「ああ、遅かった」
ノッポが息も絶え絶えで、河原を見下ろしながらそう言った。
彼に続いて、チビとデクもやって来たが同じように肩で息をして、喋ることすらままならに様子であったが、河原で起きた惨事を見て何か言いたげに口を動かすも言葉出てこない。
全力で走った疲労のせいでもあるが、その衝撃も大きかった。
孫市を中心に、十数人の男たちが倒れていた。
中でもその足下に転がっている男の怪我は酷い。顔をしこたま殴られたのであろう、崩れたという印象を受ける。元の顔を知らなくても、原型を留めていないと言い切れた。
三人は何故こうなったかは理解できていた。きっと、孫市に原因はないのだろう。彼の背後で立ち尽くしている焔耶がこの惨事を招いたと言っても過言ではなかった。
ノッポは河原に続く傾斜を滑るように降りた。後を追って二人も降りる。
孫市、怖い顔で血濡れた両拳を握りしめながら、興奮冷めやらぬ佇まいで立っている。下手に近づいたらこちらも殴られそうだと思い、ノッポは少し離れた場所から声をかけた。
「旦那。大丈夫ですかい?」
何をもって大丈夫なのだろう、そう言いながら自分に訊ねていた。
孫市は、一息強く吐くとその場にあぐらをかいて座り込んでしまった。
「なに、男の皮を被った餓鬼どもを叩きのめしただけよ」
急に冷え切ったように冷静になると、顔が裏返ったように落ち着いた。
ノッポはその一言で安心すると孫市に近づき、傍で倒れていた顔も分からぬ男を調べた。まだ体温は感じたが、心臓が動いておらず死んでいた。
「旦那。こいつ死んでますぜ」
「おお、そうか」
人を殺めたことに悪気も感じていない様子であった。
打ちのめされた男たちを見て回ったところ、他に二人も死んでいたことが分かった。三人は震え上がって、何やら観念したように孫市をマネて座り込み、逃亡生活もここまでかともうどうでもよくなってしまった。
「牢屋暮らしか……」
「アニキ、まだそう決まった訳じゃ」
「バカ、こんだけ暴れたんだ。」
彼らは孫市を慕って付いて来た。孫市が喧嘩をするのなら自分たちも共に暴れる、そういう腹積もりだった。ならば捕まるというのなら、自分たちも潔く自首してやると腹をくくった。
本当に楽しい日々であった。三人は悲壮感を漂わせながら、孫市の方を見ると彼はカラリとした雰囲気を漂わせていた。間違ったことをした覚えなど持っていない男らしい一方の筋が通った顔だ。
己の信念に懸けて間違った行いはしていない。孫市にとっては、女の顔を傷つける者こそが絶対悪であった。その道理に反していた者を成敗した、故の態度である。
「おい、こやつら構わんのだろう」
孫市は、振り返って焔耶にそう言うが何と答えればいいのやら、彼女の口からはそう簡単に言葉は出てこなかった。あまりにも衝撃が強すぎた。孫市の怒った顔からの怒涛の立ち回り、あっという間に男たちは倒れていたのだ。
孫市のことが八咫烏だと、頭の片隅で認めてしまっている。だが、頭を振った。
「ダメじゃったか?」
「いや……」
孫市、首を傾げながらゆったりと立ち上がると凸凹三人組に向かって言う。
「お主ら、また逃げるか」
飄々と笑顔で言う、いつもの調子のままである。
このまま地の果てまで逃げ続けてもいい、男にそう思わせるほどからっと吹いた風のような趣があった。
三人が立ち上がり、これからの逃亡生活のことを考えようかとした矢先に、誰かが河原に向かって来ている事に気付いた。孫市が三人の背後をじっと見ているのである。
三人は、くるり、と振り返った。
それはいつか、宿の窓から見た人物であった。キキョウ色の長い髪、胸を強調したようなぱっくりと開いた服装、自然とその胸元に視線が行く。
酒瓶を片手にぶら下げるように持ちながら、その女傑は下駄を鳴らしながら近寄って来ていた。感じたことのない雰囲気を醸し出す女性である。今まで出合ってきた女たちとは極端に変わった位置の種類だ。
「八咫烏殿」
女傑は軽い口ぶりで孫市に向かって声をかけた。
「お前は……」
確か太守の屋敷に入っていった女であった。そう思い出しながら、女を見る。歳は多少食ってはいるが、妖艶な立ち振る舞いに思わず唾を飲んだ。その服からぽろりとしてしまいそうなほどの巨大な乳房、手に収まりきらないことは一瞥で知れる。
だが、それに比例するかのように全体的には細身の女性である。すらりと伸びた脚が裾から見えていた。
撫で甲斐のある脛だ。孫市の見る眼はこの世のものとは思えないものを見た時の、希有の感情がこもっていた。
「これでもいかがかな?」
