたいな若造に負けてたまるかよう!!」
ノッポは腕捲りをして、肩を怒らせる。チビの方もやる気満々で、デクを怯えさせた報いを受けさせてやろうと、二人は男たちを強く睨み付けた。その殺気立った二人に気圧されたのか、男たちは明らか怯んだ様子を見せ始め、後退りしている。
「クソ。おい、行くぞお前ら」
男の一人がそう言うと、彼らは三人を睨んだままその場を去って行った。
ノッポは彼らが視界から見えなくなると、怒らせた肩から力を抜き、口端に笑みを浮かべながら、デクの肩をからかうように叩いた。
「はっははは! デク、お前カッコよかったぜ。女の為に喧嘩するなんて、旦那に似てきたじゃねえかよ」
「デクらしくないな」
「二人とも見てたのなら最初から助けて欲しかったんだな・・・」
二人はどうやら本当に一部始終を見ていたようだ。ノッポは伊達男を見事演じ上げたデクを誇らしげに笑い、チビもそんなデクを囃している。
「ほら、早いとこ旦那を呼んで来ようぜ。そろそろ釣る魚が無くなってるかもよ」
「宿は見つかったの?」
「そうだよ。さあ、行こうぜ。旦那にデクの武勇伝を自慢しよぜぇ~」
「や、止めて。恥ずかしいんだな~」
次の日の朝、孫市はまた川に向かっていた。
紀州出身の孫市してみれば釣りなど日常の一つであり、娯楽や飯を得るための二つの役割をしている。今朝は、日々の出費を出来るかだけ抑えて色々な方へと回したい為と、朝食を得る為に川に来たのだが、孫市は昨日で会った娘が気掛かりであった。
川に着くと早速、昨日の場所で釣糸を垂らした。またあの娘に会える確証は無いが、何故だがまた会える、そんな気がしていた。
冀州から益州までの道のりは長い、孫市はその道中で数々の娘と出会ってきた。どの娘たちも美しくはあったが、馬超、曹操、趙雲、呂布などに並ぶ者とは一人も出会えることはなかった。孫市は他人よりは惚れやすい男であるが、その身に観音を宿す者にこそ、まことの愛を示す男である。
日ノ本で果たせなかった夢をこの地でならば、と孫市は思った。
ならば昨日出会った娘は観音であるか、と孫市は魏延の顔を思い出しながら考えていると
そよ風が吹き、葉の擦れ合う音と川のせせらぎが同調した。
「風流じゃのう・・・」
孫市、竿を手放し、座ったまま手だけで踊る。そよ風の如く、柔らかで日頃の大胆な模様は無い、彼にしては珍しくおとなしい踊りであった。いや、これは舞いのように見える。自然という人間が決して入れることのない境地が、孫市を舞わすのである。
魏延は川岸で座ったまま手振り優雅に舞う、おかしな男を見つけた。
そのまま通り過ぎようかと思ったが釣竿を放り出して舞いに興じるその男が、昨日会った男だと思い出すと足が止まった。
孫市が舞いを演じ終え、視線を感じたのか横に顔を向けるとそこに魏延が居た。
「下手くそな舞いだな」
魏延は、荒い口調でそう言った。
「いやいや、わしのは踊りよ」
孫市は否定する手振りをし、それは違うぞと魏延にとっては些細な事を指摘した。。
「どう違うんだ?」
魏延にはその違いは分からなかった。舞いと踊りなど同じだろう、というのが魏延の考えである。孫市はその魏延の口振りに笑いながら語った。
「わしは、自分でも踊っている自覚が無い時もある。それはわしという男を表現しておるのじゃろう。身体が勝手に動く、型などは無い。言うなれば孫市踊りとでも名付けようかのう」
「孫市・・・?」
魏延は、この名前がどこかで聞いた気がすると心の隅で思った。
「わしの名よ。お前は何という娘よ、名ぐらいあろう?」
「ふん。私は見ず知らずの男に名を名乗るような軽い女じゃない」
不貞腐れた顔をしながら魏延が孫市の隣に座り込んだ。
昨日のことを根に持っているのだろう。簡単にたぶらかされそうな女ではないと、そう自分に言っているのである。そもそも、近寄って来たのは魏延の方からなのであるが、孫市はそんな心中を察してか、追求しようとはしなかった。
自分を好かぬ女は眺める主義である、まずは自分に興味を示してもらうことからだ。
「まあ、お前の名は今はよい。わしに何か用か?」
「それは・・・」
魏延、言葉に詰まった。
まさか、気になったから、なんて彼女の口からは裂けてでも言えないであろう。言葉に詰まっている魏延を横目に孫市は竿を拾った。餌に魚影が近づいて来たのが見えたからだ。餌は道中で見かけた畑から拾ってきた芋虫、畑に栄養が少ないのか少しやせ細っているように思える、それともこういう種類なのであろう。魚に興味を示してもらうように孫市は、竿を軽く振った。
「チョイ、チョイ」
孫市が軽く振りながら楽しそうに口ずさんでいると、隣に座っていた魏延が転がっている手頃な小石を手に取っていた。孫市は、そんな事には気にもかけず釣糸の先を見ていると、
パチャン。
近づいて来ていた魚影の傍に丸い物体が飛んできて、それは水面に波を立て水底に沈んでいった。
すぐに何か分かった。孫市は、呆れた顔で隣の魏延の方を向いた。
「・・・」
無言で魏延を見て、握られている小石に視線を傾ける。
「なんだよ?」
「お前は悪戯をするのが好きみたいじゃな」
