コロッセウム。
円形闘技場にて試合が始まった。
決闘裁判という、原告たる第二王子アーデルベルトと被告たる辺境伯令嬢イザベラの名誉を懸けた試合である。
そのアーデルベルト側の先鋒たるシュテファンが口にした。
「今から少しでも敗北を認めれば、手加減してやるぞ。黒騎士と名乗る、戦場を這い回るだけのドブネズミ風情が!」
侮辱のセリフである。
「――」
ヨルダンは、黒騎士ヨルダンはそれに返事をしなかった。
不快でなかったからではない。
何か一言でも台詞を口にすれば、気が抜けると思ったからだ。
ヨルダンは実際の戦場でも、何か言葉を発することはなかった。
何かを戦場で口走るのは自信無きがゆえに。
騎士ならば行動にて語れ。
それを信条(クレド)としていた。
もちろん、この信条を誰かに押し付けるつもりはない。
なんでも使ってよい。
それが勝利につながるのであれば、挑発でも、侮蔑でも、なんでも使ってよい。
戦場ではそれが許された。
黒騎士ヨルダンはそう考えている。
そもそも指揮官の立場であれば、戦闘中は味方に向かって叫び続けなければならぬ。
普通の騎士なれども、従士には声をかけ続けなければならぬ。
なれど、ヨルダンは貧しい黒騎士、従士などおらぬ。
だから、ヨルダンは何も口にするつもりはない。
気が抜けるからだ。
神から与えられた勇士の力が失せるからだ。
まるで神に与えられたような、全身を駆け巡る万能感が絶えてしまう気がした。
これほどの勇気を得られたのは、数多くの戦場を経験したヨルダンにとっても生まれて初めての事であった。
「――チッ」
シュテファンは舌打ちをした。
ヨルダンが話に乗らなかったことを、自分にとって損であると判定した。
アカデミーの生徒などは愚かなものである。
誰もが何か良い言葉を言い返そうとして、その瞬間を狙ってシュテファンは相手を刻んだ。
言葉を吐くのには、誰もが一瞬の隙を要する。
それにヨルダンは乗ってくれなかった。
まあいいさ、とも思う。
それだけでイラつきを覚えるほど、シュテファンも愚かではない。
「――」
「――」
沈黙し、二名が相対する。
シュテファンとヨルダン。
まず、シュテファンが動いた。
黒騎士の貧しい鎧なれば、容易に切り刻める剣閃を放つ。
ヨルダンは、それを楯にて弾いた。
彼はラウンドシールドの扱いを得手としていた。
慣れているのである。
ラウンドシールド。
完全な円形であり、全てが木で出来た。
唯一、中央にオーブと呼ばれる盾心がある。
その盾心さえも木製である。
本来なれば、金属具で覆われているべき盾心をシュテファンは揶揄した。
紋章が黒く塗りつぶされた、仕える家すら名乗れぬラウンドシールドを。
「貧しい装備をしているな」
「――」
シュテファンは再び侮辱をした。
ヨルダンは何も答えぬ。
「主無き黒騎士殿、昨年の冬は寒かったであろうな」
「――」
シュテファンは侮辱を繰り返している。
貧しい黒騎士の生活を、シュテファンは把握していた。
ヨルダンは黙っているが――言葉に対しての返答は自然と脳裏に浮かんでしまう。
昨年の冬か。
別に、寒くなどはなかった。
アッカーマン辺境伯に雇われていたからだ。
普段の冬なればストーブの薪代すら節約せねばならぬが、辺境伯は雇用した傭兵を窮乏させなかった。
食事と温もりだけは必ずや与えてくれたのだ。
そのことに、ヨルダンは感謝していた。
「この勝負に勝ったところで、貴卿が得られるものなど知れているだろう。辺境伯に金でもせびるか?」
「――」
シュテファンの言葉を無視する。
だが、やはり返答に関しては脳裏を掠める。
事実である。
この決闘裁判にて勝利したところで、得られるものは何か。
金銭は得られるか?
誰が用意してくれよう。
地位は得られるか?