巴群太守、厳顔こと桔梗は酒を飲む仕草をしながら孫市を誘ってきた。一瞬、その背後の焔耶に目配せしたのを孫市は見逃さなかった。親しい者に向ける眼差しある、すぐに察しが付くと手を顎に当てながら深々と頷いた。
「ほう、話の分かるおなごじゃ。呼ばれよう」
快く受け、血に、真赤に染まった顎を撫で、後ろを振り返った。
「お主も来い」
もう足下に転がっていた者たちの事は忘れた。孫市の頭は別のことに染まっていたからだ。
孫市たちを裏切ったように、桔梗は太守であったことが分かった。
街に戻り、太守の屋敷に道端の屋台に顔を出すように気軽に入ったのだ。もう、太守以外の何者でもないだろう。
四人の男たちは桔梗に続いて屋敷の門を潜った。凸凹三人組はこういった屋敷に正面から入るのが初めてなのだろう、桔梗が太守だったことも相まってやや狼狽えて見えた。賊として何処かの商人の屋敷に盗みに入った時は、壁を乗り越えて金銭を強奪した記憶が三人の頭の中に蘇っていた。
一方で孫市は、別段驚きもしない。もう眼を合わせた時から、前を行く女傑が太守の器量を持っていると察しが付いていた。が、今はそんな事よりも、である。
(御室の桜かのう)
御室桜は遅咲きの桜である。これは、遅咲きながら艶で情が濃い、というのであろう。
この女の若いころの容姿が思い浮かばないほど、今の容姿がとても良かったのだ。孫市、鼻歌交じりに足を躍らせた。もう、頭の中では衣装を剥いて、その類い稀なる女体を想像していた。
(計ってみるか)
桔梗は、チラッと後ろの孫市を見た。見事な躰、精強の塊のような、そういった印象を受ける。河原での大立ち回り、陰から見ていただけだが思わず血が滾ってしまい、飛び出して一緒に暴れたくなったのを必死に堪えていたのを思い出す。きっと、楽しい男だ。このまま無下に捕らえ、殺すのは惜しい。
(少し脅かしてやろう)
見えないように悪戯に笑った。
「この者たちに食事の準備を、酒を忘れてはいかんぞ」
部下らしき男にそう言って、目配せした。桔梗は広々とした一室に孫市たちを案内した。宴などに使われる部屋であろう、長い机と椅子だけ。向かいの廊下からも入ってこられる構造となっており、左右に二つずつの出入り口が設けられている。余程の大人数でない限り、出入り口は混雑しないであろう。宴に対する桔梗の熱い念が伝わってくる。
「まあ、座って待っていたらいい」
「ふむふむ」
遠慮を知らない男である。桔梗にそう言われる前にもう腰掛けてふんぞり返っては、その座り心地を味わっていた。
「わしの隣に座るといい」
焔耶の方を向いて、ちょいちょいと大きな手で招いた。焔耶、少し遠慮がちに孫市の右手に座った。
(ほう……)
桔梗、その仕草に違和感を得たが、孫市を見ると納得したように頷いた。
自信家な娘ではあったが、打たれ弱い一面もある。孫市の喧嘩っぷりを見てから妙に静かで、桔梗も素直に孫市に従った焔耶に違和感があったのは、そういった経緯があったからだ。桔梗も焔耶に習って、孫市の左手に座った。
「うむ」
両手に花である、両人を見て深く頷いた。
暫し待ち、やがて下人が料理から酒まで運んでやって来ると、六人の前に豪華に盛り付けた皿を置いては、そそくさと部屋から出て行く。酒に良く合いそうな物が多いと気が付く。孫市、隣の桔梗の方を見ると、徳利を持ってこちらに注ぐ用意を取っていた。真昼間から呑む気であった。徳利を片手に持つ酒豪の顔を見て、これは堪らないなと孫市は痛感した。
「どれ、一献」
「なかなか」
いつもの調子で訛り強く言うと、観念したように杯を左手に取った。
なみなみと注がれ、危うくこぼれそうになった所で孫市が口を付け、頷く要領で飲んでいく。一口通しただけで喉が焼けるように熱くなった。が、これが良い、ぐっ、と飲む。
乾すと右手に持ち、焔耶の方に持っていき、顎をしゃくった。
「おい」
酒を注げ、と言われなくても焔耶は近くにあった甕から酒を掬うと、その杯に注いでやる。
「利くのう」
(自分から言っといて何を言ってやがる)
何かへの当て付けか、そう言いながら焔耶も酒を食らう。杯に口を当てながら、それ越しに孫市を睨んだ。無性に喉が渇いて仕方がない。
「いや、それにしても河原での喧嘩。見事なものだった」
自らは愛用している酒瓶をそのまま口を付けて飲みながら、孫市の肩を触った。それから夢中で背まで手を回す。
「おお、岩のように堅い。これなら強いはずだな」
孫市は、先ほどからニコリともせず、杯を傾けている。何か憂鬱な思案に暮れている訳ではない。彼なりに、何か気に掛かることでもあるのだろう。目線の先では、三人が飯を頬張っているが、それは関係ない。