孫市は女に悪戯をするのが趣味であるが、魏延の悪ガキのような軽い悪戯はしない方である。こういうのはやられてみれば分かるが頭に来るものがある。だが孫市は、そこは女の悪戯として意に介さないように、ニコッと口端を上げるとまた、
「チョイ、チョイ」
と口ずさみながら魚を待った。
逆に魏延はこの態度に頭に来たようだ。勢いよく立ち上がると、怖い顔で孫市を見下ろした。
「おなごよ。そう怖い顔をするな、綺麗な面が台無しよ」
「な、貴様。私をバカにしているのか!?」
魏延は肩を怒らせ、見るからに憤慨している。孫市は、眉間にしわを寄せつつ魏延の顔を見上げると言った。
「昨日から見ておれば、お前の言っておることは要領を得ぬ。何がしたいのじゃ?」
怒りで怖い面の魏延と真逆に孫市は落ち着いた様で、魏延のことを本気で不思議がっている。
魏延本人も孫市に近づいた理由は分かっていない、その事が妙に頭に来るのだ。頭に来たからには発散したいのが魏延の性格であり、喧嘩屋と呼ばれる訳はそこにある。しかし、魏延には魏延なりの喧嘩の仕方がある。それは自分に対して敵対心や怒りを向けてある者としか喧嘩をしないこと。
魏延は孫市をどうやって怒らせて喧嘩に持ち込もうかと画策していたのだ。
しかし、この孫市。女性に対しては滅多に怒らない。もし怒っても手だけは決して上げようとはしない男である。それが雑賀孫市という者だ。
「ああ、だから・・・」
「まあ落ち着け、座って話でもしようではないか」
そう言って孫市は腰をかけるに手頃な石を何処からか見つけてくるとゴロゴロと転がして魏延の足下に置いた。
「ほれ」
座るように手でも伝えると魏延は釈然としない塩梅で腰を下ろした。
「され、お前がわしにちょっかいをかけるのはかまん。わしもそういうのは好きじゃがな、お前は・・・・」
と、言いつつ孫市は魏延の身体を隅から隅まで見渡した。
「なんだよ」
「お前は、おなごのくせに喧嘩っ早い所があるようじゃな」
「な!?」
「さしずめ町の非行娘といった所か・・・。身体は大事にするのじゃぞ?」
孫市は、魏延の面構えや纏う風貌でその性格をピタリと当てて見せた。
「お、お前な!?」
「相手を怒らせて喧嘩を吹っ掛ける、良い行いとは言えんのう」
「わ、私は・・・!」
魏延は、孫市の言葉と言葉の間に何か挟もうとするが孫市は、それを許さぬように何かを申す前に畳みかけるように言葉を繋げた。
「そんな事をしておれば、いずれ大怪我するぞ」
「だ、だから・・・!」
「何かあればわしに言うといい、飯ぐらいは馳走してやるゆえ」
孫市はそう言い終わると、掛かった魚を釣り上げて手早く針から外すと立ち上がった。
「朝食が釣れたからわしは帰るぞ」
「え、ホントに行くのか?」
「わしは、お主に会いに来た訳ではないぞ。お前の方はどうか知らぬが、また会えたら会おうかよ」
孫市は、魚を持った手を肩に掛け川岸の土手を登ると街道を沿って町の方に帰って行った。魏延は孫市の背を見送ったあと、思い出したかのように顔を真赤にして起こると腰かけていた石を持ち上げて川の中央目掛けて放り投げた。
ばしゃん、と大きな音を背に孫市は名も知らぬ魏延のことを思っていた。
(あの娘。観音のようには思えぬが、なんぞ気になるのう)
魏延はその身に観音を宿している風には見えない、逆に悪鬼やらそちら側の何かを宿しているかのように行儀や振る舞いが悪い、そう思う孫市も言える立場ではないが。
やはり孫市が魏延のことを気にしているのはその容姿や体の方だろう。彼女の顔は女性の美しさとは違って美少年が如くの華がある、身体付きは群を抜くほどボンボンでそれが孫市を引き付けるのであろう。
まだ活き良く尾びれを動かす魚を揺らしながら孫市は脳内にて想像し、よだれを垂らしながら町へと帰って行った。
孫市が停泊する町には、巴群太守の屋敷兼仕事場が町の中央辺りにある。そこは孫市の泊まる宿からすぐ目の前に堂々建っており、その大屋敷には厳顔と申す女傑が住んでいる。そこに住んでいるからにはその厳顔という女性が巴群太守という事になるのだが、色々と問題の多い太守として有名だ。
孫市が釣りから帰ってきて、宿の二階にて朝食の焼き魚を食らっていた時であった。孫市の泊まる二階のこの部屋からは、太守の屋敷の前を通る大通りが見える。孫市が何の気も無しに窓の外を見ると人目を引くような女性が酒瓶片手に歩いていた。
その女性はキキョウ色の、この国独特の変わった出で立ちに身を包んでおり、その髪色も同じような色をしている。何よりも孫市の目を引いたのは胸の谷間を強調するように服の胸元がぱっくりと開いており、孫市はそれをおかずに米を食う勢いで箸と眼を動かしていた。
「旦那。なに見てるんですかい?」
ノッポが窓の外ばかり見る孫市を不思議に思い、同じように大通りを見ると孫市好みの女性がいることに一目で気付いた。ああ~~、と思いつつもノッポもその女性から眼が離せなかった。
「何だ? 兄貴と旦那が窓の外を見ながら飯を食ってるぞ」
二人の異様な光景にチビとデクは箸を持つ手を止めた。孫市が二人に気付き、来い来い、と手招きするので二人は窓の外を覗いた。二人も同じようにその女性に眼が止まり、その女性が移動するのを眼で追いかける。