誰が用意してくれよう。
何も得られぬ。
それは分かっている。
分かっているが、それが今更どうしたと。
黒騎士ヨルダンは、やろうと思えば口にすることが出来た。
だが沈黙を続ける。
唾の代わりに、誇りを呑み込んで。
「今すぐ負けを認めれば、そのポケットを埋める銀貨程度なれば、補填してやれるぞ?」
「――」
シュテファンは挑発をする。
その挑発をしながら、剣を振りかざしている。
幾度も、幾度も。
その剣閃が鎧を掠めた。
良い剣であった。
鍛冶屋に持ち込んでも鉄屑ほどの金になるかも怪しい、黒騎士ヨルダンの鎧を切り裂いている。
ぶつり。
ぶつりと、シュテファンの剣に押されて、体に斬られた痕が残る。
僅かばかりなれど、出血をしているのだ。
シュテファンの鋭い剣の前に、黒騎士ヨルダンの鎧は役目を果たさなかった。
鎧が、切り裂かれているのだ。
年季の入ったと言えば聞こえは良いが、型落ちのスプリング鋼でさえない鉄鎧は防御の役目を果たさなかった。
シュテファンの剣は、本物の剣匠が作り上げた名剣である。
抗えようはずがない。
「――」
「――」
シュテファンは、その手ごたえに笑った。
ヨルダンの血が、黒く塗られた鉄鎧を伝っている。
ヨルダンは表情を変えない。
致命打ではない。
出血こそすれど、傷を負えど、それが致命打になるものか。
黒騎士ヨルダンの心は燃えている。
誓っているのだ。
主と、神々と、今は亡きアッカーマン辺境伯に誓っているのだ。
我に力を与えたまえ。
そのためならば、私の心臓などどうなってもかまいませんからと。
なれば、前進することができた。
「――」
「――」
シュテファンはそれが気に食わなかったようである。
剣を振るう。
弾く。
剣を振るう。
弾く。
シュテファンが貧しい装備と侮辱した、木製のラウンドシールドにて。
得手である。
ラウンドシールドの操法を、黒騎士ヨルダンは理解していた。
厳密には弾くのではない。
捌くのである。
つまり、パリィだ。
受けるのではない、自ら楯を差し出して、剣筋を真正面から受け止めることを避けるのである。
「――随分抗う」
「――」
時間の問題でしかないのにと。
シュテファンが余裕の笑みを見せた。
誘い。
それを誘いであると黒騎士ヨルダンは受け止めた。
このまま油断であると見込み、攻撃に転じてしまえば。
ヨルダンは腕や足を切り刻まれてしまうであろう。
その余裕の笑みにして誘いを、ヨルダンは拒んだ。
「――」
「――」
距離を取る。
一切の攻撃をせず、手にしたモーニングスターは右手にぶら下げたまま。
ヨルダンは一歩後ろに下がった。
血が流れている
出血は僅かであるが、その出血が戦場における体力をいかに奪うか、ヨルダンは理解している。
だが、落ち着かねばならなかった。
焦れば負けである。
「逃げるか? 臆病者」
「――」
シュテファンの挑発。
やはり、黒騎士ヨルダンはその手に乗らなかった。
死ぬのは怖くない。
怖いのは、勝負に敗北することだ。
自分が決闘裁判における「死に番」であると、ドミニク卿に対して口にした。
あの言葉は嘘ではない。
この勝負に負ける可能性は随分とあった。
いや、負ける可能性が高いことは、観客にいる戦場経験者の騎士でさえ認めているだろう。
そうそう上手くいくことではないと。
だが負ける覚悟は最初からしており、この勝負が敗北であっても、無様な死は許されないことを知っている。
ヴァイキング。
その言葉が脳裏に浮かぶ。
「――」
ヴァイキングという言葉が脳裏に思い浮かぶ。
今、黒騎士ヨルダンが行おうとしている『冒険』はヴァイキングの技術である。
木製のラウンドシールドにて、相手の剣をそのまま受け止めて。
楯心を回転させて、木盾に刺さり抜けなくなった相手の剣を退けて、敵をそのまま討つ。
通用するのか?