「そういえば、まだ名を言っておらなんだな。わしはここ巴群の太守を務めておる厳顔と申す者」
そう言って、自分の酒を孫市の空になった杯に注ぎながら、八咫烏殿と続けた。
「差支えなければ、そちらの名も教えてほしい」
「雑賀孫市」
この男にしては、酷くあっさりとした名乗りであった。注がれた酒を吸い、近くにあった名も知らぬ物をヒョイと摘まむと、口に放り込んだ。ピリッとしたが、酒に良く合うので酔いが進む。
「ほほう、変わった名だな。噂に聞けば、黄巾党にて兵を率いていたとか」
「そんな事もあったよのう」
何処かしら、うわのそら。浮かぬ顔ほどこの男に似合わないものはない。
並んだ料理を流し見、ぎりぎり手の届く範囲にあった何らかを摘まみ、口の中に投げ込むと、苦味の効いた大人の味であった。子供が食べれば、泣くことは間違いないだろう。それを舌の上に乗せ、ころころとよく味わいながら奥歯で噛み締めると、椅子の前足を浮かし、天井を仰ぎ見るほどもたれると、顔に置くようにして杯を傾けた。
孫市、絶妙なつり合いで足を浮かしながら、桔梗の方に杯を持っていく。そこにすかさず酒が注がれると、天井を見上げながら低く言った。
「で」
その一言だけだが、凄みがある。孫市の、怖い一面を垣間見て、凸凹三人組の手が緊張したように止まった。
桔梗は、中途半場に酌の手を止め、孫市の顎を見て嘯くように首を傾げるのが端で見えたのか、孫市が言の葉に繋げる。
「あと何杯よ」
あと何杯、とは風変わりな質問であるが、桔梗はこの質問の意味を汲み取れた模様で、不敵に笑った。
「そうじゃな、酔い潰れるほどかのう」
孫市、中途半場に注がれた酒を口元まで運び、不敵に笑った桔梗に応じるように大笑した。
「あっははは。そんなに待たずとも、外の者どもを中に入れれば良いじゃろうて」
瞬間、桔梗が机を叩こうと腕を振り上げた。合図である。
孫市、持っていた杯をぽんと投げ渡した。それを反射的に受取ろうとして、桔梗の動作に一瞬の遅れが生じた隙に、料理を薙ぎ払って机に飛び上がった。手には二尺の大鉄扇が握られている。
どん。
叩かれた音を合図に、四方の扉から桔梗の私兵が流れ込んでくる。どれも装備を整えている万全の状態であった。三人も、驚いたが反射的に孫市のマネをして机に飛ぶと互いに背を合わせ、周りを取り囲む兵士たちに寸前まで握っていた骨付き肉を突き出した。
焔耶は酷く狼狽していた。事を聞かされていなかったのだろう、周りの兵士たちをぐるりと見渡し、桔梗と孫市を交互に見た後、椅子から跳ね上がった。
「よく分かったな。流石は八咫烏殿よ」
「酒の席に、鉄の匂いを持ちこむなど興が削がれるというもの。お主、不作法にも程があるぞ」
匂いだけで刀槍や鎧の類いの存在を知った。長らくいくさ場に身を置いてきた孫市だからこそ会得した技である。下手な小細工はこの男には通用しない。
「どういうことです桔梗様?」
「焔耶よ。こやつの事を知らぬとは言わさぬぞ」
確かに、孫市は手配書に記されていた通りの男である。ここ数日でそれがよく分かっていた焔耶は、それを否定することはできなかった。だが、聞かされていないのは余りにも酷いと思う。
「なら、私に一声かけて下されば、このような回りくどいことをしなくても済んだはずです」
「お前ならこの男を生かして捕らえられると?」
「そ、それは……」
焔耶にも、それほどの自身はなかった。
もし孫市を捕らえるとなれば十分な準備と命を懸ける必要があること、その事を考えれば桔梗の取った策が考え付く限りで最善の手であったが、孫市はそれを見抜いた。見抜いたが、この現状を抜け出す術は力尽く意外にないであろう。
「どうします旦那」
ノッポが耳元で囁くが、答えようとしない。そればかりか、鉄扇を大きく広げるとパタパタと自分を扇ぎ、首元に掻いた汗を冷やそうとしているではないか。彼の突飛な行動に、ノッポは天井を仰ぎ見た。頼れる人物がこうなると、もうダメだと呆れ果ててしまったのだ。
「もうし、厳顔殿」
孫市が、ふわっと欠伸をするかのように口を開いた。
「なんじゃ?」
「この孫市、家来は連れてはいるが、怖いか?」
「なに?」
「わしの機嫌を取るため、何ぞ遊芸でも見せてくれるのじゃろう?」
つまらなそうに言う。それでいて涼し気な顔である、鉄扇に扇がれて余計に涼しそうに見えた。
「お主には、これが遊びに見えると?」
大胆不敵にして傍若無人、こちらが優位に立っているはずなのに場の空気を持っていかれてしまう。ドキッとして、桔梗は持っていた酒瓶を置いた。邪魔になる。
「そうよのう。ならば、わしから先に芸をつかまつろう」
(((はぁ?)))