「変わった女の人だな」
デクが呟いた。
「ああ、デカい酒瓶片手に歩いてる女なんて、そうそう見れるもんじゃないぜ」
ノッポが魚の骨をしゃぶりながら風変わりな光景にまごまごしながら感想を述べた。
「絵に描いたような女傑っすね・・・」
チビが感嘆にも似た声を漏らした。
「あれを見るにあの者は朝帰りのようじゃな」
孫市が魚の身をほぐしながら的確な分析を始めた。
「顔も赤い、あれはしこたま呑んでおる」
三人は確かに、と僅かに顔を縦に振った。
その女は孫市の語る通りに顔が赤い、生まれながらの色には見えず酒を飲んだことによって起こる独特の赤ら顔である。よく見れば耳の先まで赤く、足取りもどことなくぎこちなく思える。
「この町にも変わったおなごが多いみたいじゃな」
孫市は、その女を見ながらケラケラと楽しそうに笑った。しかし、笑う孫市を諭すように三人が口々に言う。
「旦那。この国じゃ、ああいう女に関わるのは災い元ですぜぇ」
「似たような女にボコボコにされたことがありやす」
「俺は小さい女の子に大食い勝負で負けたことがあるんだな」
この国の女の怖さを語る三人であるが孫市はまるで聞く耳を持たない。女に関する否定的な発言は耳に入ってこない仕様なのであろう。その女の尻を追っていると彼女は太守の屋敷の前で止まり、ふらふらと中に入っていった。
「む、あの者。太守殿の屋敷に入ったようじゃ」
「なにぃ? 太守の屋敷だって? まさか強盗じゃねえよな?」
「太守の屋敷に強盗するような奴はいないと思いますよ。家族とかじゃないんすか?」
「もしかして太守様かもしれない・・・」
デクの発言に四人が顔を見合わせた。互い互いに眼で無音の会話をすると、デクを除いた三人が後ろに仰け反りながら三人が笑った。
「デクよ。太守といえば、その地一帯や町を治める御上の者でも特に位の高い者と聞いておる。そのような者が夜通し酒とは考えられぬぞ」
さすがの孫市でもそのような太守がいるとは思わなかった。デクの発言をからかうと、女の入っていった太守の館を見ながら魚を頬張った。ノッポとチビは腹を抱えて大笑いし、言葉にもならない何かを言って笑い転げ続け、隣室の苦情が来るまでそれは続いた。
しかしデクの予想は見事に的中していた。四人が口々に言っていた女こそ、巴群太守としてこの地に赴任している厳顔その人である。彼女は孫市が言った通り、夜遅くまでしこたま酒を呑み、先ほど宴会場であった店の中で眼を覚ましたばかりだ。朝に屋敷に帰ることなどしょっちゅうで、彼女の部下たちは酒さえ無ければ良い太守と口々に語っている。そこまで振る舞いが悪い厳顔であるが、彼女は人当たり良く人望が厚い、更に腕も立つ根っからの女傑な為、町の人々からの人気は高いものであり良く統治されている。悪い噂も無いため、何か大きな問題を起こさない限り彼女が太守を降ろされることはきっと無い事だろう。
厳顔は赤ら顔と酒臭い息を吐きながら館に帰って来た。すぐに彼女の帰りを待っていた部下の男が心配そうに出迎え、水を差し出した。
「桔梗様。お水をどうぞ」
桔梗とは厳顔の真名である。厳顔改め桔梗は水の入った椀を手に取るとグイッと一気に飲み干して、深い息をついた。
「なんだ、酒ではないのか」
「・・・桔梗様。少し酔われているご様子で。少しお部屋の方で横になられた方がよろしいかと」
「なーに、大丈夫だ。そんな事より焔耶のやつはどこに行った? 姿が見えないが」
「彼女なら早朝から出かけておいでです」
「なんだ、また喧嘩でもしに行っているのかあのバカは」
桔梗は焔耶という者のことを言いながら館の中を伸びる廊下を歩いていく。部下の男は彼女の酒瓶を抱えながらその後ろに付き、いい加減慣れてしまった自分に呆れつつも昼までに終わらせなければならない件を頭で並べながら、
(桔梗様が言える立場ではありませんよ・・・)
と、絶対に口に出さないように注意しながら、心の奥底で思った。こんな口に出せばタダでは済まないと思いつつも、思わざるを得ない。
彼は桔梗の補佐として長い時期、働いている。もう少し桔梗が仕事熱心な太守であれば彼の仕事も少しは楽になるはずなのだが、そう言っても桔梗が振る舞いを直す様子など浮かんでこない、またこんな事は口が裂けてでも言えない。桔梗に対する不満をグッと堪えて彼は今日も職務に励むのである。
桔梗は私室に戻ると寝台に顔から倒れるように寝転がった。
しかし別に眠い訳ではないので、眼を閉じても眠れるはずがない。顔だけを起こし、ぼーっと暫くした後、酔いでも覚まそうかとふらふらと立ち上がった。庭に掘られている井戸の水を汲み、顔を洗った。透き通るような冷たさが気持ち良い。水で胃の中の酒を薄めていると見知った顔の少女が外を通る廊下を歩いているのに気付いた。
「おい。焔耶」
焔耶と呼ばれた少女は桔梗の声に振り向くと少し慌てた様子を見せたが、取り繕いながら桔梗の方へと近づき、二人は挨拶を交わした。
「い、いつ戻られたのですか桔梗様?」
「つい先ほどだが」
「そ、そうですか」
焔耶という少女は背に隠した袖の泥を落としながら、ニコニコと作り笑いを見せて桔梗を窺うような眼をしている。桔梗はその様子に呆れながら桶を井戸の中に戻した。