そう疑問を浮かべれば、誰もが警戒すると答えるであろう。
普通ならば警戒する。
だが、この技術と言うのは、警戒さえすればなんとなるという物でもない。
「――」
三度である。
三度、黒騎士ヨルダンは戦場にて、この『冒険』を成功させている。
だから、その技術は確かなものである。
力任せにシュテファンが剣を振るいさえすれば、無理やりにでもラウンドシールドに剣を食い込ませる自信があった。
噛ませの技術を心得ていた。
だから、それを待っている。
待ち望んでいる。
シュテファンがイラつき、剣が大振りとなるのを。
「――ドブネズミが、随分と粘るものだ」
「――」
シュテファンが距離を取った。
連撃により疲れたため、息を整えているのだ。
ヨルダンはそれを追わない。
腰や足に一撃程度を加えることは出来ようが、シュテファンの板金鎧を前にそれは何のダメージにもならぬ。
狙うは一撃必殺、モーニングスターでの頭部への一撃による昏倒である。
「――いいだろう」
「――」
最も恐るべきことは、シュテファンが猫のように、鼠を甚振るかのように。
小さな攻撃を加え続けることによる、ヨルダンの負傷を重ねることである。
ヨルダンはすでに数度の攻撃を受けている。
足に三つの負傷。
腹に二つの負傷。
腕に四つの負傷。
シュテファンの剣の前に、黒騎士の鉄鎧は何の役にも立たぬ。
どれも小さな傷であるが、重ね続ければ重荷となるであろう負傷である。
ヨルダンは怖かった。
死ぬことがではない。
敗北し、イザベラ嬢の名誉を穢すことがである。
だから、待つことができた。
「一思いに殺してやる」
ヨルダンは怖かった。
作戦が読まれていないか?
シュテファンとて親兄弟はいるだろう。
友人とて、普通にいるだろう。
そこに戦場経験者はいないか。
『木製のラウンドシールド』を構えた相手に対し、警戒すべき、打ってはいけない手を。
全力の一撃を放ってはいけないという、お約束を知り得ていないだろうか。
その恐れである。
このまま普通に試合を続ければ、シュテファンの勝ちである。
だから、勝負に出る必要はなかったが――
「――」
シュテファンが黙った。
予備動作。
全力での一撃に思えた。
ヨルダンは疑っている。
フェイントではないだろうか?
それも自然にあり得た。
屋根の構え。
怒りの攻撃。
屋根の構えから、相手の上体に袈裟懸けに強く斬り付ける一撃を放とうとしている。
そう見えた。
だが、そのまま水平斬りに変化することも有り得た。
しかし、ヨルダンは懸けた。
自分の命を。
何、これが水平斬りなれば重傷は負えど、死には至るまい。
戦闘は継続することが出来る。
「――」
シュテファンは何も知らない。
戦場を経験していない。
親兄弟から戦場技術を何も学んでいない。
アカデミーの教導師範からの指導も耳をつつぬけで、何一つ学んでいない。
自分より弱い人間の言葉を聞いて、何が得られようか?
シュテファンはその剣才ゆえ、世界の全てを馬鹿にしていた。
だから、笑った。
ただ笑ったのだ。
大上段からの「怒りの攻撃」に対して、ラウンドシールドを掲げた黒騎士ヨルダンの姿を。
何を馬鹿な事をしているのかと。
この一撃は、貴様の木製でできたラウンドシールドごと、その手を切り落とすぞ。
その鬱陶しい楯を、黒騎士ヨルダンのように「役立たず」にしてやろうと。
大上段から、ロングソードの一撃を放った。
シュテファンの予想通りに、その一撃は木製のラウンドシールドを切り裂いて。
それは中央にあるオーブと呼ばれる盾心の部分にも及び。
黒騎士ヨルダンの、唯一「黒墨」で塗られていない、処刑人殿から借り受けたスプリング鋼製の籠手(ガントレット)にて止まった。
確かに、ラウンドシールドはもはや楯の意味を為さない。
壊れた。
だが。
黒騎士ヨルダンは手に感じた衝撃と共に、壊れたラウンドシールドを思い切り引っ張った。
それはシュテファンが浴びせた強烈な一撃とともに、「ラウンドシールドに食い込んで抜けなくなった」ロングソードごとである。
「は?」
間抜けな言葉が、シュテファンの口から漏れた。
「――」
黒騎士ヨルダンはやはり、何も語らずに。
右手に握りしめたモーニングスターの一撃を、姿勢を崩したシュテファンの頭部に浴びせた。
シュテファンは一瞬の時を置いて、脳が揺さぶられたように昏倒し、床へと崩れ落ちた。
後は黒騎士ヨルダンが望む、為すがままである。
黒騎士ヨルダンは、用を果たしたラウンドシールドを投げ捨て、シュテファンの上に跨がった。
マウント・ポジションであった。