孫市以外、まったくの同時に思ったはずだ。
それ以外の男はそう言うと、鉄扇にて顔を隠し、腰を屈め始めた。空いた手で後ろの三人を他所に追いやり、鉄扇をたたむと陣羽織を頭にはおっていた。
「これは、老婆よ」
なるほど、言われればそう見えなくもない。腰を折り、顔を歪めた姿は歳を取った人そのもの。鉄扇を逆手に持ち、杖のようにして机の端までよぼよぼと歩き、くるりと回って逆方向に歩き出すと、歌いだした。これは孫市がまだ日ノ本にいたころの流行歌であった。
老婆が嫁いだ娘に会おうと、京まで歩いて行くという唄である。それを、孫市なりに脚色し、踊り歩くのである。これが、もう強烈でたまらない。坂道から転げ落ちる場面を、実際に転がりながら歌うのである。ゴロゴロゴロと机の端までして、立ち上がると千鳥足になりながらまた戻る。桔梗が、椅子にかけながらプッと笑った。
最終的に、老婆は力尽きて死んでしまうのだが、最後まで笑いが絶えない事はなかった。孫市の気質と親和性、芸への教養と創造性によって生み出される唄であり踊りである。
主人公の老婆を見下すよう歌詞でもない。上品さと下品さの絶妙な調和の上で成り立ち、孫市の感覚によって生み出される独自の動きでその流行歌は、何ともユーモアの効いたものとなるのだ。
「はっははははは!」
桔梗は腹を抱えて苦しがった。周りの兵士たちも笑い転げている。
「馬鹿なのか豪胆なのか、アホとしか言いようがない。一体に何者なんだお主は?」
思い出し笑いを堪えながら、目尻に溜まった涙を指で拭いそう言った。このような奇矯な行動さえなければ、孫市はさる遠国の大名としても通る貫禄だし容姿である。
孫市、満足したようにあぐらを掻き、やっと笑った。
「デク」
とだけ言うと、デクが懐から折りたたまれている布を出し、ぱっと翻ると桔梗に良く見えるように頭上に上げた。そこには、墨で書かれた天下一孫市の文字。
桔梗はそれを見て、変に納得してしまった。
「されば、最後に踊った。もう良いぞ、やるのならやればよい」
武器になるであろう、二尺の大鉄扇を桔梗の眼の前に置いて言うが、桔梗、真剣な顔で言う孫市を見て再び笑った。
「はっはははは! 八咫烏殿は勘違いしておられる。わしはお主をどうこうする気はない。ただ、焔耶を助けてくれた礼を言おうと呼んだまでのこと。この者らはまあ、お主を少し驚かそうと思って」
「なんじゃ、最初からそう言ってくれれば良かったろうに。いらぬ勘が働いたものよ。さて、飲みなおすか。魏延」
「あぁ」
焔耶は、気の抜けた声で応えた。この展開に付いていけていないようである。孫市、尻をツツと滑らせて、元の椅子に落ちるように座ると空の杯を差し出した。
「わしに注げ。恩を返すのよ」
「まったく、付いていけないよ……」
孫市の杯が満ちるのと同時に、場は本来の宴会模様と変わった。
今度こそ、本当に酔える。そう思うと、誰の手も酒に伸びては消えていき、飲まれた者は倒れた。
一目見た時から只者ではないと思っていたが、これほどまでに奇矯な男には生来お目に掛かったことがない。孫市の器量を試すこの一連の流れ、桔梗にしてみればまるで虎を騙して人里まで連れてくるような、そんな気持ちであった。
結局、明日まで宴が続くこととなる。