「おい焔耶。また喧嘩してきただろう」
「いや桔梗様。これはですね、色々とありまして・・・」
焔耶は、図星を指され弁解の一つでも言おうとするが言葉が流暢に出てこず冷汗をかき始めた。実のところ、この喧嘩の事を咎められ慌てる焔耶と呼ばれる少女は今朝、孫市と川辺で会っていた魏延である。真名を焔耶といい、この桔梗は彼女の上司にあたる人物の為、孫市のように粗略には振る舞えない。
「焔耶よ。何も喧嘩をすることが悪いとは言っておらん。ただお主の腕をつまらん喧嘩屋暴力のように振るうなといつも言っているであろう」
「は、はい・・・」
桔梗はきつい口調で申しているが、その言葉の端々には親しみと確かな愛が込められている。歳は離れているが旧知の仲といった印象を覚える。桔梗は焔耶が小さな頃からの付き合いである。桔梗が焔耶の親や師匠代わりとして育ててきた。それ故に焔耶の溜まっている鬱屈とした不満が何かは分かっている。
「前から喧嘩っ早い方ではあったが、黄巾の乱以降のお前は誰彼構わずに喧嘩を吹っ掛けているそうじゃないか。黄巾党相手に戦さ働きさせてやれなかったのは悪いとは思うがな、さすがに限度というものがあるだろう」
焔耶の振る舞いの悪さは黄巾の乱終焉以降に更にトゲを増していた。この巴群がある位置は中央から遠く、黄巾党と戦いたくても遠いために満足に出陣することも叶わなかった。王朝からも別に無理をせずに来なくてもいいと言われていたため、桔梗は一度も黄巾党を相手に出陣することは無かったという。それが焔耶の喧嘩っ早さに拍車が掛かった原因であった。
「私は別に桔梗様を攻めている訳ではありません」
焔耶も桔梗の顔に泥を塗っていることには気が付いてはいる。だが、どうしても抑えが効かないのだ。気が付くといつも拳を相手の顔面に叩き付けている。
「まあお前が少しでも・・・」
二人が話し合っている最中、部下の男がその間に割り込んできた。
「桔梗様。少しいいでしょうか?」
「なんだ?」
「少し目の通して頂きたい物が」
桔梗は少し面倒がりながらも部下から竹簡を受け取った。見るとそれは王朝からの物である、溜息を付きつつも封を解いて中を見て、内容を読んだ。
どうやら何者かについて書かれており、その者の顔付きから服装まで事細かに書かれている。
「八咫烏とな・・・」
その中でも眼を引いたのは八咫烏の一文だ。黄巾党に八咫烏が居たという噂はここでも少なからずは聞いたことがあった。どうやらその男が依然見つかっておらず行方不明のままとのこと。
「八咫烏と言えば、名のある諸侯の方々が血眼になって探しておりましたな。結局は見つからず黄巾党という賊に入ったと聞いて酷く落胆した者が多かったと聞きます」
部下の男が竹簡を脇から覗きながらそう語った。焔耶も気になって覗き込み書かれている文を読むと突然吹き出した。
「ぶっ!?」
「ん、どうしたのだ焔耶?」
「いや。なんでもありません桔梗様。ちょっと喧嘩した時にもらった蹴りが今になって効いて来ただけです」
「そ、そうか」
桔梗は納得した風に言ったが、竹簡に書かれている事を見た途端に吹き出したのに気付いていた。今は余り検索しない方がいいと判断したため、部下の男が問いただそうとするのを力尽くで止めた。
「え、焔耶よ。わしらはこれから用事がある、お主は町の警備でもしておれ。ではな」
桔梗は、そう言うと泡を吹き始めた部下を連れてそそくさと去って行った。
一人残され、冷静になった焔耶は竹簡に書かれていた事を思い出した。
確かにこう書かれていた。黄巾党の将軍にて、八咫烏の孫市と名乗る男が依然として見つかっていない。太守の者たちはこの様な人物がいないか、町に張り出して民たちの協力をあおってもらいたい。身の丈は六尺三寸を超す巨体で、風体は背に八咫烏が描かれた真赤な袖の無い羽織に白い革のはかまを穿いている。余程腕の立つ者らしく、追手が何人も返り討ちにあっているので注意されたし、と書かれた文の横に人相が描かれた。そこに描かれていた顔は正しく、川で出合っていた孫市と名乗った男その者であった。
(あの男が? そんな風には見えなかったけどな・・・)
確かに孫市、常に見せる顔は戦さ場を駆けるそれではない、焔耶にとっては川でのほほんと釣りに興じていた孫市がここに書かれている八咫烏の孫市とは到底思えなかった。
これは確かめる必要がある、と焔耶は考えた。
その次の早朝、焔耶は目を覚ますとすぐに屋敷から飛び出した。向かう場所は一ヶ所である、孫市釣りでもしているであろう川に急いだ。その後を、桔梗は我が子を陰から見守る母親のようにこそこそと付いて回っている。
(焔耶の奴め。わしに黙ってこそこそと、ばれぬとでも思っているのか)
曲がり角からひょっこりと顔を出し、焔耶の背を見る桔梗。その姿は明らかに浮いており、彼女の近くを通る町人たちは自分たちの太守の格好を見て見ぬふりをして傍を通り過ぎていく。
桔梗は焔耶を追って遂に町の外まで出た。
門を警備する兵たちに温かく見送られた後、桔梗は川辺で佇み川の方を眺める焔耶を、街道沿いに育つ木の後ろから見下ろしていた。
いったいここまで来て彼女は何をしたいのだろう、桔梗がそう思った矢先である。一人の男が桔梗のことを不思議そうに見ながらその後ろを通り過ぎ、川辺の方へと降りて行った。背が高く、人相の悪い男は釣竿と木の桶を手にしていた為、釣りにでも来たのだろうと桔梗は思った。その男が焔耶に気付いた時、事態は突然桔梗の思いのよらぬ方向へと進むこととなった。
男が焔耶に向かって声を掛けた。
「ん? 嬢ちゃん。あんたこの前旦那と一緒にいたヤツじゃないか」
焔耶が男の方を振り返り、少し落胆した表情をすると帰るような素振りを見せた。男は立ち去ろうとする焔耶の前に立ちはだかり、悪い笑みを浮かべながら言う。
「旦那のことが忘れられないって面してるな。そんなに旦那に会いたいのか?」
「な、なんだと!?」
「まあ、確かに旦那は良い男だぜ。お前みたいな小娘が好きになると少し悪い気がするがよぉ」
先ほどまで落胆の表情を浮かべていた焔耶の顔に青い筋が見る見るうちに浮かび上がってくる。ノッポの男は焔耶の怒りの表情を拝むと身を凍りつかせ、血の気を引いていくのを感じたが、ここで退いては男が廃る、と腰を曲げて前のめりになって焔耶を威嚇し始めた。
「なに怒ってんだ嬢ちゃん?」
ノッポの男は、眉間にしわを寄せて焔耶を睨み付けたが、声色に迫力が無い。焔耶の気に押されてしまっているのが、遠くから眺める桔梗でも分かった。
焔耶は男の顔を睨みながら拳を固く握り占めている。男がそれに気づき、釣竿も桶も投げ捨てて、両拳を腕の高さまで上げ、喚き散らした。
「なんだか分からねえが、やるってんならやってやるぜぇ!」
両者の頭の中で喧嘩の鐘が鳴った直後、焔耶がノッポの男を糸屑のように叩きのめした。
「ちっ・・・」
焔耶は軽く舌を鳴らすと、倒れている男には目もくれず彼を殴った拳を撫でながら街道に連なる舗装されていない雑草の生い茂る傾斜を上がり、町へと帰って行く。桔梗は木の陰に隠れて焔耶をやり過ごすと、糸屑のように伸びているノッポの男を見ながら焔耶の喧嘩好きに溜息が自然と出てきた。
「こんな朝早くから何かと思えば喧嘩か。呆れたものだ」
ここから二人の会話はよく聴こえておらず、桔梗には二人が喧嘩の約束でもしていた風に見えているのであろう。焔耶の喧嘩なら何度か見たことがあるが、そのどれが相手を容易く打ちのめしてしまうものであった。
焔耶の武勇は確かに認めざるを得ないが、それを喧嘩ばかりに使っていては本人の為にならない事というは、桔梗自身がよく理解している。彼女自身が焔耶に負けない喧嘩好きであり、若い頃はそのせいか揉め事が途絶えた例がなかったのだ。それ故に、今では多少丸くなったつもりではある。
「どうにかせねばならんな」
焔耶の姿が完全に見えなくなった頃、気を失っていたノッポの男は意識を取り戻し、よろよろと立ち上がるのを気に掛けながら桔梗は呟くのであった。
同じことが続くというのは不思議なものである。
巴群の町で迎える五日目の朝。四人で寝泊まりする部屋の中で孫市は名銃、愛山護法を磨きながら目の前で口惜しさに顔を歪めるノッポとチビの二人を見て、孫市はふとそう思った。
二人はぼろぼろの布切れのように全身を怪我しているのが一目で分かる。喧嘩でして負けなのだろう。
「ん~~」
ノッポは、腕を組みながら指を落ち着きなく上下に動かしながら唸った。
「やっぱりデクの野郎が心配ですぜえ、旦那。み、見に行きやしょう」
跳ねるように立ち上がり、鉄砲を撫でる孫市の肩に手を置いた。
「あのアマ。途轍もなく強いっすよ、デクの野郎も既にやられてるかもしれませんぜ!」
孫市は、肩に置かれノッポの手を軽く払って二挺目に手を伸ばした。布で銃身を磨きつつ、支障に繋がる異常が無いか丹念に確認をし、先日会った少女の顔を思い浮かべながら二人に言うのである。
「お主らが会ったと言うおなごはわしも知っておる。じゃが、わしの勘に間違いなければ、あやつはやる気の無い者とは喧嘩をせんはずじゃ」
「喧嘩を売られたらつい・・・」
ノッポとチビが、バツの悪そうに俯いた。
孫市が女に手をかけることを嫌っている事は重々承知しているが、彼らも元はゴロツキの類である。喧嘩を売られれば自然と買ってしまう癖が付いてしまっている。
胡坐をかきながら器用に孫市は二人の方に身体を回し、鉄砲の銃身を鷲掴むと銃床を大きく振り上げた。孫市の腕より長いそれは弾を込めずにでも凶器に為りえる、二人は額に流れる冷たい汗をひしひしと感じた。
くい、と孫市が顎をしゃくした。
そこに直れと言っているのだろう、二人は互いに不安に思いながら肩を合わせて孫市の眼の前で尻を付けた。
ぶんっ。
その瞬間、二人が身構える暇もなく、空気の裂けるような音と共に二人の間に鉄砲が振り下ろされる。
「「ひぃ!」」
二人は腰を抜かして動くことすら孫市の怒りを買うと思い、恐怖と驚きにじっとその場で耐える。孫市は、鉄砲を振り下ろしたまま動かない、ぎろっとした眼でチビの顔を見る。
チビは孫市と目が合うと即座に反らした。
「反省しておるようじゃなチビ。ノッポはどうじゃ?」
孫市が次にノッポの方を向く。ノッポはチビとは違い、孫市と目を合わせたまま動かない。
「お前も分かったようじゃな」
ニカッと孫市は笑うと、鉄砲をくるりと回して床に置く。
「この孫市と共に居る以上は、おなごとの喧嘩は遠慮せよ」
と、言い終えて三挺目に手を伸ばしながら、忘れていたかのように続けた。
「ここのおなご等は血気盛んな者が多い、争う事を避けるのは難しいじゃろう。それでも、顔だけは傷は付けてはならんぞ。嫁に行き損ねでもすれば責任の取りようもない、胆に銘じておけ」
「は、はい・・・」
孫市の言う事は二人にしてみれば無茶苦茶である。化物のように強い女がぞろぞろと居るこの国でいかに傷つけず女をおっぱらうのがどれほど至難の技か、そんなこと孫市だからこそ言える事であり、彼のように女の扱いと腕っ節を持たない二人にしてみれば無理な要求である。
孫市が三挺目を磨き終えた頃、見計らったようにデクが帰って来た。
「沢山釣って来ましたよ」
「おお、デクの野郎無事みたいだな!」
チビが平気な顔をして帰って来たデクを見て驚き喚いた。ノッポはデクの身を心配してか身体の隅々を見て、怪我をしてないか調べるが全くの無傷である。
「お前、女に合わなかったか? こう髪のこの辺りが白い奴だ」
ノッポが自分の前髪を触りながら女の事を尋ねるとデクは確かに、会った、と言った。
なら、なぜ無事なのだろう。二人が思案に暮れる表情をする中、孫市は釣れてきた魚をじっくりと吟味している。孫市だけはデクの身は大して心配してはいなかった。何故なら三人の中で、デクが一番争いごとを好まない性格をしていることを見抜いていたからだ。元賊でありながら、優しい性格をしているデク。しかし、やる時はやる男であり、黄巾の乱の際も、彼は二人に負けない活躍を見せていた。
「ふむ。こいつはまだ活きが良い。すぐに親爺に捌いてもらおう。二人とも、首など傾げず早くこいつを下に持って行け」
顔ほどの魚の尾を掴み上げ、チビに投げ渡した。
わわ、とチビが慌てながら跳ねるほどの活きの良さに苦戦しながらチビは一階に降りて行った。
食事を終え、孫市は宿先で赤兎の面倒を見ていた。宿の親爺から買った山菜を一つ一つ手に持って赤兎の口に運ぶと、コリコリと小気味良い音を立てて食べる。その横を凸凹三人組が通り過ぎざまに孫市に言う。
「旦那。少し買い物で行ってきやす」
「おう」
三人は宿から少しした所の酒屋に入った。今晩の晩酌に飲む酒を買い付けに来たのである、まだ少しだけ懐に余裕があるため、少し高い酒が買えそうだ。
陳列している酒から何を買うか選びながら他愛のない会話をする。
「なんでデクだけ無事だったんだ?」
「俺も気になってたっすよ」
「別に何もしてないんだな。ただ旦那がどうとか話しただけで」
「ああ、やっぱあの白い髪の女。旦那に気があんだな」
ノッポが案の定といった顔で失笑した。
「あんな野蛮な女に好かれて旦那も可愛そうだぜ」
「そうっすね」
ゲラゲラと笑いながら、予算ぴったりで美味そうな酒を見つけたのでノッポがそれを手に取ろうとした時、三人の会話を聞いていたのであろう。一人の男が後ろから笑いの中に割って入って来る。
「おい、今の話詳しく聞かせろ」
「あぁ?」
突然、礼のなっていない口調で訊ねられたノッポが反射的にドスの効いた声を出しながら男の方を振り返ると、いつぞやデクに絡んでいた男の顔がそこにはあった。
「おっとすまねえ。今の話良かったら詳しく聞かせてくれないか?」
ノッポはそう言われても眉間に寄せたしわを緩めない。睨み顔のまま、その男の方に近づき顔を寄せる。
「別にあんたらと喧嘩がしたい訳じゃない。ただ、あんたらの言っていた女に恨みがあってだな」
「ははん。さてはお前もあの女に負けた一人だな?」
「ん? その口振りからするとあんたもか?」
「まあ、そうだな・・・」
ノッポは、こめかみを指で掻きつつ苦い顔をした。
「でえ、何の用なんだよ?」
声に詰まったノッポに変わってチビが男に訊いた。男は、待ってました、と言わんばかりに怒った顔になると今まで、どれだけその女に叩きのめされたか話し始めた。その話の中から女の名前が、魏延、という名だと知る。
「へぇ~。あの魏延って奴はここいらのチンピラ連中から相当恨みを買ってるんすね」
「ああそうよ。良かったらあんたらも力を貸しちゃくれねえだろうか?」
その言葉に、ノッポとチビが首を縦に振ろうかと考えたが孫市の顔が頭を横切る。もしそんな事が孫市にしれれば、自分たちは遂に行く当てを失うだろう。何よりも彼のような男に嫌われるのだけは避けたかい気持ちが強かった。
「いや、俺たちは遠慮すらぁ」
「そ、そうっすね。あの女には勝てねえっすよ」
「そうかい。で、魏延に何処でやられたんだ?」
ノッポは釣りに出かける場所を教え、三日連続で朝にその場所に現れたことを伝えた。
「だが、勝てんのか?」
ノッポが素朴な疑問を口にする。魏延はとんでもなく強い女であった。もしかすると孫市よりも強いのではないかと、ノッポは思う。そんな化物相手に勝算があるようには思えない。
その言葉に男は下衆な笑いを浮かべた。
「それがよう。あの野郎に太守から喧嘩禁止礼が下ったらしいんだよ」
前日の事であった。
焔耶は桔梗の屋敷で特に何をする訳でもなく庭で座り込んで、今朝川で喧嘩してボロ雑巾のように叩きのめしたチビ男の顔を思い出しながらボーっとしていると、隣に桔梗が腰を下ろしてきた。
「おい焔耶」
「き、桔梗様! なんでしょうか?」
すぐに上司に失礼のないように飛び上がり、焔耶は立ち上がったが桔梗は気を遣わずに隣に座れて言う。何やら重苦しい空気を漂わせる桔梗に腰が引けながらも焔耶は座る。
「また喧嘩をしたらしいな」
知られていたことに焔耶は苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。喧嘩したことがばれるといつもお仕置きを受けるのだ。桔梗が焔耶に対するお仕置きは羽先や狗尾草に似せた道具などで彼女の極度に敏感な肌を擽るという、少し変わった仕置きするのであるが人一倍敏感な焔耶の身体には地獄のような所業となる。
またされるのか、と思うと嫌になるが焔耶は潔く観念した顔をした。
「わしはお前には武人としての何たるかを教えてきた。今までは目を瞑っていたが、この所のお前所業は目に余るぞ。その内に無関係の者を巻き込むやもしれんと考えたことはないのか?」
「すみません桔梗様・・・」
「焔耶よ。その言葉は聞き飽きたぞ」
桔梗はどうやら本気で怒っているようだ。表情にはそれほど出てきてはいないが、殺気に似た物が彼女から出てきているのを焔耶は感じた。
焔耶を小さい頃から面倒を見て、師弟として暮らしてきた桔梗には親同然の責任がある。桔梗は心を鬼にして言った。
「焔耶。お前に機会をやろう。しかし、たった一度だけだ」
「はい、何でしょうか・・・」
「いかなる理由であれ、今後人を殴るようなことがあればお前とは縁を切る」
「え、桔梗様!? それは」
「すぐにここから出て行ってもらう。この町に近づくことも当然禁じる」
焔耶は何も言えなかった。
焔耶は桔梗のことを師と仰いで尊敬し、実の親のように長い間面倒を見てきてもらってきた。そんな彼女に縁を切られるのならば死んだ方がまだ良い、と焔耶には思える提案であった。しかし、桔梗に迫力に気圧された焔耶は、
「わかりました」
としか、言う事が出来なかった。
この事は口の軽い文官の男を通して、焔耶に対して恨みのある者たちに届くこととなったのである。
「感謝するぜ。明日そこに行けばあいつの事を殴りたい放題だ。へへへっ」
耳も塞ぎたくなる下品な笑い声をあげながら男は酒屋から出て行った。ノッポは隣のデクを見ながら、運が良かっただけか、と思い、あの女には悪いことをしたな、と急に自責の念にかられた。
ああ、俺も多少は人並みに良心を取り戻してきたか。
隣のチビの方を見るとどうやら彼も同じような思いをしているのであろう、顔にそう書いてあった。
「チビ。今夜は飲むか」
「そうっすね。デク、なんか良いのあったか?」
「これにする」
デクが酒瓶を二人に向かって掲げる。値段もちょうどで、店主もお勧めする逸品とのことだったので三人はそれを手に宿へと帰って行った。
次の日の朝。昨晩、酒を飲み気持ちいい酔いに任さて眠りについた三人が示し合せたかのように起きる。一つの酒瓶を四人で分けたので二日酔いにはなっておらず、三人は清々しい気分であった。
互いに、おはよう、と掛け合うと部屋に三人分の混ざった声が広がった。しかし一人、孫市だけの声がしなかったので、ノッポが孫市の寝ている場所を見ると畳まれた布団だけが鎮座していた。
そういえば今日は孫市が釣りに出かける日である。
「旦那は相変わらず早起きだな。もう川で釣りでもしてるだろうよ」
「そうっすね。旦那は釣りが上手いから今日は朝から御馳走ですね」
「んだな」
三人は固い身体をほぐすように伸ばすように立ち上がり、身の回りを整えた。畳んだ布団を隅の方へ寄せ、孫市が帰ってくるまでのんびりと過ごす。
だが、気掛かりなことがあった。昨日、会った男がどうしているかだ。今ごろ無抵抗な女相手に暴力を振るっているのだろうか、ノッポも悪全盛期には似たようなことはしたことはあった。だが、改心する絶好の機会を手に入れてから粗暴の悪さは下火になっていっている。
無抵抗の者に暴力を振るうことはもう無いだろうな、と窓の外を眺めながら賊をしていたころを思い出した。
「あれ、そういや。あの魏延って女と会った場所って旦那がお勧めした釣り場だったすよね?」
チビが突然そう言った。ノッポが今更になって何でそんな事を言うのか不思議がりながら答える。
「ああ、そうだ。だがよ、それがどうしたってんだ?」
「なら今日も旦那はそこで当然釣りをしている訳じゃないですか?」
「当たり前だろ? あそこが一番釣れ易いって旦那が言ってたんだから・・・」
ノッポが自分で言いながら何か引っかかったように言葉を詰まらせた。チビもノッポの顔を何か訴えるようにな眼差しで見ている。デクは何の事だか分からずに、首を傾げていた。
「おいおい待てよ、てっことはだ。あそこにゃ、旦那とあの魏延って女とあの男が仲間を連れて向かってる・・・」
「やべえっすよ。旦那の眼の前で無抵抗の女に手を出すなんてことになれば・・・」
二人の頭に最悪の光景が忽ちに浮かんで来る。僅かな希望は焔耶があの場所にいないことに来ないことを祈るしかないが、たぶん駄目だろう。
「今ならまだ間に合うかもしれねえ!」
「急ぎましょう!」
二人はもう二階の窓から飛び出しそうになるほど焦った。事情を知らないデクが二人を落ち着かせるが、二人はデクの手を引っ張りながら宿を飛び出し、すぐに川へと向かって行った。
川には孫市の姿があった。今日も釣りもである、四人交代と決めた釣り当番が孫市に回って来たからだ。孫市は毎日でも行きたいのだが、三人がそれを許さない。孫市に足労を掛けたくないからだが、孫市は我が強い。やりたい事はする、という性格に負けた三人は孫市を入れた四人当番制へとすることにしたのだ。
「今日も良い天気じゃ。さて、魚はどれ程釣れるかのう」
もう考えるだけ楽しいと言わんばかり笑っている。脚で踊りながら、孫市は川の傍まで来ると、どかりと腰を下ろした。
魏延こと、焔耶が姿を現したのは釣糸を川に垂らしたばかりの頃であった。
「やっと見つけたぞ!」
焔耶が見覚えのある背に向かって声をぶつけるように喚いた。孫市は当然聞こえているはずだが、後ろを振り向こうとはしなかったのだ。ただ少し、
「ホタ、ホタ」
と、膝を打った。
焔耶、振り向こうともしない孫市に頭に血が昇る。それを何とかして抑えつつ、その背に近づこうと思った時である。悪い顔をした男たちが街道から川辺に下って来ていた。それは件の男たちであり、数は十数人。どれも焔耶に対して恨みのある者たちだ。
川辺に転がる石を蹴飛ばしながら男たちは焔耶に近づき、声を掛けた。
「おい魏延!」
焔耶は名を呼ばれ、後ろを少し振り向いただけでうんともすんとも言わず、興味が無いように正面の孫市の居る方を見直すが、男の一人が乱暴にその背に言った。
「おい魏延。お前、喧嘩できないんだってな?」
焔耶は髪を振り乱して振り返った。
なぜその事を知っている、と口から出かけたが彼らが多様な繋がりを持っている事を思い出し、事情を桔梗から聞いた役人が口を滑らせたのだろう考え、口を閉ざした。
「お前にたっぷりと恨みがあるんだよな俺たちはよお!」
「ひ、卑怯だぞ!」
やっと出た言葉であったがそれも彼らには通じない。
「卑怯? 俺たちはいつもこの人数で負けてんだぞ。今さら何言ってやがる!」
焔耶は歯を食いしばって悔しがるしか出来なかった。彼らにいいようにされ、ただ耐えるしか出来ない事は無念だが、桔梗との縁を切ることと比較すればカス同然である。
ただ耐えよう、焔耶は我慢することを誓った。
男たちが焔耶を見る。
良く張り出た胸に引き締まっている腰、健康そうに伸びる脚は男たちの何かをそそる。男たちが、良い事を思いついたことを焔耶は感じ取った。女の本能という物だろう、思わず後退りしてしまう。
「へへへ、無抵抗の女をいたぶるにはやっぱあっちの方がいいよな・・・?」
「ああ、前から良い身体してると思ってたんだよな俺は」
こんな男たちに自分の身体を自由にさせて堪るか、だが彼らを殴れば自分は師と縁を切らねばならなくなってしまう。
焔耶は咄嗟に逃げようとしったが、男たちが扇状に広がり、逃げ道を塞いでしまった。後方には川がある、この川は浅瀬の方の流れは弱いが、奥に行くにつれて流れは嘘のように激しくなっている。川を泳いで逃げるのは無茶であった。
どうすればいいか迷う焔耶に突然、男の一人が彼女に向かって石を放り投げたのだ。不意の一撃であった為か、拳ほどの石が焔耶の頬に直撃する。石は彼女の皮を削り、その肌を赤く彩った。
「ぐっ」
当たった部分を押さえると指に血が付いたのが分かった。それを見た瞬間、焔耶の中である物が音を立てて弾けた。
武人としての誇りを持てと、そう言ったのは桔梗様自身じゃありませんか。ここまで虚仮にされて私の誇りは黙ってはいられません。
焔耶は桔梗に心で許しを請いながら目に涙を浮かべて拳を固めた。そして正面にいる石を投げてきた男を強く睨み、力強い一歩を踏み出そうとした焔耶の身体を一本の腕が制する。
とても隆々とした長太い腕であった。その腕一本だけで焔耶の渾身の一歩は簡単に止められてしまう。
(誰だ?)
焔耶の激憤した顔付きは、熊も裸足で逃げ出すほどの殺気に満ちている。その腕に悲鳴を上げさせてやらんばかりに強く握り、腕の先にいる持主を強く睨んだ。途端、焔耶の表情は裏返ったかのように怯えきってしまった。腕を握っていた手が自然とだらけた。
焔耶が握った腕、それは釣りを満喫していたはずである孫市の腕であった。
焔耶が見上げ怯えるその孫市の髪の毛が、不動明王のように逆立っている。まっすぐと前を見る孫市の顔は、金剛力士の阿形と吽形にも似た怖い顔だ。
焔耶はまことの恐ろしいというものがどういうものか、孫市の顔を見て初めて知った。
「おなごの顔に傷を付けるとはどういう事じゃ!」
その恐ろしげな顔のまま、孫市は焔耶に石を投げた付けた男を睨む。
「貴様の顔をぐちゃぐちゃにしてやろうかぁ!!」
孫市は、発情した猿のように甲高く叫ぶと両足で力強く地面を蹴り、その男に向かって飛びかかった。襲い掛かる姿はまるで虎が獲物に食らい付く様子に似ている。虎の牙の如く強靭な拳がその男の顔面に叩き込まれるのを、焔耶は黙って見ているしかできなかった。